【コウモリ通信】バックナンバー 2006年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2006.1.3更新)

その74

 暮れにふと思い立って、アメリカにいる私の元ホストペアレンツに電話をかけてみた。私より一回りほど年上なだけの彼らは、高校生の私の面倒を見てくれていたころ、まだ結婚してまもないカップルだった。あれから四半世紀が過ぎて、そんな彼らもそろそろ定年を迎える。ホストマザーとはよくメールでやりとりしているので、それほど久しぶりという感じはなかったが、ホストファーザーと話すのはじつに十数年ぶりだった。

 彼はパイロットで、無類の機械好きだ。一人で車を運転しているときは、絶対にラジオや音楽をかけない。エンジンの音を聞くのが楽しいのだそうだ。ある朝、ホストファーザーに学校へ送ってもらい、途中、ドーナツ屋で朝食をとったことがあった。彼はそこで紙ナプキンに図を描きながら、どうやって飛行機が浮くのか説明してくれたのだが、私は朝からドーナツにコーヒーという取り合わせと、やたら難しげな説明に参ってしまったのを覚えている。新しい路線を飛ぶ前の晩は、ホストマザーと私が呑気にテレビを見ている横で、彼は航空図らしきもの一心に眺め、翌日からのフライトのコースを頭にたたき込んでいるようだった。

 ホストファーザーは毎日ランニングも欠かさない人だった。私もそんな彼を真似て、灌漑用水路沿いに一マイルほどジョギングをしていた。まだちゃんと運動しているかと聞かれて、時間があるときは泳ぎに行くけど、最近は忙しくて……と弁解すると、彼がこう言うのだ。「最近はみんな忙しすぎる。コンピューターのせいだ。コンピューターばかりいじっているから、みんな忙しいんだ。だから家では絶対にコンピューターは触らない」。そんな言葉を彼の口から聞くとは思いもよらなかった。そうか、あんなに機械や難しいものが得意な彼でも、コンピューターは苦手なのか。それで、彼からはメールもこないのか。そう思ったらおかしくなって、笑いがこみあげてきた。

 考えてみれば、コンピューターがこれほど普及しだしたのは80年代なかばからだ。そのころすでに40代だったホストファーザーの世代は、ある程度は使えるようになっても、コンピューターにたいする抵抗感がある人が多いのだろう。まあ、そう言う私も、会社に勤めるまでコンピューターなど触ったこともなかった。それでも、いまでは毎日、コンピューターの前で長時間を過ごしている。私にとって、コンピューターはあまりにも日常生活の一部になってしまっているのだ。現に、今回の電話もインターネット電話を使い、70円弱で30分近く話をすることができた。なんと便利になったことか!

 とはいえ、中学・高校時代からコンピューターに触れてきて、一日の予定管理から株の売買まで、あらゆる機能を活用している若者世代にはかなわない。いまの子供の世代にいたっては、親も充分にコンピューターが使いこなせて、生まれたときから携帯電話やカーナビなど、さまざまな電子機器がそろっていることが当たり前になっている。彼らが大人になったころには、ものごとの価値観が様変わりしているだろう。すべてのものが物理的な距離に支配され非効率的だった時代から、世界中どこでも瞬時に気軽にアクセスできて効率的な時代へと。もっとも、この25年間に便利さを得た代わりに、失ったものもたくさんあるにちがいない。

新しい一年はどんな年になるのやら。みなさま、本年もよろしくお願いいたします。
(とうごう えりか)







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東郷えりか(2006.2.3更新)


イラスト・東郷なりさ
その75

 一月二十五日の初天神の日に、湯島天神の鷽替えに行ってきた。今年は娘をはじめ、まわりに受験生がたくさんいるので、合格祈願を兼ねてだった。二年前、亀戸天神の鷽替えに行ったときは、かなり待たされた記憶があったので、少し早めにでかけたら、平日のせいか境内はがらんとしていた。湯島の木鷽は、天然木の小枝を利用した素朴な彫り物だ。

 予定よりかなり早く湯島天神の用事が終わり、次の予定まで時間が空いたので、久々にアメ横に寄ってみた。10年ぶりくらいに見るアメ横は、なんだか小ぎれいになり、狭くなったような気がした。バンコクのチャトゥーチャック市場のような強烈な場所に慣れてしまったからだろうか。昔はアメ横に来ると怪しげな小物を並べているお店に寄るのが楽しかったが、今回は気づくと食品店ばかりのぞいていた。おばさん化したのは間違いない。

 もちろん、理由はちゃんとある。緑豆を探していたのだ。ご存じだろうか? 春雨の原料となり、日本ではもっぱらモヤシに使われている小さい緑色の豆だ。本のなかでこのムング・ダールを使った料理が何度かでてきて、どうしても実物を手に入れたくて仕方なかったのだ。ネットで捜せば、販売しているところは見つかるけれども、たかだか数百円の豆を買うのに、それ以上に送料がかかるのはばからしい。御徒町なら売っていると言われたのを思いだして乾物専門の店を何軒かのぞいたら、1キロ300円で売っていた。ずっと持って歩いたら重いな、と思いつつ、ほかにもサンザシの実やトッポッキなど、一度食べてみたいと思っていたものを買い込んでしまった。

