【コウモリ通信】バックナンバー 2012年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2012.01.10更新)


その142

 数年前、友達に誘われてフェイスブックを始めた。最初のうちは海外の友人ばかりだったし、どう利用すればよいのかわからず、「顔なし」のまま持て余していた。そんな折にSNSに関する本を仕事で読み、友達の友達に輪を広げることが人間関係を大きく発展させることに気づかされ、興味をもつようになった。

 もともとインターネットという公共の場で、自分の考えを述べることには関心があった。十数年間、この「コウモリ通信」を書きつづけているのもその一環だ。ネット上とはいえ、文字で残るので、それを読んだ人から批判される可能性は充分にある。それでも、私が発信したわずかなことが、誰かの心に残り、なんらかの影響力をもつことだってあるだろう。

 フェイスブックの場合は半公共スペースであり、おたがい少なくともある程度は素性のわかる人同士のやりとりなので、掲示板などで見られる匿名の誹謗・中傷の心配はない。顔をだすことは、集団の一人に紛れるのではなく、個人として活動することなので勇気がいるかもしれない。自分の弱みや内面をいっさいさらけださないタイプには向かない。ストーカーもいるので、神経を尖らせる人がいるのも無理はない。でも、みんなが鎧に身を固めて当たり障りのない話しかしなくなれば、それはもう社会ではない。実際には誰もが同じような悩みをかかえて生きている。要はそれを恥と思って苦にするか、しないかの違いなのだ。

 震災後はとくに、フェイスブック上でかなり真面目な議論も交わされていた。人はいろいろな意見をもっているものであり、反対意見があってこそ、よりよい方向が見えてくる。これこそまさに弁証法だ。民主主義にとって「脅かされることなく発言し他の意見をきくことのできる機会」が、選挙と同じくらい大切だとアマルティア・センも書いていた。

 選挙だけの議会制民主主義が機能しなくなって久しいのは誰でもわかっているはずだ。結局、政治家も官僚も地方行政も、これだけ複雑な社会の隅々の問題まで対処はできないのだ。世界の人口がこれだけ増え、どの国も食糧や水、エネルギー資源のようなごく基本的なものですら他国に依存せずには暮らせないいまでは、一国の努力では何事も解決しない。いら立つあまり強いリーダーを求める声もよく聞かれるが、英雄など幻想に過ぎないことは、ローマや漢王朝どころか古代エジプトを見ても歴然としている。金正日の葬儀で、霊柩車の上に彼の特大の写真が載っていたが、あれこそまさに「強いリーダー」の実態だ。国を代表する特大の顔は、裏に回れば薄っぺらなものであり、あの国を動かしているのはいまも昔も、周囲にいる顔の見えない大勢の将軍たちであるに違いない。

 結局、できることは、一人ひとりが周囲の人を理解して支え合うことくらいしかない。でも、一人が差し伸べられる手は弱いから、手は何本もあったほうがいい。救われたいと思う側は、相手を泥沼に引きずり込まないために、自分でも這い上がろうとしなければならない。

 なんと言っても、今年はついに2012年なのだ。5年前に『2012地球大異変』という本を訳して以来、私なりに心の準備はしてきたつもりだ。あの風変わりな著者の予測どおり、中東はいま不穏な空気に包まれている。「集団的な心理的虚脱状態を防ぐために、ぼくらにできることはないのだろうか? ことわざにもあるように、備えあれば憂いなしだ。まったくの不意打ちを食らいさえしなければ、間違いなくトラウマは軽減されるだろう」。来年のいまごろも、「コウモリ通信」が書ける世の中であることを心から祈っている。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2012.02.03更新)


その143

 昨年から一瞬のアイドリングもできない「一輪車操業」がつづいているが、いまや遅れがちな仕事が団子状に重なり、さらに厳しい綱渡りを強いられている。楽しみと言えば日課の散歩くらいだが、もう一つ、昨秋からはまっているささやかな楽しみがある。ココアだ。

 ポリフェノールを多く含むということから、ココアは近年やたらと注目された。でも私のきっかけは、アマゾンの低地にあるジャノス・デ・モホスという場所で紀元前一〇〇〇年から住んでいた人びとが、カカオの木を植え、ココア飲料を飲んでいた、という一節をフェイガンの水に関する本で知ったからだった。強い興奮作用のあるこの飲料は、のちに中米のマヤ族やアステカ族にも伝わってショコラトル(苦い水)と呼ばれ、戦士と貴族の飲み物とされた。スペイン人がこれをヨーロッパに広めて、牛乳、砂糖を入れて飲むようになったのは十八世紀以降だった、というようなことを、そのときネットで少々検索して知った。カカオの産地は西アフリカだとつい思ってしまうが、原産地は南米だったのだ。

