【ぐるぐるくん】バックナンバー 2010年  野中邦子(のなか くにこ)   

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ぐるぐるくん

野中邦子(2010.1.7更新)


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iphoneの青空文庫
 去年(2009年)の初めに「夏目漱石を読む」という計画を立てました。そもそもは水村美苗さんの『本格小説』にはまり、流れで『続・明暗』を読もうと思ったのですが、そのもとである漱石の『明暗』を読んでいない、と気づいたことでした。そういえば、国民的な作家といわれる(お札の肖像画にもなっている)漱石をちゃんと読んでいないのでした。

 高校生のときに国語の授業で『こころ』を読まされましたが、そのときもどうもぴんとこず、『坊ちゃん』は主人公が子供っぽく見えて釈然とせず。それくらいしか読んでいません。そこで、筑摩文庫で漱石全集を揃えて、読みはじめました。漱石って、けっこう言葉遣いがめちゃくちゃですよね。口語の、しかも江戸弁がそのまま地の文に使われていたり、誤字当て字も平気で使われています。筑摩文庫は親切な注が、各ページの小口寄りに載っていて、とても読みやすい。注があっても、巻末にまとめてあったりすると、いちいちひっくり返さなくちゃいけないので面倒なんです。

 第一巻は『吾輩は猫である』。これは前にも途中で挫折しているんですが、なんと今回もこれでひっかかりました。途中まで読んで、そのまま放置。一年の大部分がそこで停滞。

 秋になって、ようやく第一巻をあきらめ、『草枕』にとりかかりました。これは好みのツボに入りました。漱石の知識・教養があふれんばかりで、めくるめく引用や注釈の奔流なのですが、物語としては「大振袖を着て廊下を徘徊する美女」というような芝居がかったところが面白い。「漱石ってすごい人だなあ」と素直に感心しました。

 そのあとは、一気に『三四郎』『虞美人草』『門』『それから』『道草』と読んでいき、『こころ』も再読しました。こうして読んでいくと『こころ』を高校生に読ませる理由もわかりました。なにより、文章がきちんとしている。近代的な日本語文法が確立しているという感じです。恋愛をめぐる友情と裏切りという物語も高校生の共感を呼びやすい。

 いろいろ解説などを読むと、漱石の描く女性像がかなり旧弊といわれているようです。『虞美人草』の藤尾さんのような奔放なタイプを否定しているらしい。それにしては、ファムファタルっぽい女性を描くのが好きなようだし、道ならぬ恋もテーマになっています。漱石自身は子供が大勢いる家庭的な暮らしが好きだったようですが、その半面で、破滅的な恋に憧れる気持ちもあったにちがいない。

 遺作となった『明暗』でも、あいかわらず主人公は優柔不断なのに、女性のほうは行動的かつ積極的です。水村美苗さんの『続・明暗』は、よりいっそう女性の意志が強く出ているような気がします。水村さんなりの漱石への意義申し立て兼オマージュなんだと思います。

 ところで、kindleが発売されて話題になりました。年末には、私もiphoneに電子ブックのアプリをいくつか入れてみました。amazon.comのkindle for iphone、 バーンズ&ノーブルのe reader、stanza など、翻訳者には必須のものです。ついでに日本語の電子ブックリーダーもダウンロードし、無料アプリの青空文庫で、『夢十夜』を読みました。

 『猫』の明治文体でつまづいて放置したのち、最後はiphoneの電子ブックで『夢十夜』を読み終えるというのは、ある意味、2009年らしい読書体験だったのではないかと思います。それも含めて、漱石全集はとても面白かった。残るは『猫』のみ!
(のなか くにこ)







ぐるぐるくん

野中邦子(2010.2.3更新)


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 2010年は「国民読書年」だそうです。国会で決められたんです。平成20年6月に衆議院本会議で決議されました。もちろん、その前に参議院でも決議されています。

 発議文の冒頭にはこう書いてある。  「文字・活字は、人類が生み出した文明の根源をなす崇高な資産であり、これを受け継ぎ、発展させて心豊かな国民生活と活力あふれる社会の実現に資することは、われわれの重要な責務である。 」

 そして、国民読書年推進会議が発足しました。座長は建築家の安藤忠雄さん。委員は、朝日・毎日・日経・産経各新聞社社長、小学館・講談社社長、医師会会長など錚々たる識者が名前をつらねています。そうそう、作家の瀬戸内寂聴さんも委員の一人です。

 出版業界の末端につらなる者としては、お説ごもっともというしかないのですが……たんなる一読書好きの個人としては、なんだか居心地が悪い。そもそも、「政官民協力のもとで国を挙げてあらゆる努力を重ねることを盛りこんでいます」なんていう文章が、大上段に構えすぎです。

 読書好きなら内心承知しているとおり、本を読むことはかならずしもよいことばかりではない。だいたい、本ならなんでもいいというのなら、わいせつ罪だの不敬罪だのはありえないはず。暗い情熱や醜い感情があふれ、社会をくつがえす存在にもなる。それが本というものだ。『わが闘争』を見よ。『風流夢譚』を見よ。読書は、「崇高な資産」や「心豊かな国民生活」をもたらすものばかりとはいえないのだ。

 『やんごとなき読者』(アラン・ベネット著、市川恵理訳、白水社)は、そんな読書の「弊害」をユーモラスに描いた傑作小説だ。主人公は、現存するイギリスのエリザベス女王。あまり読書好きではなかったのに、宮殿の下働きの少年に勧められたのがきっかけで読書に「ハマって」しまい、周囲は大迷惑。執務にも支障をきたす。それでも、女王はハンドバッグに小型本をしのばせ、馬車のなかから国民に手を振りながら、こっそりページを繰り、各国大使にその国の作家の話をふって相手をとまどわせる。「本なんか読まなくてもいいのに! よけいなことを!」という侍従の声が聞こえてきそうです。

 この小説、とてもユーモラスで、読書好きは自分に照らしあわせて、にやにやしながら読めますが、じつは読書とは何かという深い問題を考えさせます。最後に女王がとる決断は、一人の人間(女王だって人間だ)の人生を変えてしまうほどの、本の危険な魅力を示唆している。この小説がただ楽しいだけじゃなく、ずしんと重みのある作品になっているのは、その洞察があるからこそ。それにしても、現存の女王をモデルにこんな面白い小説が書けるなんて、さすがイギリスである。日本でこんなこと、できますか?

