【コウモリ通信】バックナンバー 2010年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2010.1.7更新)



正月休みに本埜村で白鳥を見てきました。
本年もよろしくお願いいたします。
その119

 「clueという単語をすべて『手がかり』と訳しているのは、どうかと思うね。数えただけでも9ヵ所はあった。糸口とか端緒とか言い換えられないのかね?」

 1つの英単語にたいし、1つの訳語を機械的に当てはめるな、と鈴木主税先生にはたびたび注意された。「『しゃべりまくる』とか、『ぴんしゃん』なんていう下品な口語は使いたくないね。しゃべるように書けというのは、あれは間違いだ。書く文章は、気取っているくらい硬いほうがいい」とも言われた。

 訳文が冗長で眠くなる。オノマトペや大げさな表現を多用するな。同じ助詞が連続しないように言い換えろ。漢字が無用に4語も連続すると四字熟語と見誤るから避けろ……等々、先生に指摘されたことは限りない。「きみの言語感覚を疑うね」と頭ごなしに怒られたときは、さすがに腹に据えかねて、「言葉なんて時代とともに変わるものだと思いますが」と、ささやかな反論を試みた。

 いまから15年ほど前、転職を考えていた私は、会社勤めをしながら翻訳の通信講座を受けていた。資格さえとれたら、フリーで翻訳の仕事が始められると気楽に考えていたところ、1年半近く失業生活を強いられることになった。その後、鈴木先生の講座を受講したことをきっかけに、牧人舎で勉強しながら下訳の仕事をいただくという「徒弟」のような日々を8年ほど送った。

 途中、バンコクに移住した時期もあったが、鈴木先生はその間も仕事をくださり、おかげで私は海外でもなんとか働きつづけることができた。そのころ訳した1冊、フェイガンの『歴史を変えた気候変動』の書評のコピーを、多忙な先生がわざわざバンコクまで送ってくださったことは、いまでも忘れられない。

 牧人舎で下訳させてもらった本は、アンモナイトからマイケル・ジョーダンまで、占いから国際政治まで、実に多岐にわたった。下訳料は高いとは言えなかったけれど、なかには出版されず仕舞いの本もあり、それでも仕事が終わるとすぐに振り込んでくださったことが、毎月の家賃を払うのに苦労している私にとっては非常にありがたかった。

 鈴木先生はどちらか言うと独断的で、懇切丁寧に教えるタイプでもなかったので、私は先生に言われたことすべてを納得して受け入れていたわけではなかった。それでも、フリーで仕事をするようになってからよく、そうか、これが先生の言わんとしていたことだったのか、と思い当たることがあった。たとえば、本を読んでいると、自分の気に入らない表現はやたらに目につく。それが1度でてくるだけなら見逃せるけれど、何度も繰り返されると、うんざりしてくる。同じ訳語を繰り返さなければ、読者をそんなつまらないことで刺激せずにすむ。だからこそ、言い換えは必要だったのだ! もちろん、特定の専門用語であれば、話は別だろうが。

 「15分でも30分でも時間があれば、仕事をする癖をつけなさい」と、先生はおっしゃっていたが、ご本人もいかにも仕事中毒の人だった。長時間、座りつづける翻訳業が身体によいはずがない。晩年はまず目や腰を悪くされ、入退院を繰り返されていた。「倒れるまで仕事をつづける」と、先生は口癖のように言われていたから、のんびり気ままな余生を送られるつもりなど毛頭なかったのかもしれない。延命治療は拒否なさっていたそうで、それもいかにも鈴木先生らしい。遺された膨大な数の訳書は、これからも多くの人に読みつがれるだろう。

 鈴木先生、たいへんお世話になりました。どうぞこれからは安らかにお眠りください。
(とうごう えりか)





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東郷えりか(2010.2.3更新)








その120

 長年、勉強してきた専門分野の翻訳だけをやって食べていかれる人、というのがはたして存在するかどうか知らないが、私はその正反対、つまりジェネラリストの最たるものなので、訳す本に合わせて、いつも付け焼刃で勉強するはめになる。知らない単語どころか、辞書を引いても意味のわからない単語が羅列しているときは、途方に暮れた気分になる。昔の蘭学者などは、暗号を解読するような気分で翻訳に取り組んでいたにちがいない。そう考えれば、インターネットもパソコンもある環境で、自分で辞書をつくりながらの翻訳作業など、苦労のうちには入らない。

 こんな調子で仕事をしているから、校正の段になり、ようやく全体像が見えてきたころになって、次々に間違いが見つかる。何度も見直すだけの時間的な余裕があればいいのだが、いつも締め切りぎりぎりに駆け込んでいる私の場合、そうもいかない。原稿を修正してくださる方には申し訳ないと思いつつ、いまもたくさんの赤字を入れている。

 たとえばfatという言葉。英語では私たちの身についている中性脂肪もfatだし、栄養成分表の表示もfatだし、その他、動物性の脂に多く含まれて血管を詰まらせる成分も、ショートニングやマーガリンに含まれる有害な副産物も、それぞれsaturated fat、trans fatと書かれている。もちろん、太っているのもfatだ。

