【コウモリ通信】バックナンバー 2000年  東郷えりか(とうごう えりか) 2003年2002年2001年はこちら





コウモリ通信 1999.12

その1

 先日、図書館でたまたま『テッド・バンディ』という本を見つけた。その名前には見覚えがあった。以前に訳した本のなかに書かれていた連続殺人犯だ。血なまぐさい話は苦手なので、これまでなら見向きもしなかっただろうが、なんとなく興味がわいた。テッド・バンディは六〇年代から七〇年代にかけて、髪の長い若い女性ばかり数十名、ひょっとすると百人以上、殺したといわれる男だ。知能は並外れて高く、ハンサムで人当たりもよい。だが、見ず知らずの人を殺しても、まったく良心の呵責を覚えない冷血人間だ。最近、日本でもこの手の人間が増えている。

 彼のような人は、反社会的人格とか精神病質者(サイコパス)と呼ばれ、他者に共感できないことが大きな特徴らしい。その原因がなんと、三歳くらいまでに虐待を受けるなどして、感情の発達が疎外されたことだと考えられているのである。いったんそうなった子供は、身体は成長しても、精神的には決して成熟しないらしい。テッド・バンディも生まれてしばらく施設で育ち、「あやす、抱きしめる――絆を形成するという、赤ん坊の幸福にとってとても大切なこと があとまわしにされた」。彼を殺人鬼に仕立てた要因はほか にもいろいろあるだろうが、三つ子の魂百まで、というのは本当なのかもしれない。

 そう考えると、親から虐待を受けている大勢の子供たちはどうなるのだろうか。保護さ れた子供たちの心の傷をいやすために、厚生省が 「箱庭療法」という心理療法を導入した、と新聞に載っていたが、心の傷というのがじつは脳の発達段階で受けた傷だとしたら、はたして治癒するのだろうか。子供を虐待する親の多くが、自分自身、子供のころに虐待されているという報告もある。

 巷では三歳までの早期教育というのが盛んなようだが、知識をつめこむより先に、人間としてごく基本的なことを教えてやらなければ、とんでもないことになる。育児や教育という狭い分野のなかだけでものごとを考えると、肝心なことを見失ってしまうのだろう。翻訳の仕事を通じて、ふだん自分ではなかなか手に取らない分野の本を読むことで、少しずつ自分の視野が広がってきたような気がする。





コウモリ通信 2000.1

その2

「財布の許すかぎり着るものには金をかけるがいい、風変わりなのはいかんぞ、上等であって派手ではないのだ、 服装はしばしばその人柄をあらわすという」

 このくだりを読んで、私は思わずうーん、と考えこんでしまった。人は結局、見かけで相手を判断するので、それなりのものを身につけるに越したことはないのだろう。服装には最低限の出費しかしない私には耳が痛い。

 じつは、先日ようやく『ハムレット』を読んだのだ。シェークスピアはよく引用されるので、これまでも何度か手に取ったことはあるが、いつも問題の箇所を探すのに精一杯で、すっとばして読んでいたので気づかなかったらしい。たしかに、そのとおりだ。こういうすばらしい言葉は、いまどきの下品な若者にもぜひ聞かせてあげたい!「金は借りてもいかんが貸してもいかん、貸せば金はもとより友人まで失うことになり、借りれば倹約する心がにぶるというものだ」 高校時代にお世話になった人が、これとまったく同じことを教えてくれた。友達が困っていたら、自分に出せるだけのお金をあげなさい、とその人は言っていた。シェークスピアの知恵だとは知らなかった。昔どこかで聞いた話や、見た絵に、もう一度、別なところで出会えるのはじつに楽しい。





コウモリ通信 2000.2

その3

このところ、あの抗うつ薬、プロザックが欲しいくらい落ちこんでいたので、とにかく気晴らしをしなくてはと思い、『アンナと王様』の試写会に行ってみた。

 ユル・ブリンナーの『王様と私』が、いかにも西洋人から見た御伽噺だったのにくらべて、今回のリメーク版は主人公たちの心の動きがよく描かれていたし、マレーシアでオールロケしただけあって、蒸し暑さまでが伝わってきた。香港のスター、チョウ・ユンファが、流暢そうにタイ語をしゃべっていたのにも感激。ジョディ・フォスターは、芯の強そうな未亡人役を好演していたが、あの美少女もこんなに老けたか、と少し複雑な気がする。実は、『タクシードライバー』のころに、彼女に握手してもらったことがあるのだ!

