【はまって、はまって】バックナンバー 2013年  江崎リエ(えざき りえ) 

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はまって、はまって

江崎リエ(2012.12.03更新)





お正月の慈姑

 皆様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。昨年のお正月に「原発事故の収束にはほど遠く」と書きましたが、今も状況はあまり変わらず、自民党の躍進で日本の右傾化も心配です。今年はもっと政治のことを考えて行動したいと思います。

 お正月と言えばおせち料理ですが、今年はおせち料理らしいものを作りませんでした。一人暮らしだし、近くのスーパーは元日から店を開けるし、息子はアルバイトが忙しくて10日過ぎまで来ないというし、私は4日から旅行に出るのであまり買い置きをしたくない。というわけで、かまぼこも数の子もなし。酒のつまみにいつも作る野菜料理を少し用意しましたが、ひとつだけ誘惑に負けて買ってしまったのが慈姑(クワイ この知らなければ読めない漢字も好き)です。もろにお正月野菜だし、高いし、味もそれほど好きじゃないのに買ってしまったのは、店頭で見た青い色がとてもきれいだったから。

 慈姑と百合根の煮物は、祖母のおせち料理には欠かせないもので、子どもの頃は毎年食べていました。芽が出ているから「芽出たい」だと教えられましたが、味には感激しませんでした。好きだったのはこのヘンな形。八百屋で久しぶりに慈姑を見て思ったのは、「独特の青がとてもきれい。それに絵でも描きたいほどの形だ」ということでした。自然が作り出す色と形は美しい。

 といっても飾っておいてはしなびてしまうので、写真を撮って遊んだ後は皮をむいて茹で、甘辛く煮て仕上げました。これを作っている間は祖母のことを考えていましたが、私に正月料理を仕込んだつもりでいる祖母はどこかで顔をしかめているかもしれません。でも、お正月を無事に迎えられたことですし、今年1年、笑顔で元気に過ごせるようにいろいろと努力したいと思っています。

(えざき りえ)





はまって、はまって

江崎リエ(2013.2.04更新)

本の表紙

横から見るとこんな形

「締め切り」のページ
ネタに困ったらどうするか

 今日のように、牧人舎の締め切りが来ているのに書くことを思いつかないときにどうするか? まず、ここ2、3日の新聞を読み返して何か引っかかるものがないか探します。そうするといくつかは引っかかりますが、それがエッセイになるかどうかは別問題。書けそうもないと思うと、次はネット上をうろうろ。これもなかなか形にならないと思うと、次は自分の本箱を眺めてみます。そうするといくつか書きたいことが浮かんで来ますが、体験が個人的過ぎたり、感情が生すぎたり、ネット上で公にするのには主題がそぐわなかったりで、結局書けないことが多いのです。そんな時の気分転換になり、書く主題も決まる、というありがたい本があります。

「The Writer,'s Block by Jason Rekulak」

 ライターズ・ブロックというのは、小説家が書けなくなる状態を言うようです。そしてこの本には、「あなたの想像力を刺激する786のアイデア」が写真とともに掲載されています。形もしゃれていて、一辺が7,5p(3インチ)の立方体、つまり、ブロックの形になっているのです。私がこの本を手に入れたのはもう10年以上前ですが、このユーモアが気に入って見たとたんに衝動買いしました。

 本のページをアトランダムに開くと「借金」「中毒」など1語のページもあれば、「子どもの頃に一番好きだったおもちゃについて書いて」「あなたが漏らしてしまった最大の秘密について書いて」という指示のあるページもあり、有名作家のネタ探しの方法について紹介しているページもあります。ぱらぱら見ていくのにはおもしろいですし、目をつぶって開いたページの指示に素直に従う気になれば、必ず何か書けるでしょう。でも、それを書くためには自分の過去を棚卸しし、これまで隠していたこと、隠れていたことを明るみに出す覚悟が必要です。それにはそれなりの時間が必要で、締め切りには間に合いそうにありません。そこで、今回はこの本を紹介するだけにします。

 と思ってぱらぱらめくっていたら、「締め切り」というページを見つけました。ということは、私はこの本にしたがって1つ書いたことになりますね。

(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2013.3.04更新)