 だいたい、試験の前なのに大河小説に読みふけったり、授業中も教科書に読みかけの本を隠していたり、というのが本好きの習性です。これを矯正して、ためになる本だけ、勉強や仕事の邪魔にならない程度に読む、なんてことはできっこないのです。

 その一方で、最近、ふと考えることがある。自分では自分のことをまあまあ読書好きだと思っていたけど、「ほんとにそうなのだろうか?」という疑問です。書店に行って棚や平台を眺めても、読みたい本が見つからない。ものすごい量の本があるけど、手を出したいのは、そのうち何割? 目につくのは、ハウツーものや生き方指南書や「トンデモ本」やいわゆるタレント本ばかり。

 もはや読書好きを名乗ることはできない! そして、政府は本を読めという(ただし、活力あふれる社会を実現できる「本」にかぎる)。

 まあ、私はおせっかいをされるのが大キライなので、「国民」とひとくくりにされて(私だって日本国民だ……よね)、「本をお読みなさい」なんていわれるのにカチンときただけなのですが。と、ここまで書いて、ふと気づいた。そもそも、根本的に自己イメージがまちがっているのだ。私の場合、若者に「本を読め」とお説教する側なんだよね。その自覚がまったくないことが、むしろ問題かもしれない。
(のなか くにこ)





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野中邦子(2010.3.3更新)


中華街のランタン


皿うどん


松翁軒の桃カステラ


近づく軍艦島


瓦礫の島


野母崎からの遠望


野母崎の水仙公園で
 長崎へ行ってきました。
 14日からランタン・フェスティバルということで、市内にはランタンがたくさん飾られていました。まだ灯はついていなかったのですが、エキゾチックですてきです。宿は中華街と西浜町に近く、とても便利。中華街のそばの湊公園には張子の飾り物が用意されていましたが、まだ入れない。川沿いにも飾りがたくさん。ランタンに灯が入るともっときれいなんでしょうね。

 昼ごはんを食べそこねたので、午後2時ごろ、中華街で角煮まんじゅう(角煮を包=パオ)ではさんだものを立ち食い。お店のおじさんに「食べ歩きされますか?」と訊かれ、「ちょっと恥ずかしいかな」といったら、「食べ歩きがいちばんおいしいですよ」といわれた。     

 眼鏡橋まで歩いて、竜馬とおりょうさんの人形などを眺め、そばにある松翁軒のカフェで紅茶とカステラセットでおやつ。この松翁軒は、浅見光彦さんの懇意のお店で……光彦はもちろん内田康夫のミステリーに出てくる人気者です。旅行に行くときは、そこが舞台になっている本を読むことにしているのですが、今回も内田康夫の『棄霊島』を読んできました。

 長崎駅前から路面電車に乗って中華街まで戻り、夕食は紅山楼の皿うどん。山盛りで量が多いかなと思ったのですが……ぺろりと食べてしまった。

 長崎は坂の町というけれど、ほんとに坂と階段が多く、最近バリアフリーが気になる身としては、老人はどうするのだろうと心配になりました。タクシーの運転手さんよると、老人所帯は山の上の家を市に売って、街中のマンションに引っ越すんだそうです。若い人も山の上には住みたがらないから、空き家が増えて困っているという話でした。

 しかし、登って降りるという無駄な(?)坂道が多くて、地元の人は知っているから平坦な道を選ぶのでしょうが、ガイドブックの地図頼りで歩いていると、地図には高低差は書いてないから「しまった」ということになります。

 翌日は、『棄霊島』の舞台になった端島(通称軍艦島)の上陸ツアー。これが今回の旅の目的です。9時出航で20分前に波止場のカウンター前に集合……とのことなので、早めにホテルを出たのですが、路面電車に乗ったとたん、行き先を間違えたことに気がつきました。左に曲がらなくちゃいけないのに、右に曲がるんだもん。あわてて、一駅先で降りる。変な客です。反対側の電車に乗って、無事波止場まで。だいぶ早く着いちゃったので、土産物などを眺めていました。ジャンクなTシャツが好きなので、長崎出身の漫画家蛭子能収さんのイラスト入り軍艦島Tシャツなどを買ってしまった!

 マルベージャ号という船はわりと大きいんだけど、どんどん人が来て、満席です。人気あるのね。添乗員付きの観光ツアーで来ている人たちもいました。

 乗船前に、規則を守るという誓約書を書かされるのです。それから靴は運動靴とか、両手をあけておく、とか、どんな秘境探検かというほどの厳重さ。

 長崎港の三菱造船を初めとするドックの光景と解説がおもしろい。小さいのから大きいのまで、ドックが林立しています。龍馬の遺志を継ぎ、岩崎弥太郎が始めた三菱造船所、NHKドラマの『龍馬伝』に出てくる、あの汚い弥太郎が……と感慨深く。

 30分ほどすると、軍艦島の姿が見えてきます。たれこめた灰色の重い雲の下、白い水しぶきの向こうに見えてくる姿は、やはり異様な雰囲気をかもしだしています。意外に小さな島だけど、その手前にある高島、中ノ島とくらべて、ほとんど緑がなく、人の生活からにじみ出てくる温かみがまるで感じられません。

