【コウモリ通信】バックナンバー 2001年  東郷えりか(とうごう えりか) 2003年2002年2000年はこちら





コウモリ通信 2001.1

その14

 高校生のころに『2001年宇宙の旅』を読んで、2001年にもなれば「ちょっと月まで行ってきます」と言うような時代になっているのだろうと思っていた。その2001年がとうとうやってきた。でも、私は相変わらず自転車で買物に出かけているし、前の畑ではおじさんが白菜をつくっている。『赤ちゃんよ永遠に』とか『1984年』のようなSFに描かれた恐ろしい未来は、結局は来なかったのだ。人間は大地に足をつけ、自然に生きるのがいちばんと信じて疑わない私としては、バンザイと叫びたい。

 だが、人間は本当に変わっていないのだろうか。高校生の私がいまの時代にタイムトラベルしてきたら、ビデオゲームやインターネットに夢中になったり、歩きながら携帯電話でしゃべりつづけたりするいまの人たちを見て、やはり仰天するだろう。変化は実際には徐々に、確実に起こっている。高校生だった私が、自分でも気づかないうちにこんなオバサンに変身しているように。新しいテクノロジーはまたたくまに浸透する。そして、いつのまにかそれがなかった時代のほうが信じられなくなるのだ。

 そのうち各家庭にロボットが1台なんて日も、本当にやってくるかもしれない。じつはここ1カ月、ロボットの本の翻訳を少しやっている。おかげで、いままでまるで興味のなかったロボットにも、いくらか注意を払うようになった。 先日も、高島屋でAIBOの実演をやっていたので、のぞいてみた。「おすわり」とか「ダンス」とか声をかけると、のろのろとその動きをやり、最後には妙な具合に手を振って、バイバイもしてみせた。ちょっと見た感じでは、よくプログラムされ、センサーがたくさんついた玩具にすぎないような気もしたが。

 いろいろな状況に合わせて対応し、自分で解決方法を考えるロボット造りを目指して、いまあちこちで盛んに研究が行なわれているらしい。でも、考えてみれば、人間にだってそれができない人はたくさんいる。決められた仕事はこなせるけど、何かハプニングがあると、すぐにパニックを起こすような人だ。すぐれたロボットをつくることに力を入れるより、人間を人間らしく育てることに、世の中の人の関心がもっと向いてくれればいいのに、とすっかりオバサンになった私は思う。

 2001年がどんな年になるかはまだわからないが、私はこれからもマイペースで生きていこうと思っている。みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。





コウモリ通信 2001.2

その15

 先月の桃井さんのエッセイにもあったが、いったん記憶された情報を思い出すには、覚えたときの35倍の時間がかかることが実際に判明したらしい。おそらく実験には若くてはつらつとしたサルが使われたのだろうから、年とったサルだったら、そのあと何十倍もかかるのだろう。

 冬休みのあいだ、うちの娘は学校の百人一首大会に向けて、必死で歌を覚えていた。「あの部」の歌は16首とか、「三字ぎまり」の札は37枚とか、覚えるテクニックの書かれたプリントをもとに、娘はそれまでの30数首から、1カ月ほどで100首すべてを覚え、大会に臨んだ。当日は、91首よまれたうち、ひとりで43枚とった、とホクホク顔で帰ってきた。たしかに速い。「高砂の……」と言うなりバシッ。「外山のかすみでしょ」という調子だ。

 私だって高校生のころは100首覚えていたはずなのに、いまでは上の句に、違う歌の下の句をつけてしまったりで、まったく勝負にならない。年とともに、こういう暗記力は確実に衰える。思い出すために、古い皮質から新しい皮質に信号が逆戻りする途中で、道がなくなったり、こんがらがったり、障害物が現われたりしているのかもしれない。

 まだらボケになった老人と話をしていると、まさにそう思う。さっき会った人の名前ですら、思い出せないのだ。喉まで出かかっているのに、どうしてもその言葉が出てこない。この正月、祖父の妹にあたる人に会いに行った。その大叔母は、私が誰であるかはわからないし、自分がどこにいるかもよくわからない。それでも、昔の話をしだすと、とたんに饒舌になる。このあいだは、関東大震災の思い出を話してくれた。当時は緑四丁目(両国駅の近く)に住んでいて、家は崩れなかったけれど、火事が広がり、月島まで逃げたら、農家の牛が逃げてきていて怖かった、と当時の状況をじつに細かく説明する。いったん回路がつながると、次から次へと記憶が湧きでてくるらしい。

