【コウモリ通信】バックナンバー 2011年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2011.01.07更新)


煙突の並ぶ町並み

トリニティカレッジの裏門

雪のロンドン塔とガーキン(左)

ロンドン塔内のトイレ

ロンドン塔内の暖炉

ミレニアムブリッジから見るセントポール

その131

 暮れにバンコク経由でイギリスに行ってきた。まだ暗い早朝に上空から眺めたロンドンは、黄色い灯り一色で描いた絵のようであり、隣にいたフランス人一家が「セ・ボウ!」を連発していた。空港から市内に向かうあいだの町並みを見てまた驚いた。どの家も二階建て程度で、屋根からメアリー・ポピンズの映画の「チム・チムニー」の歌にでてくるような煙突が突きだしているのだ。築100年の家がざらにあるとは聞いていたが、家など建ててはつぶすのが当たり前の日本に慣れている身には、誰もが古い家を修復しながら住んでいるということが、新鮮な驚きだった。

乗り込んでくる早朝の通勤客の多くは、地味な色の質素なコートにニット帽をかぶっている。そうしたなかに、ニカブをまとって目だけをのぞかせている女性がいても、誰も気に留めない。イギリスは80年代以降、多文化主義を受け入れるなかで大きく変わったと、アマルティア・セン博士が書いていたことが思いだされた。

キングス・クロス駅までどうにかたどり着き、はずれにある9番線ホームを探し当て、ホグワーツならぬ、娘の住むケンブリッジ行きの列車に乗った。ロンドンを離れると、あたりは一面雪景色になり、真っ白な牧草地に羊が点々と見えた。

 イギリスに行ったら訪ねてみたい場所は限りなくあったのだけれど、事前準備も軍資金も不足していたうえに、天候が思わしくなく、娘は休み明けに提出しなければならない課題がどっさりあったため、結局、一週間ずっと娘の狭い下宿に転がり込み、そこを拠点に行動することになった。その分、日常生活やケンブリッジ市内をよく見ることができたので、それはそれで興味深かった。大学のお友達のアパートや鳥仲間のおじさんの家にもお邪魔し、クリスマスの時期にならではのマルドワインやミンスパイをご馳走になった。新鮮なタラのフィッシュ&チップスも食べたし、ケム川を眺められるパブでIPAエールを飲みながら、ローストビーフのヨークシャープディング巻きも食べた。文字で読んで想像を膨らませていた食べ物を味見するのはじつに楽しい。まさに、百聞は一食にしかず。

 ロンドンにも一度だけ足を伸ばした。雪のなかのロンドン塔見学はなかなか風情があった。子供のころにもきたことがあるのだが、大きな宝石のついた冠を見たことしか覚えていなかった。今回はラザファードの小説『ロンドン』でロンドン塔建設に少々詳しくなっていたので、登場人物オズリックが強烈な仕返しをしたギャルドローブ(便所)や、その後に隠れた暖炉も、しっかりと見てきた。『巨大建築という欲望』に書かれていたノーマン・フォスターのガーキンやロンドン市長舎も見たし、火力発電所を改造したテートモダンのタービンホールをのぞいたあと、ミレニアム・ブリッジも渡ってみた。対岸にあるセントポール大聖堂は、ドーム屋根といい、コリント式円柱といい、建設当時は確かにいまのガーキンと同じくらい異質な景観だったに違いない。

 何よりもよかったのは、大雪の翌朝、銀世界のなかを凍結した川沿いにグランチェスター村まで10 キロほどの散歩したことだろうか。道中たくさんの鳥が見られ、氷点下の気温をものともせず、犬を連れたり、橇遊びをしたりして家族で楽しむイギリス人にもたくさん出会った。お茶を飲んでいると、隣のテーブルのおばあさんがにこやかに話しかけてくる。私の頭のなかにできあがっていた冷淡なイギリス人というイメージはすっかり崩れていた。娘がこちらの生活に瞬く間に馴染んだのも当然かもしれない。

 帰国便の機内でディズニーの「クリスマス・キャロル」を観た。映画のなかの光景は、少し前まで歩いていたケンブリッジの町並みとそっくりだった。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2011.02.11更新)



感応院



白旗神社



養命寺






その132
開運てぬぐい

 一月なかばに、新聞記事を見て思いたち、藤沢・江ノ島歴史散歩「七福神めぐり」に行ってきた。だいぶ前に深川の七福神めぐりをして土鈴を集め、蒲鉾の板を削って娘に宝船をつくったことがあったが、藤沢の七福神はスタンプ・ラリーのように各寺社でスタンプを集めると、最後に100円で「開運干支暦手拭」が買えるというもので、いかにも商工会議所と観光協会が主催するイベントだった。肝心の七福神も、江ノ島の弁財天以外は、各寺社に祀られた多数の神仏の一つで、小さな置物が飾られているだけのところもあった。

 それでも、湘南の冬のやわらかい日差しを浴びながら、小さい商店が並ぶ藤沢の町を地図を片手に歩くと、ちょっとした旅行者気分が味わえた。途中、真っ赤に塗られた遊行寺橋の欄干を見て、娘が中学1年の夏休みの宿題のために、旧東海道を歩いた際に同じ道を通ったことを思いだした。このコウモリ通信を書き始めて間もないころのことだ。あれからすでに10年以上の歳月がたっている。藤沢駅から南は、娘が大学受験から解放された直後に、2人で江ノ島まで行ったときにたどった境川沿いを再び歩いてみた。