 ところが、日本の食品の成分表には「脂質」と書かれている。これに相当する英語はlipidだ。脂質もlipidも、脂、油、蝋、リン脂質など、水に溶けないもろもろの物質の総称と、似たように定義されている。食品には脂も油も含まれるから、本来はlipidとすべきところを、一般人にわかりやすいように、アメリカではfatが使われている、ということだろうか。日本の栄養学ではそれを「脂質」と呼ぶのであれば、「体内への脂肪吸収を妨げる○○茶」などと宣伝されているものは、本当は「脂質吸収」とすべきなのだろうか? となると、「低脂肪高タンパク」は、「低脂質高タンパク」なのだろうか? うーん、ややこしい。要するに、言葉の定義と、実際の使用例はかならずしも一致しないということらしい。

 肥満大国のアメリカでは、栄養成分表に厳しい表示義務があるというので、アメリカから送られてきたコーンブレッドの袋を見てみると、確かにカロリーにつづいてSaturated Fat 0.5g、Trans Fat 0gなどと、明記されている。日本語ではこれらの成分は、飽和脂肪酸、トランス脂肪酸と正式名称で呼んでいる(ことに遅まきながら気づいた)が、アメリカでは科学文献以外はもっぱらただのfatだ。まったく紛らわしい。もっとも、オメガ3脂肪酸などは、さすがのアメリカでもomega-3 fatty acidと呼ぶようだ。

 複雑なのは脂質だけではない。糖質にも、異性化糖からカロリー0の人工甘味料まで実にいろいろあって、コーンスターチからつくるHFCSは砂糖以上に血糖値を上げることなどがわかってくると、いったい自分は何を食べているのか、とつい気になってくる。最近は買い物に行くと、いちいち商品をひっくり返して裏の成分表を読んでいるが、老眼が進んできた私の目では、情けないことに読めないものもある。「40歳くらいから始まる老眼は、中年期に体と脳を襲うホルモンの逆転の前兆」なのだそうだ。いつまでたっても仕事は効率よく進まないけれど、一冊の本を訳しながら、少しずつ学んでいる気はする。
(とうごう えりか)





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東郷えりか(2010.3.3更新)




ノブドウの色の変化
その121

 昨秋からあまりにも忙しい日々がつづいて、放りっぱなしにしていたものを、いまごろになって片づけている。何よりもまず、商売道具であるパソコンのハードディスクを占領していた、大量の写真の整理だ。原因はインターバルカメラ。

 娘が卒論のテーマに鳥と果実の対応関係を選び、研究室からインターバル撮影のできるカメラを何台か借りていたのだ。30秒とか1分間隔で設定し、日の出から日の入りまで実のなっている木を撮影し、そこへやってくる鳥の採食現場を撮影しよう、という目論見からだった。どんな具合に撮れるのか試したくて、私も空いているカメラを拝借し、うちのフェンスに繁茂しているノブドウで二週間ほど実験してみた。簡単にできそうで、これがなかなかうまく行かない。メジロやヒヨドリがきているのが声でわかっていても、カメラにはなぜか写っていない。たとえば、30秒間隔で撮影しても、滞在時間が29秒だったら、シャッターが下りた瞬間にはもういないわけだ。小さな鳥は、焦点が合っていなければ、写っていてもシミにしか見えない。1日に撮影できた1000枚近い写真を見る作業は、目を酷使する以外の何ものでもない。防犯カメラから犯人の姿を捜す捜査官も、こんな思いをしているのだろうか。

 見れども見れども、同じ光景の写真がつづく拷問のようなチェック作業にめげて、パソコン内に未確認のままの写真が増えつづけた。そのうち、いつの間にか実もなくなり、私の素人実験は終わりになった。これだけやって、はっきりと鳥の姿が確認できたのは2枚だけだった。大量の写真をただゴミ箱行きにするのも悔しいので、天気が急変した日と、秋の夕暮れの「つるべ落とし」がわかる写真を抜きだしてみた。日の光は色の魔術師だ。

秋の日はつるべ落とし


 ところで、ノブドウを撮影してみたのには理由がある。ノブドウは青やピンク、紫のパステルカラーの実をつけるので見た目には美しいけれど、このきれいな色は虫こぶ、つまり虫が寄生しているために生じる産物であり、実そのものはまずくて鳥すら見向きもしない、などとよく言われているからだ。本当だろうか? ネットで検索すると、「ブドウタマバエやブドウトガリバチが寄生」といった記事がわんさかでてくる。ところが、ブドウタマバエという蝿も、ブドウトガリバチという蜂も存在しない。いるのはノブドウミタマバエという蝿とブドウトリバという蛾らしい。ブドウ科の植物を食べるこれらの虫は、確かにノブドウに寄生するようだけれど、ブドウトリバはブドウ科のほかの植物の害虫でもある。それならなぜ、ノブドウだけが虫こぶだらけ、などと言われているのだろう?