 上陸前に首からさげる色別のカードでグループ分けをし、2手に別れて見学。世界遺産登録をめざす団体のボランティアのおじさんたちが解説してくれました。「軍艦島の生活」という写真集のコピーを掲げて、人が暮らしていた当時のようすと現在をくらべて見せてくれます。炭鉱は24時間操業だったので、島はつねに明るく、行きかう船が衝突する危険はなかったのですが、閉山してから無人になって真っ暗になり、航行の安全のために新しく燈台が作られたんだそうです。その燈台は、いま太陽電池で動いているとのことで、灯台の基盤近くにはソーラーパネルが見えました。

 かつては人が粉塵だらけになって海底に坑道を掘り進み、命の危険をおかして石炭を掘っていました(ちなみに、夏目漱石全作品読破の試みで『坑夫』という作品も読んでいたので、石炭掘りの厳しい労働に思いをはせることができました)。石炭が日本の近代化を支えてきたのですが、やがて石炭は石油にとってかわられました。石炭産業はもはや成り立っていません。当時の花形産業だったものが、いまや閉山、廃村の末に、廃墟になってしまった。なんだか、むなしいですね。ここで生まれ育った人もまだ大勢生きています。そんな人たちも上陸禁止の法律のため、かつての住まいを訪ねることさえできない。

 見学コースは島の端っこのごく一部だけで、遠くから建物を眺めるだけ。時間も30分くらいのもので、建物の内部はまったく見られません。いまも崩壊が進んでいて、立ち入るのは危険だそうです。木造建築は完全に崩れ落ちていて、鉄骨もむざんに折れ曲がっているのが見えます。

 荒涼とした風景ではありますが、あまりに人工的なので、自然の猛威を感じると同時に、人の世のはかなさ、とくに国家の政策や運営の頼りなさを感じます。何かの永遠性、たとえば「千代に八千代に」なんていう思想はまったく根拠なし、世の中すべて変転するのみ、諸行無常という思いで一杯になりました。

 お昼には無事波止場に着いたのだけど、さすがにくたびれました。

 翌日は、陸地から軍艦島の遠景を見ようというつもりで、タクシーに乗って野母崎へ向かいました。水仙の花が見られるかな、という期待もあって。 遠くから見ると、軍艦島はほんとに小ぢんまりした島にぎっしり建物が詰まっているというのがよくわかります。あいにく、水仙はもう盛りをすぎて、ちらほらと枯れかけていました。でも、いい香り。
(のなか くにこ)







ぐるぐるくん

野中邦子(2010.4.4更新)


鮮やかな赤毛




三角のウロコ模様
 近所のホールでお能の公演があったので、行ってきました。高校生のときに学校から見にいって以来です。やっぱり自国の文化は知っておかなければ、と思ったわけです。公演の前に「能のてほどき」という教室があったので、それにも参加しました。シテ役の能役者さんが中野区在住だそうで、こうしたホール能やお能の紹介にも熱心なのです。演目は「紅葉狩 鬼揃」(もみじがり おにぞろえ)で、タイトルの横に付されたこの「鬼揃」という文字の部分を小書(こがき)といいます。これがつくと、演出が異なり、ふつうは男である鬼が女になり、それにつれて衣装や面も異なってきます(ということを教室で教わった)。

 能衣装はとても美しい! 金箔が貼ってあったり、刺繍が施されたりしていて、そばで見るとすばらしく豪華です。鬼になると赤毛のかつらをかぶるのですが、このかつらも色がすごく鮮やかです。私も昔、赤毛にしていたことがあるので親しみを感じる……。

 さらに、衣装にある三角形の模様は、蛇のウロコから来ていて、魔性の者をあらわすそうです。上に羽織った着物のふところに、ちらっとこの三角模様が見えて、これはただの人ではない、怪しい存在だ、と感じさせるらしい。そもそも、山奥の桜をめでながら美女たちがこっそり宴会をしていて、名を訊かれても「さるおんかた」としかいわないなんて、設定からして怪しいのは見え見えなんですけどね。

 着るものの模様から本性があらわれるというのは面白いです。いまでいえば、豹柄の服を着ていたら野性の者、肉食獣であることを示唆するという……ストレートすぎるか。

 桜といえば、3月末になって桜が満開になった靖国神社の奉納夜桜能を観てきました。夜空に白い桜、たいまつの火、立派な能舞台、演目は安達が原の恐ろしい鬼女と山伏の闘いを描いた『黒塚』。まさに幽玄の雰囲気を満喫してきました。

 また赤毛の鬼が見られるなと期待していたのですが、後半になって出てきたシテが直面(ひためん)です。なにしろ初めて見るので、「あれ、こんな演出もあるの?」と思っていました。そのとき、近くでピーポーピーポーとサイレンの音。「火事かしら? 舞台の音が聞こえないな」と。やがて終演し、アナウンスで「シテ役急病のため、代役が演じました」というお詫びが流れました。ああ、そうだったのね。あのサイレンは救急車だったのか、と納得したのでした。大事ないことをお祈りします。

 それにしても寒かった! 裏フリースのキルティング・パンツにユニクロのヒートテック・シャツにタートルネックのセーター、ダウンコート、ファーの襟巻きと真冬並みの服装に、椅子に敷く座布団とひざ掛け2枚の防寒対策ばっちりで行ったのですが、それでもぞくぞくと冷えました。昔の人はどうしていたんでしょうね。風流も大変なものです。

 まあ、この次ねらっているのは夏の薪能なので、寒くはないでしょう。日本最古の芸能だけあって、能から派生した歌舞伎や小説もいっぱいあることだし、もう少しお能を楽しんでみようかなと思っているところです。


薄闇のなかの桜
(のなか くにこ)







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野中邦子(2010.5.6更新)


リスの餌はカボチャのたね




タケノコ発見!



穴掘りの末に大収穫
 江崎さんのエッセイのタイトルは「はまって、はまって」です。そう、はまっているものの一つや二つ、ありますよね。人間だもの……「みつを」か?

