【コウモリ通信】バックナンバー 2005年  東郷えりか(とうごう えりか)   

2004年2003年2002年2001年2000年はこちら






コウモリ通信

東郷えりか(2005.1.3更新)

その62

 年末にやむをえない事情があって、急遽タイへ行ってきた。折しも、インド洋大津波が発生した時期と重なった。私はそのころバンコクでの用事をすませ、タイ北部で鳥見ツアーに参加していたので、まわりにいたごく敏感な人たちが地震の揺れをわずかに感じた程度だった。新聞の一面に「チュナーミー」の大見出しがでて、あちこちで津波という言葉が飛び交うようになって、ようやく被害の大きさに気づいた。ちょうど、プーケットでカヤックに乗るといい、という話を聞いた矢先だったので、一歩間違えば、私も津波にのまれていたかもしれないと恐ろしくなった。被害に遭った地域の多くが、貧困や政情不安に悩まされていたところだけに、この津波による被害が最終的にどれだけのものになるか、まったく想像がつかない。

ドイプイの山中
ドイプイの山中 幸い、タイ旅行そのものは、大きなトラブルもなく、予想していた以上に楽しい一週間となった。何よりもうれしかったのは、この旅行を通じて、娘の成長ぶりを実感できたことだ。プラトゥーナームの衣料市場を歩きまわり、お小遣いで学校の制服用のブラウスを一枚75バーツ(200円くらい)で買い、気に入った服を見つけては、片言のタイ語で値切り交渉をして買っている姿は、なかなかたのもしかった。

 鳥見ツアーでは、以前からの知り合いだけでなく、新たなメンバーともすぐに打ち解けて、タイ語と英語のチャンポンで奇妙な会話を交わしていた。普段からあちこちに出かけては、鳥や植物を通じて、見知らぬ人と平気で会話を交わす娘だが、相手が外国人でも臆することなく話していたので、次に参加するときは、もう親が同伴する必要はないかもしれない。

 私自身も、インターネットでタイ語のニュースを聞きつづけ、タイのポップスをたくさん聞いたおかげで、リスニング能力が向上したらしい。鳥を最初に見つけた人が、その位置を教えるときに、わざわざ英語で言ってもらわなくても、タイ語の会話からおよその位置がわかるようになった。それに、こんなことを書くと娘に笑われそうだが、いつのまにか双眼鏡がうまく使えるようになっていたのもうれしかった。一緒に参加していたアメリカ人の奥さんは、スワロフスキーの双眼鏡をもっていながら、ほとんど使えず、始終あきらめムードだった。もちろん、あまりにも種類が多く、どれも似ているムシクイ類は、動きも速いし、のぞいてみる気にもなれなかったが。タイ人の常連ですら、「ウォーブラー・マイ・ドゥ」(ムシクイは見ない)と言い切っていたから、やっぱりね、と笑ってしまった。宿泊したリゾート

 タイもいまは乾季なので暑くなく、山の上はかなり寒かったが、日本に帰ってきて雪まで降っているのには驚いた。今年は暖冬だったはずなのに、随分まあ急変するものだ。自然災害がつづいた2004年も今日でおしまいだ。新年はよい年になることを心から祈っている。みなさま、いろいろお世話になりました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

追伸:先日、「わたしの自然観察路コンクール」で、娘が最優秀賞をもらいました。興味のある方はお暇なときにのぞいてみてください。
宿泊したリゾート

(とうごう えりか)






コウモリ通信

東郷えりか(2005.2.2更新)

その63

 スマトラ沖地震とインド洋大津波で何十万もの人が犠牲になったあの日から、1ヵ月以上がたった。タイで被災した子供たちが描いた津波の絵は、10メートルの高さの波に襲われた恐怖がどれほどのものかをよく表わしていた。アチェではなんと、津波の高さが34.9メートルにも達した場所があったという。日本でも1896年の三陸地震津波では、最高波高38.2メートルが記録されているそうだ。想像するだけで、水圧に押しつぶされそうだ。これではどんな堤防をつくってもかなわないし、第一、いつ襲ってくるともわからない津波のために、海岸線沿いに万里の長城のようなものを張り巡らされるのもたまらない。やはり、つねづね警戒を怠らず、いざとなったらすぐに避難するしかないのだろう。

 これほどの規模の津波は予期していなかったとしても、スマトラ沖で地震が発生した段階で、近隣諸国がなんの警戒態勢もとっていなかったというのは、どうしたことだろう。タイのバンド、カラパオが津波の犠牲者への鎮魂歌をつくり、「ツナミ・クー・アライ、ルーチャック・テー・サシミ(ツナミってなんだ? サシミなら知っているけど)」と歌っている。まさに寝耳に水だった人も大勢いたようだ。

インドネシアは日本と同様、プレート境界に近く、世界的な火山地帯であると同時に、地震多発地域でもある。津波をともなった大地震は、過去に何度も起きていたはずだ。その証拠に、震源地の近くで津波の大被害を受けながら、奇跡的にほとんど死者をださなかったシムル島や、タイのスリン諸島では、海が急に引いたら、すぐに高台へ逃げろという昔からの言い伝えを島民が守り、そのおかげで命拾いをしたのだという。

 タイの被災地では死臭がたちこめ、住民はピー(霊)におびえているらしい。タイでは、不幸な死に方をすると成仏せず、ピーになってこの世をさまようと多くの人が信じている。肉親を亡くした人や、いまも行方がわからない人にとっては、やりきれないものがあるだろう。この目で遺体を見るまでは、死が信じられず、きっとどこかで生きていると思いつづけるに違いない。心身ともに傷を負い、近親者を亡くし、家も仕事もなくし、援助に頼って最低限の衣食住を確保している人たちは、この先どうなるのだろう?