 私の祖母も晩年はすっかりボケていたが、91歳で亡くなる数カ月前に、こんな話をしてくれた。「このあいだ、父親に連れられてお見合いに行ってね。相手の人は、30歳は過ぎた書生風の人なのよ」。実際にあったことなのか、ただの夢なのか、定かではないが、しわくちゃのおばあさんがそう話すところが、なんともおかしかった。 こういう老人を見ていると、年をとって何もかも失ってしまったあと、最後に残されているのは、子供のころや若いころの思い出なんだろうか、ふと考えてしまう。短期間に積め込んだ知識はきれいさっぱり消えてしまうし、年とってから新しく覚えたことは、まったく蓄積されない。

 そうだとすれば、子供のころや青春時代に、実りあるたくさんの幸せな体験をした人ほど、晩年を豊かに過ごせるのかもしれない。受験勉強に明け暮れたり、ビデオやゲームで仮想体験ばかりして子供時代を過ごしてしまったりしたら、年をとってから自分に何も残っていないことに気づくのだろう。そうならないためにも、脳の奥深くに刻みこまれるようないい思い出を、たくさんつくっておきたいと思う。

 娘がせっかく覚えた百人一首も、大半は脳の迷路に入りこみ、やがては出てこなくなるのだろう。でも、心に響く歌であれば、この先、同じような体験をしたときに、するすると口をついて出てくるかもしれない。私のお気に入りの1首はこれだ。

 「瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」





コウモリ通信 2001.3

その16

 私がいま一番よく利用している図書館は、家から旧東海道沿いに自転車で20〜30分行ったところにある。途中、川上川や柏尾川、舞岡川といった小さな川と何度かぶつかり、しばらく川沿いに走ることになる。何気なく眺めていると、川にカモがいたり、シラサギがいたりする。

 ある日、アオサギまで見たので、帰ってから娘に話すと、興味をそそられたらしい。しばらくして、虫と鳥が大好きという親友を連れて、娘は近くの川にバードウォッチングに出かけた。幸い、2年前のクリスマスにサンタさん≠ゥら手のひらサイズでも倍率は6倍という双眼鏡と、野鳥のポケット図鑑をもらっていたので、それをもって意気揚揚と出かけていった。

 暗くなっても帰ってこないので心配していると、5時半すぎに息をはずませて戻ってきた。大収穫だったらしい。「今日はカルガモとオナガガモとコガモを見たよ!」。私はカモとアヒルの区別しかつかないし、そんなにいろいろな鳥が、しかもこんな住宅地にいると知ってびっくりだった。

 それからというもの、娘は暇さえあれば数人の友達や小学生のいとこと、あちこちの川に観察に出かけている。「今日、ゴイサギを見たよ!」。「ユリカモメとキセキレイがいた!」。「カワウが3羽、電線にとまっていた!」、とそのたびに嬉しそうに帰ってくる。観察日誌のようなものもつけていて、どこそこの川にいたコガモの群がこっちの川に移っているとか、最近、トモエガモを見ていないから、もう渡ってしまったんだろうかとか、いろんなことを言う。

 どうやら娘は、大好きなアーサー・ランサム全集の「オオバンクラブ」や「白クマ号」に出てくる鳥の観察活動を手本にしているらしい。以前、読んだときにはどうでもよく思われた、鳥のくちばしの色や羽根の模様の描写が、いまでは実感としてよくわかるらしく、また本を引っ張り出しては、夢中になって読んでいる。そして、本に出てくるディックそっくりの口調で、「○○みたいなんだけど、くちばしの色が違うんだよね……」なんて言っている。

 あんまり鳥に夢中でテスト勉強もろくにしないので、困ったなあと思いつつ、でも、鳥を通じていろいろと学ぶこともあるだろうと思って、大目に見ることにした。それに、子供たちがこんなに生き生きと楽しそうにやっているのだから、それが何よりだ。私も一緒に見に行きたいのだけど、とてもそれだけの時間はとれないので、図書館の往復や、ベランダから隣の家の梅の木に来るメジロを眺めて我慢している。

 それにしても、都会の片隅に残されたこのわずかな自然は、この先どのくらい残るのだろうか、とふと心配になる。うちのアパートの唯一(?)の取柄だった富士山の眺めも、いま建設中の超高層マンションができあがったら、見えなくなりそうだ。毎朝、雨戸を開けるたびに富士山が見えると、その日一日、いいことがあるような気がしていたのに、まったくひどい話だ。毎日の暮らしのなかの、こうしたちょっとした潤いは、人間が人間らしく生きるために欠かせないものだと思う。子供が自分の足で歩いてまわって楽しめる自然が、いつまでも残るように私は祈っている。