 今回の映画もタイでは上映禁止だそうだが、あの国の王室の扱いは戦前の日本のような感じなので、まあ仕方ないかな。宗教や王権、アイドルのように、強烈なものにすがっている人間のほうが圧倒的に多い。その力を使ってなんらかの秩序を保とうとするからこそ、誇大宣伝がなされたり、厳しい規制が敷かれている。おそらくある日突然、それがただのつまらないものだとわかれば、アイデンティティを見失う人が続出するのだろう。

 映画を観たあとで、竹書房から出ている『アンナと王様』を読んでみたが、映画のシナリオみたいな本だったので、アンナ・レオノウェーンズ本人が書いたという本をアマゾン・コムで注文することにした。アンナのような強い女性の話を読めば、元気が沸いてくるかもしれない。> それにしても、まったく便利な世の中になったものだ。今朝の新聞にアマゾン・コムは95年の創業以来、利益を出したことはない、と載っていたのでちょっと心配している。





コウモリ通信 2000.3

その4

 先日、小6の娘がうちで友達と宿題をしながら、こんな会話をしていた。「まったく○○ったら、やんなっちゃう。これどうやるのって訊くから、教えてやると、ほんの数分もたたないうちに、もう忘れちゃって、また訊きにくるんだよ!」

「そうそう、○○は理解しないで、やり方をただ丸暗記しているんだよ」

得意げにそう話していたふたりも、「こういう計算は掛けるんだっけ、割るんだっけ?」と私に尋ねる始末。

 子供のころは誰でもかなりの記憶力がある。一時、大流行したポケモンの歌「ピカチュウ、カイリュウ、ヤドラン……」は、クラスの大半の子がうたえたらしい。でも、そうやって一気に丸暗記したものは、忘れるのもあっというまだ。

 そこで、私は娘にジグソーパズル方式の勉強を勧めている。つまり、最初はてんでばらばらなものでも、よく調べるうちに隣り合せのピースが見つかる。それをどんどんつなげていくと、一つの意味のある塊ができる。やがてそういう塊があちこちに島のようにできてくる。そして、あるところまでくると、島同士がつながり、一気に全体像が見えてくる。そうなれば、どうにもお手上げに見えた部分ですら、足りないピースのかたちを想像することで埋まっていく。

 つまり、一つのことを覚えたら、別の角度からそれを見られるものを探し、そこから派生して次に移り、ときには隙間を埋めるためにまた戻り、というやり方だ。かなり時間はかかるし、分野も偏るので、どこかの教材のうたい文句のように、これですぐに学校の成績がよくなるわけではない。でも、そうやって築きあげた島同士が将来いつかつながったときの気分はたまらない。また、ある段階まで来れば、今度は想像力がはたらいて、類推できるようになるから、全部を覚えなくてもすむ。

 これに勝る勉 強方法はない、と信じながら、私はいまも翻訳に取り組んでいる。それなのに、覚えるべき領域があまりにも広すぎるのか、いつまでたっても小さな島が点在するだけで、そこからぱっと視界が開けることがない。ああ、いつか楽々と翻訳できる日が来るのだろうか……。