被災地では復興事業が始まっているようだが、被害にあった地域の多くが、それぞれの国の中心地から遠く離れた地方にあり、しかも以前から反政府運動が盛んな場所だったりするので、今後、さまざまな問題が生じそうな悪い予感がする。プーケットやカオラックのようなリゾート地は、しばらくは苦しい年がつづいたとしても、いずれまたもとのようなにぎわいを見せるかもしれない。でも、全滅したアチェの貧しい漁村などは、もう手の施しようがない。生き残った人たちは、悪夢を封じ込め、うつろな心をかかえてほかの町へ、都会へと離散していくしかない。

 今回の大津波ほどの被害がでれば、この先は自然の恐ろしさが後世まで語り継がれるだろうか? それともいまだに海中に漂い、土中に埋もれて、行方知れずとなっている何万もの人びとともに、いずれ忘れ去られてしまうのか? おそらく、これだけの大災害も、100年もの歳月がたてばただの歴史上の出来事となり、その恐怖の記憶は消えてしまうだろう。そのころにきっとまた、災いは訪れるのだ。

(とうごう えりか)






コウモリ通信

東郷えりか(2005.3.1更新)

その64

 先日、スーパーで魚を買おうと思ったら、どれもこれもあまりにも高いので、仕方なく干物売り場へ行ってシシャモを買うことにした。樺太シシャモと書かれたパッケージが2種類あり、片方には太めの魚が6匹並んでいた。もう一方には細めの魚が2段重ねで20匹近く詰まっているのに、なぜか値段は同じだった。どうしてこんなに値段が違うのか、あれこれ理由を想像したが、結局、たくさん詰まっているほうを買った。家に帰ってからよく見ると、ノルウェー産、原産国タイと書かれていた。これではいったい樺太なのか、ノルウェーなのか、タイなのか、さっぱりわからない。

 そこで、「樺太シシャモ」をネットで検索してみたら、あれはカペリンという魚で、シシャモとは別物、本物のシシャモは北海道でしかとれない、云々と書かれたページがいくつもでてきた。ということは、私が食べたのは、ノルウェーでとれたカペリンをタイで干物にし、それを日本へ輸出したものだったらしい。

 以前にも、こんなふうにキツネにつままれた気分になったことがある。通販でフィンランド製パイン材のテーブルを注文したら、ベトナムから荷物が届いたのだ。この場合は察するに、フィンランドの木材をベトナムで加工し、それをさらに日本に輸送したのだろう。それだけ地球をめぐってやってきたテーブルが、日本国内の木材を使って、日本で加工したものよりはるかに安いことが、なんとも信じられなかった。

 そして昨日、また新たな驚きがあった。インターネットで見つけたプリントショップにはがきの印刷を頼んだところ、どうやらベルギーで印刷されて、送られてきたらしいのだ。宛名のシールに小さい字で送り主が書いてあるだけなので、よく見なければ気づかないところだった。近所にも小さい印刷所があるけれど、インターネットを使えば、家から一歩もでずに注文から支払いまで完了し、できあがったものも届けてもらえる。その手軽さと安さにつられたのだ。それにしても、はるばるベルギーからやってくるとは!

 ここ10年ほどの情報、流通の大革命は、人間の生活を根本的に変えてしまったのだと、いまあらためて思う。以前は、人間の生活は物理的な空間に大きく制限されていたが、いまでは自分の嗜好や値段しだいで、地球のさまざまな地域と複雑にかかわり合うようになった。それは一概にいいとも悪いとも言えないが、良質で安いものは売れるという原則が、地理的な制約を次々に取っ払っていくのは、どことなく恐ろしい。国内産業の空洞化もさることながら、こうしたことすべてが可能になっている陰に、膨大なエネルギーを消費して何千キロメートルも物資を運んでいる現実があるからだ。また、安い値段が、人件費の安い国に生産拠点を移すことで実現されているのなら、いずれはその格差が地球規模で縮まっていくのではないかと思われるからだ。

 頭ではそうした現実に不安を覚え、社会の行く末を案じながらも、いざ目の前に、見たところ質の変わらない安いものがあれば、ついそちらに手が伸びてしまうのは私ばかりでないだろう。また、なんでも簡単に手に入る生活をいったん知れば、後戻りは難しい。こうして、異国情緒豊かでもなければ、高級でもない、「舶来」の日用品に囲まれて暮らしているうちに、いつのまにかごく平均的な世界市民ができあがるのかもしれない。

(とうごう えりか)






コウモリ通信

東郷えりか(2005.4.1更新)

クリックでamazon.com
(クリックでamazon.comへ)

『新人生論ノート』
集英社新書
木田 元 (著)
その65

 まわりに思春期の子が多いせいか、このところ子供の生活態度や進路に関する悩みごとや愚痴をよく聞く。その多くは、親の勧める道と、子供の進みたい方向が異なるといった具体的な争いではなく、子供はとにかく親からあれこれ言われ、進路を押しつけられるのが嫌で、かといって自分が何をしたいのかもわからず、いらだっているという状態のようだ。自分はこれが好き、と言えるものがなく、とりあえずいま流行していることを、友達に合わせてやっているタイプに、特にこうした傾向が強い。