 それにしても七福神というのは、日本古来の神々から、ヒンドゥー教や道教の神々などが入り交じった不思議な信仰対象だ。宝船に乗った図は中国の八仙とそっくりだ。「福」が精神的な幸福よりも、商売繁盛とか長寿といった、財福に近い具体的なご利益であるところは、いかにも庶民的だ。七福神に限らず、日本で信仰対象となるものは得てして、合格祈願や安産、交通安全、豊作などのわかりやすいご利益のあるものか、先祖や土地の霊だろう。それぞれの願いをかなえてくれそうな神さまに、必要に応じて祈願し、その対象はお稲荷さんであったり、菅原道真や源義経のような歴史上の人物であったり、如来や菩薩であったりする。宗教は何かと問われて、答えに窮する日本人が多いのはそのためだろう。

 でも、たとえば仏教国と言われるタイでも、街で人びとが祈りを捧げている対象はヒンドゥーの神やピー(精霊)の祠だったりするし、関帝廟も随所にある。中国風の観音菩薩の前でひれ伏して祈っている若い女性は、煩悩を捨てようとしているというよりは、恋愛成就を願っているように見える。同じような例は、一神教であるはずのキリスト教やイスラム教でも実際には見られる。カトリックではとくに、殉教者の聖遺物などが病気を治す信仰対象になっていたりするし、メキシコのグアダルーペなどでは聖母が出現したとされる地へ信者が這って詣でている。聖人信仰はイスラム教のスーフィズムにも見られ、アジアにイスラム教が広まったのは、そのためだと言われている。おそらく、土着信仰を頭ごなしに否定せずに、八百万の神に聖人を加えるかたちで徐々に布教した結果に違いない。

 宗教的には少々怪しげなこうした信仰は、現実的かつ個人的なご利益を求めすぎるきらいはあるけれども、人びとが多様な神さまを信仰し、それによって安心を得て、結果的に多少のご利益もあるなら、結構なことではないかと最近は思う。壮大な神学体系を妄信することを強要し、勢力拡大をはかろうとして、ほかの人びとの信仰対象を否定し、暴力行為におよぶ信仰よりは、よほど平和的だ。商売繁盛だの家内安全だのを祈る人同士なら、宗教戦争にも発展しないだろう。境内のなかにところ狭しと並ぶ神さまを見ながら、八百万の神さま万歳、と言いたくなった。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2011.03.6更新)










ジョウビタキ




その133

 以前は理性的にものごとを考え、知識も豊富で記憶力も抜群だった人が、集中力がなくなっていら立つようになり、ふとしたきっかけで、ごく簡単なことも理解できなくなるという事例にでくわしたことがないだろうか? 中高年だけでなく、若い人にも見られるので、原因はストレスにあるに違いないと以前から漠然と思っていたが、いま訳している本を読んで、その仕組みがもう少し具体的にわかってきた。

 私なりに理解したところによると、人は不安を頭のなかで言葉にして考えているのだそうだ。文学でいう「内的独白」みたいに、頭のなかで声にしているのだ。その作業は脳の言語野で処理しているが、プレッシャーが増して不安が増幅すると、やはり同じ領域で行なう思考や推理などの活動に影響をおよぼすほど、大容量を占めるようになる。確かに自分でも不安を感じているときは、頭のなかで不安をあおる言葉が次々に浮かびあがるような気がする。不安が言語野を支配しているときは、脳のほかの領域との連携も悪くなるので、総合的な判断を下すことはもちろんできなくなるし、それどころか、ふだんなら考えずにできるような簡単な行動にも支障がでてくるのだという。

 近年、日本の首相や閣僚は次から次へと失態を演じている。就任後、まるで決まったように無能ぶりを露呈するのは、本人の資質もあるだろうが、多忙なスケジュールによる睡眠不足と、四六時中、一挙一動を監視され、非難されるストレスで頭の働きが鈍っているせいもあるに違いない。

 不安の原因となっている問題を直視し、根本的な問題解決をはかることは、もちろん何よりも大切だ。だいだい、いまの日本に暮らす人の悩みなど、社会が生みだした規範や理想像と自分の現実とのギャップのように、明日の命にかかわるほど深刻ではない問題がほとんどなのだ。少し見方を変えて、自分の価値観そのものを変えれば、些細なことに感じられる問題も多々あるはずだ。

 ところが、いったん不安モードに陥ると、論理的な思考ができなくなるうえに、脳の他の領域の働きも鈍るので、この「少し見方を変える」ことができなくなる。脳の血流変化をfMRIなどを使って調べると、ストレスを感じている人は、活動すべき部位が動いていないことがわかるそうだ。要するに、頭の血のめぐりが悪くなっているのだ。それなら、ふだんからほかの脳領域を使わざるをえない状況を保つように心がければいい。

 そんなことを考えて、最近は集中力が落ちているときだけでなく、興に乗ってつい長時間パソコンの前に座りつづけているときも、一日に一度は外にでて歩くように自分に命じている。あれこれ悩んでいるときは、歩きながらも考えごとをしがちだが、なるべく頭のなかを空にして、いままで通ったことのない道を試したり、富士山が見えるはずの場所まで行ったり、ハムストリングを鍛えるのにぴったりの急坂を登ったりする。バードウォッチングもいい。鳥を探すと、どうしてもスカイラインを目でたどるから、自然と上を見るようになる。そもそも人間の悩みなど、地表から1、2 メートル付近に集中しているのだ。上には空が広がっている。たとえ30分でも外を歩くと、気のせいか頭の動きがよくなったように感じ、そのあとは心穏やかに集中して仕事ができるようだ。
(とうごう えりか)



コウモリ通信

東郷えりか(2011.04.02更新)