コウモリ通信 2000.4

その5

 先月はやたら忙しく、残りのページ数をかぞえては、カレンダーとにらめっこする日が続いた。

 そんな折、訳している本に、プレッシャーを感じているときにはいいアイデアは浮かんでこない、と書かれていて、どきりとした。たしかにそうだ。締め切りが気になって、いらいらしているときにかぎって、集中力がなくなり、なかなか言葉が思いつかなくなる。能率が落ちてきたら、しばらくコンピューターの前を離れて、家事をしたり、買物に出かけたりして、気分転換をはかることが大切かもしれない。

 そうわかってはいても、なかなか実行できないところが悲しいのだけど。





コウモリ通信 2000.5

その6

 横浜に引っ越してから1カ月が過ぎた。 かなりおんぼろのアパートを借りたので、朝夕、新聞配達人が階段を駆けあがるたびに、震度5くらいの揺れが起こる。日中は、トタン屋根の上を歩くカラスに悩まされる。ときどき、ズリッという音が聞こえると、思わず仕事の手を休めて、さては転んだな、などと考えてしまう。

 いろいろ欠点はあるけれど、最近になって二つも嬉しいことを発見した。ひとつには、向かいの家と木立のあいだのわずかな隙間から、富士山が見えること。昨年の夏、富士山に登ったばかりなので、窓から真っ白い山が見えるたびに、あのてっぺんに立ったんだぞ、とひとり優越感に浸っている。

 もうひとつは、アパートの前にある幅3メートルにも満たない道が、旧東海道であるのを知ったこと。ときどき地図を手にした中高年の集団が、がやがやと歩いていくので、もしやと思って調べてみたら、案の定、ここが旧東海道だった。ほんの数十メートル先には環状2号が走り、ダイエーやら西武が建ち並ぶのに、この道に入るとふと田舎に来たような錯覚にとらわれるのはそのせいだったのか、と妙に納得。

 さっそく『広重の東海道五拾三次旅景色』という本を買って調べてみると、この近所にいくつも史跡があることがわかった。とりあえず第1回目の探検として、ここ東戸塚から、保土ヶ谷にある程ヶ谷宿本陣軽部家跡まで、娘と自転車で行ってみることにした。途中、東海道の難所といわれた権太坂や、そこで行き倒れた人を葬った投込塚がある。娘はその長い長い坂を、一度も休まずに自転車で登ってしまうのだが、日ごろ運動不足の私は、もう少しで投込塚行きになりそうになった。坂を登りきった境木地蔵のあたりで、昔の旅人はぼた餅を食べたそうなので、私たちもそれに倣うことにした。

 道沿いに点在する大きな木や、古そうな家を眺めながら、数百年も昔、ここを行き交った人びとに思いを馳せた。イギリスのウォトリング街道には負けるかもしれないが、東海道だって充分にロマンチックだ。これから暇を見つけては、東海道探検をつづけていきたい。





コウモリ通信 2000.6

その7

 先日、ようやく「ピカソ 子供の世界」展を見に行ってきた。 近代や現代の絵画の多くは、見る人に何かを訴えるのではなく、自己満足に過ぎないような気がするが、ピカソの作品からは、彼が奇妙な絵を通じて言いたかったことが伝わってくる。

 たいていの画家は、自分の作風が定まるまではいろいろな試みをするが、いったん世にに認められるスタイルができあがると、同じパターンをくり返すようになる。売れ筋の作品を大量生産しているだけではないか、とつい疑いたくなる。

 ところが、ピカソは違う。キュビスムという表現方法を見出したあとも、ピカソはオーソドックスなスタイルに戻ったり、子供のような絵を描いたり、あれこれ試行錯誤をくり返す。巨匠と言われるようになっても、決して現状に満足せず、晩年になっても新しい試みをつづける彼の姿勢が、私にはとても新鮮に感じられた。

 展示室の一画に、ベラスケスの「ラス・メニーナス(女官たち)」をテーマにしたピカソの作品が何枚も並んでいた。ゴッホもミレーの模写をたくさんしていたが、ピカソのような天才も、昔の偉大な画家の作品研究を怠らなかったのだろう。ピカソの場合は、模写というよりは、ベラスケスの絵のエッセンスだけを抜き取ったような絵だが、見比べてみると、構図だけはおもしろいくらいに忠実に真似ている。