 日ごろ、そうした悩みに接しているだけに、先日読んだ木田元さんの『新人生論ノート』に次のような一節を見つけたときには、うれしかった。ここに引用させてもらうと、「本当に好きなものを見つけること、自分がいったいなにが好きなのか見きわめることは結構むずかしい。いや、そのまえになにかを好きになる能力、なにかに夢中になれる能力をつちかう必要がある。なにかを好きになるというのは、訓練して養わなければならない一つの能力なのである」。また、こうも言っている。「本当に好きになれるもの、本当に夢中になれるものを探すがいい。そうすれば、人生をいまよりももっと深く豊かに生きることができるようになる」

 いざ、進路を選ばなければならない段になって、突然、自分の好きなものを探しても、なかなか見つかるものではない。だから、本当は子供がごく小さいうちから、親があまり干渉せずに、テレビやゲームのように刺激の強すぎるものもなるべく与えず、子供がもて余した時間に自分で見つけたことをそのままつづけさせるのがいいのだろう。とはいえ、時間は逆戻りできないから、すでに成長してしまった子は、いま少しでも関心のあることを、とことん突き詰めていけばいい。お菓子づくりだって化粧だって、ロックだって絵を描くことだって、一見、将来あまり役立ちそうにないことも、その道をきわめれば何かしら得るものがあるはずだ。

 最終的に好きな道へは進まず、無難な就職先を見つけたとしても、余暇に本業と同じくらい専門的に打ち込めるものがあれば、それはそれで楽しいはずだ。少しくらい回り道をしたってかまわない。建築家の丹下健三さんを偲ぶ記事に、一時期、文学や哲学に没頭したために、二年間浪人しなければならなかったが、「この時代に読んだり考えたりしたことが目に見えぬところで大いに役立った」(丹下健三、『私の履歴書』)という一文が紹介されていた。

 親が好ましいと思う進路を、最短距離で進ませれば、子供は早くゴールに到達するだろう。でも、そういう子は、目的に達したとたん、自分を見失わないだろうか。はたしてこれが自分の望んでいた道だったのか、と。自分の道を模索しながらあちこちめぐってきた人は、スタートラインに立つのは遅くても、幅広い視野をもっているから、いわゆる専門ばかよりも成功するかもしれない。いや、たとえ出世しなくても、自分なりの人生を送れるのだから、それでいいのではないか。結局、社会的に成功することよりも、充実した人生を生きているかどうかが肝心なのだから。こうした根本的な問題を考えないまま、学力の低下を理由に、早くもゆとり教育の見直しが叫ばれている現実が悲しい。

(とうごう えりか)






コウモリ通信

東郷えりか(2005.5.1更新)

その66

 さわやかな季節になったので、アウトドアの楽しい話題でも書ければよいのだけれど、やはりこのところずっと心に引っかかっていたことを書こうと思う。中国や韓国の反日デモのことだ。じつは何を隠そう、私はまだどちらの国も行ったことがない。中国人にも韓国人にも親しい友人がいないので、私が知っている両国のことは、書物、報道、映画やテレビを通じて知った間接的な知識と、旅行会社にいたころ出会った人たちのことくらいしかない。あのころ、韓国人の団体客はよくホテルのロビーの床に座りこんでいたし、一緒に「カンペイ」した黒龍江省からの訪問団はまだ人民服を着ていた。

 ここ20年ほどのあいだに、どちらの国も様変わりしたようだ。アメリカやイギリスの大学は、中国人、韓国人をはじめ、アジアの留学生でいっぱいらしい。韓国ドラマにもよくアメリカ帰りの颯爽としたヒーローが登場する。その一方で、かならずと言っていいほど貧乏な人が描かれているのは興味深い。どん底から這いあがって成功する話が、国民の心に強く訴えるということは、韓国がまだまだ成長している社会である証拠だ。いまの日本の若者には、努力して何がなんでも成功しようとする気迫は、あまり感じられない。

 しかし、国が急成長をとげているときは、かならずその歪がでてくる。貧富の差が拡大し、社会不安が増して、エネルギー需要も急増するなど、韓国も中国も戸惑うほどの問題に直面しているのだろう。これまでさまざまなかたちで踏みにじられてきた人たちの長年の不満が、一気に爆発することもある。今回の一連の事件は、そうしたストレスのはけ口として、国民共通の宿敵とも言える日本が選ばれた結果だったのだったという気がする。日本がかつて大東亜共栄圏なるものを掲げて、侵略戦争に乗りだしたのも、もとは急激な経済成長の結果、狭い島国だけではとても存続できないという危機感からだった。国が急成長しているときは、かつての日本と同様に、どんなばかげた行為にでるかわからない。韓国や中国だけでなく、近隣諸国がみな厄介な時期に達しつつあることを考えれば、その感情を逆なでするような言動は、絶対に慎むべきだ。