青白い小さい光だけれど、真っ暗闇よりはいい。



富士山の前を横切る幾重もの電線――まさに日本の象徴だ。


その134

 のちに現在のこの状況を振り返ったとき、東日本大震災を境にすべてが変わったと誰もが思うようになるのだろうか? 津波で町ごと流された人たちにとっては、3月11日はまさに運命の日だっただろう。首都圏に暮らす者にとっては、テレビの画面で見る映像は、濁流にのまれる家であれ、雪の降る被災地の悲惨な光景であれ、あまりにも非現実的で自分の身に迫りくる危機だとは実感しにくい。

 あの日、私の住む横浜でも異様な揺れを感じ、近隣一帯は夜中まで停電になった。震源は宮城県沖だと伝え聞いて、すぐさま脳裏に浮かんだのは福島の原発だった。二十代のころ読んだ広瀬隆の本に、福島原発で事故が起きた場合、風に乗って放射性物質が何時間後に首都圏に到達するかを示す同心円の図があったのを思いだしたのだ。

 その後、スーパーの棚から食料がどんどん消え、計画停電によってあらゆるものの営業時間が短くなり、一時は殺気だっていた人びとも、いまではほぼ平常に戻っている。暗い照明や、動かないエレベーターを見なければ、震災などなかったかのようだ。目に見えず、異臭もせず、「ただちに人体に影響はない」微量の放射性物質など、花粉のようなもので、気にしなければ日常生活に差し障りがないと信じて、たいていの人は呑気に構えているのだろうか。それとも、景気が悪化して社会不安が増すのを恐れているのだろうか。身に危険がおよぶような急性ストレスはエネルギーを与えるけれども、漠然とした先行き不安のような慢性ストレスが長期にわたると、うつ病や認知症になりやすいと言われるから、ニュースを見つづけず、外へでて気分転換をはかることは重要だ。

 震災にたいする反応は人それぞれだろうが、私はこれを機に、今後のエネルギー政策や、国土の開発、防災について真剣に考え直すときがきているのだと思う。文明の存亡は、そこに住む人間の英知や努力、道徳心以上に、環境収容力に見合った規模を保ちつづけられるかどうかに左右される。どんなに万全を期しても、日本が不安定な四つのプレートの上に乗った国である事実は変えようがなく、地震や火山が活動期に入り、気候変動が始まっていると言われるいまは、1000年に1度の規模の大災害は充分に起こりうるのだ。

 石油資源のない日本が原子力発電に夢を託し、そのおかげでいまの繁栄があるのは確かだ。でもそれは日本全国の原発が最低は0.7m、最高でも9.8m(福島第一は5.7m)という根拠のない低い津波数値を想定して、収支に見合う安全対策しかとらず、たまたま数十年間は大きな自然災害がなかったという幸運に支えられていたことを忘れてはいけない。同じことは、防潮堤を築くことで低地に広がりすぎていた町にも言えるのだろう。

 原発事故や津波災害が引き起こした環境汚染の規模はどれほどなのだろうか? 少なくとも風評被害は近隣の自治体に留まらず、日本全体におよんでいる。ただでさえ廃棄物の処理に莫大な費用がかかる原発が、あらゆる自然災害に備える(そんなことができればだが)とすれば、化石燃料による火力発電でCO2を除去する費用もはるかに超えるだろう。

 今回の事故における東電の実態や対応は情けない限りだが、これは東電だけを責めて解決する問題ではない。蓄電が難しい電力を、風呂を炊く三助のように、需要が増えればそれに応え、余れば減らすという具合に昼夜調節しているのが電力会社であり、電気がどのように供給されているかも忘れて、「火を炊け、火を炊け」と莫大な需要を生みだしてきたのは私たち一人ひとりなのだ。

 一昨年、購入した中国からの輸入品のソーラーランタンは、計画停電の夜に私の唯一の明かりとして活躍している。太陽光発電はもともと日本が先駆けていたはずだ。スマートグリッドの整備、自治体や各戸単位の分散発電、蓄電技術の開発など、一部の国ではすでにかなり取り組みが進んでいる。多少の犠牲は覚悟のうえで、大きな方向転換が必要だ。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2011.05.02更新)









その135

 もうだいぶ昔のことだが、八ヶ岳の赤岳を編笠山からキレット経由で登るという無謀な計画を立てて、あまりの険しさに立ち往生したことがあった。小学校2年だった娘と60歳近い母を連れた山行だったので、運よく通りかかった頂上小屋の管理人さんに、「夕方までにたどり着けなかったら、捜索にきてください」と、お願いしてみた。ところが、「山に入ったら、人に助けてもらおうなんて思うんじゃない」と言われ、頭を殴られたような気分になった。引き返すこともできず、平均斜度35度という、下を見ると気が遠くなるようなガレ場を何時間も登りつづけ、日も暮れるころに疲労困憊して頂上に着いた。私たちの到着に気づいた管理人さんは一瞬にやっとしたが、何も言わなかった。頂上から見た日の入りは格別だったが、それにも増して管理人さんの言葉は忘れられないものとなった。

 キレットからの登りがどの程度の難所かは、ガイドブックを読めばきちんと書いてある。ろくに調べもせずに勝手に登ったのは私たちなのだ。どんなリスクがあるのか前もって把握し、それでも行くのかと自問すべきだった。この山行で親は当てにならないと悟った娘は、それ以降はふりがなを振ってもらいながら、自分でガイドブックを読み、地形図を丹念に調べるようになった。