 それにしても、ピカソの描く人物や動物には愛嬌がある。ベラスケスの絵のなかの厳つい犬も、ピカソの手にかかると、たまごっちのキャラクターかと思うような素っ頓狂な顔になる。子供のような感覚を失わないところも、私がピカソを身近に感じる原因の一つだろう。

 6月18日まで上野の国立西洋美術館でやっているので、まだの方はぜひどうぞ。





コウモリ通信 2000.7

その8

 じつは、先日、大阪まで行ってフェルメール展を見てきた。この忙しいときに!と怒られそうだが、オランダはもっと遠いし、この機会を逃したら、次はいつになるやらと思い、意を決した次第だ。

 久々に羽根を伸ばそうと出かけていったのに、天王寺に着いたところで、入るのに2時間半待ちであることが判明。ここまで来て引き返すわけにもいかず、しぶしぶ列の最後尾に着いた。前後左右はすべておばさん。おじさんと若者もわずかに交じっている。「こんなに並んだのは、万博以来やなあ」なんて会話が聞こえてくる。この人たち、ホンマにみぃーんな絵ぇに興味あるんやろか、とつい意地悪く考えてしまう。

 そういえば子供のころ、「裸のマハ」と「着衣のマハ」が来たときも大騒ぎだった。ようやく絵が見えてきたと思ったら、もう押し出されていて、何がなんだかよくわからなかった。今回は入場規制をしていたので、そういうひどい事態にはならなかったが、延々と待たされたあげくに、大勢の人に囲まれて見ると、どんな名画でもやはり楽しむことはできない。作品が小さいうえに、窮屈そうな額縁に押し込められているのにも、少し失望した。

 ところが、フェルメールの5点の作品を見終えて、次の部屋に移ったとたん、はっとした。そこには同時代の画家の作品が飾られていた。どれもフェルメールのように緻密に描かれた室内画だ。でも、何かが違う。窓からの光を見事に描いた作品もあるのに、どこか雑然とした印象を与える。フェルメールの絵にはある緊張感や、澄んだ空気が伝わってこないのだ。

 何が違うんだろう。それが知りたくて、「青いターバンの少女」をパステルで模写してみた。シンプルな絵なので、形を真似るのはそう難しくない。でも、あの不思議な存在感は出せない。1晩置いてから、もう1度、絵をよく見くらべてみた。すると、模写したほうは、少女の顔の陰影が薄すぎることがわかった。美少女の顔にそんな濃い色を塗るのは気が引けたが、思いきって一番濃い茶色で影を入れてみた。それが正解だった。光は、影が濃いほどいっそう輝いて見えたのである。

 フェルメールの絵は、光の当たるわずかな部分に鮮やかな色を入れて、そのほかの部分を思いきって沈ませることで、あの空気を醸し出していたらしい。そう気づいたところで、ふと、鈴木先生にいつも言われていたことを思い出した。大げさな言いまわしは努めて避けること。そうしないと、ここぞという場面で言葉が生きてこない。うーん、本当にそうだ、と鈍い私はいまごろになってそれを実感したのである。

 それがわかっただけでも、わざわざ大阪まで行った甲斐があったのかもしれない。それに、あの大勢のおばさんたちだって、じつはありがたい存在なのかもしれない。ああいう人たちが文化を支えてくれるからこそ、私もその恩恵に預かれるのだから。





コウモリ通信 2000.8

その9

 昨年に引きつづき、また富士山に登ってきた。砂利だらけの急坂をひたすら登るだけの山だけど、頂上に着いたときの達成感はやはり格別だ。昨年は、九合目あたりから大嵐になり、お鉢巡りができなかったが、今年は富士山測候所跡のある最高峰、剣ケ峰にも登り、火口をぐるりと一周してきた。これで、どこから富士山を見ても、私はあの頂上に立ったと自慢できるようになった!