 この何か月か、コンピューターのゲームにはまっています。プレステ3にもある「ひつじ村」という牧場経営ゲームです。マーモットから始まって、兎、鶏、羊と順番に飼育し、餌になる牧草やベリーやキャベツを栽培しながら、物々交換、毛皮の刈り取り、卵を孵し雛を育てることで、家畜と植物を増やし、牧場を広げていくというものです。

 ただのゲームとは知りつつ、生まれたばかりの子が飢えていたりすると大慌てで餌を与えたり、授乳中の親動物はとくに大切にしたり、ちょっと感情移入しすぎだと自分でも思います。兎や鶏の絵がかわいいのも気に入った理由です。

 とくに、アンゴラ兎に食べさせると毛が生えるニンジン、アルパカの餌になるカボチャは実るまで時間がかかり貴重です。牧場には倉庫もあって、取れた収穫物を保存しておけます。でも、あまり長いあいだ置いておくと腐っちゃうのです。それを知らずに、あるとき大事なカボチャが倉庫のなかで腐っているのを見つけて大ショック! 

 そんな失敗をして、つくづく考えた。これって、現実の生活にも通用する教訓だよね。もっているものを惜しんじゃいけない。使うものは使うべきときに使って、初めて役に立つのだ。自分の能力も財力も、けちけちしないで使うべきですね。

 そこで反省したわけでもないのですが、翻訳者には必要なツールになるはずの電子ブックリーダー、キンドルをいまさらですが注文してみました。英語(外国語)の文章を読むのは翻訳者の仕事の一部ですもんね。

 次の季節のためにせっせと種まきをする、冬のために餌を溜めておく、大事な果実も必要なら思い切って餌にしなくちゃいけない、時間は戻せないから一度した失敗はとりかえしがつかないなど、なかなか人生にも共通したところがある牧場ゲームなのです。

 ところで、連休中には知り合いの伊豆の別荘へ遊びに行き、ベランダに来る実物のリスに餌をやったりして遊んできました。ゲームのなかの動物は鳴かないのですが、このリスはかなり凶暴な声でバウバウと吠えていました。そして、植物のほうも大収穫! 庭で大きな筍を発見し、シャベルで掘り出して、その日の夕食のおかずとして、私たちのおなかに無事収まったのでした。
(のなか くにこ)







ぐるぐるくん

野中邦子(2010.6.3更新)




 テニスの全仏オープンをwowowがLIVE放送しているので、ついつい夜更かししてしまいます。女子の試合はいまいち興味がもてないのですが、男子シングルの試合は大好きです。

 なかでも、とくに大好きなフェデラーが準々決勝で敗退してしまってがっかり。同じく、大好きなナダルとの対決が見たかったのに! 錦織選手も一回戦突破ですばらしかったのですが、二回戦では第2シードのジョコビッチとあたってストレート負けしてしまいました。残念。でも怪我から復活してよかったね。

 ところで、翻訳という職業柄、テニス選手の名前の表記が気になります。見事なサーブと強烈なストロークでフェデラーを破ったSoderlingはスウェーデン人。テレビではソダーリング、ネットではソデーリン、セーデリング、ソデルリングといろいろな読み方があります。

 「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳を思い出します。
 スウェーデン語の読みというのはむずかしいですね。同じくテニスの名選手でビョルン・ボルグという人がいましたが、Borgは現地読みではボルイです。女優のイングリッド・バーグマンが映画監督のベルイマンと同じ綴り「Bergman」なのは有名な話。思想家のスウェーデンボリも綴りはSwedenborgで、スウェーデンボルグと書かれることもあります。

 テニス選手のSoderlingは、スウェーデン語の発音に近いセーデリングに統一されるらしい。ちなみに、綴りではOの上に2つの点々(ウムラート)がつきますが、それで「ソ」ではなく「セ」になるんですね。ところが、地名のGoteborg(オー・ウムラート)は従来イェーテボリと呼ばれてきましたが、いまはヨーテボリというらしい。ああ、厄介だこと。

 フェデラー(Federer)も全仏の会場アナウンスを聞いていると「フェデレール」と聞こえます。これはフランス訛りなんでしょうが、もともとフェデラーはスイス人だから、この発音のほうが近いのかなとも思います。

 そういえば、Soderlingの名前で気になったのは、日本のアナウンサーが「ソ【ダ】ーリング」と「ダ」を強調しているのに対して、現地のアナウンサーは「【ソ】ダリング」と最初の一音を強く発音します。その点からしても、セーデリングという表記が(日本語としては)いちばんいいんじゃないでしょうか……と、私としては納得し、決着がついたのですが、ほとんどの日本人にとってはまったくどーでもいい話ですよね。

 ネット検索をしていたら、「ベーグルを焼く」という表現が出てきて、気になりました。テニスでベーグル? ちょっと調べてみたら、ダブルベーグルという言い方があるんですね。ゼロの丸をベーグルにたとえて、6-0、6−0のようにゼロが並ぶのをダブル・ベーグルといい、負けたほうは屈辱なんだそうです。

 こういう重箱の隅をつつくみたいな細かいことが気になってしまう――それがノンフィクション翻訳者の習性。 
(のなか くにこ)





ぐるぐるくん

野中邦子(2010.7.4更新)


セーデリング(左)と
ナダル(全仏優勝おめでとう!)
スポーツ選手の知性とは?

