【コウモリ通信】バックナンバー 2007年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2007.1.9更新)




十数年前はまだこんなだったが……



その86

 年末年始は、例年どおり船橋の母のところへ行ってきた。私が生まれ育ったマンモス団地は、数年前から建て替え工事が始まっており、母が住む地区も今春には全住民が立ち退かなければならない。だから、今回は正月休みというよりは、荷物の片づけに行ったようなものだった。

 総数4600戸あまりというこの団地は、かつては子供であふれていた。私が小学校に入学したころは、たしか1クラス50人ほどで12学級もあり、あまりの児童数に4年生の1年間は近所の公園に建てられたプレハブの分校に追い出されたほどだった。

 高齢化、少子化の波はここにも押し寄せていたが、うちの娘が幼かったほんの十数年前まで、近所にはまだ子供がそれなりにいて、異年齢の子が一緒になってよく遊んでいた。未整理の写真を片づけていたら、花見や水遊び、夏祭り、お月見、鮭鍋、芝滑り、雪の日のかまくら作りに橇やスキーなど、近所の人たちと家族ぐるみで遊んだ日々が蘇ってきた。

 そんな幼なじみも、建て替えが決まってからは一人去り、二人去りといなくなり、代わりに空き家の数がどんどん増えていった。現在、母校は全学年合わせて50人ほどしか生徒がいなくて、この3月で閉校になるそうだ。

 片づけの合間に、ゴーストタウンとなった近所を歩いてみた。建物はまだ昔と同じように残っていても、人の住んでいない家は一目でそれとわかる。窓が真っ黒だったり、反対側の窓を通して空が透けて見えたりするからだ。なんだか瞳孔の開いた目を見てしまったような、不安な気分になる。もう何ヵ月かすれば、ここはすべて更地になり、次に訪れたときには、まるで見当もつかない場所に変わっているのだろう。しょせん、形あるものはすべて歳月とともにいずれなくなるのだから、あまり感傷的になっても仕方ないが、もう二度と見られなくなる光景を、娘の友人からお借りしているデジカメで撮ってきた。

 大晦日は、今年も真夜中に30分ほど歩いて、光明寺というお寺まで除夜の鐘をつきにでかけた。例年、近くまで行くと鐘の音が聞えてくるのに、今年はなぜか聞えない。もう人手のかかる鐘つき行事はやめてしまったのかと心配になったが、着いてみると今年もちゃんと、地元の消防団や町内会の人たちが篝火を焚き甘酒を振る舞いながら、待っていてくれた。新年と同時に鳴りはじめた鐘の音を聞き、火の粉をあげる裸火を眺めつつ、今年もこうして新年を祝えることを、しみじみとありがたく思った。変わらずにあるものを当たり前と思わず、それがまだこうして存在してくれることを感謝しなければならない。

 元旦は、行徳まで初日の出と初鳥見にでかけた。行徳駅に着いたころには、すでに空が白みはじめていたが、競歩の選手になれそうな勢いで海まで急いだ甲斐あってどうにか間に合い、対岸にビルが建ち並ぶあまりにも都会的な海で、波間に浮かぶスズガモやカンムリカイツブリを眺めながら初日の出を拝んだ。そのあとは、行徳鳥獣保護区で娘の鳥仲間と一緒に観察会に参加し、穏やかな元日の朝にのんびりとバードウォッチングを楽しんだ。これまた別の友人にお借りしたスコープを担いで、一端のバーダーになっている娘を見ながら、こうして一緒に過ごせる日も、もうあまりないだろうと思った。

 みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2007.2.6更新)

その87

 中学の部活で腰を痛めて以来、私は座るときの姿勢には人一倍気を遣っている。バランスチェアを10年近く愛用しているし、水泳、散歩、ストレッチ等なんでも試している。それでも、締め切りが近づいて気持ちの余裕がなくなると、座りっぱなしの時間が長くなり、たちまち腰の調子が悪くなる。

 そんな話を昨年、友人にしたら、バランスボールに座ってみたらどう?と勧められた。エクセサイズボールとかヨガボールとかいろいろな名称で呼ばれている、直径50〜60センチくらいのビニールボールのことだ。最近、まわりでぎっくり腰になる人が続出したこともあって、数週間前ついにこのボールを購入してみた。

 ボールをパソコン用の椅子代わりにすると、ゆらゆらしすぎて私には集中できないことが判明したが、別の使い道を発見した。両足を床につけずに、この上にできるかぎり長く座っていられるようにするのだ。それも、お湯が沸くのを待つあいだとか、メールの受信中とか、そんなちょっとした時間を見つけては、ボールの上に座る。あまり動かなければ5分くらいは乗っていられるし、前後左右に身体を動かしてもそれほど落ちなくなった。

 バランスを保とうとすると、腰のあらゆる筋肉を使うので、なかなかいい運動になる。これはまさに一輪車の要領だ。あるいは、コブ斜面をウェーデルンで滑っている感覚と言ってもいい。スキーでは、腰の位置さえ安定していれば、多少のコブは足で吸収できる。モーグルの選手なら、大きく跳ねとばされてもうまく着地できるのはご存じだろう。

 学生時代はスキーばかりやっていたけれども、実際にはそこから多くのことを学んだ。滑るとき一番よいのは、跳びあがって着地したときの自然体の姿勢だということ。斜度とスピードという2つの恐怖にとらわれているうちは、身体がすくんで何もできないこと。脚で無理に回すのではなく、自分の体重を利用すること。そして、何よりもバランス感覚と柔軟性。前過ぎず後ろ過ぎず、高過ぎず低過ぎず、しかも斜面の状況に合わせてつねに変化する微妙な腰の位置を習得するまでに、私は何年もかかった。