ひじきなし白和え

ひじき
ひじき失踪事件

 先日、豆腐が半丁余ったので白和えを作ろうと思った。そこで、中ににんじんとひじきの甘辛煮を入れようと思い、スーパーで乾燥ひじきの小袋を買って来た。そして、帰りの道すがら考えた。「一年前に引っ越したときに使いかけの豆や乾物をどこかにしまったはずだけど、あれはどこにあるのだろう?」

 家に帰り、流しの下と食器棚の下を捜索して、それらが集まっているタッパウェアを発見。中に使いかけのひじきの袋がないことも確認してすべてを元に戻した。そして白和えを作り始めたのだが、「さて、ひじきを水で戻そう」と考えて袋を探すと行方不明なのだ。「先ほど乾物を探したときにどこかに紛れたかも」と思って大捜索したが出て来ない。しかたなく、白和えはにんじんだけで作った。

 「年を取ると忘れっぽくなって」と言いたいところだが、私はこんなことを子どもの頃から繰り返している。祖母は私を「せっかちでおっちょこちょい」と評した。小学校5、6年生の頃、角の和菓子屋まで買い物を頼まれ、店まで行って何を買うのかを聞き忘れたことを思い出し、適当に買って帰って怒られた。2度目に同じことが起こった時には、家まで「何を買うの?」と聞きに帰って怒られた。怒る気持ちはわかるが、「おばあちゃんのために和菓子を買ってきてあげる」と勇んで、ぴゅーと家を飛び出す孫のけなげさもわかってほしいと思ったものだ。家の中で物をなくすのも得意で、あちこち探す私を見て、「あんたが置いた物は足が生えて自分でどこかに行くらしいね」と祖母はあきれていた。タイトルをひじき紛失事件としなかったのは、こんな祖母の言葉を思い出したからだ。

 それでも、年を取って少し成長したこともある。昔は何かがなくなると、それに腹が立って出てくるまで必死にあちこちを探し続けて疲れ果てたものだが、最近はなくなったものが自然に出てくるのを待つ悠長さを身につけた。もう一つ、かんたんに見つける方法も発見した。それは、あきらめて同じ物を買ってくること。そうするとなぜか不思議と、探していたものが目に付くところに出てくるのだ。祖母の言うように、ほんとうに足があって、「自分を忘れられてはおもしろくない」と主張するのかもしれない。でも、ひじきごときに翻弄されたくないので、今回は新しい袋は絶対に買わない。ひじきなんて、なくても困らない食品だものね(この私の声を聞いて、憤慨したひじきが姿を現すといいのだけれど)。

(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2013.4.04更新)

1ヶ月目のカポック

半年経ってもそれほど変化無し

1年経過。鉢を大きくしたので背丈も伸びました
無償の愛を注ぐ園芸家にはなれそうもない

 昨年の3月のエッセイに「新居に観葉植物」という話を書きました。そこで紹介したのが、100円ショップの安売りで、なんと半額で買ってきたカポック。1ヶ月でだいぶ大きくなった写真を載せましたが、その後も彼はすくすくと成長しています。夏にはぐっと葉の数が増えたので、鉢を一回り大きくしました。しかし、冬の間はほとんど変化がなく、寒さが終わるのをじっと待っていたようです。これから少し変化を見せてくれるのではないかと楽しみにしています。

 引っ越しから1年が経って、我が家のベランダにも少しずつ鉢が増えました。でも、春、夏に買ったものは、冬は葉っぱばかりになってしまってさびしい限りです。今は花開く春のための準備期間、辛抱の時とわかっていても、愛想のない葉っぱばかりでは、寒いベランダに出て水やりする気にもなりませんでした。そこで、賑やかしに花のついたシクラメンの鉢などを加えて、なんとか水やりを続けていました。

 こうした自分の心理状態を見てみると、私は無償の愛を注ぐのは苦手で、自分の行為に成果を求めるタイプのようです。飽きっぽいから、変化がないのが辛抱できないのかもしれません。植物たちも水をくれる人間に多少の恩義を感じて、ちょっと葉を伸ばすとか、つぼみを一つ付けるとか、何か私を楽しませることを考えてほしいものです。

 現在のささやかな楽しみは、若葉の勢いが増していること。花茎が伸びて、つぼみがついて、花が開いてという喜びを5月に味わえるといいのですが。

(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2013.05.06更新)