コウモリ通信 2001.4

その17

 ついこのあいだまで、おんぼろアパートの冷蔵庫のような部屋で、『シャイン』のあのピアニストのように指先のない手袋をはめて、寒さに震えながら仕事をしていたのに、いつのまにか世の中は春になっている。どこへ行っても桜やコブシや雪柳や花桃が満開。ほかの季節には、そこにあることさえ気づかないような木々が、一年のこの時期だけは思いっきり自己主張している。

 春はいつの年でも感動的だが、今年は花の鮮やかな色がいっそう心に染みる。じつは家庭の事情でこの春、タイに引越すことになったからだ。自分でもさんざん悩んだあげくの選択なので、後悔はしないつもりだが、それでも出発の日が近づいてくると、しかもこんな美しい季節に日本をあとにしなくてはならないと思うと、なんだか泣けてくる。タイに行ったら、四季の移り変わりは味わえなくなる。なにしろ、タイには季節がふたつしかない。ひとつは暑い季節。もうひとつは、うんと暑い季節!

 これから数年間、向こうに滞在する予定だが、そのあいだもいまの仕事は頑張ってつづけたいと思っている。もちろん経済的にそうせざるをえないからだが、精神的にも仕事はとても重要だ。仕事をすることで日常生活から頭を切り替えられるし、暇だとくよくよと考えてしまうので。

 一年前に横浜に引越してきたばかりで、ここの生活にようやく慣れてきたところでの移動なので、娘にはかわいそうなことをした。まあ、冬のあいだ娘が友達と観察しつづけたカモたちも、大半が渡ってしまったようなので、自分もそろそろ旅立つときが来たと思っていてくれるカモ。ただし、私たち親子の場合、春が来て南に渡るヘンテコな渡り鳥だけど。

 次回の通信はバンコクからになる予定。夏の山登りと冬のスキーだけは私も娘もあきらめきれないので、日本には毎年何度か戻ってくるつもりだ。それでは、みなさま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。





コウモリ通信 2001.5

その18

 バンコクに引越して三週間余りがたった。荷物も、いろいろな問題もまだ片づかないままだが、日常の生活はなんとかこなせるようになった。

 当分は車なしの生活なので、近くの店や郵便局までは炎天下をてくてくと歩いている。バスは最初のうち何度か失敗したが、いちばん近いショッピング・センター、The Mall(タイ語では、ダ・モウと言うらしい)までは、どうにか行かれるようになった。その路線の料金は冷房車だと10バーツで、暖房車!?だと3.5バーツ。どうしても困ったときはタクシーに乗っている。家からダウンタウンまで5〜6キロの距離で80バーツほどなので、日本の感覚からするとすごく安い。それでも、貧乏性の私は、できるかぎり歩きとバスですませようとしている。

 それにしても、タイ人は歩かない。娘が学校に歩いていかれるようにと、すぐ近くにアパートを借りたのに、アパートの管理人はたかだか150メートルほどの距離を車で送ると言い張る。たしかに車は狭い道路を猛スピードで飛ばしているし、歩道もないし、日差しはきついけれど、こんな距離を移動するのに誰かの手を煩わせ、ガソリンを無駄にするのは、どうも私の性に合わない。

 もっとも、これだけの距離でも、必ず送り迎えをするようにと学校から厳しく言われたため、幼稚園の子のように、私が徒歩で送り迎えをするはめになっている。交通事情だけでなく、治安も悪いので、日本人学校にかぎらず、インター校やタイの名門校でも同じような事情らしい。いつも大人の監視下に置かれたら、子供たちは本当に窮屈だろう。

 デパートやスーパーに行くと、ここがタイだということを忘れるくらい、なんでも揃っている。文房具などは、日本の店とそっくりな品物がたくさんあり、キティやポケモンはもちろんのこと、こげパンまで売っている。高級ブティックもたくさんあるし、街にいる若者は、暑いのにご苦労さまと思うほど、ビシッとスーツで決めている。

 その一方、路上では、うだるような暑さのなかで赤ん坊を抱いた母親や、小さな子供や、身障者が物乞いをしている。運河沿いには、小さな家がひしめき合っている。わずか十数年のあいだに、急成長をとげさせられた国の矛盾が、あちこちに見られるような気がする。

 タイ人はあまり本を読まないというので、どのくらい本屋があるかが心配だったが、中心街には紀伊国屋書店もあり、洋書も和書もある程度は手に入る。とくにアジア関係の本はかなり揃っていて、以前に私も下訳をやらせてもらった魏京生の本を見つけたときには、なんだかとってもうれしくなった。娘にはタイの鳥の図鑑とともに、近藤紘一の本を何冊か買ってやった。日本食を売っているフジスーパーのそばに、和書の古本屋があり、そこのご主人に聞いてみたら、近藤紘一の本はいまもとても人気があるらしい。

 この国に滞在しているあいだに、タイならではのよさをたくさん見出して、吸収していきたいと思っている。とは言っても、何から始めたらいいのかわからないので、とりあえず、せっせと珍しい果物を食べている。路上で果物を売っている人の包丁さばきも見事なので、あれもいずれ習得してやろう!