 翻訳の仕事をしていると、見たことも聞いたこともないものによくぶつかる。いまはネットで検索すれば、たいていのものは色や形状までわかるが、功能や由来を読んでいるうちに、やたら想像力を刺激されて、私はどうしてもそれを食べてみたくてたまらなくなる。最近も、ニシンの干物について読んだあと、食べ方もよく知らないのに身欠きニシンを一箱買い、何日もつづけて食べるはめになった。おかげで、ニシンばかり食べつづけた昔の人の境遇に、少しは思いを馳せることができたが。いま頭を悩ませているのは、ハンバーガーにエキストラ・チーズというトッピング付きのピザだ。少なくとも、文面からはそうとしか読みとれない。宅配ピザは頼まないし、ピザ屋もめったに行かないので、私がこの奇妙なピザを知らないだけだろうか? それともこれはアメリカにしかない特別なピザ? このピザは想像するだけで胃がひっくり返りそうなので、試さないことにしたが、同じ本にでてきたピーチ・コブラーというデザートは、クリームを少なめにして、いつか挑戦してみようと思う。

 戦利品を手に意気揚々と帰宅した私は、木鷽とドライフルーツで気の毒な受験生を励ましてやった。湯島の木鷽はなかなかすてきなので、みなさんにお見せできないのは残念……と思っていたら、学年末試験に備えてここ数日、積分と行列の問題に苦しんでいた娘が、ほとほと嫌気が差したのか、いつのまにか木鷽のスケッチを描いていたので、それに色付けしてもらうことにした。絵を描いているときだけは、文句や悪態が聞えないので、こっちもホッとする。ようやく手に入れた緑豆のほうは、物理的にも精神的にもゆとりがなくて、そのまま放置されている。
(とうごう えりか)







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東郷えりか(2006.3.3更新)

その76

 イラスト・東郷なりさ
 横浜に住んでもう何年もなるのに、貧乏暇なしでいつも仕事に追われているので、県内の名所もまだほとんど訪れたことがない。幸い、娘が早々と受験勉強から解放されたので、ぽかぽか陽気の日に江ノ島に行ってきた。藤沢駅で下車して一時間ほど境川沿いを歩いた。冬のあいだ家にこもりっぱなしだったせいか、太陽の光に目がくらみ、さながら地面に顔をだしたモグラの気分だった。こういう状態を、まさにdisoriented(方向感覚を失った)と言うのだろう。

 境川にはたくさんの船が係留されていて、いかにも湘南らしい。その船の合間を、オオバンやカンムリカイツブリ、ヨシガモなど、ちょっと珍しい鳥が泳いでいる。娘は夏休みの宿題などで、この川に何度かきているので慣れたもので、途中、鳥見スポットで立ち止まっては、いろいろと教えてくれた。子育て中は外にでるといつも神経を尖らせ、子供が車道に飛びださないか、途中ではぐれないかと警戒心を怠らなかった私も、いつしか漫然と娘のあとについて歩くようになっている。これも動物本能の衰えだろうか。

 いよいよ目の前に江ノ島が現われたが、味気ない道路が島まで延びているうえに、正面に和洋古今なんでもあれとばかりにちぐはぐな建物が並んでいて、それこそ「顎が落ちて(jaw dropped)」しまった。余談ながら、英語にはなぜ顎に関する表現が多いのかと、私はつねづね疑問に思っている。日本人は「口をあんぐり開ける」のに。

 同じような陸続きの島――陸繋島というそうだ――でも、学生時代に見たフランス西部のモンサンミシェルとは大違いだ。バスの窓から要塞のような修道院が見えたときには、感動のあまり声をあげた。モンサンミシェルの頂上にある城砦から見た夕日は、いまでも目の裏に焼きついている。夜風に吹かれながら飲んだシードルの味まで思いだせるくらいだ。満ち潮になると警告のサイレンが鳴って、あたりは一面の海になった。

 島のなかはどちらも京都の二年坂、三年坂のような雰囲気で、いくらか似ているけれど、少なくともモンサンミシェルには興ざめな江ノ島エスカー(要は有料エスカレーター)はなかった。それもこれも、観光客が求めるものの違いが生みだすのか、単に考えもなしに開発するからなのか。

 江ノ島も、断崖のほうをまわるとなかなかよかった。春を感じさせる陽光が水面に反射している。この上を鳥が飛ぶと、海が反射板になっておなかの色がきれいに写るんだと、そこにいた写真家のおじさんがうれしそうに話してくれた。雛を守る雌がどれほど熾烈な戦いを繰り広げるか、といった話を聞きながら、道中の出来事を思い返した。

 潮が満ちてきたので、普通の靴を履いていた私たちは早めに退散せざるをえなかった。「今度また、長靴を買ってきます」と、おじさんたちに別れを告げる娘を見ながら、やれやれ、大学生活でまず必要となるものは長靴か、と少々この先が不安になった。帰りがけに土産店をのぞいたら、“世界の珍しい貝”を売っている店が何軒もあり、前から欲しかったマドガイを一枚(20円也)手に入れた。かつてはこの貝を本当に窓ガラスとして使用していたらしい。この貝を通して入る光はどんなだったのだろう? どうやって繋ぎ合わせたのだろうか? 娘は本物のハリセンボンでつくられた飾り物を買って大喜びしていた。今度、これが泳いでいるところをぜひ見てみたい。
(とうごう えりか)





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東郷えりか(2006.4.3更新)