 いま訳している大英博物館の本によると、スペイン人がくるまで中米には役畜がいなかったそうだ。ということは、元祖ショコラトルには牛乳を入れようがなかったのだ。そもそも成人した人間が牛乳を飲むためには、腸内でラクターゼがしっかりと分泌しなければならず、分泌が不充分な乳糖不耐症の人は下痢をしてしまうのだという。「われわれの祖先が苦労しながら食べ方を学んだ物がわれわれなのだ」と、その著者が書いている。

 中米のカリブの島々はサトウキビ産地として有名だ。それなのに、なぜ砂糖を入れなかったのか。実際には、ニューギニア原産と言われるサトウキビが熱帯の各地に広まったのは、ほんの数百年前のことでしかない。したがって、砂糖を入れて甘くすることはできなかったのだ。蜂蜜は使われていたようだが。

 そんなことをあれこれ考えるうちに、無性にココアが飲みたくなり、バンホーテンの小さい缶を一つ購入した。19世紀初頭にカカオマスから油脂を分離して粉末化し、牛乳に溶けやすくしたココアパウダーの生みの親だ。ふだんはつくり方などまず読まないが、眼鏡をかけて缶に小さく書いてある説明書きを読んでみた。ココアと砂糖を「少量の水か、冷たい牛乳でペースト状によく練る」。これは以前から知っていた。缶にはスプーン1〜2杯の砂糖と書いてあるが、砂糖のような単炭水化物はアルツハイマーのもとなので、すりきり1杯にする。2番目の「沸騰直前で火からおろす」というのが、どうやらおいしいココアをつくるコツのようだ。ショコラトルの説明にも、「泡立ち」のことが特筆されていた。仕上げにはシナモンを振ってみた。確か、エセル・ケネディがそんなことを言っていたのを思いだしたのだ。シナモンはもちろん、東南アジアや南アジアが原産だから、これも元祖ショコラトルには入れられるはずがない。

 この冬、私が病みつきになって飲んでいるココアは、身体の芯まで温めてくれる心地よい飲み物だが、これを味わうたびに複雑な思いがする。やたらに強い円の恩恵か、貧乏人の私でもなんの苦労もなく近所のスーパーですべての材料が買え、毎日でも飲める。その陰には不当な低賃金で働かせられている人や、無駄に使われている資源があるはずだ。昔では考えられなかったこういう贅沢な生活が、あらゆる成人病の原因となっているのはなんとも皮肉なことだ。健康のためにも、食べ物のありがたさを忘れないためにも、一日一杯までと決めている。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2012.03.06更新)




鎌倉長谷寺の仏足石




鎌倉大仏




横浜媽祖廟
その144

最初に見たのがいつのことだったのか、どのお寺だったのか記憶にないが、おそらく修学旅行か何かだったのだろう。「これがお釈迦さまの足跡です」と説明されて、巨大な仏足石を見せられたとき、子供だった私は、「いくらなんでも大きすぎるし、お釈迦さまが日本にきたはずがない。それにしてもずいぶん偏平足だ」などと、つまらぬことを考えていた。

 ところが、昨秋から訳している大英博物館の本によると、仏陀の足跡は、インドボダイジュ、法輪などと並んで、仏教が広まった当初から用いられていた数少ないシンボルの一つなのだそうだ。「仏足石の信仰はいまでもインドでは重要なものとなっています。足跡は、もはや存在しないけれども、地球に痕跡を残した人を意味しています」という解説を読んで、自分の浅はかさを恥じた。かつて存在した偉大な人の教えを忘れないために、その足跡をシンボルにしていたのだ。

 釈迦(紀元前463?年〜前383?年)が生きたとされる時代からアショーカ王(在位 前268?年〜前232?年)の時代を経て、数百年後のクシャーナ朝(1世紀〜3世紀)時代のガンダーラで初めて、仏陀はいわゆる仏像として描写されるようになった。「絹のような貴重な商品とともに、僧侶や伝道者は旅をし、彼らとともに人の姿で表わされた仏陀の像も広まった。おそらくそのような図像があると、言葉の壁を超えて教えるときに役立つのだろう」(同書より)。仏教が日本に伝来したのは6世紀なので、そのころにはもちろん経典と仏像はセットになっていた。日本人にとっては、最初から仏像ありきだったのだ。