コウモリ通信 2001.6

その19

 5月に入ってから、ここバンコクでは、午後に突然ものすごい突風が吹いて、どしゃぶりになることが多くなった。これからの雨期に因んで、今回は水に関する話題を。

 大雨になると、アパートの前の道路は、たちまち川になる。ちょうどいま翻訳している気象関係の本に、洪水の話がたびたび出てくる。小規模とはいえ、実際に目の前で氾濫する様子を眺めると、自然や水の恐ろしさをあらためて感じる。もっとも、タイ人は慣れたもので、そのなかを車や、オートバイや、屋台付き自転車などで、チャプチャプと行ってしまう。

 バンコクは水の都と言われ、市内のあちこちに運河がある。昔は運河が主要な交通手段だったらしいが、最近ではその大半が埋め立てられて道路に変わってしまっている。残っている運河の多くは、その両岸に貧しそうな家というか小屋がびっしりと建ち並び、水は恐ろしく汚く、東洋のベニスどころではない。

 それでも、セーンセーブ運河にだけは運河船が走っているのを知り、週に二回、これに乗って夕方、タイ語の学校に通うようになった。水の上は涼しく、それになんといっても交通渋滞にあわないのがいい。10分おきくらいの間隔で走っていて、通勤に使っている人も結構いる。ミニスカートにハイヒールのOLたちが、桟橋から船に乗り込んでくるたびに、ひやりとするのだが、乗るときも降りるときも、かなりの段差をものともせず、みごとな身のこなしだ。

 ただし、船がスピードを上げると水がバシャッとくるのが玉に瑕。なにしろ、ここの水もお世辞にもきれいとは言えないのだ。あちこちの家からホースが出ていることは、なるべく考えないようにしている。この水がもう少しきれいになれば、もっと運河船の利用客が増えて、市内の渋滞の緩和に役立つのに、とつい考えてしまう。

 ところが、先日、この路線の終点から、さらに先のマハナコーン運河の路線にも乗ってみると、なんと、その茶色い水のなかに浸かっている人がいるではないか! 水から落ちた人を救助するための訓練かな、と思っていたら、反対岸の階段に、全身ずぶぬれでにこにこ笑っている子供たちがいるのだ! ムッ? もしや水浴び? こちらの運河はもっと幅が狭く、家の軒先を行くような感じなので、暮らしに密着したものになっているのかもしれない。それにしても、セーンセーブとつながっているんだけどな……。

 あんな味噌汁のような水のなかに落ちたら、目を開けていてもおそらく視界はゼロだろう。万一、ドボンとなった場合に備えて、私は毎日、アパートにあるきれいな水のプールで訓練をしている(?)。バンコクに来て最高の贅沢はこのプール。30分あれば、プールまで下りていって、1キロ泳いで、部屋に戻ってこられる。でも、ここでは日本人みたいにせっせと泳ぐ人はあまりいなくて、お風呂のように浸かったり遊んだりしている人とか、プールサイドで読書しているファラン(白人のこと)とか、プールサイドでジョギングしたり、散歩したりしている人が多い。決して広いプールではないので、なんだか囚人が運動させられているみたいだ。まあ、市内の道路は、中心街を除いて歩道なし、横断歩道なし、歩行者用信号なし、と歩行者を徹底的に無視した造りになっているし、排気ガスもひどいので、仕方ないのかもしれない。それでも、トレッドミルの上で汗を流すより、同じところをぐるぐるまわるより、外を歩いて、牛やヘビやリスや鳥や野良犬を眺めて、ついでにちょっと買物でもしてくれば、そのほうがいいのにな、と私は思う。





コウモリ通信 2001.7

その20

 この月末がいまの仕事の締め切りで、もう日がないというのに、まだ先が見えてこない。こんなとき、タイ人なら、「マイペンライ――気にしない、気にしない」とすませてしまうのかもしれないが、私たちの場合はそういうわけにもいかない。となれば、あとできることといえば、コーヒーを飲んで眠気と闘い、できるかぎり家事を手抜きするしかない。