 今年の登山でつくづく感じたのは、何よりもまず天気予報のありがたさだ。出発前日の夕方にふと思い出して、甲府気象台に電話をかけてみた。東京の予報が晴れでも、富士山がそうとは限らない。案の定、土曜日は晴れるけれど、日曜日は台風の影響で荒れるとのこと。そこで急きょ予定を変更して、土曜の朝一番の新幹線で新富士に向かい、その日のうちに登ることにした。頂上に着いたのは4時近くだった。急ぎ足でお鉢巡りをしたあと、富士山の影が地上に映る影富士を堪能しながらの下山となった。宿を新七合目にとってあったので、最後は暗闇のなかを懐中電灯をたよりに歩くはめになったが、頭上は満天の星空だった。

 ところが、夜半過ぎから風が強くなり、やがて大嵐になった。それでも、夜間に山頂をめざす登山者があとからあとから来る。みんな下着までぐっしょり濡れて、寒さに震えている。自分や同行の子供たちが雨風の防げるところにいることが、これほどありがたく感じられたことはなかった。山小屋のきたない布団だって、なんのその。一晩降りつづいた雨は、翌朝にはほとんど上がり、私たち一行はまったく濡れずに五合目まで無事下山した。

 もう一つ感じたのは、富士山の登山者に無防備な人が多すぎるということだ。夜中に山小屋にレインコートや懐中電灯を買いにくる人が跡を絶たないのだ。3歳くらいの子供を連れてきて、夜遅くその子を負ぶって帰るはめになった親子連れもいた。たしかに富士山にはいわゆる鎖場がないから、辛抱強く登れば誰でも登頂できる。でも、富士山はディズニーランドではない。気象条件の厳しさと、斜度のきつさと、高度は、日本の他の山とはくらべものにならない。みんなもっと充分な下調べをして、覚悟のうえで登るべきだ。

 それにしても、どうしてこれだけ多くの人が、普段の快適な生活を抜け出して、わざわざ苦しい思いをしに来るのだろうか。ヒマラヤの山岳民族からすれば、ひどく滑稽に見えるかもしれない。おそらく、人間が自分も自然界の一員であることを思い出すためなのだろう。自然の厳しさと人間の非力さを学ぶことで、本能を呼び覚ましているのかもしれない。





コウモリ通信 2000.9

その10

 春以来、仕事にかまけてしばらく中断していた旧東海道めぐりを、夏休みに入ってから再開した。娘がそれを夏休みの自由研究にすると言いだしたからだ。下調べはすべて娘がやり、地図を見るのも娘で、私はただついていくだけ、という条件で協力することにしたが、炎天下の探索はなんともくたびれた。ああ、なんで私が夏休みの宿題をやらなければならないんだ、とぶつくさ言いながら、ひたすら自転車をこぎ、歩いた。

 旧東海道がそのまま国道1号線になっているところでは、排気ガスを嫌というほど浴びながら進むしかない。しかも、途中いくつも心臓発作を起こしそうな長い坂がある。行く先々で地図に記された一里塚跡や、本陣跡を捜してまわるのだが、たいていは味気ない一枚の案内板に変わってしまっているから、よほどきょろきょろしないと見つからない。

 それでも、昔の面影をとどめている古い民家や松並木に出会うと、不思議な気分になる。江戸幕府が東海道を整備するに当たって街道沿いに並木を植え、それが夏には木陰をつくり、冬には風除けになったというのだから、すばらしい。箱根では、あの時代にどうやって運んだのか、山のなかを石畳の道がつづく。まあ、参勤交代を強いたのが自分たちなのだから、旅人のために多少の便宜をはかって当然か。

 資料を調べたり、現地で碑を読みながら、娘はいろいろと質問してくる。お軽勘平ってなあに? 曽我兄弟ってだあれ? うーん、聞いたことはあるけど……。辞書で調べなさいよ、それが勉強なんだから、とごまかして、私はあとから娘に教わる。