 個人的な山登りの体験と、今回の震災をくらべることはできないと思うが、被災地がいずれも危険と隣り合わせで暮らしていたことを考えると、どこか似ているような気がする。生き延びるためには結局、自分で調べ、判断し、行動するしかないのだ。昔から津波被害に遭ってきた三陸地方では、「津波てんでんこ」という教えを子供たちに徹底して教えていたため、下校中の小学生が自分たちの判断で高台を目指して一目散に走り、おかげで助かったという記事を何度か目にした。結局、いざとなれば自分の身は自分で守るしかない。それでも、自然が相手の場合は運しだいだ。ほんの数分、数秒の差で命を落とした人は大勢いるのだろう。自分はもういいから、おまえだけが逃げろと言って、波にのまれていったお年寄りもいたという。大津波であれだけ被害を受けても、漁師たちはまた海にでていく。厳しい自然のなかで生き抜くというのは、こういうことを言うのだろう。

 一方、日常生活を唐突に奪われ、最低限の衣食住をあてがわれ、プライバシーのない生活を長期にわたって余儀なくされている人たちはストレスをためている。こうした状態が長引けは、体調を崩して落ち込み、理性を失って八つ当たりしたくなるのは仕方がない。同じことは、震災以来、緊張の連続を強いられている現場で働くさまざまな人びとや、政府や報道関係者などにも言える。差し迫った危険が少なくなったいまは、抑えていた不満が方々から一気に吹きでているように見える。

 それでも、いがみ合い、責任をなすりつけ合えば、ストレスはさらに増し、冷静になれば対応できたはずのことすら進まなくなるばかりだ。原発という危険が日本の各地にあって、そこで発電された電力を使って日々、エスカレーターに乗ってはルームランナーで走るような生活をつづけていることは、少し考えれば誰にでもわかることだ。本当にこの危険を受け入れるのか、いざというときはどう身を守るのか、子供やお年寄りを含め、誰もが真剣に考える必要がある。ころころと政権の変わる政府や、一私企業でしかない東電に責任を追及してみたところで、しょせんわずかな賠償金をもらえるに過ぎないのだから。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2011.06.03更新)




東戸塚東口



福寿観音からの光景



新戸塚観音堂



西方には横浜新道が見える
その136

 飽きっぽい私にしては珍しく、昨年末からほぼ毎日、散歩をつづけている。とは言っても、運動不足やストレスの解消という当初の目的からは大幅にずれて、何かおもしろいものを発見すると、翌日にはそれを調べにさらに足を伸ばすという具合なので、最近は行きたい場所が広がりすぎて、自転車を使うことが増えている。仕事の合間の1時間の息抜きだったはずが、ママチャリで何時間もアップダウンを繰り返しながら走ると、さすがにくたびれて仕事にならず、本末転倒になりつつある。

 ふだんは用事をすますためになるべく平坦な最短距離を通るので、何度も近くを通っていても何も見ていないことが多い。電車に乗り遅れないように急いでいれば、なおさらだ。一本違う路地を行くだけで、ほんの少し寄り道をするだけで、思いがけない発見があるものだ。たとえば、私の住んでいる地区から駅に徒歩で向かう人は、たいてい福寿観音という小さいお堂の脇を通る。1982年に建てられたこの観音にある石碑を読むと、「昭和38年嘗て内務省官吏の経験を持つ弁護士で新一開発株式会社社長の福原政二郎氏が土地区画整理事業に依る開発を計画、同時に新駅設置運動を再燃せしめ」、その新駅の誕生を祝って建てられたことがわかる。しかも、駅前広場用地を無償提供し、駅舎総工費30億円のうち25億円を福原氏個人が負担したという! 「近代的な駅と是を中心に東西を結ぶ自由通路を基盤とした都市構造は、巧にその地形を生かした全国でも稀に見る弐十壱世紀を魁する街造り……」、いや、たしかに。

 以前、『巨大建築という欲望』を訳していたころ、浅い谷間にまたがる人工的な地上階に巨大高層建築物を建てたニューヨーク州オールバニーの開発の光景を見て、私の住む東戸塚の駅前開発地とどことなく似ていると思ったことがある。ネルソン・ロックフェラーが新しい行政中心地をつくろうと1958年に立てたこの計画には、18年の歳月と10億ドルが費やされ、完成したころにはロックフェラーの政治生命はとうに終わっていたという。東戸塚の開発は規模こそ小さいものの、駅周辺の開発工事が終了したのは昨年のことだから、じつに当初の構想から半世紀近い歳月がたっていたことになる。起伏の多いこの土地の35メートルほどと思われる高低差を、東西に一直線に伸びる自由通路と長いエスカレーターで結び、その間に高層マンションと商業コンプレックスが並ぶ様子は、見慣れた光景とはいえ、改めて眺めると圧倒される。駅の反対側からでも、旧東海道沿いに残る高い杉の木の下に福寿観音が小さく見える。福原氏はこの景観をどんな思いで眺めたのだろうか。

 最近になって、駅の反対側にも同じ福原氏が建てた新戸塚観音堂があることを知り、散歩の折に探してみた。駅をはさんで東西両側に観音堂を建てようと考えるような人なら、当然、一直線の軸上に建てただろうと予想したのだが、どうもそれらしい建物が見当たらない。付近をぐるぐる回ったあげくに、横浜新道の脇に相輪が見えてきた。驚くほど立派な建物で、なかも豪華絢爛だ。ただし、東西の軸からは多少ずれており、駅の西口からは100均や量販店が入る建物などが邪魔をして見えず、裏口をでてよほど見回さないと気づかない。あえて目立たない場所を選んだのか、壮大な計画のなかの誤算だったのか。これまで何一つ知らずに日々、彼が引いた軸上を往復していた私には、もちろん知る由もない。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2011.07.03更新)




『アイデンティティと暴力――運命は幻想である』アマルティア・セン著、大門毅監訳、東郷えりか訳、勁草書房 (7月9日発売予定)