 というわけで、ここ1、2週間、わが家の床はざらざらだ。歩くと足の裏が真っ黒になる。ふだんは週に2度、家中の床を雑巾がけしているが、それでも足は汚くなる。ちなみに、恵まれた駐在員の家庭と違って、うちにはメイドは「私」しかいない。週に2度、月3000バーツでお掃除をしてくれるという申し出も、苦しい家計と、運動不足への心配から断っている。だが、床だけではない。網戸だってものすごい。うへーっ、となるくらい、雑巾が真っ黒になる。開きっぱなしの辞典や資料のページもざらざら。

 これは決して砂埃ではない。明らかに排気ガスの粉塵だ。私が住んでいるところは幹線道路から数百メートルの場所で、アパートの前のソーイは、細いわりには交通量が多い、といった程度だ。それでこの汚さだ。ふだんどれだけの粉塵を浴びて過ごしているのだろうか。太郎の屋根にも粉塵ふりつむ、次郎の屋根にも粉塵ふりつむ……。そう、テーブルの上だって、ベッドの上だって、プールにだって、ご飯の上だって、降り積っているのだ。

 排気ガスを撒き散らすいちばんの犯人はバスだ。バンコクにはまったくひどいオンボロバスがたくさん走っている。公共の乗物なのだから、政府の判断ひとつで、あの真っ黒い煙を吐く物体を、もう少しましなバスに変えられないのだろうか。

 だが、人間はどんな環境にも慣れてしまうのか、バンコクの人はそれほど気にしてはいないようだ。なにしろ、大きな通りの両側にはびっしり食べ物の屋台が並び、排気ガスをいっぱい浴びた焼き鳥やら焼きバナナを、みんな喜んで食べているからだ。それだけはない。バンコクには歩道というべきようなところに簡易食堂がたくさんあり、多くの人が朝からそういうところで食事をしている。学校に子供を送ったあとのお父さんから、きれいなOLや、デートの最中の若者までが、道端で食事をしているのだ。衛生面は目をつぶるとしても、排気ガスをたくさん浴びながら食事をするのだけは、私には我慢がならない。

 こういう排気ガスは、人間の身体に直接の悪影響を及ぼすだけでなく、地球の温暖化も加速させている。やっぱりけしからん、といま気象関係の本を訳している私は思う。

 直射日光を浴びることの多いタイでは、紫外線も心配だ。オゾンホールのせいで、その量 が増加しているとなれば、外出するときはなんと言われようと帽子は欠かせない! 見栄っ張りのタイ人は、戸外で作業をする人を除いて、誰も帽子をかぶろうとはしないが。ふだんはそうやって気を遣っているのに、先日、曇っているから大丈夫だろうと思って、プールが日陰になる2時前に泳いでしまった。ところが、泳いでいるうちに、日がさんさんと照りだした。とにかく早くノルマをこなして(水泳までノルマがあるのは悲しい……?)上がろう、と息継ぎの際もなるべく太陽に顔を見せずに頑張った。それなのに、バスルームの鏡に映ったわが姿を見て唖然。ゴーグルの跡がばっちりついて、ウルトラマンになっているのだ。こうなったら、帽子をやめて目のまわりも焼くべきなのか、はたまた泳ぐときも日焼け止めを塗りたくるべきなのか、いま悩んでいる。

 こんなことを書いているあいだにも、締め切りはこくこくと近づいている。鈴木先生、マイペンライ・カ! やっぱりだめか……。



☆付録・写真左「嵐のまえ」 右「嵐のあと」

  


先月のコウモリ通信で書いた洪水の様子です。1カ月遅れですみません!




コウモリ通信 2001.8

その21

 いま、とてもおもしろい本を読んでいる。世の中で成功した女性たち千名以上を分析したレポート、というものだ。そのなかで子供時代の体験で有意義だったと彼女たちが考えるものが挙げられている。最も多かった回答はコンクールやコンテストでの成功で、二番目は旅行だ。

 たとえば、最近の教育者は子供たちになるべく競争をさせまいと努力するが、競争で勝てば自信がつくし、負けてもそれも潔く受け入れることで品性を養えるから、競争によって得られるものは実際には大きい、と著者は分析する。二番目の旅行については、家族旅行にキャンプ、親戚 の家への訪問、海外旅行、と形態は人によってさまざまだ。なかには、家族で各地の国立公園を訪ねてまわり、そこでのキャンプやハイキングから自然科学への関心が高まり、大人になって科学者として成功したという例もある。家族での旅行は、親にとってはたいへんな労力と出費になるが、それを通 じて子供たちの世界を広げ、環境から学ばせることができるのだから、苦労するだけのことはあるという。