 一輪車は、空中乗りができるまでに上達したが、一度ひどい尻餅をついて病院で恥をかいて以来、怖くて乗っていない。スキーも、ろくに滑らなくなって久しい。でも、バランスボール乗りなら、怪我の心配もあまりなく、ちょっとした時間に気軽にできる。しばらく練習したら、昔の感覚がかなり蘇ってきた。このままつづければ、いつかサーフィンができるようになるかもしれない! 何よりも、腰の調子がいいことがうれしい。たとえバランスチェアでも、同じ姿勢をつづけること自体、腰には負担だからだ。

 バランス感覚は、腰痛に効くだけではない。人との関係でも、金銭面でも、健康面でも、政治でも、ファッションでも大切なものだ。自分の主張ばかり一方的に押しつけて、頑なな姿勢を貫けば、やはりどこかに無理がくる。人生は山あり谷ありで、ときには大きな波に流されてしまうこともある。そんなときは同じ姿勢で踏ん張るよりは、思い切って波と一緒に跳びはね、うまく着地するほうが懸命だ。出すぎたら引っ込める。引っ込みすぎたら出す。こうした柔軟な姿勢が、結局なにごとにおいても一番よい結果を生むのだと思う。学生時代、スキーばかりやっていたのは、ある意味で私なりに人生の哲学を学んでいたのである。

 
(とうごう えりか)







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東郷えりか(2007.3.3更新)


中華街にも黄色いTシャツがあふれている

こんなごちゃごちゃした光景にも

よく見るときれいな紫の花が

タイ北西部の森で鳥見に興ずる
 こんなごちゃごちゃした光景にも
夕日に染まる新空港――ピンボケですが
その88

 今年もまたタイへ行ってきた。20数年にわたって、この国とのあいだを何度往復したことか。それぞれの滞在は短くとも、少しずつ勝手を知るようになり、いまや私にとってタイはナルニアやホグワーツのような存在になっている。なにかと評判の悪いスワンナプーム新空港は、ボーディング・ブリッジで空港ターミナルに接続されていたため、以前のように到着した途端タイの熱気に迎えられることはなかったが、空港をでると外は30度を超える暑さだった。着ていた冬服を脱ぎ、時計を2時間巻き戻すと、変身完了。

 ちょうど春節だったので、バンコクの街中では今年の干支である猪、というより豚の絵柄付きの赤いTシャツがたくさん売られていた。旧正月の翌日、赤一色に染まった光景を見ようと中華街にでかけてみたが、月曜日だったため、ここでも黄色いTシャツ、ポロシャツ姿のほうが目立っていた。タイでは曜日ごとに色が決められていて、黄色は月曜日の色なのだ。現国王が月曜生まれであるため、国王への敬意を表わすために、昨年の即位60周年から毎週月曜になると街中に黄色いTシャツが氾濫するのだという。外国人の目にはちょっと異様な光景だ。私はつい黄巾の乱とか、黒シャツ隊を連想してしまう。

 むしろ、あらゆるものが混在していることがタイの短所でも長所なのに、と私は思う。街並だって統一感がまるでなく、決して美しくはない。この季節は木の花の盛りで、あちこちにきれいな色の花が咲いているのだが、その下をショッキングピンクのタクシーが走ったりして、台無しにしている。でも、ふと目を向けた先に極彩色の鳥がいたり、迷い込んだ路地に小さい店がひしめきあう想像を絶する世界が広がっていたり、という驚きこそ、タイの魅力なのだ。100円以下でクウィッティアオをすすっている横で、金銀、宝石が並べられている、といった珍妙な取り合わせが、街中いたるところにある。

 東南アジアのなかでは自然に恵まれ、経済的にも政治的にも比較的安定しているタイは、急速にふくれあがる中国とインドという超大国にはさまれ、その餌食になりかねない。外国人が多すぎるという不満の声を、滞在中、何度かタイ人の口から聞いた。自分たちの共同体を守らねば、というタイの中間層の意識が、黄色いTシャツというかたちで表われているのかもしれない。

 今回もまたタイの北西部と東部に、鳥見にでかけた。友人たちが企画してくれた2度目の旅行が、とりわけ楽しかった。環境研究センターとなった原生林のなかを、トラックの荷台に乗って専門のガイドに案内してもらった。夜は私たち一行のためにオイルランプの灯された道を歩いて虫を見にいき、昼間の太陽で熱せられてほんわかと温かい地面に寝転がって星を眺めた。あれがスナック・ヤイ(大犬座)、こっちはスナック・レック(子犬座)と、タイ語で講義を受けながら、多少は理解できたことが無性にうれしかった。

 翌日は常緑の森を抜けて、暑い乾燥落葉樹林を歩いたあと、多少ふらふらになりながらたどり着いた先に、私たちのためにピクニック場が用意されており、その場でソムタム(サラダ)までこしらえてくれた。おまけに、ハンモックでの昼寝付き。まさに天国だ。年中無休で仕事をしなければならない私にとっては、ほんのつかの間のありがたい休息だった。

 最後は所持金を使いはたし、夜行便を待つために早々と空港へ行き、友人がもたせてくれた果物や菓子を夕食代わりに、ベンチで仕事を再開した。すると、ガラス張りの空港全体が夕焼け色に染まりだした。もしや、この空港のドイツ人設計者は、このドラマチックな一瞬のために、この南国でガラス張りの建物を考案したのだろうか? 冷房代のほうが、照明代よりもよほど高くつくだろうに。まあ、薄暗いゲートで目をしょぼつかせながら仕事をする哀れな旅行者に配慮してくれなかったことだけは、間違いない。