一天にわかにかき曇り


 夏に雨が多かったせいか、残念ながらうちのノブドウはあまりきれいに色づかず、カビが生えて腐ってしまった部分もあった。だから正確にはわからないが、私が観察した限りでは、黄緑色の未熟な実は、薄茶→ピンク→薄紫→水色→透き通った薄緑色に、4日前後で順繰りに変化していた。薄緑色になるともう色は変わらず、いつの間にかすべてなくなっていた。メジロが食べているところを、一度だけ目撃した。実は食べても大丈夫なのだろうか? ネットで調べてみると、ノブドウの実はなんと肝機能の改善から水虫にまで効く薬やサプリメントとして、かなりの高額で売られている!

庭で見かけた生き物


 ノブドウの謎解きは今年に持ち越しだ。アパートの管理人には申し訳ないが、またノブドウを繁茂させるところから始めなくては。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2010.4.4更新)



その122

 単に自分たちがある年齢に達しているからなのか、誰もが急に昔を懐かしみだしたのか、この数年、何十年ぶりかの再会がつづいている。悪い思い出は都合よく忘れ、楽しかったことだけが記憶に残るのだろう。学生時代も新入社員だったころも、輝かしい日々だったように感じる。会えばみな口々に、あのころはよかったよねえ、という話になる。

 私が80年代に通った大学は都心にある私大で、裕福な家庭の自宅生が大半だったから、月に何度も飲み会や食事会があって、サークルの活動や合宿がつづいても、高級ブランド品に身を包み、アルバイトはほんの小遣い稼ぎ程度、という人が大方を占めていた。料理教室や茶道教室、テニススクールなどに通うのも一般的だったし、休みには誰かの別荘に泊まらせていただくといった優雅な大学生活を送っていた。

 小学校から地元の公立校しか知らなかった私にしてみれば、えらい世界に入り込んでしまったわけだ。私は彼らとの付き合いの一切合切を自分で賄わなければならなかったから、家庭教師を何軒もやり、3、4年次は週に2日は終日アルバイトをし、冬のあいだはスキーの宿で居候をしたり、スキー学校で教えたりしながら、なんとかやりくりしていた。それでも、アルバイトの口はいくらでもあったし、無利子の育英会奨学金も申請すれば簡単に、特別貸与の割り増しでもらえたうえに、入学金や授業料まで頼むまでもなく免除してもらっていた。だから、自分だけが辛酸をなめた、という意識は少しもなかった。

 それから四半世紀がたち、東京のはずれにある国立大学まで片道2時間をかけて通学した娘がこの春、無事に卒業した。地方からきた真面目な学生が多い地味な大学だったせいもあって、娘の学生生活は私のころとは似ても似つかぬものだった。「店飲み」などまずしない。食材と安酒を買いだしに行き、学校内や誰かのアパートで鍋を囲みながら飲むのがふつうなのだそうだ。これなら1人1000円程度の予算で、充分に楽しめる。食費を切り詰めている友人たちは、研究室で具なしスパゲティをつくり、コンビニのおにぎりや菓子パン、100円バーガーを2個だけ、といった乏しい食事で腹を満たしていた。身体は資本だから、うちの娘には毎日、見てくれはどうであれ、少なくとも栄養だけはある弁当をつくってもたせた。

 私の学生時代は、多くの学生が休みを利用して長期間、海外へでかけたのに、いまの学生は国外にでることを端からあきらめているのか、関心がないのか、日本から一歩もでようとしない。スキーのようにお金のかかるスポーツも敬遠され、ゲレンデは閑古鳥が鳴いているそうだ。なにしろ、いまの若者は人生で最も自由で時間のある学生時代の多くを、リクルートスーツを着て就活に費やさなければならない。靴を何足も履きつぶして何十社をめぐっても、どこにも就職できず、絶望して電車に跳び込む学生もいるという。

 最近の十代、二十代の若者には、体格の悪い子が増えているような気がする。痩せ願望や偏食もあるだろうが、貧困による栄養不足の可能性もある。いまはリーマン・ショック後の一時的な不況で、また昔のように気楽な時代が戻るのだろうか? それとも親の世代には当たり前にできたことが、子や孫の世代には遠い昔の夢物語になるのだろうか? 同窓会でまだバブル時代を引きずっている友人たちに会うたびに、落ち着かない気分になる。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2010.5.6更新)




祖母が子供のころ使っていた「舶来」のリボン







『認知症にならないための決定的予防法――アルツハイマー病はなぜ増えつづけるのか?』
ヴィンセント・フォーテネイス著
河出書房書店
その123

 「あの火山の名前、覚えている? エイヤフィヤトラヨークトルだよ!」先日、うちの母が突然こんなことを言いだした。頭の体操だと思って、三日もかけて覚えたのだそうだ。

昨年から私がアルツハイマーの本を翻訳しており、会うたびにいろいろと吹き込んだためか、母も予防策を講じているらしい。なにしろ、アルツハイマーの危険因子の一つは遺伝、つまり家族歴であり、私の祖母は、アルツハイマーと診断されることはついになかったけれども、最晩年、認知症をわずらっていたからだ。