 仏像はいちばん最初から、釈迦本人の姿を知るどころか、民族もまるで異なる人によってつくられたため、それが仏陀の像であることを人びとにわからせるために、ポーズや印相のほか螺髪、白亳など、いろいろ細々とした特徴が決められた。そのなかに垂れ下がった耳たぶというのもあった。「耳はもはや金の耳飾りで垂れ下がってはいない。それでも、長い耳たぶにはまだ穴が開いており、この人物がかつては王子だったことを示している」。このピアスホールは耳朶環というそうだ。高校時代に鎌倉の大仏(1252年に造立開始)を見て、パンチパーマにイヤリング(に見えた)に口髭まであるのに気づいて、かなり異国風だと驚いた記憶がある。東大寺の大仏のほうが古いが、何度もつくり変えられているそうなので、顔立ちはずっと日本風だ。ちなみに、高徳院の大仏にも大仏殿は何度か建てられたが、大風、地震、津波で失われて野ざらしになったという。津波はここまできたのだ。

 仏像などどれも似たり寄ったりだと思いがちだが、注意して見ると、制作者の容貌や時代背景が感じられておもしろい。たとえば鎌倉の長谷寺の十一面観世音菩薩(721年)は口髭を生やしているので、明らかに男性だ。ところが、大船観音(1929年)のように、近年つくられた観音像は女性的だ。いつごろから性別が変わったのかは不明だが、聖観音の涙から生まれたとされ、チベット仏教などで信仰されているターラー(多羅菩薩)と、福建省や浙江省、台湾などを中心とする航海安全の女神、媽祖の信仰とどうやら関係がありそうだ。中国南部からの移民が多いタイの観世音菩薩でも、大船観音でも、五体投地さながらに礼拝している人を見たことがあり、どちらも女性的な観音像だった。ただし、ごく最近、近所に建てられた観音堂の菩薩には耳朶環と口髭がある。仏像の世界には、世相を反映する流行があるようでとても興味深い。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2012.04.05更新)

その144


『水と人類の1万年史』

 高校時代に一年ほど、テキサス州エルパソで暮らしたことがある。リオ・グランデ川をはさんでメキシコと国境を接し、ニューメキシコ州、アリゾナ州との州境にもあり、周囲には禿山が連なり、巨大なサボテンがあちこちに生え、タンブルウィードが転がっている砂漠のなかの都市だ。私がホームステイした家は川に近い谷間の一角にあったので、広い庭にはクルミ科ペカンの大木や桃の木などがあって芝も青々と茂っていた。右隣の家はヤギを10匹くらい、左隣は馬を3頭放し飼いにしていた。裏庭の先は土手になっていたので、そこを1マイルほど走るのが私の日課だった。土手のあいだに水はなく、ただ太い溝があったように記憶している。その向こうには綿花畑が広がっていた。

 ある日、裏庭全体が水浸しになっていて驚いた。「エリゲイション」だと教えられたが、当時の私の語彙にそんな言葉は含まれておらず、だいぶあとになってようやくそれがirrigation(灌漑)であることがわかった。リオ・グランデ川から定期的に取水して溝に流し、各戸の水門を開けておくことで、庭が浸る程度に水が流れ込む仕組みになっていたようだ。なぜそんなことをするのか、当時の私はよく理解していなかったが、エルパソの年間降水量は240ミリ程度しかない。郊外も含めると人口80万人のこの都市は、リオ・グランデとなって600キロほど先のコロラドやニューメキシコ北部から流れてくる雪解け水のほかは、地下水に頼るしかなく、年々、後者の比率が上がっているようだ。

 昨年から半年以上にわたって翻訳に取り組んだブライアン・フェイガンの『水と人類の1万年史』が先月、河出書房新社から刊行された。昨年は身近なところで自然災害が多発したこともあって、否応なしに水の問題を考えさせられた。人間は水がなければ生きられないが、水が多すぎてもやはり生きられない。おおむね適度な雨が一年を通して降るという、日本人にとってはごく当たり前のことが、世界のどこを見回しても考えられないほどの贅沢であることを痛感させられたのだ。日本の年間降水量は1700ミリ前後で、世界平均の1.7倍あるだけでなく、雨や雪の多くは身近な山に降り、一時的に積雪となったり、その土中で溜められたりして、やがてろ過されてきれいな湧水となって流れでてくる。

 水問題と言うと、飲料水の話だと思われがちだが、そうではない。地球上の淡水の大半は農業に使用されている。短い用水路を引くだけで水がいくらでも手に入るからこそ、日本では米づくりが可能なのだ。いまは人件費、耕作機械による大規模生産や政府補助金の有無など、経済的な要因だけが世界の農産物の価格を左右しているが、近い将来、人口増加と温暖化によって水資源がますます希少になれば、水が容易に手に入るかどうかが食料の価格どころか、生産の可否までを決めるようになるだろう。