(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2007.4.3更新)

その89

 3月初めの大嵐の日に、父が死んだ。訃報を聞いたとき、私はその日が締め切りの原稿と格闘していた。親が死んだというのに、まるで『異邦人』のムルソーのように平然と仕事をつづけている自分に、われながら驚いた。私にとって父はそれだけ遠い存在だったのだ。

 父は私が生まれる前に家をでていき、別の家庭を築いていた。両親が正式に離婚したのは私が中学生になってからなので、小さいころは父もわりとよく家に出入りしていた。その後も定期的に食事や飲みに連れだしてくれたので、一緒に暮らさなかったわりには、父との思い出はそれなりにある。

当時、まわりに母子家庭はほとんどなかったから、私は友達とは父の話をしないよう、いつも努めていた。もともと寡黙な母はめったに父のことを話題にしなかったが、ときおり私のふとした表情に目を留めて、「そういう顔すると、パパそっくりだね」と言っていた。母は娯楽とは無縁の真面目一方の人で、姉も優等生だったので、その陰で落ちこぼれていた私は、自分はダメな父親似なんだろうとよく思っていた。父は大酒飲みのヘビースモーカーで、競馬にパチンコ好きと、母に言わせれば、諸悪の根源みたいな人だった。

 父は私たち姉妹が成人するまで、毎月きちんと養育費を送ってきたし、会えばお小遣いをくれるような人だったが、すべてお金で片づけてしまう父のそんなところが私は寂しかった。実家の鴨居には、昔、父がつくった変な顔の張子のだるまが、色あせて埃をかぶったままずっと置いてあった。肉まんをつくってくれた記憶もあるが、料理好きだったという父の手料理を食べたのは、そのときだけだ。写真のキューピーは、私が2歳くらいの誕生日に父が買ってきたケーキの、バタークリームでできたドレスのなかに埋もれていたはずのものだ。いまだに捨てられずにもっているのは、父が私の誕生日を祝ってくれた証拠だったからかもしれない。「毎年、誕生日には電話をかけてきたはずだよ」と、姉に言われたけれど、あまり記憶にない。

 就職活動をしていたころ、父が吐いた暴言がもとで、私はしばらく父と絶交状態になっていた。その後、自分が泥沼に入り込み、娘を抱えて生きるのに精一杯の日々がつづいたので、大人になってから父に会ったのは、ほんの数えるほどしかない。癌になって入退院を繰り返していると姉から聞いても、見舞いにも行かなかった。

 そんな私が父に連絡するのは、自分の訳書がでたときくらいだった。本を送ると、父はかならず電話をかけてきて、「読みはじめたけど、途中でやめてしまった」とか、「三度読んだけど、よくわからなかった」とか、がっかりするような感想を言っていた。

 いよいよ余命一ヵ月と宣告されたと聞き、私もようやく重い腰をあげて娘を連れて父の家に見舞いに行った。「一番縁の薄かった親子が、こうして会いにきてくれた」と、すっかりやつれて、おじいちゃんになっていた父はうれしそうだった。

 この日、弟も都合をつけて会いにきてくれた。一時期、同じ大学に通っていたこともありながら、その後20数年間、言葉を交わすこともなかった弟と、父の見舞い後、堰を切ったように話を始めた。そこで初めて、私の知らなかった父の意外な側面を教えられた。

 葬儀には、父の子4人と孫9人が初めて一堂に会した。やはり20年近く前に一度会ったきりの妹によれば、父は最期に意識が朦朧としていたのか、彼女のところの小学生の娘を見て、私の名前を呼んでいたそうだ。父はこの世を去ってしまったが、私にはこの齢にして弟と妹ができたようなもので、いまは頻繁にメールをやりとりして、謎だらけだった子供時代の空白を埋めている。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2007.5.8更新)


武相国境之木
2年ほど前にできたてのモニュメント
その90

 私の住んでいる近くに境木という場所がある。昔の武蔵国と相模国の国境で、その名のとおり、「境木」が立っていた場所らしい。国境といっても、律令制にもとづいて線引きしたに過ぎない「くにざかい」だから、主だった街道に木を植え、木柱や石碑を建てる程度で区別がつけられたのだろう。もちろん、なかには箱根や逢坂の関のように、交通の要所として関所が設けられていた場所もあるけれど、日本全国の国境は、基本的にいまの県境と変わらない、ただの行政上の境目に過ぎなかったようだ。

 日本のなかでも、弥生時代から古代にかけては、周囲に濠を巡らせた集落が発達したし、江戸の外堀のようにずっと後世に築かれたものもあるが、町全体を囲む城郭など、物理的に外の人を排除する防衛のための構築物はあまり発達しなかったようだ。ということはつまり、日本列島内は、内部の勢力争いはあっても、どこかの地方から急に大量の避難民が押し寄せてきたり、海を越えて言葉の通じない理解不能な集団が武力で迫ってきたりすることのない、おおむね安定した土地だったのだろう。

 その点、大陸で異民族と接しながら暮らしてきた人の意識は違う。ヨーロッパでも中国でもインドでも、たいていの都市には昔の城壁の跡がある。川や山を越えて、あるいは草原の彼方から異民族の集団が襲ってくるといった恐怖感は、ずっと後世になっても人びとの潜在意識のなかに深く残るのだろう。それでも、豊かで平和な時代がつづくと、商業や人の往来が活発になり、人口も増加する。すると、周囲にめぐらした囲いはなかの人を締めつける邪魔な存在になる。こうしてどんどん城壁は取り壊され、都市は広がっていった。