 一流のプロ・スポーツ選手には知性が必須である……と思う。知性といっても、高い教養や豊富な知識のことではない。と、まあ一介のファンがえらそうなことをいうわけです。

 この6月から7月は、FIFAワールドカップとウィンブルドン・テニスの季節でした。みなさん、たっぷり楽しみましたか? 日本中が睡眠不足になったのではないでしょうか。  
 私はどちらかといえば……というか、心の底からウィンブルドンを楽しみました。  
 大好きなラファ(ナダル)のことを語りだすと長くなるので、それはさておき。

 毎朝、パソコンの前に坐ると、まずウィンブルドンの公式サイトを覗いて、前日のゲームのハイライトや選手の記者会見をまとめたビデオをチェックするのが習慣に。このビデオの最初に、いつもキプリングの詩が登場します。テニス・ファンならおなじみですね。

 If you can meet with triumph and disaster
 And treat those two imposters just the same

 ビデオでは、この言葉のあとに、去年の優勝者ロジャー・フェデラーが優勝カップにキスしている姿が映しだされますが、そのフェデラーは敗退してしまいました。まさに、勝利と敗北をともに味わわされるのがプロ・スポーツの世界です。

 スポーツ選手にとっての知性とは? 私が思うに、周囲の状況と、そこにおかれた自分の立場を冷静に見つめ、すばやく分析し、適切な判断を下す能力ではないかと思います。

 ワールドカップでも、チーム内でのごたごたで自滅したり、相手を踏みつけて一発退場になったり、ボールを独占しようとしたり、知性に欠けた行動が勝利を遠ざけた例がいくつも見られました。

 テニス選手のセーデリングは、過去のグランドスラムでフェデラーとナダルという二人のトップ選手を倒したことがあり、強力なパワーの持ち主です。彼がナダルの長いルーティーンにいらだって、試合中にナダルのしぐさをまねして揶揄したことがあります。それで、セーデリングの株は一気にダウン。ナダル・ファンは世界中に何百万人といますからね。その全員を敵に回しちゃったわけです。

 今年のフレンチ・オープンの決勝は、ナダルとセーデリングの対決になりました。ナダル・ファンにとっては、いやーな記憶が甦る相手です。でも、膝の不調を乗り越えたナダルがセーデリングを下し、優勝。表彰式では選手の短いスピーチがありますが、そのとき、先にマイクの前に立ったセーデリングが、最初に「ラファ、おめでとう」と呼びかけたのです。この一言で、「セーデリング、けっこういいやつじゃん」と単純なファンは思ってしまったのでした(まあ、そもそも、ナダルが勝ったことが大きいけどね)。

 プロの選手であれば、強くなればなるほど、マスコミやファンの評価はつきものです。自分がどう見られているかを意識しないのは愚かというもの。なにも点数を稼げとか、お上品ぶれといっているわけではありません。自分の個性は出せばいい、でも、やっぱりなんらかの誇りはもっていてもらいたいな。

 周囲の状況と自分の置かれた立場をよく見て、的確な判断を下すというのは、当然、プレイにもあてはまります。判断した結果を瞬時に、自分の肉体を通じて表現すること――そのためには、脳から手足、体全体への指令が欠かせない。それがスポーツ選手の知性だと思うのです。

 ところで、いい大人でありながら、賭博が悪いことだという常識さえない大相撲関係者は知性がゼロとしか思えない! 国技などという看板を外し、プロレスのような興行団体に戻って最初からやりなおすべきでは?

 キプリングのこの詩には、if(もし)という節がいくつか続くのですが、「きみが……したら」の最後に何が来るかというと――

  you'll be a Man my son!

 a Man を「一人前の男」と訳すこともできますが、私としてはただの「一人の男」と思いたい。 男になるってことは、ゴールを決めることでも、チャンピオンになることでもなく、勝利と敗北を同じように受け止められるようになるってことなんだよ。

(ifの全文はこちら
(こちらの動画ではフェデラーとナダルが詩の一部を朗読しています)

おまけ画像――いまふうにいえば「イケメンすぎる」チェアアンパイア、カルロス・ラモスさん。

(のなか くにこ)







ぐるぐるくん

野中邦子(2010.8.5更新)


オートマタ美術館の入り口





世界一美しいオートマタ「蛇遣い」





不思議の国のアリス




人魚姫
人形のいる風景

 先日、伊豆へ行ったとき、近くに野坂オートマタ美術館があるのを知って、訪ねてみました。ちょうど実演が始まって、鼻の上に載せた椅子をくるくる回すピエロ、梯子の上で回転してみせる曲芸師、ポットからカップにお茶を注いで飲む動作を延々と繰り返す「ジェシカおばさんのティータイム」という3種類の実演を見ることができました。

 2階には、工房が再現されていて、製作途中の人形や、体の中の仕組みが見られます。何本も針金の線が組み込まれていて、ぜんまいで動きます。もともとは時計のメカニズムをもとに発展した細工だそうです。当時、時計細工は最先端技術だったそうです。ヨーロッパの街角にはよく大掛かりな細工時計がありますよね。いまでいえば、ロボット・テクノロジーみたいなものでしょうか。  

 伸縮性のある素材でできていて、顔の表情が微妙に変わるのにも驚きました。空気を送って、シャボン玉を吹いたり、呼吸をするたびに胸がかすかに上下したり、工夫が凝らされていました。胸が上下する人形は「世界一美しいオートマタ」といわれる「蛇遣い」で、パンフレットに写真が使われています。  

 もう一つ、人形作家の片岡昌展「超次元アートと『ひょうたん島』」も近くでやっていました。「ひょっこり ひょうたん島」でおなじみのドン・ガバチョやハカセの人形が展示されていて懐かしかったのですが、驚いたのは、それ以外のたくさんの作品。ちょっと不気味だったり、残酷だったり、この世のものとは思えない幻想的なものだったり、とてもすばらしかったのです。

 ジョン・テニエルの挿絵をもとにした不思議の国のアリス、シェークスピアのマクベス、アンデルセンの人魚姫など、もともと怖い話ですが、立体の人形になると、さらに怖さが増幅されるような気がする。手で触れられるものが、異形の者として目の前に存在することが怖さの源泉なのかもしれません。伊豆の山のなかの美術館なので、なかなか行く機会はないかもしれませんが、一見に値する作品群です。