 不況が始まって以来、そして大震災以降はとくに、日本の将来を憂う声ばかりが聞こえてくるが、日本はいまでも間違いなく世界屈指の住みやすい環境にある。日本の経済発展は、豊富な水と温暖な気候に支えられていると言っても過言ではない。天からただで降ってくる雨を家庭や町単位で無理なく貯水してろ過し、生活用水はそれで賄う。日本のお粗末な食料自給率を高める。多くの水を必要とする必需品の生産を、世界に代わって引き受ける、等々、翻訳の合間に近所を散歩しながら、この豊かな水を無駄にしない方法をあれこれ考えた。
(とうごう えりか)









コウモリ通信

東郷えりか(2012.05.04更新)











その145

『100のモノが語る世界の歴史 1』
ニール・マクレガー著、東郷えりか訳
筑摩選書、1995円


 「アブラハムの宗教」という表現を最近よく目にする。アブラハムを始祖とするユダヤ教、キリスト教、イスラーム教という意味だ。クルアーンではユダヤ教徒、キリスト教は「啓典の民」として特別扱いを受けるが、その他の異教徒は強制的に改宗すべき存在とされた。このアブラハムは紀元前二〇〇〇年ごろの人とされており、「創世記」によれば生誕地はカルデアのウルで、彼の家族はここをでてカナン地方に向かった。このカルデアのウルは、世界最古の都市の一つで、現在のイラクにあるウルだと考えられている。

 そのウルで、紀元前二六〇〇〜前二四〇〇年ごろにつくられた「ウルのスタンダード」という作品がある。この半年ほど取り組んでいる大英博物館の本で、その鮮明な写真を見たときの衝撃は忘れられない。よく引き合いにだされるので名前だけは知っていたが、それが何なのか理解していなかった。実際、何に使われたのかはいまも判明していない。小さいブリーフケースほどの木製の箱で、表面にラピスや赤い石、貝殻でモザイクが施されている。戦争と平和を描いた二枚のパネル絵が前後にあって、シュメール人の社会がそこに凝縮されている。ここには世界最古の車輪付きの乗り物が描かれ、上層階級はビールとおぼしきものを飲んで談笑している。彼らの暮らしを支えるのは、羊やヤギ、魚などの貢物を携えてやってくる民だ。なかにはインド原産であるコブウシもいる。インダス文明とメソポタミア文明が交流していた証拠はあるが、牛を運ぶとなれば海路からだろうか?

 モザイクは一部はがれ、染みにしか見えない人物もかなりいる。「確実にわかることには限界があるのをわれわれは認め、別の種類の知識を見つけようとしなければならない。物は本質的にわれわれと同じ人間がつくりだしたはずだ。だからこそ、彼らがなぜそれをつくり、それがなんのためなのかも解き明かせるはずだと気づくことだ。ときにはそれが、過去だけでなくわれわれの時代においても、世界の大半の人びとが何をしようとしているのかを把握する最良の方法かもしれない」。この本の著者である大英博物館のニール・マクレガー館長の言葉に触発されて、このパネル絵を穴の開くほど眺めるうちに、これをつくったシュメール人の職人が、似たような人物を随所に配置して大勢に見せていることに気づいた。そこでふと、鮮明な部分を寄せ集めて消しゴム判子をつくり、それをポンポンと押せば、不鮮明な部分も私流に補って完璧な絵ができるのではないかと思いついた。

 何の貢物をもっているのか、最後までわからずに悩まされた一人は、左手を前方に突きだしている。あれこれ考えるうちに、ひらめいた。鷹狩り用のセーカーハヤブサだ! 調べてみると、鷹狩りの最古の記録は紀元前二〇〇〇年ごろのメソポタミアかモンゴル、中国のようだ。私の推理が正しければウルのスタンダードが最古の鷹狩りの証拠となる!

 老眼鏡をかけて私が彫った消しゴム判子製の「ウルのスタンダード」は、上出来とは程遠いけれど、このたび筑摩選書として刊行された邦訳版『100のモノが語る世界の歴史』のよいブックカバーになった。この本で紹介される100の所蔵品は、純金の宝物から文字どおりガラクタまでさまざまだが、いずれも人間の本質を深く考えさせる物だ。原書は厚さが6cmもある巨大な本だが、日本語版はペーパーバックで三分冊されているので、通勤電車にも、大英博物館への旅にも簡単にもち運べるし、写真の刷りあがりは実は原書より格段によい。これまで歴史は年号を丸暗記する嫌な教科だと思ってきた人も、ぜひ読んでみてほしい。歴史の見方が、ものの考え方が大きく変わるはずだ。
(とうごう えりか)