 だが、繁栄した場所には、おのずと世界中から人が集まる。あとからやってきた異分子が少数であるうちは、誰もあまり気に留めないが、ある程度まとまった数になると、先住者とのあいだでかならず諍いが生じる。戦争という明白な手段によらなくても、移民や難民、海外での労働といったかたちでじわじわと人口移動は起こる。先ごろも、ミラノで中国からの移民が警官と衝突したニュースが報じられたし、イスラム教徒の多いイギリスやフランスでは、失業問題とあいまって行き場のない若者世代の不満が高まっている。

 不況になり、社会不安が増すと、人は安易に強い指導者を求め、大きな政府や強力な警察力に頼りがちになる。イギリスはジョージ・オーウェルもびっくりの監視社会になり、現在は420万台のカメラによって、国民は外出すると1日平均300回撮影されている計算になるそうだ。これではもう、民主主義ではないとか、自由がないとか言って、他国を非難することもできないだろう。 つまるところ、地球全体が疲弊してきて、65億もの人間を養いきれず、小さくなる一方のパイの奪い合いになっているのだ。海という巨大な城壁で守られてきた日本列島も、ジェット機とインターネットの時代には、世界の惨状に目をつぶってぬくぬくと暮らすわけにはいかなくなる。いまこそ社会の、そして人間の本当の力が試されているのだろう。苦しい時代になればいっそう、異民族同士おたがいを理解し信頼し、納得するまで話し合うことが必要だ。城壁を築いて既得の利益を守り、おびえて暮らすよりは、たとえ貧しくても、誰の恨みも買わず、境木を立てる程度の決まりごとで自由に暮らせるほうが、やっぱりいいと思う。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2007.6.2更新)

その91

 このところ、というより、もう数ヵ月間、缶詰状態の生活をつづけているので、エッセイに書けるような楽しい話題がない。毎日ひたすらコンピューターの前に座りつづけ、今日のノルマのページ数をこなそうと必死に頑張るのに、計画はあくまで計画で、思いどおりに進まない。

 それはひとえに、どこでつまずくかわからないからだ。たった一文の意味がわからず、半日を無駄にしてしまうこともあるし、調べものをしているうちに、どんどん脱線してしまうこともある。以前、ゴルディオスの結び目(Gordian knot)を難題とそのまま訳せば一秒ですんでしまうところ、私はネットでこの結び目の作り方を探しだし、あげくに紐をもちだしてそれをつくったことがある。

 締め切りが迫ると、さすがにそこまではやらないが、先日も「ベラージオ・カジノとルイ・ヴィトンの中間」という表現に戸惑った。ラスヴェガスには疎いので、そこがどんな場所なのかもわからない。それで、つい気になって検索してみた。サイトに入ると、いきなりヴィヴァルディの冬が流れてくる。カジノにヴィヴァルディ……と苦笑しながら、そのヨーロッパの貴族趣味的な建物を見ているうちに、ふと思いだした。以前に訳した本に、NBAで活躍したデニス・ロッドマンが「夜、家に帰ると、暗い部屋に一人で座って本当はヴィヴァルディの音楽を聴いている」という一節があった。ひょっとすると、アメリカ人にとってヴィヴァルディの音楽は、憧れの成功のイメージなのだろうか。

 ハーレクインにもよくラスヴェガスで結婚式を挙げる話がでてくる。ネオンと賭博の街で結婚式なんて、変わった趣味だと思っていたけれど、このサイトのウェディングのページを見ると、厳かなチャペルから、ライトアップされた華麗な噴水まで、いかにもハーレクイン好みだ。そうか、こういうものをイメージしていたのか、と納得。

 ついでに賭け事のページも開くと、どこかで聞いたバイオリンの音楽が……。それからずっと、その曲が頭をめぐって集中できなくなる。翌日になってようやく、昔、姉がピアノで嫌というほど練習していたラ・カンパネラのバイオリン版であることに気づく。

 さらに、その少し先のページで、ロサンゼルスの高級住宅街ベルエアについて調べると、その西門がサンセット大通りとベラージオ・ロードの角にあることを知り、俄然、「ベラージオ」に興味がわく。そこで、本家本元と思われるイタリアのコモ湖畔にあるベラッジオまで探してしまう。こちらは、はるかに質素な町で、それでいて作り物にない味わいがありそうだ。そうそう、コモ湖と言えば、確かカサ・デル・ファッショ(ファシストの家)があるはずだが……。

 こんな具合に、ただ「ベラージオ・カジノ」とそのまま訳していれば、だいぶ先まで進んだはずなのに、ついついあちこちへ思考が飛んでしまうので、また元の原稿に戻るまでにかなりの時間が経過してしまう。でも、こうした雑多な知識のたくわえが、雨をろ過しておいしい湧き水に変える山のような働きをするのだと思う。だから、時間がなくなって、それすらできなくなり、ひたすら翻訳マシンに徹しなければならないときは、本当に辛い。一年に一冊くらいのペースで食べていけたら、本当にいいのになあ、とつくづく思う。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2007.7.2更新)


横浜市開港記念会館


ターミナル内


横浜税関


税関遺構
その92

神奈川県立歴史博物館

 以前から見たいと思っていた横浜の新しい大桟橋国際客船ターミナルへ、ついに行ってきた。竣工したのは2002年だから、もうあまり新しいとは言えないが、長らく取り組んでいた建築の本に大桟橋のことがちらりと書かれていて、こんな近くに住んでいながら、まだ見ていなかったので、ぜひ自分の目で確かめたいと思ったのだ。