 私も昔、紙粘土で人形を作っていたことがあります。バスケットボール選手の操り人形、顔だけの猫、天使などを箱にしまっておいたはずですが、どこかにしまいこんじゃったのか、見当たりません。いまもブライス好きの私なので、オートマタも片岡昌展も思った以上に面白く、大満足でした。

 ところで、この人形たち、実用的には「なんの役にも立たない」ものなんですよね。オートマタなんて、最先端技術といいながら、ただ複雑な動きをしてみせるだけで、いまのお掃除ロボットや介護ロボットのような働きはいっさいしません。ひたすら人を面白がらせ、驚かせるだけのものです。

 片岡昌の人形にしても、芝居の登場人物として働きはするけれど、しいていえば「子供の情緒を育てる」とか「感性を豊かにする」という芸術的な効用しかなく、その効果はとても数量化できるものではありません。それどころか、ひょっとしたら子供は怖がって泣き出したり、夜、トイレに行けなくなったりするかもしれない。

 いまはやりの事業仕分けの対象になったら、「これはなんの役に立つのですか?」「結果は出ているのですか?」「むしろ子供に悪影響を及ぼすのでは?」「無駄な出費では?」と問い詰められ、ばっさり切り捨てられそうです。

 しかし!

 芸術や文化はもともと無駄なものではないでしょうか。無駄なものは無用のもの、と頭から決め付けて、簡単に切り捨てる社会には、あまり住みたくない。生きる歓びや日々の楽しみは、無駄なものに驚き、感動するところから生まれる……と思うのですが。

 なんでもすぐに即戦力、結果を出さなければ意味がない、なんていわなくてもいいじゃない、と思います。子育てや教育の分野ではとくに。

 そんなことを思うのは、産学協同路線反対というスローガンになじんだ団塊の世代の尻尾につらなるせいなのか。昨今、議論の的になっている英語教育だって、すぐに会話会話というけれど、そもそも話すべきことをもっているかどうか、知りたいことがあるかどうか、が何よりも大事です。語学教育も人間教育の一分野であるべきだよね。

 というわけで、すっかり脱線してしまいましたが、オートマタ美術館と片岡昌展、この夏休みにでも伊豆へ行く機会があったら、ぜひどうぞ。

野坂オートマタ美術館のウェブサイトはこちら
静岡県伊東市八幡野字株尻1283番75 tel 0557-55-1800 入館料 大人 1000円、中高生 600円 小学生以下 無料 休館日 毎週木曜日(除8月・祝日及特別展期間中) 実演時間11:00

片岡昌展「超次元アートと『ひょうたん』島」2001年7月1日(木)〜10月5日(火)
池田20世紀美術館(静岡県伊東市)9:00−17:00
休館日7・8月なし 9月毎週水曜日
入場料 一般900円、高校生700円、小中学生500円
ウェブサイトはこちら
(のなか くにこ)







ぐるぐるくん

野中邦子(2010.9.5更新)


網戸補修用の道具一式
ある調査によれば、主婦の仕事は年収に換算して1280万円だそうです。そのなかには、家庭管理、育児、料理、洗濯、コンピューター操作、心理学者、機材管理、車の運転、さまざまな決断、その他雑用が含まれる。

ふとそんなことを考えたのは、2,3年前から放置しておいた家庭内の懸案事項を最近――この暑さのなか――ようやく片付けたからなのです。

1つめ……地デジの録画。

DVDとビデオの録画・再生できるデッキを使っているのですが、アナログしか録画できない。テニスのUSオープンの開幕が近づいて、wowowをどうしても録画したいというモチベーションに駆られ、ようやくテレビとデッキの接続を確認するべく、腰をあげた。まずテレビの裏側を出さねば……ところが、テレビとデッキをつなぐアンテナコードが短くて、作業しにくい。しかたがないので、いったん作業を中止、近所のドンキホーテまでコードを買いに行く。60センチくらいのを2mに伸ばしてようやく背面が出せた。

マニュアルを見てもわからないので、wowowのカスタマーセンターに電話する。おりかえし、テクニカルセンターから電話がかかってきて、手取り足取りしながら、接続を確認。赤白黄のコードのつなぎ方が違っていた。デッキ側でも「入力切替」をするということを教わって、ビデオで録画するところまではできた。でも、まだDVDには録画できない。

ということはディスクが問題であろうということになり、またドンキホーテまで買いにいく。試しに一枚だけ買いたかったんだけど、最近は10枚セットしかない。まあ、安いんだけどね。それで試してみたけれどダメ。またカスタマーセンターに電話。マニュアルには、ビデオコードとか、VR方式とか書いてあるけど、さっぱり意味がわからない。 wowowのカスタマーセンターは、デッキのメーカーに聞いてみたら、という。相談室の電話番号も教えてくれた。

 そこで、ようやく、録画用のディスクはDVD-Rではだめで、DVD-RWでなければならず、しかもCPRM対応じゃないと地デジの録画はできないということが判明。またしてもドンキホーテに出かけ、対応するディスクの10枚セットを買ってきた。これで、ついに録画が可能に! あとで思うに、地デジに切り変えたためにこういう問題が続出しているらしい。マニュアルは地デジ化前のものなので、その説明がまったくなかったわけだ。きっと、カスタマーセンターには、この手の質問がどっと押し寄せているにちがいない。地デジ化って、はた迷惑かも。

2つめ……破れた網戸の補修。

網戸がべろっとはがれて、もう数年放置してある。ホームセンターで聞いてみたら、出張修理はとても高いとのこと。交換ならサイズを正確に測ってきて、といわれる。帰りに寄った100円ショップで、網戸補修用の道具(ローラー)とゴムがあるのを発見。

「ふーん、自分でも直せるのか……」と思ったら、Do It Yourself好きと、倹約精神がむくむくと湧きあがり、補修に挑戦してみることに。網戸のサイズを測り、またホームセンターに出かけて、網戸用のネットだけ購入。1500円以下で買えた。100円ショップでローラー、ゴム、押さえ用のクリップを買う(300円)。