 たしかに旅行を通じて子供が得るものは大きい。私自身も子供時代を振り返ると、母の運転する車で旧碓氷峠を登って長野の祖父母の家に行ったことや、毎年正月に行っていた館山の旅館のことや、三家族で行ったヤマハの合歓の郷や、あちこちへのスキー旅行の思い出が鮮明に残っている。極めつけは、中学のときにイギリスにいる友達を訪ねて行った初めての海外旅行だ。横浜から船に乗ってナホトカまで行き、そこからシベリア鉄道と飛行機を乗り継いでモスクワに行き、さらに鉄道で東欧を抜けてオーストリアやスイスに寄り、最後はドーバー海峡を渡ってイギリスに行った。イギリスではレンタカーで憧れの湖水地方に行き、アーサー・ランサムの小説の舞台を訪ねた。

 これらの旅行が私のその後の人生に及ぼした影響はかぎりない。大学三年のときには、二カ月間ヨーロッパ各地を超貧乏旅行してまわったし、卒業後は旅行会社に勤めるはめにまでなった。私の場合、残念ながら、それが世の中で成功することにはつながらなかったが、いまも旅行好きは変わらず、日常生活にうんざりすると、無性にどこかに行きたくなる。旅行に出ると、ふだんの自分なら絶対にやらないようなことでも平気でできるところが、魅力でもあり危険な点でもある。まさに旅の恥は掻き捨て、である。それによって、旅先の人に迷惑をかけるようなことは慎みたいが、狭い視野を広げるという意味では、思い切って違うことをしてみることが大切だと思う。

 だから私は、大型バスに乗って観光名所巡りをするような旅行は好きにはなれない。隣のマンションにも薬の免税店のようなものがあり、中国本土や台湾の観光客が、連日バスで大勢乗りつけている。お客は欲しかった薬や化粧品が手に入り、旅行会社は手数料でもうかるのだから、いいじゃないか、と言えばそれまでだが、あれでは羊の群だなと思う。

 一方、ものすごく勇気のある個人旅行者も見かける。先日も、大きなリュックを背負ったアメリカ人らしき女性が、バイク・タクシーの後ろにまたがっているのを目撃した! 市場でも怪しげな服を買ったり、正体不明の食べ物に挑戦している旅行者がときどきいる。おなかを壊さないかな、とちょっと心配にはなるが……。

 娘が描いたこのイラストは、チャトゥチャックのウィークエンド・マーケット。ここでは衣類や雑貨から、ニワトリまでなんでも売っているが、アメ横を巨大にしたような感じで、同じ店をもう一度見つけるのはほとんど不可能だ。娘はここで食べたおいしいタイ風餡蜜の味が忘れられないらしい。



イラスト・東郷なりさ作(クリックで拡大)




コウモリ通信 2001.9

その22

 夏休みのあいだ3週間ほど一時帰国した。日本にいていいことは、友達と会えること、空気がきれいで夜が涼しいこと、梨や漬物が食べられること、それに言葉に不自由しないこと。気軽に図書館に行かれるのもいい。

 今度、ミイラの本をやることになったので、さっそくミイラに関連した本を何冊か近所の図書館で借りた。私は何を隠そう、極度の死体恐怖症なので、ラムセス2世のお顔などとても正視できないが、ミイラの話でも読んでみると結構おもしろいことがある。どんなジャンルの本でも、頭から毛嫌いせず、とにかく読んで見ることが大切だと改めて思った。

 参考文献を読んでいたら、ロンドン医師会の重鎮、トマス・ペティグルーなる人が出てきた。ペティグルーって、そう言えばハリー・ポッターにもそんな人物が出てきたな……と思いながら読んでいると、彼の著書『エジプトのミイラの歴史』の挿絵を描いたのは、ジョージ・クルクシャンクだという。えっ、ハーマイオニーの猫はたしかクルックシャンクスだよね。もしかして作者のローリングはこういう本も読んでいるのかなあ。

 ハリー・ポッターについては、先月、塩原さんが書いていらしたので、読んでいない方もだいたいおわかりだと思う。私はと言えば、結構はまっていて、時間がないと言いつつ、ずっしりとした4巻目もしっかり読んでしまった。4巻はすっごくおもしろい。できるだけ多くの子供たちがこの分厚さにめげずに、読みとおしてくれるといいなあと思う。

 このシリーズのいいところは、いまふうの軽い語り口でありながら、社会のなかで日々遭遇するいろいろな問題が、さりげなくとりあげられていることだ。たとえばこんなシーンがある。森番役の大男ハグリットが、フランスの魔法学校ボーバトンの校長である大女マダム・マクシムに惚れ、これまであなたのような仲間に会ったことがない、と身の上話を始める。マダム・マクシムはなんの仲間かときき返す。すると、ハグリットが、もちろん半巨人ですよ、と答える。マダム・マクシムはこんな侮辱を受けたことはないと憤慨し、「'Alf-giant? Moi? I 'ave - I 'ave big bones!」とフランス語訛りでやり返す。