 電車賃をケチって桜木町から歩いたおかげで、途中、思いがけず横浜の古い建物もたくさん見ることができた。神奈川県立歴史博物館は、あとで調べたら、旧横浜正金銀行本店で、明治37年(1904年)に妻木頼黄が設計していた。横浜市開港記念会館は大正6年(1917年)に建設された辰野式フリークラシックスタイル。辰野式?と思ったら、東京駅を設計した辰野金吾に似せた……という意味らしく、確かによく似ている。

大桟橋国際客船ターミナル

大桟橋に行ったのは、これが初めてではない。なにしろ、30年以上昔、ここからソ連船ジェルジンスキー号に乗ってナホトカへ渡ったこともあるのだ。ただの旅行なのに、親戚一同が見送りにきてくれ、紙テープを投げて出航した。いまはもう豪華客船がたまに入港する以外は、クルーズ船しか利用しないので、大桟橋ものどかな場所に変わっている。

新しいターミナルを設計したのは若い建築家夫妻で、奥さんのファッシド・ムサヴィはイラン出身だ。ターミナルは全体が板張りで巨大な船の甲板のように見え、そのうえ芝まで植えてあるので、海に突きだした半島のようでもある。潮風に吹かれながら、のんびりと横浜港を眺めて過ごすにはもってこいの場所だ。複雑な曲線を描いて張られている板は、イペというブラジルからの丈夫な木材らしい。板張りの床はよい雰囲気をだしているけれど、これもアマゾンの森林伐採につながるのかなと、ちょっと気になった。ターミナルの突先まで行ってみると、年配のおじさんがお連れの女性たちに、「ここはベストスポットで、キング、クィーン、ジャックが全部見えるそうだ」と、少々自慢げに話していた。よほど、なんの話ですかと聞こうかと思ったが、やめておいた。

大桟橋からのみなとみらい

「くじらのおなかアフタヌーンコンサート」で、美人女性トリオの演奏を無料で楽しませてもらったあと、赤れんが経由でパシフィコ横浜まで歩いていった。旅行会社にいたころ、この場所へは何度も足を運んだ。最初に担当した道路の会議のときは、まだインターコンチネンタルホテルと遊園地しかなかった。ぷかり桟橋から船に乗って建設中のアクアラインの人工島まで行ったのもこの会議のときだった。その後、ランドマークタワーが建設されたので、ノルウェーのエージェントを連れて最上階にある宴会場を見に行ったこともある。彼は足元まであるガラス窓にすくんでしまい、「オスロにはこんな高層ビルはないからね」と苦笑していた。

 家に帰ってから、今日見た建物を調べてみたら、開港記念会館がジャックの塔(36m)と呼ばれていることがわかった。おじさんが話していたのはこのことかと思い、さらに調べると、キングは県庁本館の塔で高さ49m、クィーンは横浜税関、51mだとわかった。ちなみに、ランドマークは295.8m。それですら、いまは周囲にたくさんビルが建っているのであまり高く見えない。横浜税関は昭和初期の建物で、大正時代のものは震災で崩れてしまい、赤れんがパーク整備時に遺構が見つかったため、いまは花壇として利用されている。

 久々に歩き回ったので足が棒のようになったが、今日は有意義な一日だった。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2007.8.2更新)


ラップにくるまるイモムシ


Some like it hot...


水晶屋


クロコノマチョウの抜け殻
その93

 どこからやってきたのか、見たことのないイモムシが流しにいた。たぶん、母がもってきてくれたモロッコインゲンについてきたのだろう。とりあえず瓶のなかにインゲンとともに入れてラップに小さい穴を開け、輪ゴムで縛っておいた。

 翌朝、目が覚めてから真っ先に瓶を見ると、イモムシの影も形もない。どうやって脱出したのか、信じられない思いだったが、床の上を這っているところを踏みつけないことを願いながら、忘れることにした。

 数日後、そのままにしてあった瓶を何気なく見ると、なんとそこに件のイモムシがいるではないか。しかも、瓶の外でラップを葉の代わりにして蛹化の準備をしている。この暑いのに、ラップなんて全身にまとって窒息しないだろうか。私からは丸見えであることに気づきもせずに、イモムシは何度も上下の位置を変えながら、糸を吐いてラップの部屋を居心地よく整えている。ネットで調べたところ、コチャバネセセリに似ている。でも、コチャバネセセリの食餌は笹らしい。インゲンも食べるんだろうか? それともこれは別の幼虫?

 生き物を捕獲して狭い容器に入れて飼うことには、いまだにちょっと抵抗がある。それでも、こうしてついイモムシに手をだしてしまうのは、どんなふうに変身するのかみたいという好奇心が半分と、ものの見方が変えられるという少々哲学的な理由からだ。 捕獲された虫は、囚われていることを知ってか知らずにか、狭い容器のなかをぐるぐると回り、ひどく滑稽で哀れに見える。虫はひたすら食べて、糞をし、そして眠る。わずか数週間で一ミリほどの卵から幼虫、蛹、蝶へと変身することも、当の虫は知らないのだろう。そんなことを考えていると、人間の営みだって空から見ている神さまの目には、同じくらい単純な繰り返しに映るちがいない、と思えてくるのだ。自分の世界から一歩離れて、神とは言わずとも、飼い主の冷めた視点でわが身を眺めれば、実際、たいていのことは悩むに値しないものに思える。人間の社会のなかで、人間の尺度で見れば、一大事であっても、少し視点を変えれば、大したことではないと思えるものだ。