 中国や韓国は、確かにエネルギーや領土問題だけでなく、経済活動のいろいろな面で、戦後の日本が享受してきた地位を脅かしはじめているかもしれない。でも、考えてみれば、現在の日本の豊かさは、その陰で安い工賃で働き、自転車をこいでいる中国人によって支えられているのかもしれない。彼らもいずれは車に乗り、ガソリンを消費するようになるだろう。そういう変化は、ある意味で避けられないのであって、しかも地球の資源は無限にはないのだから、おたがい妥協せざるをえないのだと私は思う。

 私は反日とか、嫌中といった考え方そのものが好きになれない。どの国にも、善人もいれば悪人もいる。戦争中だって、日本人のすべてが中国人や韓国人に残虐行為をはたらいたわけではないし、相手から見れば悪魔のように見えた日本兵だって、その多くは善良な市民で、国の存続を賭けて戦っていると信じ込んでいたのだ。ちょうどいま、愛国無罪と叫びながら日本の領事館に投石する中国の若者のように。もちろん、反日デモに加わった数万人の中国人や中国政府の言動から、13億の中国人すべての心中を推し量ることもできない。敗戦後、一様に犯罪者扱いされた日本兵の鬱積した心理が、その子孫を靖国参拝のような意固地とも思える行為に駆り立てているのだろう。

 自分たちの生活を守ろう、権利を主張しようとする気持ちは誰でももっている。地球の資源には限りがあるのに、すでにそれを手に入れた人は、決してそれを他人と分かち合おうとはしない。人口が急増し、国力が増してくれば不満は高まり、ナショナリズムの大義名分を立てて武力行使にでる。人間はそういった衝突を繰り返してきたのだ。おたがいにもっと相手を理解し、言い分を認め、既得の権利を分かち合う気持ちをもたないかぎり、人間は愚かな戦争を繰り返すことになる。たとえいまある物質的な豊かさが減っても、その分、心が豊かになれば、それでいいじゃないか、と私は思うのだが。

(とうごう えりか)






コウモリ通信

東郷えりか(2005.6.9更新)

その67

イラスト・東郷なりさ
 先週の日曜日、近くの川でカルガモの雛が生まれたという連絡をもらい、娘と一緒にでかけた。川のなかはアシなどが生い茂ってよく見えない。少し上流まで歩き、あきらめて戻りかけたところで、運よくその親子を見つけた。雛は10羽と聞いていたのに、9羽に減っていた。コンクリート護岸の藻を食べているのか、スズメくらいの大きさの雛がちょこまかと動きながら進んでいく。全身やわらかい羽毛に包まれ、焦げ目をつけた栗饅頭のようで、じつにおいしそうだ。

 カルガモ親子とともに川を下っていくうちに、連絡を下さった娘の「お友達」にもついにお会いし、一緒に少し下流まで行った。そこには別のカルガモが数羽いて、なぜか親子連れをいじめはじめた。すると、母ガモは血相を変えて羽根をばたつかせ、猛禽のごとく果敢に相手を追い払い、また9羽の雛をしたがえて悠然と泳いでいった。母は強し。鳥の世界もなかなか大変だ。久々に感動を覚えながら、小雨のなか家路についた。

 それから一週間ほどたった先日、図書館へ行きがてら、また川をのぞいた。すると、暗渠の近くに親子連れが見えた。雛はもうムクドリ大に成長している。ところが、どう見ても雛が3羽しかいない。たった数日間で、こんなに減ってしまったのだろうか。敵はカラスか猫か、スッポンか。それとも、川の水がひどく濁っているせいか。自然の厳しさを思い知らされ、暗澹とした思いで図書館へ向かった。

 考えてみれば、人間だって少し前まで同じような状況だった。バッハは20人の子供のうち10人を幼少時に、1人を成人してから亡くしているし、私の親や祖父母の世代でも、子供の死は珍しいことではなかった。それどころか、アフリカやインドなどでは、いまも同じような状況にある。次々に子を産んで育て、その多くを亡くす母親の負担は、肉体的にも精神的にも、想像もつかないほどのものだろう。

 だからこそいまは産児制限をし、少なく産んで確実に育てるわけだが、それが中国の一人っ子政策のように、国からの規制というかたちになれば、どうしても弊害がでるだろう。一人っ子と大勢の兄弟に囲まれて育った子とでは、性格に大きな違いがでる。いまの30歳くらいまでの中国人の多くは一人っ子らしいが、そういったことが最近の中国の寛容のなさと関係していないだろうか。さすがの中国政府も、すでにこの規制を緩和しはじめているようだが、人間の知恵などしょせん自然の力には勝てないのだから、不自然な決まりはつくらないほうがいい。人工中絶の是非を含め、生殖に関する問題はとくに、法律でやたらと規制するのではなく、人びとの理性と道徳に訴えて各人に判断させながら、周囲の環境に合わせて徐々に適切な方向へもっていくほうが、結果的にいい方向にいくに違いない。

 図書館からの帰り道、もう一度、川に立ち寄った。カルガモ親子は高さ50センチほどの堰の上で餌を漁っていた。しかも、よく見ると、母親のまわりに雛が9羽ちゃんとそろっているではないか! さっきは暗渠の下にでもいたのかもしれない。見ているうちに、1羽が堰から落ちてしまった。どうするのだろう、と案じていたら、なんとも滑稽な格好で苔のついた急斜をするすると這いあがった。数日間でこんなに成長したのか。この川に9羽もカルガモが増えたら大変だと思いつつ、滑っては登る雛たちをしばし見入ってしまった。

(とうごう えりか)