 夏休みも残りわずかとなった今日は、川崎の六郷の渡し跡を見てから、生麦事件碑まで行き(もちろん、京急で移動)、そばにある私設の参考館にも立ち寄った。生麦事件という名称だけはテスト勉強で覚えたけれど、それがどんな事件だったかはよく知らなかったので、館長自ら出演のビデオによる説明を30分間、拝聴。すると、生麦事件の犠牲者は本覚寺のアメリカ領事館に運ばれ(あっ、このあいだ行ったお寺だわ!)、ヘボンが手当をした(えっ、明治学院に銅像がある、あのヘボン式ローマ字の人?)という具合に、次々にいろいろなことがわかり、とても利口になった気がした。やっぱり、歴史はこういうふうに、実際に現場に赴いて学ばなければだめだわ、といままでの積め込み式教育を批判しながら帰路に着いた。

 それにしても、今日も暑かった。あんまりくたびれたので、このコウモリ通信の原稿を書きながら、つい昼寝をしてしまったので、またまた締め切りぎりぎりになってしまいました!





コウモリ通信 2000.10

その11

 読書の秋だからというわけでもないが、最近、おもしろい本を2冊読んだ。どちらもよく売れている本なので、読まれた方も多いと思うが、『育児室からの亡霊』と『話を聞かない男、地図が読めない女』である。共通点は、どちらも脳の話だということ。ふだん疑問に思っていることの多くが、脳の研究によってここまで解明できるのだから、じつにすばらしい。

 脳は母親の胎内でかたちづくられ、生後、数年間にさらに成長する。つまり、脳の問題は、子育てと深くかかわりあっているのだ。それなのに、世の中の母親の大半は、そんなことはあまり考えもせずに妊娠、出産、育児をしている。もちろん、子供の教育となれば、熱心な親はいくらでもいる。3、4歳から英語教室やピアノ教室に通わせ、小学生にもなれば、夜遅くまで塾通いをさせ、とにかく知識を詰めこませる、といった具合だ。

 ところが、『育児室から……』を読むと、そんな努力をしたところで、いかに手遅れかがよくわかる。人間の脳は、妊娠18週目にはすべての基本的な脳細胞が発達している。それらを結合させる樹状突起とシナプスは、おもに生後2年までに大量に生産される。そして、早い段階で知的な刺激を受けないと、細胞は生き残らないのだという。つまり、母親にできる最大の教育は、生まれて間もないわが子に、できるかぎり話しかけ、赤ん坊の要求に応えてやることだったのである! 産後一年間の育児休暇は、やはり最低限、必要なことだとあらためて実感した。

 また、胎児期にアルコール、タバコ、薬物にさらされると、赤ん坊の脳は確実に影響を受けるという。それだけではない。母親が受けたストレスも、胎児に大きな影響を与える。『話を聞かない……』によれば、同性愛者になるのは、胎内で性別が定まるころに、母親のストレスなどが原因で、ホルモンが正常に分泌されなかったことが原因らしい。胎児のころにストレスや化学物質にさらされた子は、通常よりも低体重だったり、神経過敏だったり、知能指数が低くなったりする。

 幸い、脳は誕生後も成長するので、胎児のときに受けた傷も、3歳くらいまではかなり回復可能らしい。ところが、こういう育てにくい子を、精神的に不安定な母親が育てれば、傷は広がるばかりだ。最初からわが子をいじめようとか、殺そうと思って産む人はほとんどいないだろう。どんな親でも、自分の子が立派に成長すれば嬉しいはずだ。ところが、妊娠中になんらかの問題があり、育てにくい子が生まれることで、つまずきが生じる。それが幼児虐待につながる。虐待された子は、人間としての正常な感情が育たないので、他人に共感できなくなる。他人の痛みがわからないから、犯罪に走る、ということらしい。