 虫や鳥の世界では、誰もがいまこの瞬間を懸命に生きている。うちの小さい柚子の木では、アゲハの幼虫が終齢になって緑色になったと思うと、いつもカマキリに食べられてしまう。隣家に巣をつくったムクドリの雛がカラスの餌になる事件も発生した。自然は残酷な一面も見せつけるけれど、与えられた短い生涯を精一杯生きる生物の姿も見せてくれる。狭いうちの庭でも、ふと目をやれば、蝶や蜘蛛がこんなドラマを繰り広げている。タバスコの瓶に挿してある抜け殻は、クロコノマチョウのものらしい。庭のススキがあまりにも繁茂したので、刈り取った際に見つけたものだが、昨年のナガサキアゲハと同様に、温暖化で北上中の蝶だ。 ラップのなかのイモムシは、昨夜、無事に蛹化したらしく、朝になったら、赤い色に変わっていた。いったいなかから何がでてくるのやら。冷蔵庫にしまってあったモロッコインゲンの残りを食べようと思ったら、なかからもう一匹、同じイモムシがでてきた。やっぱり、インゲンを食べていたのだ。冷蔵庫でも生きるのだから、結構、しぶとい。よし、こいつも育てよう、と私は大いに張り切っている。

(とうごう えりか)







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東郷えりか(2007.9.3更新)

その94

 数年前、タイの鳥のツアーで知り合って以来、何度もお世話になっていた鳥仲間が、八月上旬に日本に遊びにきてくれた。そこで、迫りつつある締め切りを尻目に、なんとか三日間だけ都合をつけることにした。八月の暑いさなかに鳥を見られる手軽な場所も思いつかず、綿密な計画を立てる暇もなく、結局、五年前にコマドリやルリビタキをよく見た北八ヶ岳の双子池に行くことにした。

双子池雄池
 ちょうど台風が日本列島を通過中だったうえに、準備不足、運動不足、睡眠不足と、かなりの悪条件が重なっていた。早朝、友人たちを迎えにいくのと、列車の席取りを娘と手分けしたために、のっけから双方でおにぎりを大量に購入するというハプニングが発生。どんよりした雲からはときおり雨がぱらつく。ピラタスロープウェイに乗れば、あとは確か下りと平坦な道だけのお気楽コースと記憶していたのに、友人たちは最初の下りですでに参っていた。タイ人は概して歩かないし、まして足場の悪い山歩きは苦手だ。風もかなり強く、鳥は声はすれど姿は見えず状態だ。道中、荷物を軽くしようと、数時間ごとにおにぎりを配給したので、友人たちもしまいに外側のフィルムを手際よく@→A→Bとはがせるまでに熟練した。

以前にきたときも、このコースはほとんど登山客がいなかったが、今回はそれにも増して少ない。「あっ、前方に人間発見。♂は青と黒。♀は黄色とグレー」などと、怪しげなタイリッシュ(タイ語+英語)で冗談を言い合いながら雨池経由で双子池に向かった。

 宿泊客は案の定、テントが一張りある以外は私たちだけ。前回と同様、やはり「お山の貸切り」状態だった。日本にわずか七日間しか滞在しないのに、双子池にくる人なんてまずいないよね、と自分で案内しておきながら苦笑する。そもそも八ヶ岳だって外国人にはあまり有名ではないし、第一、ヤツガタケなんて舌を噛みそうで彼らには発音できない。

 前回はテント泊まりだったので気づかなかったが、小屋のなかに双子池の伝説なるものが貼ってあった。豪農の息子、与七郎と作男の娘、お染が身分違いということで結婚を許されず、将来を悲観した与七郎が、雨乞いのための人身御供代わりに、お染の名を呼びながら双子池の雄池に身を投げた。それを知ったお染もあとを追ったが、間違って雌池に入水自殺してしまい、それ以来、一年に一度、双方の池は増水して一つになるという話だ。以前に近くの黒百合で猛烈な土砂降りに遭ったことがあるので、さもありなんという感じだが、小屋のおじさんによると、「伊勢湾台風のときはつながった」けれども、毎年つながるわけではないそうだ。それにしても、なんだか怨念みたいで恐ろしい。お染を連れて、どこかへ逃げればよかったのに、と思うのは、選択肢のある現代人だからか。

小屋のおじさんが近くの湧水から汲んでくる水を飲み、夜は持参したレトルトカレーを食べ、温かいシャワーを使わせてもらい、小屋の周囲にいつもいるコガラやヒガラ、ホシガラスを眺める。どれも特別な体験ではないけれど、それを一緒に楽しめる仲間がいるって本当にありがたい。友人たちは今回の滞在で、この八ヶ岳の旅がいちばんよかったよ、とあとからメールで書いてきてくれた。鳥を見に行って、鳥が見られなくても、それはそれで楽しかったと思えるのはすてきだ。「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」

(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2007.10.3更新)


3棟目の代わりに広がる空





1月のエッセイに載せたテラスハウスも


解体前に木材をひきはがす

貴重な鉄くずを集めて


『巨大建築という欲望』
ディヤン・スジック著、
五十嵐太郎監修、東郷えりか訳
紀伊国屋書店


その95

「坂を下ったところを左に曲がって、角から三棟目で止めてください」
 勤めていたころ、終電を逃して船橋からタクシーに乗ったときなどは、いつも運転手にこう伝えていた。延々とつづく工事用の壁沿いに坂道を下りて、その角を曲がってみると、三棟目があるはずの場所には、ただ黄昏の空が広がっていた。砂遊びをした公園も、鍵を忘れてお隣の家から手すりを越えて入らせてもらったベランダも、見上げるほどの高さのクチナシの木も、何もかも。橇滑りをしたスロープでさえ、工事用の板が敷かれて跡形もなく、「山羊さん」とあだ名をつけていたおじいさんが毎日、丹念に雑草をむしっていた芝生も無残にはがされていた。