お茶屋さんからの景色


浄智寺の竹林、
タケノコの成長がわかる


明月院枯山水庭園

明月院本堂の後庭園
久しぶりの鎌倉散策

円覚寺山門

 ここのエッセイは「はまって、はまって」というタイトル通り、私がはまってきたものをテーマに書き連ねて来ましたが、最近はちょっと繰り返しが多くなっているかも。でも、まだ鎌倉については書いていませんでしたよね。そこで、今回は鎌倉散策記を。

 鎌倉は高校時代から時々ひとりで行っているのですが、最近はおっくうになって足が遠のいていました。しかし、連休のよい天気に誘われて、今回は重い腰を上げました。まずは、一番好きな北鎌倉駅前の円覚寺へ。総門を入ると、階段の上に山門が見えます。この山門の前には木のベンチのある広いスペースがあるのですが、このベンチにじっと座ってさわやかな風に吹かれていると、鎌倉に来た気になります。ここはまだお寺の入り口で、それほど景色がいいわけでもないのですが、この素朴な感じが鎌倉の寺らしくて気に入っています。ゴールデンウィークに来たおかげで、ふだんは見られない奥の舎利殿や佛日庵の見学もできてラッキーでした。あちこちの建物でお茶をいただいたり、だた座ってぼーとしたりを繰り返すので、あっという間に2時間が経過。帰りがけには、いつも寄る鐘楼の横のお茶屋さんへ。ここは毎回歩き疲れた後にぼーとする場所なのですが、今回は席待ちのお客さんが多いので、あまり長居はできませんでした。

 近くの店で軽い昼食後に東慶寺は飛ばして浄智寺へ。このお寺は東慶寺よりひなびた雰囲気で植物が豊富です。あちこちにベンチがあるので、ゆっくりといろいろな風景を楽しむことができます。

 次は明月院のお庭を見に行くことにしました。一緒に歩いていた観光客たちは、「あじさいの季節には早いから明月院には行かない」と言うのですが、私はあじさいの葉を見に行ってみることにしました。あじさいの花はなくてもお庭は美しく、枯山水の庭園もいつも通り。さらに、ユニセフに300円寄付すると本堂に上がってお茶を飲みながら後庭園が眺められるというので、畳の部屋から縁側に出て、風に吹かれてきました。こうしてのんびりと3つのお寺を楽しんで帰って来ました。

 久しぶりに北鎌倉に行っての発見は、iphone4Sが圏外の場所が多かったこと。地図も時刻表も検索できなかったけれど、それはそれでいいなと思いました。また、紅葉の季節に訪ねたいと思っています。

(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2013.06.03更新)



高岡市おとぎの森公園のドラえもんキャラクター像
土管とリヤカー

 最近の朝日新聞で、「リヤカー都心を快走 環境に優しい・経済的・小回りOK」(2013年4月21日朝刊)という記事と「土管 日本の近代化を支えた土台」(2013年5月11日朝刊)という記事を読みました。土管については、サザエさんに登場する「公園の土管」についてのものでした。

 土管とリヤカー、「3丁目の夕日」に出てきそうなアイテムですが、私にとっては両方ともなつかしいものです。私が子供の頃にはリヤカーを引いて物を運ぶ風景はごく普通のものでした。私が大学生になる頃にはあまり見かけなくなりましたが、当時友人が同じ町内で引っ越しをしたときも、使ったのはリヤカーでした。バブル期には見なくなりましたが、10年ほど前に銀座に勤めていた頃に宅配便の配達に使われているのをみて、「お、リヤカー! 銀座では意外に便利かも」と、びっくりした覚えがあります。先ほどの新聞によると、「大手運送会社で早くからリヤカーを導入した会社のひとつがヤマト運輸で、2002年ごろから」だそうです。私はそのハシリを見たわけですね。現在はリヤカーと電動アシスト自転車を組み合わせて使っているそうです。二酸化炭素削減にもつながりますが、駐車禁止が厳しくなってからは、駐禁対策に有効なのだと思います。