 祖母は七十代なかばまで英語の添削の仕事をし、趣味で彫金をやるなど、元気に老後を送っていたが、八十を過ぎたころからデパートに通っては同じような服を何枚も買い、やたらに長電話をかけてくるなど、言動がおかしくなり始めた。やがて台所に焦げた鍋がいくつも放置されるようになり、一人暮らしが危険になったため、ケアハウスに移ることになった。そこは親切なスタッフに囲まれ、狭いながらも個室があり、食堂に行けば三食がでてくる快適な生活だったが、それも長くはつづかなかった。

 ある年のクリスマス・イブに、ケアハウスから呼びだしを食らった。駆けつけてみると、祖母はすぐ前の建物からライオンが跳びだしてくるなどと訴え、完全に錯乱していた。その晩は、バスルームの床を這い回っては、見えない虫をたたきつぶそうとする祖母を、幼い子をなだめるように抱き締め、ようやくベッドに連れ戻した。すると今度は、ベッドが水浸しで眠れないと頑なに言い張る。こうなるともうケアハウスでは暮らせない。

 年末年始で行き場がなかったため、祖母はしばらく遠くの病院の精神病棟に預けられた。出入口が施錠されているその大部屋にはベッドがずらりと並んでおり、ぶつぶつ言いながら徘徊する人もいれば、床に転がっている人もいた。なかにはまだ五十代と思われる患者もいた。強烈なアンモニア臭に圧倒されたが、認知症になるとまず嗅覚をやられるので、祖母は気にも留めていなかった。錯乱状態はそのうち治まったが、その後は六人いる子供の誰それが浮気をしているとか、アフリカに探検に行ってしまったとか、見舞いに行くたびにおかしな話をするようになった。やがて、饒舌だった祖母もどんどん無表情に、無口になっていった。 

 一人娘で甘やかされて育った祖母だったけれども、好奇心旺盛でユーモアもあり、孫たちのことはかわいがり、よく面倒を見てくれた。祖母との思い出はいくらでもあるはずなのに、最晩年の豹変ぶりがあまりにも強烈で、その姿ばかりが浮かんでくるのは悲しい。

 自分も老いたら祖母のようになるのだろうか? なぜ認知症になるのだろう? このたび刊行された私の訳書、『認知症にならないための決定的予防法――アルツハイマーはなぜ増えつづけるのか』(ヴィンセント・フォーテネイス著、河出書房新社)は、そんな長年の疑問に答えてくれる本だった。衝撃的だったのは、睡眠不足と慢性ストレスがアルツハイマーの引き金になる、という著者の指摘だ。しかも、アメリカでは八十五歳以上の人の半数はアルツハイマー病なのだという。自分の晩節を汚さないためにも、家族や社会に負担をかけないためにも、いまからできる限りの予防策をとりたいものだ。

 著者はこんなことを書いている。「簡単な読書をすれば、脳の刺激になると考えている年配者もいますが、脳の予備力を高めるためには、もっと多くの精神的活動が必要かもしれません」。本書をはじめ、私の訳書はどれも分厚くて小難しいと、いつも周囲に不評だが、頭を使う本は認知症の予防策にもなるようだ。みなさんも、どうぞご活用ください! 
(とうごう えりか)





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東郷えりか(2010.6.3更新)




ワットアルンからの眺め
その124

 私がクマーラジーバ(鳩摩羅什)を初めて知ったのは、数年前にアマルティア・セン博士の小論集を訳したときのことだった。西暦344年にインド僧の父と亀茲の王族の母とのあいだに生まれたクマーラジーバは、カシュガルとカシミールで仏教を学び、のちに長安に移ってサンスクリット語から中国語に数多くの仏典を翻訳した。東アジアに大乗仏教が伝わったのはこの人のおかげであり、「同業者」の端くれとして、誇らしく思ったものだ。

 その後、同じような例がほかにもあることを知った。9世紀にイスラム帝国を築いたアッバース朝で文化が花開いたのは、衰退するビザンティン帝国から哲学、数学、医学などの書をもち帰り、それをネストリウス派キリスト教徒が翻訳したことがきっかけだったという。十字軍遠征でも、ティムール帝国でも、似たような現象が見られた。つまり、異なる文化同士が接したときに、一方の文化で長い年月をかけて培われたものが、翻訳という作業を通じて短期間に移行される現象である。その結果、新たな知識を習得した側では、文化が飛躍的な発展をとげることになる。日本でも明治維新によって、あるいは終戦後に外国文化が一気に入ってきたときに、社会は大きく発展した。交通と通信手段の発達によって、いまではこうした文化の波は地球の隅々まで広がり、加速する一方だ。

 だが、あまりにも急速に発展すれば、変化の波に乗れる人と、乗り遅れて押しつぶされてしまう人のあいだで、格差が大きく開く。急激な変化は、それをうまく活用している人にも大きな負担を強いる。生まれたときから周囲にあった環境や、長い年月をかけて習慣化したことであれば、無意識のうちにできるようになるが、大人になってから短期間で覚えたものは、なかなか身につかないからだ。どんなに記憶力のよい脳でも、その容量には限界があるから、一夜漬けで溜め込んだ知識はいずれ格納できなくなる。急速に勢力を拡大した国の多くが、最盛期の直後に混乱し、衰退していくのは、人間がそんな大きな変化についていけないからだろう。