 私が以前に住んでいたマンモス団地は、建替え工事が着々と進んでいる。とうとう、うちの棟も壊された、と母から聞いてはいたが、自分の目で見るまでは実感が湧かなかった。ぽっかり開いた空間を飛んでいくカラスを目で追いながら、9.11後にニューヨーカーが味わった気分が少しわかったような気がした。生まれたときから見上げていた大きな建物は、いまでも私の本籍があるその場所は、ただの更地になっていた。

 部屋は狭く、すべてが「団地サイズ」と呼ばれる、なんだか小さめの寸法でできていて、お世辞にも素敵とは言いがたい家だったが、まだ希望に満ち、ゆとりのある1960年代に建てられたので、起伏のある自然の景観を生かして、棟と棟の間隔も日当たりを考えてたっぷりと取った設計になっていた。道も自然に曲がりくねり、生垣の陰には秘密の小道や庭があった。あまり頻繁に手入れされない芝生にスミレやニワゼキショウが一面に咲いて花畑が出現することもあったし、夏みかんやビワ、ヤマモモ、銀杏などの木からの思わぬ収穫もあって、人工的な空間ではありながら、子供が楽しむには充分な自然があった。49万平方メートルという敷地内は、小さい子供でも自由に行き来できる場所であり、徐々に行動範囲を広げていくには最適の環境だった。

 昨年来、私が長らく取り組んでいて、このたびようやく刊行された建築の本『巨大建築という欲望』(ディヤン・スジック著)に、ワールドトレードセンターを設計した日系アメリカ人ミノル・ヤマサキについて書かれた胸の詰まる章がある。一九七二年当時、世界一高層だったツインビルを完成させたマヤサキが、その栄誉に浴することができなかったのは、一九五四年に彼が設計したセントルイスの広大な住宅団地プルーイット・アイゴーが、アメリカの住宅計画史上最大の失敗として、その同年に爆破解体されたためだったという。その団地が巨大なスラムと化したのは、ヤマサキの意図に反してお粗末な建築基準で建てられ、維持管理費もないに等しく、極貧相の住民ばかりが集中したためであり、また当初の計画にあった庭園や児童遊園地などの公共スペースが削られたためだったそうだ。

 母が移り住んだ新しいアパートからは、解体工事現場がよく見える。それを毎日、眺めている母は意外にも楽しそうに、こう言った。「怪獣映画を見ているみたいで、おもしろいんだよ。こうやってパクッと食いついて、ガガガッと壊してねえ」。解体工事を見ていると、木材だけを集め、パワーショベルで鋼材とコンクリートをみごとに分別し、さらに細かい砂利と土に分けている様子がわかった。壊されたうちの棟も、こうやって再生されるのかと思ったら、なんだか心の整理がついた。思い出は胸のなかにあるから、それでよしとしよう。

 
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2007.10.5更新)




その96

ワンオフ(one-off)という言葉を、最近よく見かける。「1回限りの」とか、「1個しかないもの」という意味の言葉だ。産業革命によって同じものが大量生産されるようになる以前は、ほとんどのものが手作りでワンオフだったに違いない。この言葉がいま、ときとして最高級と同義にすら使われているということは、ものがあふれた現代には、かけがえのない唯一のものであることが、いちばんの価値になったからかもしれない。

実は先日、ちょっとしたワンオフの体験をした。船橋の市制70周年を記念した演奏会に、同市ゆかりの演奏家の一人として私の姉が出演させてもらったのだ。しかも高校、大学時代を通じて、トリオなどを組んでよく一緒に演奏活動していたチェリストとの久々の共演で、さらにニューフィル千葉とのコンチェルトとなれば、たとえ台風で大荒れの日でも、たとえ校正原稿が届いていても、行くしかなかった。

スポーツでも演劇でも講演でも同じだろうが、人前でパフォーマンスをするためには、その陰にたいへんな努力が必要となる。出演する時間はわずか数秒かもしれないし、数時間かもしれない。いずれにしても、そう長くはない時間のために、たいがいは無償で長期にわたって練習を重ね、体調を整えて本番に臨まなければならない。それだけ準備しても緊張のあまり本番で大失敗することもあるし、練習しすぎて体調を崩すこともある。神経を尖らせている本人はもちろん、日々の生活のなかで膨大な練習時間を保証しながら、腫れ物に触らぬように気をつけなければならない家族の苦労も相当なものだろう。

先日の演奏会は地方都市で開かれたものだから、オーケストラも大編成のものではなかった。オーケストラの団員として食べていくのはなかなか難しいので、今回の演奏会も正規のメンバーは一部で、あとは「トラ」と呼ばれるエキストラなのだそうだ。でも、考えてみれば、これだけ大勢の人がこの日のために準備し、おたがいの忙しいスケジュールをやりくりして事前に何度かリハーサルをし、一つの音楽を奏でる、それだけでも充分にすごいことだ。