 土管は、私や弟たちがよく行っていた公園にあって、よく遊びました。鬼ごっこをして通り抜けたり登ったりもしましたし、「おうち」にしてままごとをしたり、入り口と出口を塞いで「基地」にしたりもしました。なんで公園に土管があったのかについては考えたこともありませんでしたが、新聞記事では「水洗トイレの普及で下水道工事が全国で行われた。建設業者の資材だった土管のうち、余った数本が各地に置かれていたのではないか」と全国ヒューム管(1960年代の土管はヒューム管というそうです)協会の人がコメントしています。ドラえもんとのび太くんも空き地の土管に腰掛けたりしていますね。土管は、道路が舗装されたりトイレが水洗になったりした日本の成長期と大きな関わりがあったようです。新聞によれば、現在81ある都立公園には遊具としての土管は置かれていないそうです。「いつぐらいになくなったんだろう」と思って息子に聞いてみましたが、「俺たちのころは公園に土管はなかった。空き地では見たかも」とのことなので、90年代にはなくなっていたのかもしれません。

 新聞によると、東京都は置かなくなった理由を「安全管理の問題から。中が暗く、頭などをぶつけると危険。人が住みついたら苦情もくるので」と言っています。これを読んで、私は土管の中でよく頭をぶつけたことを思い出しました。鬼に追われて夢中になると、足がもつれたり注意が散漫になって、あちこちに体をぶつけたものです。浮浪者が寝ていたこともあって、そんなときは、おじさんがいなくなって遊べるようになるのをじっと待ちました。いなくなってしまえば汚いとも思わなかったし、おじさんのほうも夜になるとそっと戻って来るというような配慮をしていたと思います。外の太陽がぎらぎらしているほど、土管に入ると目の前が真っ暗になるのがおもしろかったこと、話し声や靴の音がよく響くこと、土管の表面を触るとひんやりとして気持ちがよかったことなども思い出しました。そんな土管の楽しみを今の小さい子が知らないのは残念ですが、リヤカーは復権しても土管は再登場しそうにありませんね。私が土管をなつかしがるように息子がなつかしがる遊具が何なのか、こんど聞いてみようと思います。

(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2013.07.03更新)



体のメカニズムを知る

 一昨年、昨年に続いて、今年も6月にヨガの断食をしました。「食べないためにわざわざお金をかけて、ヨガをやるなんて」という声も聞こえてきそうですが、食べない心地よさを知ると、「また、今年もあの感触が味わいたい」と思うのです。断食と言っても、水分だけで食物を摂らないのは2日だけ。その前後の2日ずつはおかゆを食べ、6日間は毎日ヨガをやって腸をきれいにし、その後は少しずつ復食。煮野菜とたんぱく質、炭水化物を少しずつ増やしていきます。始めた日から約1ヶ月は菜食でアルコールとカフェインは控えるのが原則ですが、仕事の打ち合わせで喫茶店に行ったり、友人と会ったりした時はこの原則は臨機応変に変えることにしています。

 私は断食を体験して、体のメカニズムについて知りました。アスリートとかダンサーなら当たり前のこと、スポーツ好きの人たちは肌で感じていることなのかもしれませんが、私は子どもの頃からスポーツ嫌い。ヨガを始めるまで体を動かすことはほとんどしてこなかったので、これはなかなかおもしろい体験でした。たとえば、食べないと血糖値が下がって頭が痛くなる。ここでヨガをすると血の巡りがよくなって頭痛が治る。胃が空で運動して血液の循環がよくなると、頭が冴えて驚くほど集中力がつく。食べると胃に血液が集まり、そのせいで頭はぼーっとして眠くなる。よく噛むと唾液が驚くほど出る。噛むことで食べたという満足感を感じる、などなど。

 体のメカニズムがわかると、調子の悪いときに何をすればよくなるかがわかります。だからと言って、それをするためには決心と努力がいるのですが、それでも、方法がわかっているのとわかっていないのとでは大違い。特に今回は2週間ほど毎日ヨガに通って、自分の体がどう変わるかを観察しました。その結果、毎日3時間くらい体を動かし続けていると、体の中からエネルギーがわいてくるのを感じました。「今後、気力・体力が下がったら、食べるのを控えて体を動かせばいいんだ」と思うと、なんだか大きな安心感を得た気がします。問題は、「やればいいことを淡々とやる力」ですが、だいぶ方法を学習したので、来年は一人で断食をやってみようと思っています。

(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2013.09.03更新)