この統一感のない雑多な光景こそ、日本がまだ平和である証拠なのかもしれない。
その137

 先日、遊歩道を見つけて歩いていたら、裏山を丸ごと開発した巨大な城のようなマンションの敷地内に入り込みそうになり、立ち入り禁止の看板に行く手を阻まれてしまった。林地の一部がそっくり私有地になり、一種のゲーテッド・コミュニティになっていたのだ。あきらめて周囲を回ると、ちょうど幼稚園のバスが帰ってくる時間帯で、若いお母さんたちが30人ほど出迎えていた。まるで申し合わせたように下の子をベビーカーに乗せ、育児の真っ只中でありながら、流行のファッションに身を包み、にこやかに談笑している。一人だけなら絵に描いたようなほほえましい光景なのに、人生の勝ち組であることを高らかに宣言するような集団に気圧され、私は足早にその場を去った。

 同質な人ばかりで構成された集団というのは、無意識のうちに外部の人間を締めだす。隔離された世界に特定の条件を満たす人だけが住める社会は、犯罪が横行するいまの世の中では、一見、治安のよい楽園のように思えるかもしれないが、外の雑多な世界に暮らす人びとの目にはどう映るだろうか。こういう集団は得てして、自分たちの身分や資格を明確にする条件、たとえばマンションの住人かどうかを過度に意識するようになる。

 閉鎖的な社会では、その構成員に画一的な規範や制約が課されがちでもある。「みんなちがって、みんないい」どころか、理想像はたいがい一つしかなく、子供のいない人はもちろん、共働きで子供を保育園に預けている人ですら、その輪には入りにくいだろう。輪のなかで愛想よく笑みをたたえている人も、内心は子供の教育からご主人の出世ぶりまであれこれ競い合ったりしていて、案外、窮屈な世界に違いない。

 規模は違うけれども、同じことは民族や国のような、より大きな集団に関しても言える。特定の宗教や言語、文化などをもとに一つの民族として括られた集団は、その条件である信仰心や愛国心などを重視する。人をまずそうした観点から区別し差別して、集団の権利を主張するようになるのだ。その正当性を主張するために昔は神話をつくり、いまは法律を盾にする。こうした集団は、確かに外敵から自分たちの利益を守るうえでは好都合かもしれない。でも、しょせん人間社会全体にいちじるしい格差があるのだ。こうした気圧差は、少なければ心地よいそよ風になるけれど、圧力が高まれば犯罪という隙間風になって脆い場所に吹き込む。ときには内戦のような暴風にもなるだろう。内部の人間も外部の人間も、結局は住みよい土地や資源をめぐって生存競争をしているに過ぎないのだから。

 このたび刊行されるアマルティア・センの『アイデンティティと暴力』は、人間のコミュニティに関するこうしたさまざまな問題をとりあげたものだ。「住民が本能的に一致団結して、お互いのためにすばらしい活動ができるよく融和したコミュニティが、よそから移り住んできた移民の家の窓には煉瓦を投げ込むコミュニティにも同時になりうるのだ。排他性がもたらす災難は、一体性がもたらす恵みとつねに裏腹なのである」と、センは言う。

 人間が所属するコミュニティの一員であることを極端に重視するようになり、それがその人の唯一のアイデンティティになると、本来は多様であるはずの個人は画一化された枠組みのなかに埋没し、そのアイデンティティを共有しない集団とのあいだには敵対関係が生まれる。資源が乏しくなり、生きることが難しくなればなるほど、こうした傾向は顕著になる。過度の自由主義への批判から共同体主義が脚光を浴びている現在において、そうした動きが偏狭なナショナリズムに発展することを危惧した書と言えるだろう。サンデル教授の本ばかり読まずに、ぜひこの本も読んでみて欲しい。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2011.08.03更新)









その138

  ジャグリングが脳にいいということは、5、6年前から神経科学の実験でたびたび証明されており、いまさら私がここに書くまでもないかもしれない。両手、両腕を正確なタイミングで動かし、速く動くものをつかみ、視界の周辺で動くものを追う必要があるジャグリングは視覚運動技能の典型だ。「両手の動きを協調させるには、左右の脳が対話する必要がある。この対話は基本的に、左右の半球をつなぐ神経細胞の線維路の太い束、つまり脳梁を通じて行なわれている」と、この秋に刊行予定の『なぜ本番でしくじるのか』という本のなかで、著者のバイロックは書いている。「ジャグリングの練習を数ヵ月間つづけると灰白質(ニューロンの細胞体がある部分)が増す。これは一般に、運動を理解することにかかわる脳の部位で、脳細胞間の情報伝達が増すことを意味する」のだそうだ。

 視線を上げて投げる、取る、という単純な動きだけに精神を集中させる運動には、瞑想のように頭のなかの邪念を追い払ってくれる効果もある。運動不足で脳の言語野ばかりを使いがちな現代人は、柔軟な発想ができない、ストレスがあっていざというときに力が発揮できない、不安や怒りに駆られるとそこから抜けだせないなど、多くの問題をかかえている。そんな現代人が手軽に始められる娯楽として、ジャグリングは注目されているのだ。

記憶には体で覚える「手続き記憶」や、意識的に覚える短期および長期の「顕在記憶」など異なった種類のものがあり、脳のさまざまな部位に少しずつ蓄えられていることがいまでは判明している。老化は20代から始まるし、いつか脳梗塞に見舞われたり、アルツハイマー病を患ったりすることもあるだろう。脳の一部を損傷しても、一度にすべてが失われないためにも、日ごろから普段あまり使わない脳の部分を鍛えておくのは重要だ。