20数年ぶりに一緒の舞台に立つ姉とその昔の友人を見ると、歳月の流れを感じないわけにはいかない。学生時代のようにたびたび合わせることもできないから、息のぴったり合った演奏とは言いがたかったかもしれない。それでも、弾いているうちに長い空白の時間が一気に縮まったように思えたのは不思議だ。ふだんはいくつも仕事を掛け持ちし、三人の子供に振り回され、くたびれはてている姉の横顔が、なんだか生真面目な少女時代の顔に戻ったようにも見えてくる。演奏家なんて苦しいばかりで絶対になるべきではない、と私はつねづね思っているが、舞台に立ってこうして多くの仲間と一つの音楽をつくりあげる贅沢を味わっている姉を見ているうちに、この濃縮した一瞬のために彼らはみな生きているんだ、そういう生き方もあるんだ、と思えてきた。

会場には船橋高校のオーケストラ部時代の仲間が連絡をとりあって、たくさん聴きにきてくれたそうだ。地元のオーケストラに所属してチェロを弾いているという弟も、仕事後に駆けつけてくれたし、定年後にやはりアマチュア・オケに入ったという叔父も夫婦できてくれた。ふだんはなかなか顔を合わせることのできない人が一同に会する場でもあるコンサート。二度とないあのつかの間の時間は、大量生産された名演奏家のDVDやCDを何度聴いたところで味わうことのできないワンオフだったと思う。

 
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2007.12.5更新)


ビーズ鳥




レア姉さん(のつもり)




クリスマスツリー




シオカラトンボのピアス

その97

 翻訳という作業は、黒子に徹することだ。言語や習慣の違いを考慮してわかりやすく説明を加えたりはしても、基本的には著者の声をできる限り忠実に読者のもとへ届けるのが訳者の仕事だ。そういう作業を毎日つづけていると、大量の情報を溜め込んでは吐きだすバッファのような気分になり、ときとして自分を見失いそうになる。慣れない分野の仕事がつづいたこの一年間は、仕事だけでも充分すぎるほどストレスがあったのに、私生活でも不幸やトラブルが重なり、経済的にも苦しく、頼みの綱とする人は連絡もままならず、このままではさすがの私も気が変になるのではないかと恐ろしくなった。

一区切りつくまでは、とにかく騙しだましでも乗り切らねばと、私はこの夏から奇妙な試みを始めた。集中できないときや、不安にさいなまれたとき、あるいは眠気覚ましに、天然石の2ミリビーズを使って鳥をつくるのだ。別にパワーストーンの効能を信じているわけでもないが、何かをつくっているときはそれに没頭できる。それに、天然石を通して見る日の光や、そこに凝縮された深い色には、少なくともなんらかの癒し効果はある。

高度な技術や道具を要する宝飾工芸とは異なり、ビーズ細工はどこかもろくてはかない。だから、敢えて高級に見せる必要も、本物そっくりにする必要もない。むしろ、古代の工芸品のように素朴で単純なものを、あるいは飴細工のようにつかの間だけ楽しめる作品をペンチ一本でつくれたら、それでいいのではないかと私は考えた。細かい部分にこだわりすぎると全体が肥大し、一粒ごとの輝きが失せて、ただの醜い塊になりはてる。何を削って、何を加えるか、試行錯誤を繰り返すうちに、ビーズの数を45個に限定していろいろな鳥がつくれるか試してみようと思いついた。不透明な石ばかりを並べると、一個一個の輪郭が目立ってボチボチに見える。かといって、透明なものだけでもインパクトが弱く、適度に交ざっているのがいい。鮮やかな色にたいするこだわりは大事だけれど、それと相殺しない地味な色も、負けず劣らず重要だ。なんだか生物の世界や人間社会のようであり、こんなビーズ細工にも学ぶことはたくさんあるんだという発見に私はうれしくなった。

暇つぶしに好きなだけビーズを買って遊べればいいのだが、貧乏性の私は最初から、できあがったものを売れないだろうか、と考えていた。ごま粒のようなビーズを通す作業は、細かいものが見えなくなり、手先もすっかり不器用になった私には、正直言って辛い。同じものを繰り返しつくるのも苦手だ。それでも、頭を使わず、単純作業に専念していると、タイの路上でジャスミンの花輪を黙々とつくるおばさんたちのように、不思議と心が穏やかになった。

先日は、娘の口利きで、大磯の宿場祭りに出店したアオバトの愛好会「こまたん」のブースの片隅をお借りし、ビーズの鳥を売らせてもらった。自然界の生き物は光がうまく当たった一瞬だけきれいに見える。捕まえて剥製や標本にしても、輝きは失せている。そんな瞬間的なはかない美に価値を見出せるバードウォッチャーなら、私の鳥も理解してもらえるのでは、と期待したとおり、声をあげて道行く人に宣伝し、買ってもくださり、本当にありがたかった。

ビーズの鳥のおかげか、いちばん苦しい時期はどうにか乗り越えることができた。失敗作品を壊し、バラバラになった多様な色のビーズに射し込む日の光を見ているうちに、子供のころ繰り返し読んだ『うちゅうの7人きょうだい』(三好碩也作・絵、福音館書店)の話を思いだした。泣き虫の末っ子ルーナが地球にたどり着くページが私のお気に入りだったが、土星のまわりに宝石でできた輪を見つけて、それを拾うのに夢中になった欲張りな衛星、レア姉さんの絵も、忘れがたいものがあった。

リタリンを飲む代わりに、童心に返ってビーズで遊んだと思えばいいのかもしれない。とはいえ、これで終わらせるのもくやしく、45個にこだわらない虫シリーズやクリスマスツリーも考えてみたが、どうやれば売れるのか、まだ模索中だ。商売を始めるのは、なかなか難しい。

 
(とうごう えりか)