その77

 一週間ほど娘とタイへ行ってきた。ふだん静かな住宅街にいるせいか、一年数ヵ月ぶりのバンコクはあまりにも騒々しく、最初の晩はよく眠れなかった。急に汗をかいたせいか全身が汗疹でかゆくなり、薬屋に駆け込むはめにもなった。それでも、二、三日もすると、蝿を追い払いながら道路わきの即席レストランで塩焼きの魚を食べていたのだから、われながら大した順応性だと思う。

 今回はいろいろな用事が多く、バードウォッチングができたのはルンピニ公園を少々ぶらついた日と、タイの鳥見仲間に郊外のマハサワット運河に連れていってもらった一日だけだった。それでも、小船を操縦するおばさんが気まぐれな鳥(というより客?)に合わせて船を止めたり後戻りさせたりしてくれたおかげで、バンコク近郊にいる目ぼしい鳥はほぼ見られ、娘も私も大満足だった。途中の蓮の池ではボートも漕いだし、トラクターに乗ってお米の収穫現場にも行き、農村の様子をかいま見ることもできた。
 私はいまインド料理の本に取り組んでいるので、バンコクのインド人街といわれるパフラット市場ものぞいてみた。本当はイドリーやドーサを味見してみたかったのだが、洋服屋ばかりで見当たらなかった。でも、パーンと呼ばれるキンマの葉に包んだ噛み物を見つけ、「製造工程」を観察してきた。最後に楊枝代わりにクローブで葉を留めるアイデアがいい。試しに噛んでみたら強烈な味だったが、口のなかが赤くならなかったので、私たちが試したものにはビンロウは入っていなかったようだ。女子供はこっちを食べなさい、とばかりにつくってくれた甘いほうの包みは、結構おいしかった。
 娘が大学の入学式に着るスーツをオーダーメイドできたのもよかった。子供のころから親戚や友達のお下がりばかり着ている娘は、ネパール人経営の店でぴったりサイズに仕立ててもらった黒のスーツが、ことさらうれしかったようだ。三種類の服地から中程度のものを選び、仮縫い、直しを含めて、お値段は4000バーツ(約12,000円)。

 それにしても、タイの物価はよくわからない。中華街で食べた、豆乳に麦などを入れたおいしいデザートはわずか5バーツなのに、サイアムパラゴンなどの高級ショッピングセンターでは、Tシャツが3000バーツ、ちょっとすてきなワンピースだと12,000バーツもする。円やドル建てで給料をもらっている人をターゲットにしているのだろうか。ブランド品に縁も興味もない私たちは、プラトゥーナム市場で買う70バーツのTシャツで充分だ。

イラスト・東郷なりさ
 タイはいま総選挙直前とあって、いろいろなところで賛否両論を聞かされた。タクシン首相退陣と選挙の中止を要求するデモに参加している人もいれば、ここまでタイ経済を発展させたのは彼だと評価する人もいる。国民がここまで政治に関心をもっているだけ、健全なのかもしれないが、どうも選挙後、タイの社会も経済も混乱しそうな嫌な予感がする。国を代表する人はスターとして崇められるか、悪人扱いされる。でも、本当は首相一人を挿げ替えて解決する問題ではなく、経済の急成長によって生じた国民のあいだの大きな歪が、こんなかたちで噴出したような気がするのだが。

 今回は短いバンコク滞在だったけれども、思い切って出かけただけのことはあった。さあ、これから一週間分の仕事の遅れを必死で取り戻さなければ!

(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2006.5.2更新)

その78

 小学生の英語教育は必要か。中央教育審議会が小学校における英語の必修化を求める報告をまとめたため、そんな議論がまたさかんに聞かれるようになった。背景には、アジア諸国の若者がどんどん英語力をつけて世界的に活躍しはじめているなか、日本人の英語力がなかなか向上しない、といった歯がゆさがあるようだ。

 こういった議論を聞くたびに、英語にたいする日本人のアレルギーの強さに驚かされる。英語力を出世のための必須条件のように強調する人がいる一方で、英語学習によって日本語が疎かになると危惧する人もいるし、英語などできなくても不自由しないと開き直る人もいる。いずれの場合も、英語への過剰な意識の表われに思われるのは気のせいだろうか。

 戦争中、英語は敵国語として使用が禁止されていた。戦後はそれが一変し、いち早く英語を身につけた人が、支配者である占領軍ないしアメリカ文化に取り入って地位を築いた。その苦い記憶が国民のなかに深く染みついているのか。あるいは、いつまでたっても思うようにしゃべれず、ネイティブ・スピーカーから見下されている気がするからなのか。それがちょうど、片言の日本語を話す外国人や、方言を笑っていた自分の姿と重なるのか。

 きれいな発音を身につけることによって、アレルギーを克服できるのであれば、それこそ小学生のうちに始めたらいい。いわゆる英会話ではなく、徹底した発音練習をするのだ。発音練習はつまらないし気恥ずかしい。でも、その言語の音に慣れ、リズムを身につけていけば、言葉は自然にでてくるようにもなる。子供なら童謡やゲームを使った訓練も可能だし、耳もまだ新しい音を学習しやすい。たとえ、発音練習に一年かけても、結果的にこのほうが近道だ。極端な話、『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授が言うように、「きちんと発音さえしていれば、話の中身はどうでもいい」と思う人だっているのだ!