定番の丸パン




卵入りぶどうパン


薄力粉とヨーグルト入り
ふわふわパン
パンの好みは十人十色
最近のお気に入り
噛みごたえのあるフォッカチャ
 半年ほど前から、パンを焼いて遊んでいる。酵母や水の量、粉の種類を変えてどんな焼き上がりになるか試しながら、自分の好きな配合を探している。こねて焼くのが楽しいので、出来上がったパンは友人たちに配って食べてもらっている。一人暮らしなので、そうしないと焼いたパンが冷凍庫に溜まっていって次が焼けない。

 私のパンの基本レシピは、強力粉250g、ドライイースト小さじ1、砂糖大さじ1、塩小さじ3分の2、オリーブオイル大さじ1、ぬるま湯170cc。ここから、強力粉の種類を変えたり、全粒粉、薄力粉、ライ麦粉などを足したり、酵母や水の量を変えたり、こねる時間や発酵時間を加減すると様々なヴァリエーションのパンができる。週に1、2度焼いているが、出来上がりはまちまち。室温や湿度も影響するのだろうが、たいていは自分が原因で、こねが足りなかったり、水を入れすぎたり、発酵を待つ間につい仕事をしてしまって発酵が進みすぎたりする。それでも、いろいろな失敗を重ねた結果、最近は4回に1回くらいは出来の良い焼き上がりになって、ほおがゆるむ。

 しかし、私がうまく焼けたと思うものと、友人たちがおいしかったと言ってくれるものには、けっこうずれがある。好みが十人十色なのは食べ物に限ったわけではないが、味覚は子どものころからの環境が培って来たものなので、好みの差が大きいのかもしれない。パンはまず、ふわふわ派としっかり派に分かれる。私は噛めば噛むほど味が出る黒パンや顎が疲れるフランスパンが好きなのだが、一般的にはふんわり膨らんだパンのほうが好まれるようだ。ふんわりさせたければイーストの量を増やすか薄力粉を混ぜればいいので、そういうパンも作ったことはあるが、自分の好みではないので1回限りの実験作となる。次は、甘味派と塩味派だ。砂糖の量を倍に増やして卵とレーズンを入れるとふくらみのいいリッチなぶどうパンができて、これは甘党の友人に絶賛された。しかし私は甘いパンは好きではないので、これもごくたまにしか作らない。このように人によって好みが違うわけだから、私がとてもよく出来たと思ったパンを食べて、「固くてふくらみが悪い」と言う感想を持った友人もいるかもしれない。それでも、「私がおいしいと思うパンはコレ」と示したいのは相手が友達だからだし、相手も私の顔を思い浮かべて「自分の好みとは違うけれど、これはこれでありだな」と思ってくれればうれしい。

 「人の好みは十人十色」というのは何にでも当てはまるのだろうが、プロのパン屋さんはそうした好みの違いを乗り越えて、多くのお客さんに「おいしい」と思われなければやっていけないので、大変だね。ずいぶん前に「パン屋に入ると幸せを感じる」というエッセイを書いた。子どもの頃はパン屋さんになりたいと思ったこともあった。パン屋さんは私にとって特別な職業なのだが、今はパン屋さんになりたいとは思わない。好きなパンを焼いて、たまに友人に食べてもらうくらいがちょうどいいと思う。

(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2013.10.07更新)




最初に読んだ『日々の泡』




ヴィアン全集の『うたかたの日々』


光文社文庫『うたかたの日々』


映画も公開。ムード・インディゴは
英語訳のタイトルだそうです
ボリス・ヴィアン新訳

 先日、久しぶりに文学対談を聞いて来ました。「中条省平&野崎歓トークセッション/『うたかたの日々』から『消しゴム』へ ヴィアンと20世紀フランス小説」という長いタイトルのもので、これに惹かれたのは、ボリス・ヴィアンの小説のファンだからです。開催は表参道の青山ブックセンター本店。『うたかたの日々』も『消しゴム』も光文社古典新訳文庫から新刊が出たところなので、そのプロモーションイベントのようです。