コウモリ通信

東郷えりか(2005.7.1更新)


6月23日は慰霊の日
琉球新報第一面より
その68

 「戦場の結婚式」と題された連載記事が、少し前の毎日新聞に掲載された。沖縄戦のさなか、投降した日本軍の中尉とたまたま一緒にいた村の娘の「結婚式」の写真を米軍がビラに刷り、上空からまいて、投降を呼びかける心理作戦をおこなった。その一枚の写真をもとに、捕虜となった二人がどんな人生を歩んだかを、関係者を訪ねて取材したという内容だったが、戦後60年を経てもなお人びと心に残っているわだかまりの大きさに驚かされた。

 ちょうど同じころ、40年ぶりにアメリカに帰国したジェンキンスさんを、郷里の人たちが冷ややかに迎えたというニュースが流れていた。脱走兵とされるジェンキンスさんの立場はさらに複雑だろうが、戦争中、日本では捕虜とならず玉砕せよと言われていたから、仲間を裏切り、敵国に寝返った行為と見なされた点では、どちらも同じだろう。

 亡命、難民なども、国を捨てるという点では似ているし、暴力団から足を洗うとか、カルト集団から脱退する、あるいはもっと身近な例で言えば、他社へ転職するとか、学校の部活動を退部するといった行為にも、どこか共通するものがあると思う。自分の所属する集団と相容れなくなり、そこを抜けることは、とくに裏切るつもりはなくても、一般に内部の人間からは快く思われないのだ。

 人間は社会のなかで生きる生物だから、自分が所属する社会のために貢献することは当然のこととされる。社会全体の利益となる行為は正当化され、奨励される。構成員は個人的な事情はいろいろあっても、社会のために働き、その利益を守り、拡大するために、精一杯つくさなければならない。社会につくせば、結果的に自分や家族のためにもなる。

 こうしたことは、いずれももっともに思われるけれど、たとえば1つの社会の利益を追求することが、別の社会の不利益をもたらす場合はどうだろう? 他の社会を顧みず、自分の社会の発展だけを一方的に推進することに、疑問を投げかける人がいたとしたら? あるいは、人を殺したくないし、殺されたくもないと、平和時に誰もが思うことを、徴兵されて戦場に送られても、やはり思う人がいたとしたら? しかも、国の掲げる大儀名分が、どう考えても間違っていると思われるとしたら?

 どんな国でも、為政者が進める政策に国民が100パーセント賛成することはないだろう。社会が進んでいる方向が正しいのかという、疑問の声すらあげられず、国に忠誠をつくすことだけが無条件に強要されるのはたまらない。社会の軌道を修正しようとすることは、その社会を裏切ることではないのだ。

 集団が比較的小さく、その周囲にもっと大きな社会が存在する場合は、外からの情報によって自分たちの間違いに気づき、軌道修正できるかもしれないし、そこから抜けだすことも容易だろう。しかし、1つの国全体がおかしな方向に進んでいった場合、そのなかで冷静な視点を失わず、正気を保つのはたいへんなことだ。

 人間はいったん自分の社会にどっぷり浸かってしまうと、内部からしかものごとが見られなくなる。捕虜とか亡命といった問題も、それを内側から見るのと、外側から見るのでは、違った印象になる。過去を振り返って、見直すことも重要だ。ときには、鬼太郎の目玉おやじのようになって、別の場所から自分たちを客観的に眺めることも必要なのではないだろうか。

(とうごう えりか)




コウモリ通信

東郷えりか(2005.8.1更新)


その69

 このところ運動不足のせいか、数年前は緩かったはずのスカートがどれもきつくなっていることがわかって唖然とした。まわりには体重増加中の娘や姪もいるので、最近ダイエットの本を何冊か斜め読みしている。そのなかで驚いた共通点が1つあった。太るからと言って、食べたいものを我慢して食べないだめ、という点だ。健康によいものを自分が本当に食べたいと思うようになれば、自然に痩せてくるらしい。自分の欲望を一方的に抑えても、ストレスが増すばかりで、それがときおり爆発してかえって逆効果になるという。

 子供のころ、「〜しなさい」と言われると、途端にやる気が失せた。幸い、勉強しなさい、と言われた記憶はほとんどないので、もっぱらピアノのお稽古をしなさい、と毎朝夕、言われつづけたのだが。勉強にしろ、ピアノにしろ、自分から進んでやろうと思った日は、気持ちよくできたし、大いにはかどったのに、怒られて渋々と腰を上げた日は、少しも集中できなかった。だから、私の子供には、うるさく言わずに、なんでも自分でやる習慣を身につけさせてきたつもりだ。

 でも、こうしたダイエット本によれば、自分のなかにいるもう1人の自分が命令を下し、欲望を押さえつけるのも、同じように効果があがらないらしい。自分に厳しい人間、自分を律することのできる人間が、かならずしもよい結果をだせるわけではないのだ。

 それなら、自分を甘やかしていいのか、ということではもちろんない。要は、自分を強制するのではなく、やる気を引きだすことなのだ。ダイエットにしろ、勉強にしろ、仕事にしろ、自分がそれを楽しんでできるように、一種の自己暗示をかけるのだ。やらなければならないことと、やりたいことが同じ方向であれば、自分のなかの矛盾がなくなるので、ストレスを感じることもない。