 しかし、そこまでして英語の学習に時間をかける意味があるのだろうか。フランス人は母国語にこだわりがあることで有名だが、彼らも「English is money.」と言いだして久しい。グーグル検索したら、中国語ではこれを「英語就是銭」というらしい。もちろん、そういう一面もある。現に私は、英語の能力のおかげで食べているのだから。でも、本当はもっと根本的な問題だ。

 その理由をうまく言い表す言葉を思いあぐねていたら、今朝の新聞に、戦犯として裁かれ、文官でただ一人絞首刑になった広田弘毅が孫に語った言葉がでていた。「自分に恥じない人間になりなさい。そして何か他国語を一つ覚えなさい」、と。広田弘毅は法廷で「黙して語らず」の姿勢を貫き、遺族も東京裁判のことは語らなかったそうだ。エリートとして激動の時代を生きた人が、巣鴨プリズンに面会にきた孫にこう語ったとき、自身の70年の人生をどう振り返っていたのだろうか。孫の未亡人は、「外交官だった広田は、外国語を通じて他国を知ってほしい。悲劇は繰り返すなと言いたかったのでは」とコメントしていた。

 そうだ、別に英語でなくてもいい。外国語を学ぶことは、自分を外から見つめ直すことなのだ。自分とは違う考え方をする人がいて、自国内では当たり前なことも、他国でかならずしもそうではないと知れば、許容量が広がる。英語が母国語の人も、他の言語を学ぶことで世の中の見方が変わるはずだ。そろそろアレルギーを克服して、外国語を学ぶ意義を考え直してはどうだろうか。誰にでも一枚くらい、自分を見つめる鏡が必要だ。

(とうごう えりか)





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東郷えりか(2006.6.2更新)

その79

 昼下がりの眠くて能率があがらない時間帯に、私はよく買い物にでる。最近このくらいの時間になると、近所のお母さんたちが腕章をつけて道路脇に立っている。小学生の下校時間だからだ。

 自分たちの手で子供を守らなければ、という風潮が高まったのは、あの宮崎勤事件からだろう。幼い子に性的なはけ口を求め、自分の欲求を満たすためなら、この世にまだ数年しか生きていない者の命を奪うこともためらわず、それどころか子供を殺すことに快感すら覚える人間が、善人そうな顔して普通に暮らしているという現実を知って、それまでかろうじて保たれていた社会の信頼関係が一気に崩れてしまったのだ。当時、新米の母親だった私は、あんなむごいやり方で子供を奪われた親の心境を思い、自分でも息が苦しくなるほどだった。

 子供が巻き込まれる事件があるたびに、私はよくレイモンド・カーヴァーの短編『ささやかだけれど、役にたつこと』を思いだす。誕生日のケーキを注文して待っていたのに、その当日、子供が事故死し、そこへ奇妙な電話がかかってくる話だ。殺人事件ではないけれど、日常生活がある瞬間から残酷に崩されるという点がよく似ている。ずいぶん以前に一度読んだきりなので記憶が定かでないが、病院に運ばれてどんどん容態が悪くなる子供を前にして、こんなことが起こるはずがない、事故の起きる前に戻りたい、と必死で願うくだりがあったと思う。ほんの数時間前、いやほんの数十分前に戻れれば、あの角さえ曲がらなければ、といったわずかな願いですら、現実にはかなわない。いったん起きてしまったことは、もう取り返しがつかないのだ。

 だから、子供の帰りを待つ親は、いまこの瞬間にも魔の手が迫っているのではないかと不安に駆られてしまう。子供に携帯電話をもたせ、たびたび居場所を確認し、早く帰ってこいと念を押す。世界のほとんどの国は日本よりも治安が悪いから、集団登下校どころか、保護者による送り迎えがすでに日常となっているところも多い。

 しかし、子供にしてみれば、さぞかしうっとうしいことだろう。四六時中、親や大人の監視下にあったら息が詰まる。過干渉の親のもとで育った子は、自分の自立が脅かされると感じて、他人と距離をおく孤立型タイプになるそうだ。逆に放任主義の親のもとで育てば、年中、人と一緒にいないと不安になり、べったり型になるらしい。親子のあいだの適度な距離は、子供が将来、良好な人間関係を築いていくうえで欠かせないものだが、こういうご時勢では、どうしても過干渉に偏りがちだ。

 夕方のパトロールや登下校の監視役に駆りだされる親の負担も大きい。これでは、働く母親はPTAで肩身が狭いにちがいない。送り迎えが必要となれば、専業主婦になるか、代わりの人を頼むしかない。仕事と子育ての両立が難しくなれば、少子化は進む一方だ。

 では、どうすればいいのか。名案は浮かばない。おそらく、社会で子供たちを守るという意識を高めるしかないのだろう。防犯パトロールでなくてもいい。犬の散歩でも、道端での立ち話でも、要は人目があることが肝心なのだから。そう考えれば、たまたま下校時に買い物にでている私の行動も、本当にささやかだけれど、近所の子供たちの役に立っているかもしれない。

(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2006.7.2更新)