 この対談を聞いて思ったことはいろいろあるのですが、まずは同好の士について。中条省平、野崎歓両氏は大学の先生であり、現在脂の乗っているフランス文学の翻訳者で、私も何冊か翻訳書を読んでいます。私は大学の仏文科出身で、どこの国の小説が一番好きかと聞かれれば、今でもフランスの小説が一番好きなので、フランス文学を愛する二人の話を聞いていると、同好の士といる楽しさを感じまし。どんな分野でもそうですが、自分と同じ好みの人間がそれにまつわるディテールの話を始め、その話題がどんどん広がって際限がなくなるというのは、横で聞いているだけでも楽しいものです。インターネットのおかげで同好の士を見つけられる範囲は世界へ広がりましたが、生身の人間の話を聞くのは刺激的です。せっかく東京にいるのだから、今後はもう少しアンテナを張って、こういうトークセッションに積極的に参加したいと思いました。

 次に思ったのは古典新訳について。現代語で新訳をして、それが若い人に読まれるようになったり、新しい読者を獲得したりするのはいいことだと思いますが、「前の訳は古臭くて読めない」「前の訳はよくない」などと言われると、それを愛して読んできた人間としては、ちょっと反発を感じます。現在の言葉にするよりも、出版時と同時代の言葉にしたほうがしっくりするものも多いでしょうし。もちろん、新訳が必ずしも「現代語にする、平易で読みやすい文章にする」ことを意味していないのは承知していますが。

 何冊か小説を翻訳した経験から言えば、翻訳とは「翻訳者の提案」「翻訳者の解釈」なので、十人の翻訳者が『L'Ecumes des jours』(1947年出版)を翻訳すれば、十通りの『うたかたの日々』ができるわけです。

 最後に思ったのは、改めてボリス・ヴィアンの魅力について。ボリス・ヴィアンを最初に読んだのは高校生のときで、「日々の泡」(新潮社 曽根元吉訳)でした。大筋の恋物語だけでなく、ピアノカクテル、花が咲く銃、縮む部屋、光を求める二十日鼠などの細部に魅力を感じました。そして、やんちゃ、軽薄、シニック、まじめ、快楽的、破滅的など、人間のいろいろな面がきらきら光っているような登場人物に心をつかまれました。1992年にフランス語読書会で『L'Ecumes des jours』を読み、その後に『うたかたの日々』(ボリス・ヴィアン全集3 早川書房 伊東守男訳)を読みました。そして今回は『うたかたの日々』(光文社古典新訳文庫 野崎歓訳)を買ってきました。まだ読みかけですが、私は前の二つの訳も気に入っているので、三つめの提案として野崎訳を楽しみたいと思います。

 ロブ・グリエにも思い入れはあり、中省氏の新訳も買ってきましたが、これについてはまた別のところで書くことにします。

(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2013.11.03更新)




上の部分3分の2が記事広告




愛用のソニーのカセットレコーダー


これから愛用品にしたい
オリンパスのICレコーダー
カセットレコーダーからICレコーダーへ

 私は広告の文章を書くコピーライターですが、スローガンと短めの本文を書く普通の広告とは違って、「記事広告」という分野を得意にしています。これは新聞広告の上3分の2くらいは記事体裁の説明文で、下3分の1に普通の広告が入るものや、全面全部が記事体裁でその中に商品説明が入る形の広告の形を言います。こういう広告を作っていると、その広告に関係のありそうな人をインタビューしたり、その広告で売りたい物やライフスタイルについて関係者に取材して解説記事を書く機会が多くなります。そこで商売道具となるのがカセットテープレコーダーです。

 私がこの仕事を始めた数十年前は、音声記録媒体はカセットレコーダーだけで、私はずっとソニーのカセットレコーダーを愛用して来ました。外から見えるテープの残量から時間が類推できるので、「あ、今いいことを言ってくれた」「この辺の話が使えそう」と思うときにちらっとテープの量を見ておくと、家で原稿を書いていて確認したい時にはその分量のところまで戻って聞き直せます。専門用語がよく聞き取れない時は、数秒ずつ繰り返し巻き戻せます。慣れの問題だとは思いますが、タイミングのいい数秒の巻き戻しはパソコンに入れた音声データをインジケーターで戻すより正確にできるので、私はカセットレコーダーがとても気に入っていました。