 現実の世界でも、マイノリティはこういう場面によく遭遇する。うちの娘も、父親がタイ人であることを話してクラス中に衝撃が広がった、という経験をしている。ところが、それが巨人の血となると、ハグリットの悩みもなんだかとってもほのぼのとしている。極めつけは、ハリーがあとから言う言葉だ。「骨太だって……あの人より骨が太いのは、恐竜くらいだよ」

『日刊予言者新聞』のゴシップ記者が出てきてハリーたちを悩ませるあたりは、いまの有名人とマスコミの確執を思わせるし、クィディッチのワールドカップの熱狂ぶりは、いまのサッカーやバスケットボールと同じだ。私が感心したことのひとつは、吸魂鬼ディメンターをやっつける呪文だ。これは、いちばん幸せだったときを思い出すことで、守護霊パトローナスを出現させるというものだ。人間は恐怖を感じると、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質が分泌され、それが大量になるとパニックを引き起こす、と以前読んだ本に書いてあった。それを防ぐには、楽観的な見方を失わず、理性をはたらかせることらしい。パトローナスの呪文はまさにこれにちがいない。そう言えば、これに似たリディクラスの呪文を練習する場面では、ミイラのボガートが出現している。

 こう考えると、ハリー・ポッターのシリーズは、ただ読んでいて楽しいだけでなく、学ぶこともたくさんある。それがこのシリーズを世界的なヒット作品にしている理由だろう。作者のローリングはやっぱり只者じゃない、と私は思う。





コウモリ通信 2001.10

その23

 バンコクに来て半年にして、とうとう罹ってしまった。肝炎、いや、マラリア、いや、デング熱、いや、狂犬病でもなく、なんとNimdaウイルスに!

 さんざん東京に電話をかけ、読み慣れないマニュアルを必死で読み、なんとか抗生物質だか虫下しだかを飲んで、かなりの感染ファイルは除去したものの、結局いくつかは処理できずじまい。最後はあっさりと、リカバリCD−ROMを使うしかありませんね、と言われ、それならそうと最初から言ってよという気になってしまった。ところが、私ときたらアプリケーションのCD−ROM等を日本に置いてきてしまったらしく、復旧にはまだしばらく時間がかかりそうだ。

 というわけで、いまはパソコンは使えず、この原稿も手書き+ファックスで送るつもりだ。それにしても、これからウイルス対策に日々、頭を悩まし、時間をとられるのかと思うとぞっとする。願わくば、薬やワクチンのお世話にはならずに、健康で明るい生活を送りたい。

 これが本当に例のテロの一環だとしたら、犯人たちは現代社会の盲点を熟知していると妙に感心してしまった。





コウモリ通信 2001.11

その24

 タイでは、そろそろ雨期も終わりになってきたらしい。いちばん雨が降ると言われる10月には、何度か道路が水浸しになったことはあったけど、バンコクでは思ったほどの被害はなかった。

 一年中暑いタイでも、最近はいくらか秋らしい気配がする。空が高くなって鱗雲が出る日もある。それにアカガシラサギ、オオヨシキリ、ハイイロオウチュウ、コウライウグイスなど、タイの冬鳥が姿を見せはじめた。ダイサギと思われる一群や、スキハシコウが連なって飛ぶ姿もときどき見られる。

 週末になると、早朝や夕方に鳥好きの娘に付き合わされてよくアパートのまわりの沼地を歩きまわっている。もっとも、私は双眼鏡が苦手で、目当ての鳥がうまく捜せないうえに、見ているとコンピューターの画面 をスクロールしたときのように気持が悪くなる。だからもっぱら肉眼で、変わった鳥捜しをする役目に徹している。

 最近は、すぐ近くの沼にいるシロハラクイナをなんとか写真に撮ってやろうと思っているのだが、すごく臆病な鳥で、すぐに逃げられてしまう。物陰に身を潜めて待っていると、怪訝そうな顔をした野良犬がすりよってくる。「あっち行って、しーっ!」と言っても、ぽかんとした顔でこちらを見るのもいる。犬もタイ語じゃないと通 じないのかなあ。