その80

「ジグミ皇太子のニュースを見るのに夢中で……」。しばらく音沙汰のなかったタイの友人がこんなことを書いてきた。タイ国王の在位60周年記念行事に出席した各国の王族のなかでひときわ輝いていたのがこのブータンの皇太子で、タイの女性のあいだで大人気だとか。 王族なんてあまり関心はないけれど、友人はどんな男性が好みなんだろうと好奇心がわいて、早速いつものとおりインターネットで「ジグミ(メ)」「ブータン」と検索してみた。すぐさま着物のようなものを着て、にこやかに微笑む人物がでてきた。「4人の妻がいて全員姉妹……」。えっ、この人を?と思ってよく見たら、これはお父さんのジグミ国王で、私の友人が惚れこんでいるのは、息子のジグミ王子。のほうだった。オックスフォード卒の26歳。礼儀正しく謙虚かつ気さくな人柄で、なんと言ってもハンサム、と彼女はベタ褒めだ。

 いくつかの写真を見くらべながら、私は考え込んでしまった。この顔どこかで見たことがある。確かにハンサムだけれど、白い歯を見せて笑っている姿なんて、ひと昔前によくいた、いかにも正義の味方風の面長の俳優や歌舞伎役者みたいだ。丹前のようなものを着ているところも不思議だ。ブータン人って、こんな顔をしているんだろうか。

 ブータンという国があることは、子供のころからよく知っていた。なにしろ、国名がかわいいし、しかも、その首都がティンプーときている。『ヒマラヤの孤児マヤ』のネパールの隣でもあり、地名探しゲームにもよく出題されていた。でも、ブータンにどんな人が住んでいるかなど、恥ずかしながらいままでまったく知らなかった。

 ブータンはチベットやインドの巨大な文化圏のはざまで、長年、外国人の立入を厳しく制限して伝統文化を保持している国で、GNPならぬGNH(国民総幸福)の追求を目標にしており、いまひそかに注目されているらしい。国民は、インドのアッサム地方から北上した一派と、北から南下したチベット系民族で構成されており、ブータンを訪れた日本人の多くが、この国の人びとに不思議な親近感を覚えるようだ。

 日本とブータンのつながりはまだ明確にはわからないようだが、朝鮮半島経由で日本に渡った人びとと、どこかでつながっているにちがいない。DNAを調べて分析したら、おもしろい結果がでそうだが、自然人類学はとかく人種や民族の優劣を取りざたする厄介な問題につながりやすいし、いまは個人情報という点でも難しいのだろう。

 日本人は古来より日本列島に住み、独自の文化を築いた民族だとよく言われるが、「古来」というのは、実はたかだか奈良時代あたりらしい。このころ同じ日本列島の住民という意識が芽生え、『日本書紀』という歴史を古代にさかのぼって書き、日本語をつくり、国民形成がおこなわれたのだ。それ以降の世代にとっては、その歴史が事実になった。

 もちろん、言語、宗教、食べ物など、長年、同じ文化を共有することで民族はかたちづくられるのだから、たとえDNA上の共通点があっても、まるで違った人間ができあがるだろう。でも、ブータン人にこれほど親近感を覚える人が多いということは、数百年、数千年程度の歳月では変わらない、血によるつながりがあるはずだ。

 ともあれ、ジグミ皇太子のおかげでまた少し関心が広がった。短期間のタイ滞在で、これだけブータンに外国人の関心を集めることに成功したのだから、あっぱれと言うべきか。

 
(とうごう えりか)





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東郷えりか(2006.8.5更新)

その81

 先日、家のそばの細い坂道に入ったところで、前方に小学校の一、二年生と思われる男の子が歩いているのが見えた。ふと見ると、泣きべそをかいている。子供と言えど、泣き顔は見られたくないかもしれないと思い、見て見ぬふりを決め込んだ。ところが、その子は私のほうを何度もちらちらと見る。ついに目が合ってしまったので、思い切って声をかけた。「どうしたの?」
 「忘れ物しちゃったんだけど、もう学校に入れないんだ」と、その子は言った。
 よく聞いてみると、防犯上の理由で、いったん学校をでたら、もう教室に戻ってはいけないことになっているようだ。その日はちょうど金曜日で、大事なものを学校においてきてしまったことが、ひどくショックらしい。どうせ大切な玩具か何かだろう。
 そんなことで泣く奴がいるか、と喉まででかかった言葉をのみこみ、何食わぬ顔で提案した。「まずお家に帰ってお母さんに頭を下げて、一緒に行ってもらえないかって頼んでみたら? 上級生はまだ授業中だし、お母さんがいればいいって先生も言うかもしれないよ」
 男の子は半信半疑で私を見た。
 「それでもダメだったら、あきらめるんだよ。でも、とにかくやってごらん」
 おばさんに入れ知恵されて、男の子は笑顔になり、喜んで駆けていった。その後、どういう結果になったかは、もちろん知らない。
このとき私の頭に浮かんでいたのは、じつは「平静の祈り」の文句だった。「神よ、われらに与えたまえ。変えられないものを受け入れる平静さを。変えうるものを変える勇気を。そして、両者の違いを見分ける知恵を授けたまえ」
 この祈りを最初に唱えたと言われるラインホールド・ニーバーという神学者は、政治にも積極的に関与した人なので、本当はどれだけの人格者だったのかわからないが、少なくとも、この祈りの文句だけは、私の重要なおまじないになっている。
 世の中にはいろいろな慣習や決まりがあるけれど、それらはしょせん共同体をうまく運営するために誰かがつくったものだ。つくった人があらゆる場合を想定できるわけではないし、時代とともに社会をとりまく事情も変わってくる。どう考えても納得のいかないことだって多々ある。そうした決まりごとは、盲目的にしたがわなければならないものではないし、かと言って自暴自棄におちいってやみくもに破っていいわけでもない。
 普通の大人なら、「決まりだから仕方ないわよ。忘れ物をしたあなたが悪い」と諭すのだろうか。でも、あきらめきれないものもある。自分に正当な理由があると思えば、大人を説得することだって不可能ではない。そのためには信念も勇気も話術も必要だ。そういったものを、子供のころから少しずつ身につけていかなければ、不満をかかえながらじっと黙っているつまらない人間になるだけだ。ある日、その不満が大爆発することもある。
 もちろん、あらゆる手をつくしてもだめなこともある。そのときは、その事実を淡々と受け入れる心構えも必要だ。とにかく、精一杯やったのだ。そう思えれば、案外あきらめもつく。難しいのは、いまが「変えられない」状況になったのか、それともまだ「変えうる」状況なのか、判断することだ。それは、子供のころから少しずつ体得していくしかないのだと思う。