 問題は、どうすればやる気を引きだせるのかだ。まずは興味をもてるようにすることだろう。ダイエットなら、徹底的に食品の研究をして、カロリー計算ばかりでなく、それぞれの食品のもつ効果や先人の知恵を学び、実際に自分の身体で実験して、画期的な方法を開発するつもりにでもなれば、おもしろいにちがいない。勉強なら、与えられた課題をひたすらこなすのではなく、自分なりの勉強方法を見つけ、興味深いものがあれば、時間の許すかぎり脱線してとことん調べ、考えてみることだろう。仕事の場合は、なおさら苦痛なものが多いから、たいていの人は労働の対価を得ることに唯一の慰めを見出しているけれども、ストレスを減らすにはやはり仕事の過程を楽しむ努力も必要だ。受身の姿勢でノルマをこなすのではなく、効率を上げる、新しい需要を掘り起こすなどの工夫をすれば、どんな単純労働でも、いくらかは楽しくなるはずだ。

 始める前や、集中できないときのために、気分転換の儀式のようなものも必要かもしれない。シャワーを浴びるとか、体操する、コーヒーを飲む、瞑想するなど、頭のなかをいったん空にできるものがいいような気がするが、まだこれといって自分にぴったりするものは見つからない。

 ダイエットの本を読んで、思わぬ発見ができたような気がする。これで昔のスカートも履けるようになり、仕事も順調に進むようになれば、万々歳だ。

(とうごう えりか)




コウモリ通信

東郷えりか(2005.9.1更新)


日本のてっぺんでメールする姪
その70

  富士山に登ってきた。「富士山に登らないバカ、二度登るバカ」と言うそうだが、じつは私はこれが三度目だ。そのうえ、日ごろ運動不足で疲労気味なので、正直言うと出かける前からうんざりだった。ところが、以前から小学生の姪に、いつかかならず連れていってあげると約束してあった。そこで、同じくらい体力に自信のない私の姉と、もう一人の中学生の姪とともに、無理に気分を盛り立てながら出発した。

 富士山に初めて登ったのは六年ほど前だった。近所のおばさんから、「富士山はどこからでも見えるでしょう。あの頂上に自分が立ったんだと思うと、なんでもできる気分になるよ」と言われて、思い立ったのだ。よく晴れた日には、船橋の小学校の校庭からでも富士山は見えた。富士山のように高い山でも、自分の足を一歩ずつ前にだせば、たとえどんなにのろくても、いつかはきっと頂上に到達できる。そのことを小さい姪にも教えたい。そう思うからこそ、これ以上、体力がなくなる前にその約束をはたすべく、重い腰をあげたのだった。

 天候が最も安定するといわれる八月上旬に決行したおかげで、今回は晴天に恵まれた。初日は富士宮口から登って九合目の山小屋に泊まり、翌日未明に出発して頂上を目指した。富士山は禿山をひたすら登るだけなので、いわゆる山好きな人は少ない。まわりを見ると、ピカチューの特大の帽子を目深にかぶった子供、だぶだぶの学ランを着た応援団のような一行、キャミソール姿のギャルなど、信じがたい格好の人もいる。きわめつけは、尻尾付きのウサギの着ぐるみ。以前に登ったときは、白装束の中高年も結構いたが、今回は見かけなかったような気がする。海外からの研修生と思しき一行が100人近くいたせいもあって、中南米やアジア諸国を中心に、いろいろな人と挨拶をかわしながら登ることになった。

 登り始めは、身体が慣れていないせいか結構しんどい。3000メートルを超えたあたりからは、高山病で気分が悪くなる人もいる。それでも、頂上を極めた人たちの顔は、一様にさわやかだ。山頂で北欧系のカップルが日本語で話しかけてきたので、「富士山に登ると、自信がつくでしょう」と返したら、「ジシン、怖いねえ」との答えが。仕方がないので、「おとといみたいな地震が、いま起きたら怖いね」と、ごまかしておいた。日本語は難しい。
影富士


 山頂といっても、剣ヶ峰に登らないと3776メートルに到達したことにはならない。日本のてっぺんにあるこの測候所は、昨秋から常駐の人がいなくなり、自動観測になったそうだ。真夏の晴天の日ですら、ここに立つと足がすくむ思いがする。冬の猛吹雪の日など、どんな思いで観測をつづけたのだろうか。剣ヶ峰の先のちょうど大沢崩れの上あたりで、みごとな影富士を見た。富士山そのものの影が下界にくっきりと映っていた。

 お鉢めぐりをしたらお汁粉にしようと、くたびれ気味の小さい姪をなだめすかしながら、火口をひとまわりした。頂上小屋で食べたお汁粉は、600円もするのにお餅一つ入っていないがっかりする代物だったが、姪は満足げに小豆汁をすすっていた。下りは、足は疲れるものの、息が苦しくないから助かる。小学生の姪は先頭に立ってトットコと降りていった。

 横浜からだと富士山は大きく見える。冬の晴れた朝、雪を戴いて宙にぽっかりと浮かぶさまは雄大だ。そんな富士を見て、私もあの頂上に立ったんだ、と姪は"自信"をつけてくれるだろうか。

(とうごう えりか)




コウモリ通信

東郷えりか(2005.10.1更新)