コウモリ通信

東郷えりか(2012.06.05更新)

大英博物館






バンク・グラウンド・ファーム

パブリック・フットパス



その145

ウィローパターン


 この一年半近く、文字どおり年中無休で働き詰めだったので、校正の合間を縫って、一週間ほど娘のいるイギリスへ行ってきた。旅の目的の一つは、もちろん大英博物館に行くことだった。翻訳中にあれこれ調べ、想像力をかきたてられてきた所蔵品を自分の目で見てみたかったのだ。膨大なコレクションをすべて見て回る時間などなかったし、展示替えで見られなかった作品もあった。それでも、博物館の執念と修復技術によって蘇った「モールドの黄金のケープ」や、滑稽なほど浮かない顔をしたルイス島のチェスのクイーン、黒いファラオ像や柿右衛門の象など、私には馴染み深い作品を眺めるのは楽しかった。

 中国の染付花瓶の章にでてきた、イギリス製「中国風」絵柄であるウィロー・パターンの磁器は、娘がお世話になっているお宅にも、ふらりと入ったパブの壁にも、テムズ川を下ってグリニッジまで見に行ったカティサーク号船内にもあった。グリニッジ天文台を通る本初子午線は、ここの時刻をクロノメーターで正確に刻むことで、航海中の船が自分のいる場所の南中時刻との差から経度を割りだした基準線だ。東経と西経にまたがるこの記念すべきラインは有料の中庭内にあるが、ありがたいことに天文台の下までラインが延びていて、貧乏人はそこで記念撮影できるように配慮されていた!

 今回の旅のメインは湖水地方を回ることだった。親子二代にわたるアーサー・ランサム・ファンとしては、『ツバメ号とアマゾン号』シリーズの舞台を訪れないわけにはいかない。ここはビアトリクス・ポターのナショナル・トラスト発祥の地でもあり、ジョン・ラスキンやワーズワースのゆかりの地でもある。数日前で最低気温は零度に近い100年来の雨の多い寒い春だったらしいが、私が滞在した一週間は異様に暖かく、雲一つない晴天がつづいた。ウィンダミア湖をフェリーで渡ったあと、現地調達した陸地測量部発行のOS地図をもって、イングランドの低山や放牧地を越えながらコニストン湖まで歩いた。空から見たパッチワークそのもののイギリスの田園風景にも驚かされたが、実際に歩いてみると、どこまでもつづく天国のような光景にわが目を疑った。イギリスでは芝がどこにでも自生しているらしく、林床から牧草地までいたるところがゴルフ場のような鮮やかな緑で覆われている。しかも、羊や牛が草を食むので芝刈りも不要だ。木立のなかには青いツリガネスイセンやシダが咲き乱れ、野原では一面に咲いたキンポウゲやヒナギクが家畜の餌となる。

 私たちが泊まったB&Bは、ツバメ号の子供たちが滞在したハリハウ農場のモデルとなったバンク・グラウンド・ファームだ。どこへ行くにもパブリック・フットパスの表示がある木戸を抜けて、私有地である牧草地内の羊や牛のすぐ脇を、糞を踏まないように気をつけながら歩いて行ける。乳の張った牝牛もたくさん放牧されていたが、ミルクは仔牛のためらしい。日本の農業や土地利用からは考えられないこんなシステムがなぜうまく稼動するのかと、驚くばかりだった。

 今回、私にしては珍しく北回りの直行便を利用したため、シベリア上空で無数の湖、雪原、海氷、大河が眺められ、スカンディナヴィア半島の雪山やフィヨルドや、北海の真っ只中の風力発電地帯まで見ることができた。上空から白夜を体験しながら、夏に雪が解けるかどうかで、すべてが変わることを改めて実感した。短い旅行だったけれど、娘の友人たちにも会うことができて、本当に充実した一週間を過ごすことができた。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2012.07.03更新)

 『100のモノが語る世界の歴史2――帝国の興亡』


大英博物館で見た所蔵品

ガンダーラの仏陀像(左)、
ボロブドゥールの仏像頭部(右)


クマーラグプタ一世の金貨(左)、
東寺の菩薩像(右)