 
(とうごう えりか)





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東郷えりか(2006.9.2更新)

その82

 このあいだ、カレーをつくろうと思ってラム肉を買った。パッケージに書かれた「仔羊肉」の表示を見て、一瞬どきりとした。このところカレーの本の仕事をしていたのだが、カタカナ語を減らそうと、マトンは羊肉、ラムは子羊肉としていたからだ。「子羊肉」では、メリーさんの羊を連想させてしまうかもしれない。編集者に相談した結果、「仔羊肉」とすることで落ち着いた。動物の子を「仔」と表記し、人間の子と一線を画せば、生まれて間もない羊を、私がカレーにして食べることへの罪悪感が少しだけ消える、ということか。

 この件が妙に引っかかっていたところに、板東眞砂子さんが日経新聞に寄稿したエッセーで「子猫殺し」を告白し、それが大きな波紋を呼んでいることを知った。昨年、毎日新聞に連載された彼女のエッセーを読んでいたので、タヒチでのおおらかな暮らしぶりはおよそ想像がついた。南国の島では、人も動物もずっと自然に近い、ありのままの生活を送っている。避妊手術はせず、子猫が生まれたら自宅隣のがけ下に放り投げる、という行為は、確かにショッキングだが、あの背景ならまったく理解できないことではない。

 もう二十年も前のことだが、タイの山岳民族の村で、池のまわりに子供たちが数人いて、鶏の羽をむしっているのを見たことがある。おそらくヒヨコから育て、さっきまで庭先にいた鶏だろう。その生々しい光景に私は血の気が引いたが、子供たちは嫌な顔一つせず、むしろ今夜はご馳走だぞと言わんばかりで得意げに見えた。ペットと家畜の線引きがあいまいな農村では、動物の生も死も生殖も日常の営みなのではないだろうか。

 タイには野良犬もたくさんいる。乳首がずらりと並んで垂れ下がっている母犬をよく見かけたし、白昼堂々と交尾していて目のやり場に困ったことも何度もあった。日本では毛並みのよいお散歩犬しか見ないので、そうか、犬って本当はこんなだったな、と子供のころを思いだした。いまの日本で見かけるペットの犬猫の多くは、グラビアモデルのようにきれいだけれど、絹のお仕着せを着て宮廷に住む宦官のようなものかもしれない。

 人間と動物がともに暮らそうとすると、それが家畜であれ、ペットであれ、どうしても不自然なかたちになる。食べられる動物の場合は、人間の胃袋に収めてしまえば、頭数の管理は容易にできる。しかし、食べにくい動物、利用しにくい動物はどうすればいいのか。こうした問題は、現在では野生動物でも起きているという。人間が特定の動物だけを保護しすぎると、それらばかりが頭数を増やし、環境を破壊してしまうのだ。鹿は最近、間引いて肉や革にする方向に進んでいるらしいが、猿はどうするんだろう?

 板東眞砂子さんのエッセーは、人間社会がかかえている大きな問題に目を向けさせるものだと思う。彼女のやり方がかならずしも正しいとは思わない。いまの世の中には、子猫のような無力のものを殺すことに快感を覚える病的な精神の人がいることも考慮すべきだし、猫くらいの知能の動物にとって、避妊手術を施されることと腹を痛めた子を殺されることと、どちらがより苦痛かも検討の余地があるだろう。

 それにしても、今回の騒動で何よりも嫌だと思うのは、問題を真っ向から見詰めた彼女にたいして、ヒステリックな抗議運動を起こしたり、ネットで匿名の暴言を吐いたりする人がこれほど大勢いる事実だ。自分の価値観だけが絶対に正しいと信じているのだろうか? 私にはむしろ、自分のうしろめたさを指摘されて逆上しているとしか思えない。  

 
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2006.10.3更新)


手入れの行き届いた(届きすぎた?)近所の公園



メキシコ湾:浜辺に水鳥がたくさんいた。


ついに食べたピーチコブラー:3人で食べてちょうどいい量だっ た。



アラモ砦:街中にあって、きれいに修復されているせいか、壮絶な戦いの跡地には見えなかった。
その83

泊めてもらったお宅のウッドデッキで――
実はせっせと仕事をしているところ(画・東郷なりさ)

 10日間ほどアメリカへ行ってきた。高校時代にお世話になったホストファミリー宅に泊めてもらったため、テキサス・オンリーの旅だったが、大学生になった娘を連れて四半世紀ぶりに訪れたアメリカ旅行には、多くの感動と新たな発見がたくさんあった。