 しかし、ピンチは昨年訪れました。長いシンポジウムの新聞採録記事を書くことも多いので、表裏で2時間とれるカセットテープを愛用していたのですが、それが製造中止になったと聞いたのです。たまたま買いに行った店で、「お客さん、これがうちにある最後の2時間カセット10本セットです。もうメーカーでは発売中止だよ」と言われて買ってきました。「これがなくなったらカセットテープの止め時だ」と思いましたが、現在持っているものもあるし、新しいものも上書きして繰り返し使えるので、「今後10年ぐらいは大丈夫」と予測していました。

 しかし先日2度目のピンチが訪れました。愛用のカセットレコーダーの調子が悪く、ストップボタンを押しても電源が切れなくなったのです。折悪しく、テープを聴きながらPR誌に掲載する講演の原稿をまとめていたところだったので、電池のふたを開けて電源を切りながらテープを聴いて、締め切りに間に合わせました。そしてすぐに、ソニーの同機種に買い替えようと店に行ったところ、「そのカセットレコーダーは今年初めに製造中止になりました」と言われたのです。ショックでした。

 取材先ではICレコーダーが主流で、その便利さはわかっています。しかし、指が勝手に覚えているカセットレコーダーの使いやすさがあり、カセットテープという目に見えるものがないぶん本当に録音できているかどうかという不安もあり、新しい道具は使い方を覚えなくてはいけないという負担感もありで、「なんで製造中止なの?」とソニーを恨みました。

 そうは言っても、ないものは仕方がありません。思えば、ワープロの時代からパソコン、OSアップ、フロッピーディスク、USB、クラウドと、仕事環境が変化するたびに、「なんで変えるの?」「このままでいいのに。また新しい事を覚えなくてはならない」と文句を言いながら流されて来ました。ICレコーダーも時代の流れで、どこかで乗らなければしょうがないものなのでしょう。レトロなカセットレコーダーは、年配の取材相手からは「珍しいですね。まだ、それですか」と言う話のきっかけにもなって、気に入っていたのですが、使い続けるのはあきらめるしかありません。

 そこで、ビックロに行って最新のICレコーダーを買ってきました。新しい道具は好きなので、これはこれで楽しいのですが、厚い説明書を前にちょっと気分が萎えています。しかし、これは重要な商売道具なので、がんばって使い方を覚えようと思います。この道具の寿命(耐用年数ではなく、進化して他の道具にならない年数)が十年以上続くことを願っています。

(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2013.12.03更新)




つぼみだけのユリ




下2輪が開花


3輪目が開花、上のつぼみも
大きくふくらんで

下2輪が開花


上3輪が開いたところ。下の花は切り、
丈も半分に
ユリの変化を楽しむ

 ユリの花を眺めていると、形も色も自然の生み出す形は美しいと思う。とくに私が好きなのが、つぼみだけの時のユリの形。花と葉の付き方に法則はあるけれど、枝振りはアブストラクトの彫刻のようで見飽きない。

 それが少しずつ変化してくるのも楽しみだ。すこしつぼみの色が濃くなったり、流線型のラインがふくらんだり。それでも、なかなか開かない。焦らされているようでしゃくな気もするが、「なにをそんなに急ぐの? もっとおおらかに待とう」と思い直して、この形を楽しむ。

 そして、待ちかねた一輪目が咲くと、部屋の雰囲気は一変する。「わっ、咲いた」と思うこの瞬間も好き。この後は下から順番に一輪ずつ大きく花開く。たくさんの花が開いたユリは、これでもかというくらい艶やかで見ていて気持ちがいい。前を通るたびに強い香りがして、存在感も十分だ。 

 花は咲いた順番に色あせて花びらが落ちるようになるので、そうなったら花を切る。同時に丈も詰めて行くと、どんどん上の花が開いて全体の形が変わっていく。これもおもしろい。こうした変化を十分に眺めるためには、ユリを買う時は他の花と合わせないほうがいい。

 このエッセイを書こうと思い立った時に、この花と人生を重ね合わせられないかと思った。自分にも花が開いた時期があり、それがフェードアウトして次の花が開いたはず。いくつもの花が同時に開いていた時期もあったはず。これからも、いくつかの蕾が開くのかもしれない。そんなことを、エピソードを加えて書こうかと思ったがやめにした。

 ユリの花は、よけいなことを考えずに眺めるだけで十分楽しめると。ぜひお宅でも、大ぶりのユリを一本飾ってみてほしい。

(えざき りえ)