 ここ数ヵ月間に激化したタイ国内の争いでは、バンコク市内で占拠をつづけ、テロ行為におよんだUDDにたいする非難を、バンコクの友人たちからたびたび聞かされた。日常生活を脅かされ、経済を混乱させられた側とすれば当然だろう。タクシン元首相が巨額の資金で人びとを動かしている、というのも事実だろう。だが、一人の実業家/政治家が、短期間に巨額の富を築くのを許した社会にも問題はなかったのだろうか? 20年以上にわたって独裁政権を築いたマルコスやチャウシェスクならいざ知らず、タクシンが政権を握っていた期間はわずか5年であり、その間にタイ経済そのものも大きく発展したはずだ。近年のタイの混乱の本当の原因も、あまりに急激な社会の発展にあったのであり、そうした変化に巻き込まれやすい社会の構造にあったのだと私は思う。

 バベルの塔は天まで届く巨大な建築物のことだが、神の領域を侵すまでに発達し過ぎた文明を象徴していたのかもしれない。旧約聖書の時代、神はそれによる混乱を収拾するために、「全地の言葉を混乱させ」、「そこから彼らを全地に散らされた」。共通の言葉がバベルの塔をつくらせたと批判する聖書の言葉は、翻訳者の耳には痛い。だが、いまでは人口があまりにも増え過ぎて、散りようにも散るべき土地がない。となれば、共通の言葉を賢く利用して、おたがいなんとか生き延びる方法を模索するしかないだろう。
(とうごう えりか)





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東郷えりか(2010.7.4更新)




その125

 小学生のころ繰り返し読んだ本の一つに『いたずらラッコのロッコ』(神沢利子作、あかね書房)がある。空の大男につかまってカニと一緒にスープにされそうになり、鍋の底にある星をはがして海に戻る場面などは、長新太のとぼけた挿絵のおかげもあって、いまでも鮮明に覚えている。

 ラッコが空想の動物ではなく、実在の生き物であるのを知ったのはずいぶんのちのことだった。サンシャインの水族館で水槽のなかにいるラッコを見たときは、ちょっと悲しかった。いつか広い海で海藻を巻きつけながらぷかぷかと浮かんでいるラッコを見てみたいと、心の片隅で思いつづけてきたが、もしかしたら近々その願いがかなうかもしれない。

 四年前、高校時代のホストファミリーを訪ねたときに、今度は一緒にアラスカへ行こう、と冗談半分で言っていたことが現実になったのだ。私はレンタカーか鉄道で回れたら、と考えていたのだが、いつの間にか海岸線沿いに氷河など見ながら旅をする豪華クルーズ船に乗ることになっていた。パンフレットと料金を見て私がひるむと、ホストマザーがクルーズ代だと言って、ぽんと小切手を送ってきた。これでは親孝行というより、「80日間世界一周」のパスパルトゥーのようになりそうだ。でも、彼らだっていつまで元気でいるかわからないし、こんな機会はもう一生ないだろう。移動・宿泊・食事・観光がすべて含まれるクルーズは、アラスカのように広大な土地を回るには割安であることもわかった。次の仕事も決まっていないけれど、腹を括り、有り金をはたいて航空券を買うことにした。

 エクソン社のパイロットをしていたホストファーザーは、たびたびアラスカへ飛んでいた。アラスカの北端にあるプルードーベイ油田からは、全長一三〇〇キロにわたるパイプラインが、北米最北の不凍港バルディーズまで延びている。一九八九年、この積出港をでたエクソンバルディーズ号がブライリーフで座礁し、四万キロリットルの原油が流れだした。メキシコ湾の事故が起きるまでは、これが最大の油汚染事故と言われ、海鳥が数十万羽、ラッコは数千頭が犠牲になった。ラッコは、凍結しないプリンスウィリアム湾の波間に浮かんでいたのだろう。皮下脂肪の少ないラッコは、毛づくろいをして空気の層をつくることで体温の低下を防いでいるが、油まみれになると凍え死んでしまう。ラッコが仰向けになっているのは、呼吸が楽だからという説と、毛皮のない鼻先と足先を海面にだすためという説を読んだが、どうなのだろう?