イラスト・東郷なりさ
その71

  忙しさにかまけて庭のパセリを放っておいたら、いつの間にかとうが立ち、キアゲハの幼虫がたかっていた。黄緑色の体に黒の縞とオレンジ色の斑点がついた、なんとも奇妙な生き物だ。数日もすると、パセリはほとんど茎だけになってしまった。「飼ってみたら」という、娘の友人の虫博士のひと言に触発され、とりあえず大きめのを3匹、梅酒用の広口の瓶に入れて飼うことにした。それがこの夏のイモムシ騒動の始まりだった。

 虫を飼うなんて、私が幼稚園のころ以来のことだ。捕まえて虫かごに入れた虫は、いつも餌と糞できたならしくなって、そのうちに死んでしまい、あまりいい思い出はない。飼うと決めたからには、きちんと餌をやって、こまめに掃除をすることにしよう。キアゲハの幼虫の食草を調べてみると、セリ科の植物らしい。ついぞ知らなかったが、パセリもセリ科だった。そう言えば、そばにあったキクの葉はまったく食べた形跡がない。あんなイモムシに、どうしてこれはセリ科で、こっちはキク科なんて見分けられるのだろう? 虫の餌を買うなんて、と思いつつ、近所のスーパーでパセリを買ってきて与えた。

 青々としたパセリをたっぷり食べた幼虫は、しばらくするとやたらと暴れだし、その後、じっと動かなくなり、しなびて色艶が悪くなった。やっぱりだめか……。あきらめたころにふと見ると、なんと、縞模様がなくなって緑色の蛹になっていた! 縞はどこへ消えたんだろう? そこで、2匹目は監視体制を強化して、蛹化の様子をじっくり観察することにした。動かなくなったイモムシ――前蛹というらしい――をよく見ると、細い糸一本を体に回してぶら下がっていた。大きく痙攣したあと、背中が割れて、なかからまるで違うものが現われるところは、SF映画そのもの。縞模様がストッキングのようにするすると脱げ、ポトンと下に落ちたときは唖然とした。変身にかかる時間は、ものの5分くらいだ。

 ところが、ショッキングな事件が起きた。スーパーのパセリを食べつづけた小さい幼虫が、次々に死んでいったのだ。結局、蝶になれたのは1匹だけで、羽化寸前までいった蛹も、なかで完全に蝶の姿になっていたのに、翅を広げて飛び立てなかった。パセリの農薬のせいだと断定はできないけれど、パセリ、シソ、セロリなどが、残留農薬の多い野菜のトップだと、あとから知った。初めて飼った虫たちの哀れな最期に娘はかなり参っていた。

 そんなある日、ふと庭のパセリを見たら、伸びてきた葉にまたもやキアゲハの幼虫が……。育てる勇気のなくなった娘は、庭のパセリがなくなったら、餓死させるしかないよ、とあきらめ顔だった。ところが、件の虫博士と養子縁組の話をつけてきたらしく、4匹ほど引き取ってもらえることになった。いよいよわが家のパセリが丸坊主になり、残されたイモムシたちの運命がつきる日、私は駅の向こうの生協まで走った。パセリには懲りていたので、同じセリ科の三つ葉、セリ、明日葉などを買ってきて、念入りに水洗いすることにした。生協の野菜を食べて丸々太った幼虫たちは、無事にみな蛹化した。これだけ何匹もイモムシの世話をすると、私もちょっとしたお産婆さん気分だ。やたら動きだしたら、そろそろ前蛹になる。みずみずしい黄緑色からしなびた薄緑になったら、蛹化が近い、といった具合だ。秋の気配を察したのか、蛹はみなミイラのような姿で長い眠りについている。来年の春、めでたく蝶になれば、死んでしまったイモムシたちにも顔向けできるだろうか。

(とうごう えりか)




コウモリ通信

東郷えりか(2005.11.1更新)


ルリタテハの前蛹



アオスジアゲハ幼虫
その72

  昨今は虫嫌いの人が多いらしい。ムシキングやポケモンには夢中になるくせに、いざ本物の虫を見ると尻込みする子すらいる。虫嫌いの母親が、虫を見るたびに、汚い、危険、気持悪い(まるで3K!)と騒ぎたてるからだろうか。そのうえ不幸にも、幼児期にチャドクガに刺されでもすれば、間違いなく虫恐怖症になる。

 かく言う私も、決して虫大好き人間ではない。でも、先月のエッセイにも書いたように、この夏初めてイモムシを飼い、キアゲハの幼虫のあと、ナミアゲハとクロアゲハに挑戦し、さらにルリタテハ、アオスジアゲハ、コスズメ、ヒメアカタテハと手を伸ばし、六匹の蝶を羽化させる貴重な体験をしたおかげで、虫を見る目がすっかり変わった。

 たとえば、ルリタテハの幼虫は赤茶色の体にトゲがたくさん生えていて、いかにも毛虫だけれど、よく見ると渋い紬のような地模様をしている。Jの字型にぶらさがっている蛹化寸前の前蛹は、トゲが光って線香花火のようだったし、蛹になると、背中に二ヵ所メタリックに光るところがあってお洒落だ。ヒメアカタテハの蛹にいたっては、全身に燻したような金属光沢があって、イヤリングにしたいくらい。でもちょっと、ナルニア国の"死に水島"に沈んでいたレスチマール卿のようでもある。