 テキサスはアラスカに次いで二番目に広いせいか、メキシコ湾沿いにあるためか、全米で最も鳥の種類が豊富な州らしい。私たちが滞在したヒューストン郊外の一帯は、グリーンベルトと呼ばれる緑の回郎が整備されていて、裏庭を抜けると、幅1.5メートルほどのコンクリート舗装の小道にぶつかり、そこを歩くだけで真っ赤なカーディナルやアオカケスはもちろん、42センチの大型キツツキにまで出会える。住民の多くは、この回郎をサイクリングやウォーキングに利用し、みごとに手入れの行き届いた湖畔の公園やゴルフ場で余暇を楽しんでいる。現地で知り合った鳥好きの人に、一日、メキシコ湾へ連れていってもらい、巨大な精油所の建ち並ぶ湿地帯で無数の蚊にたかられながら、多くの水鳥も見た。

 週末はサンアントニオとテキサス・ヒルカントリーを旅行した。アラモの砦も見に行った。1835年〜36年のテキサス独立戦争の折、ここでメキシコ軍と戦って命を落としたデイビー・クロケットら187名は、「メキシコ政府の圧制から自由」を守るため、命も惜しまなかった人びととして、アメリカ人に英雄視されている。この戦いに勝利して、テキサス共和国ができた9年後には、この広大な土地すべてがアメリカ合衆国に併合された。

テキサスには膨大な石油と天然ガスがあり、行く先々で小さな石油採掘機がちょっとした空き地で稼働しているのを見かけた。ガソリンの値段を見ると、1ガロン当たり2ドル35セント。1リットル72円くらいだろうか。日本のほぼ半値だ。テキサスが独立せず、メキシコ領のままだったら、世の中は変わったに違いない。一日中エアコンをつけ、どこへ行くにも車に乗るアメリカ人の暮らしを、これらの石油が支えているのは間違いない。

 レストランでは、楕円の大皿に盛られた大量の料理がでてくる。店内を見回すと、8割くらいは肥満した人で、そのうち2割は信じられないほどの巨体だ。大量に食べて、大量のゴミを分別せずに捨て、ダイエット食品や薬に頼り、多くの時間をエクセサイズに費やす。なんと無駄の多い生き方か、と思わざるをえなかった。

 一方、9・11がアメリカ人の心に残した傷の大きさも、言葉の端々に感じられた。かつては世界中の人びとの羨望の的だったアメリカ文化も、いまでは批判の対象になるばかりだ。それが彼らの自尊心を傷つけ、ナショナリズムに走らせているように思った。

 でも、アメリカのそうした側面に賛成しないからと言って、アメリカ人全体を憎む必要はないし、アメリカ文化を全面的に否定する必要もない。今回の旅では、多くの人びとから温かい好意を受けた。エルパソからわざわざ会いにきてくれた昔の友人は、おいしいタコスをつくってくれたし、サンアントニオで泊めてくれた友人は多忙にもかかわらず町を案内してくれた。とりわけうれしかったのは、気難しいホストファーザーが、旅先からの私たちのリクエストに応えて、コーンブレッドを焼いて夕食を用意してくれていたことだ。私がモーニングサンダーという紅茶が好きだったことも、娘にリコリスを味見させたいと言ったことなどもちゃんと覚えていて、帰り際にさりげなくもたせてくれた。今度は25年も待たずに会いにきてくれよと言われ、私は強くうなずいた。   

 
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2006.11.3更新)

その84

 10月になって娘の大学が始まり、朝5時半に起きて弁当をつくる生活に戻った。早起きするせいで午前中が有効に使えるのはいいけれど、午後になるとさすがに集中力も切れてくる。しかも、このところ日がな一日、恋愛小説を訳しているので、唯一の楽しみは、あと何ミリ……と右側半分のページの厚みが減っていくのを確かめることだったりする。

 「おとぎ話のような恋」とか書かれていると、ついげんなりしてしまう私だが、どんな本にもそれなりに発見はある。見知らぬ著者が書いた話を1文1文訳していく作業のなかで、訳者は著者の視点に立って物事を見ざるをえない。ただ読むだけなら、気に入らなければ本を閉じてしまえばいいし、反論も批判も自由だ。でも、翻訳の場合は、最後まで著者に付き合い、その主張を文章にしなければならない。だから、思考回路が異なる著者や、価値観の違う書き手の作品は疲れる。でも、考えてみれば、そういう作業をすることで、自分とは違う理論で、違う常識で物事を眺める習慣はついたのかもしれない。

 たとえば、今回のヒロインは望まない妊娠に気づいたとき、自分で産んで育てるか、養子にだすかで迷う。一瞬、abortion(中絶)の間違いかと思ったが、確かにadoption(養子縁組)だった。舞台がアリゾナ州という保守的な土地だからか、中絶は選択肢にものぼらなかった。女性の場合、妊娠・出産は多くの犠牲をともなうから、養子にだしても世間体を保つうえでは役立たない。それでも、産むか産まないかの選択はなく、あるのは自分で育てるか人に育ててもらうかの選択だけなのだ。中絶が合法で、水子供養という免罪符までそろっている日本とはずいぶん違う。結局、未婚の母や養子制度を受け入れる許容量が社会にあるからなのか。堕胎は殺人という倫理観の問題なのか。それとも、アリゾナでは単に中絶が基本的に違法だからか。