 こういう本は、妊娠中や子育て真っ最中のときに読んだら身体に悪いかもしれない。いまの世の中でストレスのない人などまずいないし、誰だって失敗のひとつやふたつはある。取り返しのつかないことで、母親が自分を責めれば、かえってストレスがたまるだけだ。だから、こういう本はむしろ、将来、人の親になる世代、つまり高校生や大学生に勧めたい。学校の性教育や家庭科の時間にも、エイズの話ばかりでなく、もっと誰の身にも起こりうることに目を向けさせたらどうだろうか。そうすれば、若者が酒・タバコ・薬物に溺れるのを少しは防げるだろうし、親との関係を見直し、自分が将来、家庭を築くときの方向だって見えてくるかもしれない。





コウモリ通信 2000.11

その12

A:「そのふとった紳士は椅子から半分立ちあがって、ちょっとおじぎをしましたが、ふちがしぼうでふくれた、小さな目で、その時ちらりとさぐるように私を見ました」

B:「ウィルスンと呼ばれた、そのふとった紳士は、いすから半分腰をうかせて、ひょいと頭をさげた。ぷっくりもりあがったまぶたの奥では、小さな目がなにか問いたげなようすでこちらを見ている」

 このふたつの文章は、どちらもシャーロック・ホームズの『赤毛連盟』の一節である。最近、娘が推理小説に夢中なため、私は図書館に行くたびにアガサ・クリスティやルパンやホームズの棚を漁っている。私はあまりこの手の本は読まないので、いままで知らなかったが、ルパンにもホームズにもいろいろな版があり、細かい注釈付きのものから、小学生向けに書き直されたダイジェスト版まで、じつにさまざまである。

 読みくらべてみたら、これが同じ本かと思うくらい、訳文が違うことがわかった。訳された年代もさまざまなので、あとに訳されたものほど改善されているのは当然かもしれないが、どうせ読むなら読みやすいほうがいい。

 上のふたつのような短い文章でも、みごとなまでに表現が違う。くらべてみると、わかりやすい文章の特徴が見えてくる。たとえば「ウィルスンと呼ばれた」という修飾語句は、おそらく原文にはないだろう。英語ではthe fat gentlemanとするだけで、それがウィルスンであることがはっきりわかるからだ。ところが、日本語の「その」は、すぐ前にそれに該当する言葉がないと、「えっ、どの?」となってしまう。私もよく、もっと読者にわかるように言葉を補いなさい、と言われるのだが、こういうことか、と改めて思った。

 長い一文にせずに、ふたつの文に分けたところも、Bが読みやすくなっている理由のひとつだ。それから、「ふちがしぼうでふくれた、小さな目」というのも、日本語にするとちょっと滑稽かもしれない。

 私があれこれ書くよりも、読みくらべていただいたほうがおもしろいと思うので、もう一カ所、引用させていただく。

A:「この客はふとっちょで、おうへいで、のろまな、ありふれたイギリスの商人ふうの男でした。すこしだぶだぶの、灰色の格子じまのズボンをはき、あまり手入れをしていない黒のフロック・コートを着て、前ボタンをはずしたままにしてあり、うす茶色のチョッキには重いしんちゅうのアルバート鎖をむすびつけ、そこへ四角な穴のあいた金属のメダルを、かざりにぶらさげています。すりきれたシルク・ハットと、しわくちゃなビロードえりのついた色のさめた茶色の外套は、そばの椅子の上においてあります」

B:「目の前にいるのは、でっぷりとふとって、もったいぶった、のろまな感じのする、どこにでもいるような、ただのイギリス商人だ。ちょっとだぶついた、灰色の格子縞のズボンに、あまり清潔とはいえない、黒のフロック・コートという姿。その上着の前ボタンははずしてある。 くすんだ茶色のチョッキから、アルバート型の太いしんちゅうの時計鎖をたらしていて、そのさきには、飾りとして、四角い穴のあいた小さな金属がぶらさがっている。そばのいすには、すりきれたシルクハットと、しわのよったビロードのえりがついた、ふるぼけた茶色の外套とがかけてあった」