その146

今回の消しゴム判子製ブックカバーは
デイヴィッドの花瓶から


 先月、刊行された『100のモノが語る世界の歴史』の第2巻に、西暦100〜300年ごろにつくられたガンダーラの仏坐像の章がある。人間の姿で表わされたごく初期の仏陀像というこの石像は、日本人が見慣れた螺髪ではなく、冠をかぶっているわけでもなく、軽いウェーブのかかった長髪だ。釈迦の生地は現在のネパールだという。パキスタンのガンダーラとは離れているので、実際、こんな姿だったのかどうかはわからないが、いかにもインド亜大陸北部の人のように見える。「髪はおだんごのようなスタイルにまとめられているが、これは実際には仏陀の知恵と悟りの境地を表わすシンボルである」という著者の巧妙な解説を読み、私が正反対の意味に解釈したのは言うまでもない。信仰や民族に関する微妙な問題を、それとなくユーモラスに表現する著者の心配りが、拙訳でどのくらい伝わっただろうか。この巻には780〜840年ごろ製作されたボロブドゥールの仏像頭部の章もある。こちらは見事な螺髪だ。いったい仏陀のヘアスタイルはいつから変わったのか。

 ガンダーラの仏像の章にはもう一つ、興味深いことが書かれていた。この像の「手のポーズは、ダルマの輪を回す印相、ダルマチャクラと呼ばれています。(中略)仏陀の指は輪のスポークの代わりとなっており、彼は信者たちにむけて『法輪を動かし始めている』」。仏教のシンボルである法輪は、いまでは舵輪のように描かれるが、もとはスポーク付の車輪そのものを表わしていたのではないか。スポーク付の車輪は紀元前二千年紀に中央アジアのステップ地帯で発明され、乗り物となって各地へ急速に伝播した。釈迦の時代のインドにも普及していただろうが、それでも当時の最新技術だったに違いない。だからこそ、シンボルマークに選ばれたのではないのか。

 そんな疑問が頭から離れず、岩宮武二の特大豪華写真集『アジアの仏像』を図書館から借り、あげくのはてにアマゾンで最安値の(私にとってはそれでも恐ろしく高額の)中古品を手に入れ、暇を見つけてはページをめくって仏像の変遷を調べた。仏像のヘアスタイルは、3世紀ごろに南インドのアマラーヴァティーあたりから変わった可能性が高く、衣装も薄着になっていったようだ。法輪は調べた限りでは、紀元前3世紀のアショーカ王の石柱が最も古い。おもしろいことに、東南アジアの仏像には法輪が刻まれているものが多いが、アフガニスタンやチベットにはほとんど見られない。考えてみれば、山がちのこうした地域では車輪は無用の長物だ。車付きの乗り物が威力を発揮するには、平坦な土地に道路を建設できて、それを引く役畜がいなければならない。北伝仏教が伝播した中国、朝鮮などの古い仏像にも法輪はまずない。昨夏の空海展の土産売り場で、金剛杵やマニ車をモチーフにしたものはたくさんあったし、古代インドの武器である円盤状のチャクラムはあっても、法輪が見つからなかったのはそのためかもしれない。一方、東南アジアの歴史に転輪聖王(チャクラ・ヴァルティン)という言葉が頻繁にでてくるのは、南伝仏教だからだろう。江戸時代に盛んにつくられた庚申塔には、なぜか法輪がよく刻まれている。

 やはり空海展で見た、東寺所蔵の重要文化財「蓮華虚空蔵菩薩坐像」という9世紀唐代の、孔雀に乗った不思議な菩薩像も、この本にあるクマーラ・グプタ一世の金貨(415〜450 年)を見て納得した。クマーラというヒンドゥーの神さまが孔雀にまたがっていたのだ。インドの神さまなら、孔雀でもおかしくはない。ひょっとすると、この金貨を見て唐の仏師は孔雀を菩薩の乗り物に選んだのかもしれない。謎が解けていくのはじつにおもしろい。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2012.08.03更新)

アダチ版画での実演


消しゴム判子版の「神奈川沖浪裏」

亜米利加船渡来横浜之真図(部分)安政2年

ベイブリッジから見た現在の神奈川沖

その147



 趣味は読書という人がよくいる。本の世界が好きで、本を読んでいる時間そのものが楽しい人だ。私の場合、読書そのものよりも、そこに書かれている内容にむしろ興味がある。だから、本で読んだことは確かめてみたくなるし、著者の一言に刺激され、それを調べるのに夢中になって、完読せずに終わる本も多々ある。翻訳の場合、私の調べものの時間と行動範囲は際限なく広がってしまう。