 蛹は羽化する直前に色が黒ずんで翅の模様が見えてきて、ほっそりとしてくる。太っていたおなかが徐々にへこんできて、妙に色っぽい体つきになるのだ。ちょうど幼な太りしていたのが、年頃になってすっきりと痩せたみたいに。以前どこかで、こんな美術品を見たような記憶がある。エミール・ガレの作品だった気がするのだが、蛹を女性に見立てたものだ。改めてガレの作品を見ると、彼がどれだけ丹念に自然を観察していたかがよくわかる。少年のころ、ガレは蝶の羽化を飽かずに眺めていたにちがいない。それできっと、いつかこの美しさを再現してみたい、と思ったのだ。ガレの作品の怪しげな美しさは、彼が自然の一番美しい瞬間を心にとどめて、その色や形や質感を表わすことにとことんこだわったからなのだ。トンボの翅のあの繊細さとか、蝶の翅のあの青の色を表わしたい、という願望が、次々に新しい技術を思いつかせ、あの不思議な世界を生みだしたのだろう。
クロアゲハの羽化

 時間がたっぷりあって感性の豊かな子供時代に、そういった感動を味わった子と、そうでない子は、成長してからものを見る目が違うはずだ。画面上で戦うしか能のないムシよりも、本物の虫のほうがよっぽど魅力にあふれている。静まり返った家のなかで、"はらぺこあおむし"がミカンやクスの葉をショリショリと食べる音が響けば、無性にうれしくなる。アオスジアゲハの幼虫が糞をしたあと、下半身が透けている様子は、求肥のお菓子みたいだ。もちろん、生き物だから、ときには不幸もある。先日も、クロアゲハの緑色の蛹がどんどん不気味な茶色になって悪い予感がしていたら、案の定、なかからブランコバエの蛆と思われるものが二匹、ブラーンとでてきた。せっせと与えた金柑の葉に、ハエの卵が産みつけられていて、幼虫のときにそれを食べて寄生されたらしい。これもハエの生きる知恵なのだろうが、大事なクロアゲハを乗っ取られたのはくやしい。まあ、よく見ると、蛆も黒い目のようなものが二つあって、ちょっと小トトロみたいだったけれど……。

 まあ、虫は嫌い、なんて決めつけないで、一度、かわいいキャタピーを飼ってみてはいかが? きっといままでにない発見があるはず。

(とうごう えりか)




コウモリ通信

東郷えりか(2005.12.1更新)


その73

  以前、新聞で、地下につくられた巨大な放水路に見学者が詰めかけているという記事を読んだことがある。江戸川の洪水予防施設としてつくられた全長6.3キロにわたる地下の大空間で、完成して実際に使用されるまで見学が可能ということだった。それこそ、昔のスパイ映画に登場しそうな地下の巨大な水路だ。

 こんな巨大なものではないけれども、近所の川の横にはいまかなり大きな遊水地をつくっているし、新しく建つマンションの地下にも大きな貯水槽があることが多い。すぐ近くの小学校の地下にも大きな貯水槽があるから、大地震のときはあそこに行くといいと言われている。

 実は先日、「雨と共生する水辺都市の再生」という国際シンポジウムに行ってきた。といっても、二日目の午後、参加しただけで、そもそもの目的は私が訳した本の著者ブライアン・フェイガンがこのシンポジウムに講演者として招かれていたため、彼に挨拶に行くことだった。フェイガン氏はがっしりした体格で、バイキングの子孫ではないかと思わせる気さくな感じの人だった。巨大なミシシッピ川に高い堤防を築いて管理することの危険について彼が書いたのちに、ハリケーン・カトリーナによる大被害が起きたため、講演の内容はそのことが中心になっていた。

 フェイガン氏のあと、タイ、ドイツ、韓国、および日本の水と都市に関連するさまざまな分野の専門家の発表があった。インド洋の津波被害のあと、貯水池に塩が混じって飲み水として使えなくなった話や、地下水がヒ素で汚染されているバングラデシュで、竹を使って屋根の雨水を集める2ドル・プロジェクトを推進している話などは、切実な問題として強く印象に残った。雨として降った水が、コンクリートでおおわれた地面を流れて川に直行し、氾濫するのを防ぐために、最近は国技館のような大きな建物も、都心のビルも雨水を貯水するタンクを設けているのだという。大雨になることが予想されるときは、事前に時間をかけてその水を放出して備え、ふだんは溜めた水をトイレの水洗、散水などに使う。タイでは昔から民家に大きな水がめがあるし、ドイツでは地中に埋め込み式の貯水タンクを民家に備えて、それでトイレ、洗濯、庭木の水遣りなどを賄っているらしい。

 日本では、「湯水のように使う」という表現があるほど、水は蛇口をひねれば当然でてくるものだ。私たちにとって水は便利で手軽なものだが、多すぎても少なすぎても厄介な問題を引き起こす。私はいまのところ、キャンプで水場から汲んできた水でやりくりした経験や、アルジェリアの砂漠のなかのホテルで水がでなかった経験はあるけれども、本当に水で苦しんだことはない。水の怖さのほうも、バンコクで多少の洪水を経験したくらいで、まだ本当に味わったことはない。このシンポジウムに参加したおかげで、ふだん、なんの気なく使っている水という資源について改めて考えさせられることになった。天から降ってくる雨水をうまく溜めて有効利用し、水害も防ぐなんて、これこそまさに人類の知恵だ。

(とうごう えりか)