 今度、少し暇になって、心の余裕ができたら(いつのことやら!)、原書といろいろな訳本を手に入れて、読みくらべてみようかな。

 因みに、Aは林克己訳 岩波少年文庫、Bは常盤新平訳 偕成社です。





コウモリ通信 2000.12

その13

 今回はクリスマスの話題をひとつ。毎年この時期になると、サンタクロースを信じている子供の夢を壊したくない、という趣旨の投書が新聞に載る。そういう投書を見るたびに、いまの子供は、どのくらい信じているのだろうか、と疑問に思う。

 子供たちの話を聞いていると、「うちはお金をもらうんだ」とか、「25日の朝はプレゼントがなくて、明日来るんだって」とか、「プレゼントがお砂場用のバケツとシャベルなんだよ、いやんなっちゃう」など、思わず苦笑してしまうことがある。私の姉は小さいころプレゼントの包装紙を見て、「サンタクロースはそごうでお買物するんだね」と、まじめな顔で言ったそうだ。サンタになるのは、意外と難しいのである。

 でも、一年に一度くらいは、不思議なことが起こる日があってもいい、と私は思う。だから、子供が小さいうちは、サンタを演じ、わくわくどきどきさせてやりたい。問題は、サンタの正体をばらさなくてはならない年齢に子供が達したときだ。その年を境に、子供はおとぎばなしを信じなくなり、親のほうもプレゼントをあげるのをやめてしまう。あるいは、子供の欲しいものを一緒に買いに行くようになる。でも、それではクリスマスの朝、枕元にプレゼントを見つけて、開けるときのあの興奮はなくなる。こうして子供は大人になるのだろうか。

 私はアメリカにいたころ、ホームステイ先で迎えたクリスマスの朝が忘れられない。そこはいわゆるディンクスの家庭だったが、リビングには大きなクリスマスツリーを飾り、クリスマスの一週間くらい前からその下にたくさんのプレゼントが並べられていた。自分たちで用意したものもあるし、親兄弟や友達から送られてきたものもある。プレゼントはクリスマスまで触ってはいけないことになっていて、25日の朝に、みんなで一斉にびりびりと包みを破って楽しんだ。

 クリスマスの時期になると、自分が大切にしている人たちにプレゼントを用意し、それを贈り合う。それがクリスマスの本当の楽しみ方なんだ、と私はそのとき思った。それぞれみんながサンタクロースになるのだ。相手のことを思い、何をあげようかと頭をひねり、それをこっそり用意する。面倒くさいようだけど、やってみると案外おもしろいものだ。もらったほうも、あの人が私のために手間隙かけてこれを選んでくれたんだと思うと、すごくうれしい。

 考えてみると、「やかまし村」や「ローラ」の本に出てくるクリスマスも、こんなふうに祝っている。なにもサンタクロースにこだわることはないのだ。だいたい、サンタがこれほど脚光を浴びるようになったのは、デパートがクリスマス商戦を繰りひろげるようになってからだ、と何かの本で読んだ。 クリスマスがキリスト生誕のお祝い、というのも、どうやら後世の人が考えだしたことのようだから、あまり抹香臭い(?)ことを言わなくてもいいのかもしれない。まあ、日本にはクリスマスの「クリス」がキリストであることなど、考えたこともない人が多いようだが。

 これは内緒だが、私は今年のクリスマスに贈るものはもうほとんど決めてある。娘には小さなのこぎり付きのスイス・アーミーナイフ(危険?)と、トトロのハイキング用バッグ。娘はもうとうにサンタの正体を知っているが、私はこれを24日の夜にこっそりツリーの下に置いてやるつもりだ。本を読まない甥と姪には、ハリー・ポッターをそれぞれ一冊ずつ。小さな姪の分はまだ考えていないので、これから本人と親に探りを入れるつもりだ。みなさんの家はいかが?