 『100のモノが語る世界の歴史』でも、葛飾北斎の有名な大波の浮世絵「神奈川沖浪裏」をとりあげた章を読むうちに、頭にさまざまな疑問が浮かびあがってきた。舶来の顔料であるプルシアンブルーが使用されていたことはテレビ番組から知っていたが、鎖国下の日本で、折しも天保の飢饉のころに、なぜ輸入品を大量に使用できたのだろう? この本によれば、1820年代にこの顔料は中国でも製造されるようになり、それがもち込まれた可能性が高いという。日本古来の青は退色しやすかったからだが、たしかにこれ以前の時代の浮世絵は地味な色調に見える。その従来の青とは、なんとツユクサなのだ。実際には栽培種のアオバナだろうが、道端のツユクサをいくつか摘んでつぶしてみたところ、指が染まるほど鮮やかな青になった。一ヵ月たったいまもまだ青いが、当初の彩度はない。

 だが、伝統的な青には堅牢な藍だってあるはずだ。そんな疑問がぬぐえず、アダチ版画研究所で浮世絵の摺りの実演を見学させてもらった。新聞記者かと聞かれるほど、しつこく質問してみたものの、絵の具に関する謎は解けなかった。この実演で摺り師の技にすっかり魅了された私は、無謀にも消しゴム判子と馬簾で真似てみたが、なんとも難しかった。

 その後、関内にある絵の具屋三吉で絵の具についてあれこれ聞いてみたところ、顔料に詳しい社長さんを紹介してくださり、吉備国際大学の下山進教授の研究があることを教えていただいた。絵画を傷つけない特殊な非破壊分析法で調べた結果、北斎のこの絵の輪郭線となる主版には藍が、その他の青の色版にはプルシアンブルーが使われていたことが判明したそうだ。これは従来の学説とは異なり、私の勘もなかば正しかったことになる。

 だが、疑問は色だけでは留まらない。この絵は「世界から孤立したまま自己充足し…美意識の強い夢見がちな日本人」が、「近代世界の入口に立ったときの日本の心理状態について語っている」と先の本の著者は考える。外国人の目に日本がそのように映っていたとは! ペリーの来航とは実際にはどのようなものだっただろう? 幸い、横浜で「ペリーの顔・貌・カオ」展が開催されていたので足を運んだ。意外にも、ペリー艦隊は太平洋を横断してきたのではなく、大西洋を越え、喜望峰を回って各地に寄航しながら八ヵ月近くかけてはるばる久里浜にやってきていた。黒船艦隊の蒸気船はミシシッピ川の外輪船にも似て、ほほえましくすらある。長旅のあいだずっと軍服に身を固めていたとも思えないので、上陸後の行進などは現地民を威圧するための精一杯のパフォーマンスだったかもしれない。

 北斎の絵に描かれた小船は、木更津から江戸へ魚を運ぶ押送船だと言われる。陸路だと78キロの距離を、海路なら52キロに短縮できたそうだが、彼らは帆もなく、櫓で漕いでいた。神奈川沖というのは、神奈川宿があった付近という意味だが、実際にはもっと木更津よりの沖合海上から見た図と考えられている。いずれにしても、東京湾内なのだ! この位置からの景色を眺めてみたくなり、横浜駅からアクアラインを通るバスに乗って木更津まで行ってみた。漁師たちが荒波と闘っていた海の下を、バスはわずか7分ほどで潜り抜け、海上に架かる橋梁部をスイスイと飛ばす。20年ほど前、旅行会社に勤めていたころ、建設途中の人工島を視察するためヘルメットをかぶって上陸したこともあるのに、この路線を利用したことはなかった。この季節なので対岸も見えなかったが、冬のよく晴れた日にもう一度このバスに乗って海ほたるで下車し、富士山が見えるかどうか試してみたい。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2012.09.03更新)

5月に旅行した際のテムズ川からの眺め


ちぐはぐながらも、おもしろい空間

大手町から新宿まで広がるコンクリートジャングル










『100のモノが語る世界の歴史』
第3巻(筑摩選書)


その148

ようやく揃った私の特製ブックカバー


 私はふだんめったにテレビを見ないが、ロンドン五輪中は珍しくマラソンの中継に見入ってしまった。選手にとっては走りにくそうだったが、背景に映るロンドンの町並がじつに印象的だったためだ。整然としすぎたバッキンガム宮殿周辺よりも、ギルドホールやイングランド銀行などが狭い通り沿いに並ぶシティ内がおもしろい。テムズ川沿いは近年、新しい建造物が次々に建っているが、 歴史的建造物とまだ絶妙なバランスを保っている。あの中継は2000年にわたるロンドンの歴史を、世界中の人びとに巧みに見せていた。