 ジャグリングというと、何本ものクラブを自在に操る大道芸を思い浮かべるかもしれないが、お手玉でもいい。「なんだ、おばあちゃんの遊びか」と、ばかにしてはいけない。ビーンバッグ(豆袋)は世界各地のジャグラーも使っている。聖徳太子もお手玉で遊んだらしいが、「石なご」と呼ばれたこの遊びはジャグリングではなく、ナックルボーンズという遊びに似ていて、お手玉では「よせ玉」という遊びになっている。布のお手玉が広まって、ジャグリングである「ゆり玉」遊びが流行したのは江戸末期から明治のようだ。子供のころお手玉でよく遊んだという私の母などは、いまでも両手三つゆりが上手にできる。

 日本のお手玉の会が推奨する40gの小豆入りざぶとん型のお手玉は、当たっても痛くないし、手によく馴染み、手ごろな大きさだ。長方形の布(4.5×9cm)四枚を風車のように並べて縫い合わせる。誰が最初に考えたのか知らないが、わずかな布で簡単にボールをつくれるこのアイデアはすばらしい。私は別の展開図を考え、娘がつくった型で鳥の図案を一枚一枚ステンシルで染め、これと同じ仕様の鳥のお手玉を製作している。滑稽な顔の鳥がポン、ポンと舞い、ときどき空中衝突するさまは何度見ても笑ってしまう。

 お手玉をやる人はたいがい、右手で投げて左手で取り、それを右に送る方法で三つゆりをする人が多い。でも、これから始めようという人は、ジャグリングの基礎と言われる3つのカスケードを先に習得するほうがよいようだ。これは両手が同じ動きをし、右手で投げたら、その玉を取る前に左手の玉を投げ、その玉を取る前に右手の2個目を投げるという技だ。球戯が得意でない私には、左手で投げることがそもそも難しい。取る前に投げる、などと考えていると、どれを投げるのかわからなくなる。そこで取ることは意識せず、投げることだけに専念した。「な・げ・る」は三音節なので、「ほぃ」「ほぃ」と唱えながら練習する。そのうちに私の脳にもめでたく新たな回路が形成されたようだ。以来、毎日少なくとも5分は練習している。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2011.09.03更新)











その139

 おそらく狭い家で生まれ育ったせいだろう。私は子供のころから天井を眺めるのが好きだった。ものがあふれる床の上とは異なり、天井にはわくわくするほどスペースがある。小さいころはよく、『長くつ下のピッピ』みたいに接着剤を足裏に塗って天井を歩けたら、と夢見ていた。そのせいか、天井に近い空間をゆらゆらと不規則に揺れ動くモビールについ心をそそられる。

 ここ一ヵ月ほど暑くて散歩もままならず、あきらめて仕事に専念しようとパソコンに向かってみたものの、なかなか集中できない。秋のお祭り用に何か新商品をつくらなければ、などとぼんやり考えているうちに名案が浮かんだ。ペーパークラフトで鳥のモビールをつくるのだ。これまでに何度か精巧な鳥の紙模型はつくったことがあったし、翼の動くスキハシコウの玩具を真似て工作してみたこともあった。数年前、「こまたん」から娘が実物大に近いアオバトのモビールの絵を描かせていただいたこともある。

 でも、私が考えたのはそんな難しいものではない。鳥のかたちは複雑そうだけれど、飛んでいるときは魚のような流線型の体に、翼が二枚ついているようにしか見えない。サギのような足の長い鳥は別にして、たいていの鳥は足も見えないし、体だって正面からは小さい丸にしか見えない。ならば、胴体は紙二枚分の厚みしかない薄っぺらでもいいかもしれない。翼と尾羽を開けば、それなりに立体的に見える。あいだに糸を挟むだけで重心がとれるだろうか。試してみたら、ほんのわずか後ろにすると鳥はまっさかさまに落ちそうになり、少し前にずらすと昇天しそうになる。ところが、中心当たりで両翼を開くと不思議に安定するのだ。翼をさらに下げたり、少し上向きにひねったりすると、いまにも飛びそうだ。ツバメ、コアジサシ、カワウ、サシバなど、いろいろな鳥の試作品をつくってみたが、まずはかたちも単純なアオバトをつくることにした。大磯の海の上を、朝日を浴びながら群れをなして旋回する姿をモビールで再現しよう。

 飛んでいる鳥が肉眼で見える程度のラフな模様を娘に水彩で描いてもらったものを、A4の用紙1枚に収まるように5羽分並べ、裏表がぴったりの位置になるように失敗を重ねながら調整した。これならたった1枚の紙から、オス3羽、メス2羽の小さいアオバトがつくれる。贅沢な材料と時間と手間をたっぷりかけた工芸品は、誰もが手に入れられるものではない。子供でもお小遣いで用紙が買えて、30分もあれば家にある材料で、自分で設計するモビールがつくれたら、楽しいではないか! この工作を機に、バランスや空間造形の面白さに目覚める人や、本物のアオバトを見に行こうと思う人がいるかもしれない。針金ならつけても軽いし薄いので、糸が絡まないようにうまくたためば、定形郵便で遠方の友達に送ってあげることもできる。もちろん、針金の代わりに小枝を使ってもいいし、一羽だけぶら下げても、ただ押しピンで壁につけてもいい。

 マットコートの厚紙に印刷してもらったアオバトはきれいな色に仕上がった。私は調子に乗って10羽が舞うモビールをつくり、夜風に乗ってゆっくりと思いがけない方向に漂っている様子をほれぼれと眺めている。このお手軽工作シリーズは、ペーパー・バードと名づけることにした。「It's only a paper bird, hanging over a baby cot……」。娘がすかさずメールで替え歌をつくってよこした。信じてくれれば、紙の鳥でも本物になる。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2011.10.04更新)