 アラスカには氷河が10万あると言われる。気候変動関連の本を立てつづけに訳していた私としては、間近に氷河を見られる機会も見逃せない。プリンスウィリアム湾付近のカレッジ・フィヨルドの氷河群やコロンビア氷河は、近年いちじるしく後退しているという。

 旅行前にこんなことを下調べしている私の心を知ってか知らでか、元エクソン社員のホストファーザーは、「アラスカは本当に広いんだ。すべてを見ることなんてできない。ただ空気を吸い込んで、チヌーク・エールを飲めば、それだけでじつに楽しめるさ」と言ってきた。そうかもしれない。バケーションもバカンスも、仕事や責務を忘れて頭を空っぽにすることなのだから、「見るべきものリスト」ばかりをチェックするのはやめよう。

 クルーズ会社から送られてきた案内を読んで目が点になった。フォーマルナイト用に女性はカクテルドレス、ガウン……男性はダークスーツ、タキシード……と書かれていたのだ。「少しだけお洒落なトップを一枚もってこられる?」と、ホストマザーがすかさずメールを送ってきた。どうせテーブルからは上半身しか見えない、ということか。何もかもお見通しらしい。いったいどんな旅になるのやら。
(とうごう えりか)







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東郷えりか(2010.8.5更新)



スパー山近くの氷河


氷河の表面



小さなメルトポンド


キバナチョウノスケソウ


玩具のように見える多数の水上飛行機


マージェリー氷河の下から解けだす水
その126
 ついに行ってきた、アラスカに。出発当日になっても、成田発のフライトが遅れたために乗り継げないなど、トラブルが相次ぎ、本当に実現するのだろうかと半信半疑だった。アンカレッジのホテルで待ち合わせたはずのホストファミリーが現われたのも、夜の九時過ぎだった。それでも、ホテルから歩いて向かいのレストランまで行き、アラスカのビールを飲みながらハリバット(オヒョウ、巨大なヒラメ)のフィッシュ&チップスを頬張るころには、気分は最高になっていた。なにしろ、外はまだ明るいのだ!
出会えたラッコ

 翌朝は世界有数の水上飛行機の発着場であるフッド湖とスピナード湖まで徒歩で行って、観光タクシーに乗るような気軽さで小型機に乗り込み、クック湾の対岸にあるスパー山付近の氷河の上を飛んだ。沼地が点在する緑豊かな平原ではムースやブラックベアが闊歩する姿が見えた。やがて、あたりは一面、氷の世界になった。氷河の末端では氷のかけらが一斉に流れだしている。夏の氷河の表面はまるで現代絵画のように亀裂が縦横に入り、ところどころにあるメルトポンドは、なかの氷河氷を映すからなのか、宝石のように青い。

 スパイ映画さながらに、狭いU字谷の岸壁際を飛んだあと、ベルーガ湖という誰もいない湖に着水した。湖岸には人手で植えたかと思うほどきれいな夏の野草が、あちこちに咲いていた。北米にだけあるキバナチョウノスケソウは、3種類しかないチョウノスケソウ属の1つだ。白いほうのチョウノスケソウは、花粉化石が指標となっていることで知られる。
ザトウクジラ

 空から見たときはわからなかったが、のちに船でカレッジフィヨルドやグレイシャーベイの氷河へ近づいてみると、その海域だけ気温が急激に下がり、真冬になったかのようだった。夏のあいだに氷が消滅するのか、それとも解けずに残るのかという違いが、のちの気温や植生を大きく変えるということが実感できた。アンカレッジから日帰りで行かれるポーテージ氷河は、昔はプリンスウィリアム湾とクック湾を結ぶ陸路輸送(ポーテージ)に使われていたそうだ。20年ほど前にホストファーザーが訪れたときも、まだ氷河の上を簡単に歩けたらしいが、いまでは前面に氷河湖が大きく広がっていた。

 プリンスウィリアム湾あたりから、エトピリカやウミガラスなどの海鳥が、パドリングするように海面すれすれを飛ぶ滑稽な姿が目につくようになった。海面にケルプが浮かんでいる海域で波間に目を凝らし、2つに見える黒い点があれば、それがラッコだ。陸地の影もない大海原に浮かんで、毛づくろいをしていた。点が1つならアザラシかトドだ。クジラやイルカは水面にでている時間が短いので、注意深く見ていないと見逃してしまう。
シャチ

 アラスカのスワードから、ジュノー、ケチカンなどに寄港しながらヴァンクーヴァーまで1週間のクルーズをするあいだ、私たちはチーク材張りのプロムナードデッキに陣取って、ひたすら海を眺めていた。運動代わりにデッキを歩いている人たちは、しまいに通るたびに「何か見たか」、「クジラはでたか」と娘に聞くようになっていた。

 旅行は3回楽しめる、とよく言われる。行く前の準備段階と、旅行中、それに帰ってからの記録整理だ。ホストファミリーへのお礼を兼ねて、いま娘と共同でアラスカ旅行記を作成している。娘が旅行中に描いたスケッチや絵をベースに、私が短い文章を書き、ウェブ上で1冊からつくれる写真の本を利用して編集・印刷することにした。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2010.9.5更新)



手入れを怠った庭に
今年も勝手に咲くテッポウユリ


その127
 30代になったばかりのころ、勤めていた会社に訪問セールスにきていた生命保険のおばちゃんの執拗な勧誘に負けて、教育保険に加入した。お勧めのプランの「設計書」によれば、積立配当金はどんどん増えて、18年後の満期時受け取り総額は400万円ほどになる予定だった。途中で私が死亡しても娘に保険金が入る、という点につられて契約してしまったのだ。なぜか満期時の娘の年齢が23歳に設定されており、いちばんお金のかかる大学入学時には、育英資金を引きだすか、解約するしかない妙な教育保険だったが、卒業後だってさらに進学するかもしれないし、結婚資金が必要になるかもしれない。そう思って、失業中の苦しい時期もとにかく保険料を支払いつづけた。