部屋の床に網戸を横に置けるだけのスペースを確保し、古新聞紙を広げて敷き詰める。網戸を外して、新聞紙の上に寝かせ、汚れを落とす。家庭用洗剤をスプレーして、メラミンスポンジと雑巾で拭き、細かい隙間は綿棒と楊枝でゴミを取り除く。

網戸より大きめのサイズでネットを切り、ローラーで周囲の溝にゴムをはめ込んでいく。中腰ないし膝をついての作業なので、腰や背中が痛くなる。運動不足を実感。四方のゴムをはめ込んだら、余分なネットをカッターナイフで切り取って完成。ブラックのネットを使ったら、窓の外の景色がとてもクリア。安上がりにすんでよかった。でも、疲れた。

3つめ……無線LAN設定

パスワードを忘れてしまって、iPad やiPhoneの接続ができなかった。テレビのマニュアルを探しているとき、無線LAN設定の書類が出てきて、パスワードが書いてあった! それを使って設定したら、iPadもiPhoneも無事認識してくれました。よかった! 設定がうまくいかないと、なんだか差し出した手を拒否されたみたいな気になって落ち込むんですよね。今回は無事、握手ができました。ちなみに、LANの設定は引越しをしたときにニフティのサポートにお任せだったんだけど、そういえば、パスワードは電話番号を後ろから読んだ数字にしましょうね、といっていたんだっけ。あとから思い出す。

これだけの処理を業者まかせにしたら、ン万円かかるところです。お金で解決できればそのほうが楽だし、かえって効率的だ(疲労度を考えるとね)という考えもあるけど、数日前に、ちょっと贅沢なレストランで散在しちゃったこともあり、その分をこれで帳消しにできたぞ、と考えてしまう私は貧乏性。

それにしても、暮らしを日々平穏に運営していくのは大変なことです。専業・兼業の主婦であれ、勤め人であれ、一人暮らしであれ、また老若男女を問わず、人が暮らしていけば、毎日小さな問題が発生する。それをなんとか解決、あるいはやり過ごしていかなくちゃいけないのよね。ホームマネージメントはひと仕事です。
(のなか くにこ)







ぐるぐるくん

野中邦子(2010.10.5更新)


ウォーキングコースを歩く


日没の風向計
 翻訳という仕事は、基本的に、ずっと机の前に坐っているものです。行動派の翻訳者というのはあまり聞いたことがない。もちろん、身体を鍛えるのが好きな翻訳者もいますけどね。村上春樹さんとか。

 春樹さんの場合も、もしかしたら、身体を鍛えるのが好きというより、坐っているばかりの生活ではまずいと思ったのがランニングを始めるきっかけだったのかもしれません。

 知り合いの同業者に聞いても、腰が痛いとか、足腰が弱ったとか、肥満に悩んでいるとか、運動不足は深刻な問題のようです。

 私も最近、運動不足を身にしみて感じ、ウォーキングの習慣を復活しました。近所の平和の森公園には芝生広場があり、そこに一周400メートルのウォーキングコースが設けてあるので、そこをぐるぐる回って、だいたい3、4周することにしています。

 問題は、ぐるぐる回っていると回数を忘れてしまい、「いま何周目?」となることです。

 ところで、昔、ダーウィンの伝記を翻訳したことがあります。ビーグル号の航海から戻ったあと、結婚して田舎に家を買って落ち着いたダーウィンは、考えごとをしながら森を歩き回るのを毎日の習慣にしていました。そのとき、やはり回数がわからなくなるので、小石を回る数だけ――10周なら10個――道の端っこに置いておき、一周するたびにその小石を蹴って、どかしてゆくことにしていたそうです。

 そんなエピソードを翻訳しながら、これはよい方法だと思ったものです。いちいち頭を使わずにすむし、足で蹴るだけなので、思考の妨げにもならない。

 ダーウィンの業績や革新的な思想については、すっかり忘れてしまっているのに、「散歩のときに小石を蹴る」ことだけは、しっかり記憶に残っている。やれやれ、ですね。

 この小石蹴り方式をせひ採用したいのですが、残念ながら、公園のウォーキングコースには、あまり小石が転がっていないのです。どうしたもんですかね……てなことをいっていますが、本当はいつも歩数計付腕時計をつけているので、歩数で測ればよいだけの話。

 本当は、ただダーウィンの真似をしたいだけなのよ。
(のなか くにこ)







ぐるぐるくん

野中邦子(2010.11.03更新)


『私のなかの「ユダヤ人」』






会場風景
 リングァ・ギルド主催の「飛幡(たかはた)さんとルティさんのお話を聞こう」という会に出てきました。
 ルティ・ジョスコヴィッツさんは『私のなかの「ユダヤ」人』の著者、飛幡祐規さんは『エレーヌ・ベールの日記』の翻訳者です。

 ルティさんは、とんでもなく波乱に満ちた生涯を送ってきました。ご両親は東欧出身のユダヤ人で、第二次大戦時にナチの迫害に会い、収容所で亡くなった親戚も大勢いるそうです。戦後、シオニズム運動によってイスラエルが建国され、ルティさんのご両親もイスラエルに移住しました。ルティさんは三つ子で生まれました。当時、イスラエルでは三つ子の誕生がまさに建国を祝う出来事と見なされ、そのせいでご両親は大歓迎されたそうです。