その140

 この9月はなぜか「事件」の多い月だった。始まりは母からの電話だった。こともあろうにキャッシュカード詐欺に遭って、総合口座の定期預金まで引きだされてしまったのだ。うちの近所はほぼ連日、パトカーやゴミ収集車、消防団などがこの手の詐欺に気をつけろと、耳にたこができるほど言って回っているので、自分の母親がそれにまんまと引っかかるとは夢にも思わなかった。頭に血が上った私は、ともかく状況を正確に把握しなければと思い、船橋の警察署で母と落ち合わせることにして電車に飛び乗った。

 発端は前日の夕方、警察を名乗る犯人からかかってきた電話だったが、母が私に連絡してきたのは翌日の夕方近くになってからだった。いわゆる劇場型の犯罪で、犯人グループは警察や銀行員になりすまして母に電話をかけつづけ、その間にもうカードを回収する実行犯が玄関口に現われたらしい。なぜ、すぐ私に連絡してくれなかったのか、どうしてそんな猿芝居に騙されたのかと、話を聞けば聞くほど情けなくなった。つい口調がきつくなっていたのだろう。事件を担当した刑事さんにあとから、「犯人はじつに巧みに話すので、誰でも引っかかるものなんですよ。お母さんをあまり責めると、この事件をきっかけにうつ病になったり、認知症になったりすることもありますから」とたしなめられた。確かに、それだけはなんとしても避けたい。

 あとから考えてみれば、犯行があった晩は台風の影響で荒れ模様だったため、母に電話をかけなければと、一瞬思ったのだ。あのとき私が電話をかけていれば、少なくとも日付が変わってすぐ、一日の引き出し限度額が更新された瞬間に深夜のコンビニのATMから下ろされた二度目の犯行は防げたはずだ。防犯カメラには実行役の姿が映っているそうだが、こういう犯罪は毎日あまりにも多くの件数で起こっているので、捜査の手が回らないのが実情のようだ。あとは金融機関が詐欺事件の被害者のために設けている制度で、被害額の何割かでも戻ってくることを願うばかりだ。

 この事件のショックから立ち直る間もなく、今度はあちこちから突然の訃報がつづいた。例年、夏の終わりから秋口にかけては、真冬と並んで亡くなる人が多いそうだが、今年は震災のストレスに加えて、暑い夏を節電しながら過ごしたせいだろうか。まだ当分は活躍するだろう思っていた人たちが、まるでもうこんな世の中はご免だと言うように、あの世へ旅立ってしまった。

 さらに、台風15号にもやられた。お隣とのあいだに並んでいたカイヅカイブキが5本も曲がり、そのうちの2本が窓に覆いかぶさっている。たしかに風の通り道にありながら、丈が高いまま放置されていたのだが、こんな被害がでるとは。これでは歯抜けになって目隠しの役割をはたさない。どうせお隣はもうずっと空き家だから当面はいいか、などと思っていた矢先に、今度はそのお隣が取り壊しになることになった。すでに足場を覆うシートの向こうで、連日、バリバリ、ガッシャーンと、気の滅入るような騒音がつづいている。

 私の周囲の一連の出来事は大震災の余波のようなもので、こんな末端までついにその波紋が広がったのだろうか。それともこの先さらに「大事件」が待ち構えているのだろうか。We'll cross that bridge when we come to it. その橋まできたら、渡ればいい。取り越し苦労をしても仕方ない。以前はこう言われると腹が立ったが、いまはこうして開き直るしかない気がする。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2011.11.04更新)

その141


1690年にケンペルが描いたチャオプラヤー川沿いの光景(A Description of the Kingdom of Siam 1690, 1998年の復刻版より)

 本のなかであれこれと読み、想像してきた遠い過去のことや、遠い未来に起こるはずの出来事が、いま現実に起きている。準備や心積もりができる前に、時代のほうが一足早く動乱の時代に入ってしまったかのようだ。地球温暖化で海面が上昇したら、タイの中央平野はナコーンサワン付近までたちまち海面下になると以前に読んだ記憶があるが、それが雨季の洪水でこれほど見事に冠水するとは。友人たちも次々に被災しており、この先、流通だけでなく水道や電気などのインフラにも混乱が起き、食糧難や疫病の流行すらありうることなどを予想すると、なんとも気が重い。

 日本のマスコミの報道は、タイに進出した日系企業の被災状況ばかりに集中している。タイで生産すれば安い、ということにしか関心のない企業人は、思わぬ痛手を受ければそそくさと引き揚げてしまうのだろうか。外国企業を多数誘致し、高層ビルから都市交通網まで海外の技術を使って建設し、高級な外車を乗り回し、海外ブランド品で身を固めてきたタイのエリートたちは、豪邸にじわじわと迫る泥水にどう対処するのだろうか。

 大河の流域で暮らすことがつねに危険と隣り合わせだということを私たちは忘れている。川の水は大量の土砂やシルトを運び、それが堆積すれば川床は高くなり、蛇行するようになる。集中豪雨などで短期間に流量が急増すれば、川はより低い場所を求めて流れを勝手に変えていく。人間は定住地を築くために川に堤防を築いて川筋を固定しようとするけれど、水の流れは地表面だけでなく、実際には地下でも起きている。堤防を超えて水があふれれば、あるいは堤防そのものが崩れれば、頭上高くから水が押し寄せる事態になる。あふれた場所の多くが市街地や工場になれば、水は地面に浸透せずにすべて排水溝へ流れる。