 幸い、親の懐具合を充分に承知していた娘は、小学校から大学まで国公立に通い、塾にも行かず、通信教育も受けず、必要最低限の教育費しかかからなかったため、この教育保険は無事に満期を迎えた。ところが、90年代のバブル時代に契約した保険は、蓋を開けてみたらシュルシュルと萎み、みごとに元本割れしていた。私が苦労して払いつづけた保険料は、利潤を生むことなく、あのおばちゃんの人権費に消えてしまったのだろう。

 娘は理系の大学に進んだものの、自分は研究者タイプではないと早々に見切りをつけていた。とりあえず数年間どこかに勤めて資金を貯めてから、好きな絵の道に進む、というのが当初の予定だったが、あいにくいまは100社回っても就職口が見つからず、就職浪人すらでるようなご時勢だ。卒論のための研究調査に4年次のほとんどを費やさなければならなかった娘には、その「とりあえず」すらままならなかった。同級生の大半は進学し、残りの多くは公務員になった。

 進路に迷った娘に、切り詰めれば1年くらいなら教育保険で暮らせるよと伝えると、あれこれ検討したあげくに、娘はイギリスで児童書のイラストを専門に学ぶコースを選んだ。これまで学んできた生態学や生物の知識を生かしつつ、美術の世界でそれを表現してみたい。そうすることで、自然とかけ離れた暮らしをしている都会の人びとの目を、自然に向けさせたいというのが、娘の漠然とした夢のようだ。それで食べていかれる保証などどこにもないが、絵の勉強をする機会を一度くらいは与えてやりたい。初めて親元を離れ、異文化のなかで暮らせば、自分を試し、鍛えることにもなる。留学後、改めて進路を決めればいいし、そのころには不況がいくらか改善することだって、まったくありえないわけではない。一時期の景気に、生涯を左右されるのもばからしい。

実際、この円高もわが家にとっては幸運であり、2年前まで230円くらいだったポンドが、いまは140円以下になっている。最大の出費となる授業料は、送金するまでもなく、ポンドが比較的安い日にクレジットカードで簡単に決済されていた。教育保険で損をした分、いくらか取り返したかもしれない。

 娘が日本を離れる日がいよいよ一週間後に迫っている。いまはインターネットがあるし、国際電話も無料でかけられるし、送金も簡単にできるし、航空券でもなんでもカードで買える。巣立ちの練習も何度かさせたつもりだし、山川捨松のお母さんのような覚悟はいらないはずだ。大丈夫、頑張れるよ。娘にも自分にも、そう言い聞かせている。

 前回のコウモリ通信に書いたアラスカの本がとりあえずできたので、ご興味があればのぞいてみてください。http://www.photoback.jp/introduction/home.aspx?&mbid=261542
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2010.11.03更新)






その129
 今年も、我孫子で開かれたジャパン・バード・フェスティバルに参加してきた。鳥を見るのは好きだけれど、どちらかと言うと、バードウォッチャーの保護者兼図鑑・スコープ持ちとして、鳥見に参加することの多かった私は、鳥好きの娘が渡英してしまったこの秋のお祭りはいったいどうしようかと、実はひそかに悩んでいた。たとえて言うならば、子供が卒業したあとも、部活の試合にお母さんが顔をだすようなもので、なんとも恰好が悪いのだ。それでも、例年お世話になっているワイバードと「こまたん」がまた早々に誘ってくださったので、意を決して「お母さん」だけ参加することにした。

 このところ多忙だったため、今年はほとんど新商品がない。昨年つくった鳥のお手玉と小物入れの「きびだんご」シリーズに、スズメとエトピリカが加わったくらいだ。娘がデザインするこの鳥の正面顔のお手玉は、点のような小さい目と、おなかに張りついた無防備な足と、背中のリアルな羽の模様が特徴で、いわゆるかわいいキャラクターとはほど遠い代物だ。それでも、甥っ子が幼かったころを思いださせるこのお手玉の鳥は、見るたびに表情を変えるようで、目が合うと「遊んでくれ〜」と言っているように思えてならない。

 ぎびだんごの原型は、おそらく娘が幼いころよくつくってやったスウェーデンのウォルドルフ人形にあるのだろう。人形の目は、子供のそのときどきの心情を映せるように、できる限り小さく刺繍するという考え方に私は大きな共感を覚えた。ダ・ヴィンチがモナリザの絵で使ったスフマートの手法にもどこか似ている。