 気分だけでも秋の感じを出そうと、このところ二度ほどアイススケートにも行った。バンコクにもちゃんとアイススケート場があるのだ! カナダ人とおぼしき親子連れが、場内に入ったとたん、「オー、ナイス・クール・エア」とか言っているのを聞いて、思わずうなずいてしまった。排気ガス臭い生暖かい空気ばかり吸っていると、ときどき雪国の鼻につんとくる空気を無性に嗅ぎたくなる。

 行く前は、タイ人でもアイススケートができるんだろうかと思っていたが、リンク内はバンコクの道路さながら暴走族でいっぱいだった。とにかくほかの人のことはお構いなしに勝手に車線変更をし、人のあいだを縫って猛スピードで滑る。 私は子供のころ、よく友達と船橋ヘルスセンター(!)のスケート場に通っていたので、いまでもバックのクロスくらいまではできる。でも、スキーもそうだが、やはりもう無理はできない。どこか気持がスピードに負けているのだ。例のカナダ人は、元アイスホッケー選手だったのか、氷の上をそれはみごとに自由自在に滑っていた。おそらく、ときどきこのリンクに来て、自分の腕前がまだ鈍っていないことを、まだ若さが残っていることを確認しているのだろう。

 ところで、雨期が終わったころにあるお祭りとして有名な、ローイクラトンという灯篭流しが、今年は10月31日の満月の夜にある。せっかくだから見に行きたいのだが、その翌日、娘の学校で実力テストがあるので、夜遊びはやっぱりやめておくべきか、いま悩んでいる。

 ここまで書いたところで、タイ語の学校に行ったら、帰りにどしゃぶりに遭い、全身ずぶぬ れになってしまった。ああ、まだ終わっていなかったの……雨期……?





コウモリ通信 2001.12

その25

 なんだか11月はあっというまに過ぎてしまったような気がする。忘年会のお知らせをいただいて、えっ、もう年末?と驚いている始末。このところ忙しかったせいで、とくに遊びにも出かけていない。それで、大して書くべきこともないのだが、ちょっとだけうれしいことがふたつあった。

 ひとつは、例のしし座流星群だ。11月18日、みなさんは夜空を見あげただろうか。バンコクではふだんからあまり星が見えないので、あまり期待はしていなかったが、とにかく夜中に起きて、下のプールサイドに行ってみた。ここは東向きで、まわりは湿原で視界が開けているので、流星観測にはなかなか向いている。夜風もさわやかだ。同じことを考える人が少なくとも何人かはいるだろうと思ったのに、アパートのほかの住人は流星には興味がないらしい。

 待つこと数分。すーっと大きく弧を描いて星が流れた。うわっ、流れた! 興奮のあまり、つい願いごとをするのを忘れる。そのうちに、あっちにも、こっちにも見えはじめた。いつのまにか10個までかぞえていた。3個がほぼ同時に見えたこともあった。結局、しーんと静まりかえったプールサイドで30分ほどねばり、合計25個も見て、たっぷり願いごともして、満足して部屋に戻った。

 翌日、この結果を日本にいる母に得意になって報告した。すると、すぐにメールが返ってきて、1時間で100個以上見たよ、と言われてしまった。日本の11月はさぞかし寒いだろうに、それだけ頑張って夜空を眺めていた母の姿を想像して、思わず笑ってしまった。野辺山では1時間に5000個とか。それこそ雨のように降ったのだろうか。タイ語で雨が降るはフォン・トック。流星はダオ・トック。たくさんだとフォン・ダオ・トックと言うらしい。

 ふたつ目は、青い鳥を見たことだ。日曜日の朝、まだうす暗いうちに家を出て、いつものとおり近所の沼地にバード・ウォッチングに出かけた。めぼしい鳥がいないので、ぼんやりと電線を見ていたら、そこに止まっている鳥の色が普通 ではないような気がした。ねえ、あの鳥、青くない? 青いよ! 図鑑で調べてみると、ロクショウヒタキというらしい。体長17センチほどのまさに緑青色の小さな鳥で、冬になるとタイに来るようだ。

 そのあと、いつものクイナのいる沼に行き、餌を捜しているクイナの姿をたっぷり楽しんだあと(遠すぎて写 真は撮れなかった)、そばの家のアンテナの上に、なんだか見たことのない鳥が止まっていることに気づいた。それもなんと青かった。「今度のはもっとウルトラマリンみたいな色だよ!」と、娘が興奮して叫ぶ。パッと飛びたったときに、オレンジ色の胸が見えた。「わかった! カワセミの一種だ!」。あとから図鑑で見てみると、確かにヤマショウビンだった。青い鳥を2羽も見られたので、その日一日、娘はとびきりの上機嫌だった。

 メーテルリンクの言うとおりだ。幸せの青い鳥は本当に身近なところにいるのかもしれない。