 バンコクは海抜が一メートル以下の地域も多く、高い場所でも二、三メートルしかない。かつて国際貿易都市として栄え、今回は多数の日系企業の工場が冠水したアユタヤも、海岸から九〇キロ近く内陸にあるのに、海抜は四メートルほどしかない。十七世紀にチャオプラヤー川をさかのぼってアユタヤを訪れたフランスのイエズス会士ギー・タシャールはこう書いている。「シアム〔アユタヤ〕まで数日の距離にあるこの地は非常に低い土地だ。一年の半分はすべて冠水している。数ヵ月は降りつづく雨が〔チャオプラヤー〕川を氾濫させ、大洪水を引き起こし、おかげでこの土地は肥沃になっている(中略)。それがこの洪水のもう一つの好都合な点で、どこへでも、農地のなかへも船で行かれるのだ。そのため、あらゆるところに多数の船があり、この王国の中心地には人よりも船のほうが多い。なかにはかなり大型で、上に家が載っている船もあり、一家全員がそこに住んでいる。こうした船が出合う機会のある場所では、何隻もが一緒に集まって、水上村のようなものをつくっている」。ペルシャ人はアユタヤを「船と運河の都市」と呼んでいた。運河はもともとこの氾濫原を干拓するための排水路としてつくられたのだ。


ケンペルが描いた屋形船(同上)

 二十世紀以降、タイでは人口が急増し、運河は道路に変わり、高床式の住宅も地方にしか見られなくなった。今日のバンコクはニューヨークや東京となんら変わりない大都会に変貌しているが、タイが熱帯の国である現実は変わらない。温暖化が進めば、モンスーンの豪雨がさらに激しくなる可能性も充分にある。タイを利用する外国企業も、お金で見かけの繁栄を買うタイのエリートも、もっと自分たちの置かれた環境をよく知らなければ、何を築いたところで足元から崩れていくだろう。同じことはどこの国にも言える。

追伸:以前にコウモリ通信に書いた新しい訳書『なぜ本番でしくじるのか』(シアン・バイロック著、河出書房新社)がこのたび刊行されました。ふだんはできるのに、肝心なときに失敗して損をしている方、ぜひお読みください!
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2011.12.04更新)

その142



 「タール砂漠には、かつてもう一つの川が流れていた。古代にはサラスヴァティーと呼ばれ、いまはガッガル・ハークラーと呼ばれる川だ。この川もまたリグ・ヴェーダのなかでこの地域の七人の川の姉妹の一人として称えられている」と、水をテーマにしたブライアン・フェイガンの新しい本に書かれている。

 ハラッパーやモヘンジョダロで有名なインダス文明は、実際にはサラスヴァティー川流域にあったといまでは考えられている。この川が干上がるにつれて人びとは四散したのだろう。下水道まで完備した高度な都市を築き、メソポタミアや中央アジアの国々と交易をしていたこの文明の存在は、二十世紀初頭まで忘れられていた。再発見のきっかけをつくったのが、インダスの印章と呼ばれるものだ。ソープストーンという柔らかい石に彫られていて、封印のように粘土に押して交易に使われていたと考えられている。

 いま訳している大英博物館の本にこの印章について書かれた章があり、いつもながら、つい調べ物に夢中になってしまった。この印章にはまだ解読されていないインダスの文字とともに、驚くほど写実的な動物の姿が陰刻されている。ゾウ、トラなど、一目でそれとわかる動物もいれば、あまり馴染みのない動物もいる。鎧を着たようなイボイボのサイは、デューラーの「犀」の絵によく似ていたので、インドサイだと見当がついたが、襞襟をつけた蹄のある動物は、ヤギなのか牛なのかもわからず、延々と画像検索したあげくに、フェイガンの本にあったコブウシだ!と思いついた。しかし、縞模様の一本角がある妙な動物はなんだろう。大英博物館の本には「牛とユニコーンが合体したような獣」と書いてあったが、私には架空の動物には思えなかった。後ろ脚の付き方や蹄などは、動物をよく観察した人ならではの正確な描写だし、空想上の動物にしてはずんぐりしている。

 気になって今度はユニコーンを調べてみると、インダス文明からはるかのちの紀元前390年ごろペルシャ王の医師を務めていたクテシアスというギリシャ人が『インド誌』のなかで「インドには、ウマぐらいの大きさか、もしくはそれ以上の大きさの野生のロバがいる。その体は白く、頭は暗赤色で、眼は紺色、そして額に縦1キュビットほどの長さの1本の角を持つ」(ウィキペディア「ユニコーン」より、1キュビットは約45センチ)と書いている。「この動物は、非常に力強く、足が速く(中略)その肉はひどく苦く、食すこともままならないので、角とアストラガロス(距骨)のためだけに狩られる」。その100年ほどのちに、実際にパータリプトラに駐在していたギリシャ人、メガステネスが現地人から聞いた話もウィキに掲載されている。メガステネスの記述はインドサイと混同しているが、角には「螺旋状の筋が入って」いるとしている。インダスの印章の動物にそっくりではないか。

 アレクサンドロス大王はインド遠征時に大きな大学のあるタキシラの町を訪れ、現地の人びとと哲学談義を楽しんでいる。パンジャーブ地方にあるこの町にいた文化人たちは、インダス文明を築いた人びとの子孫だったのかもしれない。

 中世のヨーロッパ人がインドについて知っていたことはすべて、古代ギリシャ人が残した書物からの知識であり、そこから一本角の白馬のような空想の動物ユニコーンが生まれたらしい。その間に、一本角のロバのほうは砂漠化と乱獲によって絶滅した可能性はないだろうか? インダス文明の研究は着実に進んでいるようだ。そのうちどこからかユニコーンの化石が出土するかもしれない!
(とうごう えりか)