 いちばん新しくつくったエトピリカは、赤く吊り上ったアイリングのなかに小さな黄色い目があって、ムーミンのヘムレンさんのような白髪が後ろになびいており、一見、意地悪な魔法使いにも見える。それならいっそのこと、カボチャと一緒にハロウィーンの飾りにでもしようと並べてみたところ、さすがはバードフェスティバル。こんな鳥が意外に人気で、小学校低学年と思われる子でも、一目見るなり、「あっ、エトピリカ!」と触っているほどだった。

 お手玉のかたちをそのまま拡大してつくったリュックサックが、今年は二つとも売れたのもうれしかった。そう言えば、昨年の第一作のメジロ・リュックを買ってくださった方は、「大事にします」と、まるで子犬や子猫をもらうみたいに言ってくださった。いまごろ、あのメジ君はどうしているだろうか。いつか、歩き始めたばかりの子が、このリュックにトレーニングパンツとぬいぐるみを入れて、よちよち歩いているところを見てみたい。

 売上げそのものはさほど芳しくなかったが、娘があちこちでお世話になった方たちが大勢ブースに立ち寄って声をかけてくださったので、日ごろ家で一人パソコンに向かっている私には、それが何よりも楽しかった。自然のなかで鳥を見るのが好き、ということだけでつながっているバードウォッチャーの世界は、もともと多様な人が適度な距離を置きながらゆるりと結びついていて、新しい仲間を自然に受け入れてくれる。とかく排他的になりがちな共同体主義と、アイデンティティの問題に関する本をいま訳していることもあって、バードウォッチャーの世界の居心地よさを実感した2日間だった。

 11月7日の大磯の宿場祭りでは、また「あおばとや」にお世話になる予定だ。アオバトはついに大磯町の町の鳥に昇格したらしく、今年は大いに盛り上がりそうだ。

(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2010.12.03更新)

その130

 先月、我孫子へ行った折に、母のところに、2泊ほど泊めてもらった。夕方遅くに訪ねると、母はピアノのレッスン中で、食卓に私のためのお茶とお菓子が用意されていた。私の記憶にある限り、母はいつもこうして仕事をしていた。学校から帰ると、戸棚のなかにお皿に小分けされたおやつがかならず用意されていた。たいていは、お中元やお歳暮でいただいた泉屋のクッキーだった。

 うちに初めてピアノがきた日のことはほとんど覚えていない。物心ついたときにはすでにピアノがあり、自分の意思とは関係なく朝夕2回練習することが、まるで3度の食事のように決められていたように思う。うちでは朝から晩まで、誰かが絶えずピアノを弾いていたから、ピアノの音は空気のようなものだった。私は門前の小僧のように、たいていの曲を自分が弾く前から耳で覚えていたので、楽譜を大して見なくても、音で確かめながら適当に弾いて、それらしく繕うことができた。そのせいか、結局、私のピアノ暦は物まねの域を超えることなく、小学校を卒業する前に終わっていた。私の勉強机は、長いあいだアプライトのピアノと襖1枚を隔てた裏側に置かれていたが、とくにうるさいと思った記憶もないから、自然に耳栓もできていたのかもしれない。

 母がなぜそこまでピアノにこだわったのかは定かではない。母自身はとくに音大をでているわけでもない。それどころか、外科の開業医だった祖父を手伝っていた母は、本当は自分も医者になりたかったらしい。切断された脚は重いんだよ、などと言っていたから、高校生のころは手術の助手もやっていたようだ。ところが、医者は女のやる仕事ではない、と祖父に猛反対されたため、母は仕方なく心理学を専攻した。それも、ハトの心理学とやらで、その道には結局、それ以上は進まなかった。その後、2 人の幼児を抱えて生計を立てなければならず、途方に暮れた母に、子供のころから習っていた「ピアノを教えたらいい」とアドバイスしたのが、やはり祖父だったという。母にとって、ピアノは生き延びるための手段であり、決して疎かにしてはいけないものだったのだろう。

 それから半世紀近く、母はピアノを教えつづけた。ほぼ毎年、お弟子さんのために「小さい鐘の会」と題した発表会を開きつづけ、それが今年で40回目を迎える。途中から姉が開いている教室と合同で開催するようになったので、いまでは姉の生徒が大半を占めるようだが、後期高齢者となったいまも、母はまだ自宅で細々とピアノを教えている。

 「40回を記念して、冊子をまとめたいから手伝ってもらえない?」と、姉から数ヵ月前に頼まれた。昔からの発表会の写真を集めて、生徒にも配布できるアルバムをつくりたいのだと言う。第1回目は1966年だった。近所の幼稚園の講堂で開いた発表会の写真には、たくさんの幼馴染みや着物姿のお母さんたち、そして亡くなってしまった方々が写っている。別の写真には、小学校時代の同級生や近所の子供たちなど、ピアノを習いにきて、うちの家計を支えてくれた人たちが並び、やがて母の孫の時代となる。その孫たちも次々に成人し、まだピアノをつづけているのはいちばん下の高校生のみとなった。

 記念冊子を編集しながら、これほどの長い年月、母が元気でピアノを教えつづけられたことを、つくづくありがたく思った。これは長い平和の時代がつづいたおかげでもある。
(とうごう えりか)