 こうしたことを考えだすと、しだいに頭が煮詰まってきて、それ以上パソコンの画面と向き合っていられなくなる。そこで、小雨のぱらつく強風のなか、私は外へ飛びだした。別にどこでもいいのだが、数年前、精神的に辛かったころよく通った神社に久々に行ってみた。途中の山道は、いまやすっかり住宅街に変わっていて、その真ん中に、梨農家が、バージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』のように、所在なげに座っていた。あと何十年か経てば、この家も、私が存在した痕跡もどうせなくなるのだから、あれこれ思い煩っても仕方ないか、と妙に心が軽くなる。

 神社でわずかな賽銭を入れ、盛りだくさんのお願いごとをしたあと、急な坂道を登る途中で子猫を見つけた。あとを追うと、合計3匹の子猫と親らしき猫が2匹いた。子猫のうちの1匹は三毛猫だ。そう言えば、先ほどの小説に雄のcalico catがでてくるけれど、確か三毛猫はかならず雌と聞いたような……。家に帰ってネットで調べてみると、3万分の1の確率で三毛の雄も産まれることがわかった。猫の毛の色が変化してきたのは、人間がペット化したせいで、野生の猫は自然に同化する色になることも知った。要するに、適者生存の原理がどちらでもはたらいているのだ。ペットではきれいな色が好まれ、自然界では目立たない色が生き延びる。

 こんなことをあれこれ考え、調べ、あとはひたすらパソコンに文字を打ち込んで、私の1日はまた過ぎていく。よく耐えているね、と娘にしょっちゅう言われている。でも、自分で選んだんじゃない、とも。 

 
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2006.12.3更新)




デスクトップ用の画像が無料配布されていたので、それを拝借しました。
その85

 久しぶりに映画を観てきた。ガエル・ガルシア・ベルナルというメキシコの俳優が主演する「キング 罪の王」というアメリカ映画だ。テキサス南部に住むキリスト教原理主義の牧師一家に、ある日、突然、隠し子が訪ねてくることから始まる悲劇、という内容に興味をひかれて、わざわざ渋谷まででかけた。

 製油所が建ち並ぶ湿地帯も田舎町も、小ぎれいな住宅街も、この夏に私が訪れた場所とよく似ていたし、ドリー・パートンやボブ・ディランの音楽はなんともやるせない。ロックバンドが「ジーザス、ジーザス」と叫ぶキリスト教原理主義の教会の場面は、いかにもアメリカ的で興味深かった。しかし、なんと言っても、ストーリーの展開があまりにも衝撃的だった。クレジットが流れ終わるまで、放心したように席を立てなかったのは、私だけではなかったようだ。

 ベルナルが演じる貧しい生い立ちの小柄なメキシコ美青年エルビスが、ウィリアム・ハートの演ずる、いかにもテキサス人風の大男の父親と対峙する場面では、おそらく誰もがエルビスに共感するだろう。美しい異母妹との禁じられた恋あたりまでは、偽善的なアメリカ社会との対比で、圧倒的にエルビスのほうが有利だ。ところが、しだいに彼の突飛な行動に観客はついていけなくなり、苦悩する牧師一家のほうに共感しはじめ、やがて衝撃的なラストでは、いったいなぜこんな結果になったのかと呆然とさせられる。主人公が途中から共感できない人物に変わるのだから、当然、観終わった後味は悪い。

 エルビスが初めて父と対面したとき、父親は一応の礼儀はつくしながらも、内心のうろたえを隠し切れない。あのとき、もう少しエルビスを温かく迎えていれば、悲劇は防げたのだろうか。それとも、中途半端に受け入れたりせず、きっぱりと拒絶すべきだったのか。

『なぜノーマ・ジーンはマリリン・モンローを殺したか』という本に、モンローが実父を捜し当てて電話をかけた際に、冷たくあしらわれるエピソードがでている。生まれる前から父親に捨てられ、ほぼ養育を放棄した母親ものちに精神病院入りする、という境遇のモンローは、36年の短い生涯のあいだずっと、自分は親からも見捨てられた存在だという劣等感に悩まされた。女優としてどれだけ成功し、数知れない恋をしても、彼女の心の空虚感を埋めることはできず、最終的にやり場のない怒りを自らに向けることになったという。

 親との関係は、人間の根幹をなすものだ。親の愛という生得権を奪われた子は、それを得ようと空しい努力をする。早くに親に死なれた子は、運命を呪うしかない。自分から親を奪った相手がいると思えば、その相手に嫉妬する。子供にとって欲しいのは親の愛情だから、捨てられたことに憎しみを覚えながらも、その一方でまだ愛情を求めずにはいられない。エルビス青年の不可解な行動は、こんな相反する気持ちからくるのではないか。

 幼少時に心の傷を負った人は、成長してから情緒面や人格面に問題が生じるともいう。知能的にはなんら問題もないし、傍からはごく普通の人に見えるのに、極端に自尊心が低かったり、自己中心的だったりし、感情の起伏がやたらに激しかったりするのだ。そこに生活苦や人種的偏見などが加われば、怒りを外に向けて犯罪者となる人間は容易につくられる。離婚や日本人の父の認知・養育拒否などによって極貧の生活を強いられる「新日系人」が、フィリピンには2万人以上いるという。この映画が理解できないのではなく、実は現実の社会のほうが理解できないのかもしれない。

 
(とうごう えりか)