 しかし、イスラエルでは仕事もなく、やがてご両親はパリへ移住して、フランス国籍をとります。ルティさんは十代の終わりにイスラエルのキブツに参加し、そこで一人の日本人フォトジャーナリストに出会います。それが広河隆一さん。キブツで暮らしながら、パレスティナで撮影した写真を展示し、イスラエル批判を口にするリュウイチによって、ルティさんはイスラエルの本当の顔に気づきはじめます。 やがて、ルティさんは日本に来て、リュウイチと結婚し、子供2人をもうけて、日本へ帰化申請を出します。ところが、日本政府は二重国籍を認めないため、フランス国籍を抜いてから、申請せよといわれます。いわれたとおり、フランス国籍を捨て、再度、帰化申請を出したところ、日本政府は、「同化が不十分である」という理由で、帰化申請を却下したのです。こうして、ルティさんは無国籍になってしまいました。

 イスラエルはルティさんを国民として喜んで迎え入れると申し出る(というより、イスラエル国籍を取れと恫喝する)のですが、ルティさんにとってはイスラエルが祖国だとは思えないし(思いたくないし)、子供たちが兵役にとられてパレスティナを攻撃するようなことになったらとても耐えられないと思っていて、イスラエル国籍は断固拒否します。いまでも、再度イスラエルに移住したご両親を訪ねて入国するたび、空港の窓口で、イスラエル生まれのルティさんはイスラエル国民になるべきだと説得されるそうです。

 日本にいても、いつ拘束されて出国できなくなるか、イスラエルの監視の目が光っているのではないか、と長年怯えていたといいます。国籍って何だろう、と考えてしまいました。ルティさんは、なるべく自由でありたい、国に行動や思考を縛られるのはとてもいやだと思っているようでした。私も同じ。日本は戸籍の管理がきちんとしているといわれていましたが、このあいだ高齢者の行方不明問題が露見して、日本の戸籍制度もそれほどあてになるものではないとばれてしまいました。それなのに、あいかわらず、夫婦別姓というたんなる書類上の手続きさえ(しかも、希望者のみで、強制ではない)、当事者以外の人たちが日本の家庭を壊すとかなんとかいって反対している。まったくおかしな話だと思う。

 その後、ルティさんは広河さんと離婚し、2人の子供も成長して、いまはお孫さんが6人いるという。「ほんとはパリに住みたいけど、こっちには孫がいるしね」とのことでした。「日本にいるとパリが恋しくなり、パリへ行くと日本が懐かしい」という気持ち。なんだか、わかるような気がする。

 ところで、この会に出たのは、今年の春に翻訳し、今月末に刊行予定のマングェルさんの本に、ホロコースト記念碑をめぐる議論の一章があったからです。ホロコーストという人類未曾有の悲劇のために記念碑を作るとしたら、ホロコーストをひとくくりにするのではなく、一人ひとりの声に耳を傾けるべきである、というマングェルさんの主張に目を開かれました。おおざっぱに犠牲者という言葉で片付けてはいけない、ユダヤ人の話ではなく、「ルティさんの話」を聞かなければいけない、と思ったのでした。

 『奇想の美術館 イメージを読み解く12章』アルベルト・マングェル著、野中邦子訳、白水社、11月刊行予定

リングァ・ギルドのウェブサイトはこちら
(のなか くにこ)







ぐるぐるくん

野中邦子(2010.12.03更新)


『奇想の美術館』

アルベルト・マングェル著
白水社刊





マリアナ・ガートナー作
『奇想の美術館』挿絵より





アレイジャディーニョの聖人像
『奇想の美術館』挿絵より
 京極夏彦の『姑獲鳥の夏』は、見えるはずのものが見えない、という話でした。

 「見えるものが見えない」ってこと、私の身近でもよくあります。

 ……というのも、校正のこと。

 そこに明らかな誤植があるのに、たしかに目に入っているのに、ないものと思って見過ごしてしまうんですね。原稿の文字の打ち間違いはごろごろ、校正の見落としもぼろぼろ。

 「遍在」とすべきところを、「偏在」としていたりね。(これは、ちょっと高度な間違いではある。)遍在のほうは、あまねく存在する、つまり神とか、コンピューターとか? 偏在のほうは、かたよって存在する。これもコンピューターにあてはまるか?

 それから、誤訳。落ち着いて考えれば、こんなふうに読めるはずがない、というような誤訳をしてしまう。スペルの読み間違いも、あとで見れば、なんでこんな読み間違いを! と思って愕然とする。

 英語で「プラトンのソクラテス」と書いてあって、前後の文脈で間違えてしまったのだけれど、プラトンがソクラテスの談話を聞き書きして本にまとめた「対話篇」を踏まえて、プラトンの書いた対話篇のなかのソクラテスの言葉によれば、みたいな意味だったんですね。

 どちらもゲラの段階で修正できました。セーフ!

 訳者校正を終えたら、こんどは「訳者あとがき」を書かなければいけない。翻訳を始めたころは、あとがきを書くのが楽しかったし、意気込みもあったけど、最近は、自分で書いたものさえ失念している始末。今度の本は、マングェルさんの本なので、前の『図書館』にどんなあとがきを書いたかなと思って読み直してみたけど、「こんなこと書いたっけ?」という。

 同じ美術関係の『フェルメールの受胎告知』のあとがきも読み直してみたら、「へえ、こんなこと書いてたんだ」と驚いてしまうほど記憶がない。

 まったく、見えるはずのものは見えないし、書いたはずのことは忘れるし……困ったものです。

 そんな情けない翻訳者ですが、スーパー有能な編集者のサポートのおかげで無事に立派な本にできあがりました。マングェルさんの趣味のユニークさは『図書館』のときに実証済みですが、美術の分野でもその博覧強記と一種独特の美的センスがが発揮されています。

 翻訳者としては、著者の博識と情熱についていくのが大変でしたが、できあがってみると、とてもステキな本になっていて、苦労はすっかり忘れてしまいます。(要するに、なんでも忘れっぽいというだけか?)

 クリスマス・プレゼントにもいいんじゃないかな。twitterをやっているかた、ぜひ拡散――これも新しい言葉遣いですね――よろしくお願いします!
(のなか くにこ)