 イギリスはユーラシア大陸の西のはずれにある島国だが、その東端にある日本とはいろいろな面で似て非なるものだと最近よく思う。ブリテン島にはさまざまな時代に大陸から多様な民族が渡ってきて征服、分裂、併合を繰り返したし、ロンドンはそのなかで自治都市としての地位を保ちつづけた。シティがローマの都市ロンディニウムだったころから、ここはヨーロッパやアフリカの物資が運ばれてくる港町だった。島国なので文化的に孤立しそうなものだが、実際には陸上の交通が困難だった時代には、河川流域や海上からのアクセスが容易な場所のほうが、交易にははるかに有利だったという。大英帝国は「七つの海を制覇した」とよく形容されるが、それには世界の海の海岸線や沿岸の水深、海流や風、魚群や海鳥、植生や資源、住民の文化や気質など、あらゆる事柄を知らなければならない。ジェームズ・クックがアメリカ大陸や太平洋上で新たな「発見」をするたびに、イギリス人は帝国領土の拡大という実利だけでなく、知的好奇心もかきたてられていたのだろう。

 国民国家が出現し各国がナショナリズムをむきだしにしていた時代、イギリス人も自分たちを諸外国に対抗する一つの国民という強い意識をもっていたに違いない。植民地では現地民を差別し、イギリス文化をひけらかすことで優越感にも浸っていただろう。しかし、そのなかでも異国に深い関心を示し、野蛮に見える異文化にも西洋文明となんら遜色のない真理があることを見出す人びとがいた。東インド会社の文官でヒンドゥー教関係の彫刻を多数収集したチャールズ・スチュアート、ボロブドゥールを再発見しジャワ文化を研究したトマス・ラッフルズ、世界中の知識を集めようと雑多なものを収集しつづけたサー・ハンス・スローンなど、大英博物館の基礎をつくったのは、外の世界に目を向けつづけたこれらの人びとだった。彼らの収集熱は、異民族の珍品を略奪してこれみよがしに展示するためではなく、むしろ世界のあらゆることへの理解を深める一環だったのだ。

 スローンがアメリカ先住民の工芸品だと思ってヴァージニア州で収集した太鼓は、実際には西アフリカから連行されてきた「奴隷を躍らせる」ために船上で使われたアカンの民の太鼓だった。「彼らを生かしておく唯一確かな方法は、どんなつまらないものでもよいから、楽器を奏でてやることだ」という奴隷船の船長の言葉が残されている。イギリス人は自分たちのこうした暗い過去を、当時の被支配民の視点から客観視することができる。その一方で、奴隷貿易にアフリカの黒人やイスラム教徒も多くかかわっていた事実も、白人対有色人種という単純な構図で考えがちな世界の人びとに示すことも忘れない。その公平でリベラルな姿勢が、いまや旧植民地から多くの移民を受け入れ多民族国家となったこの国を動かす原動力となっている。海に囲まれた立地条件を活かして海洋帝国を築き、求心力を発揮しつづけるイギリスと、海に守られていることに安堵して島嶼化したかのように小さくなり、究極的に現在の自分のことと、身近に迫る脅威にしか関心がない日本。何がこの違いを生んだのか。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2012.10.06更新)



その149

 ついこのあいだまで国民の最大の関心事は、「脱原発」か「原発推進」かだったはずなのに、いつの間にやら、人が住むには適さない絶海の小島をめぐる領土問題へと移り変わり、日本が潜在的核保有国であるために核燃料サイクルは継続させなければならない、これらの島を失えば、日本の存続まで危ういといった主張まで声高に聞こえてくる。日本関連の工場や飲食店の破壊、洋上の水の掛け合いにまで発展した一連の出来事が、それぞれの国の政局絡みで、単に国民の不安や恐怖、猜疑心を煽って、本来の内政問題に目を向けさせない、あるいは政権奪回のためのものなのだとすれば情けない。明治政府から30年期限で個人の実業家が無償貸与されたはずの島が、1914年の期限を過ぎ、本人も他界してだいぶたったのちに長男に払い下げになった経緯はよくわからなかったが、「固有の領土」という関係諸国の建前の裏にある係争点を少しだけ調べてみた。

 竹島はおもに漁業権をめぐる争いらしい。尖閣諸島も魚釣島、釣魚台の名前から、この海域がかつて好漁場だったことは察せられるが、いまも本当にそうなのか。八重山諸島近海は近年、水温の上昇でサンゴが死滅し、大陸から大量のゴミが流れ着いて漁獲量が下がっているという。そもそも沖縄県全体でも漁獲量は全国33番目、1.7万トン弱だ。主要産品はマグロともずく。現在、世界一の漁獲量(1480万トン)の中国本土からこの海域は300キロ離れていて、往復の燃料費に10万元(約120万円)かかるという。かつて800万トンの漁獲量を誇った日本は430万トンに減少して世界5位。数字だけ見ると、中国に漁場を奪われているようだが、養うべき人口も日本の10倍以上、13億もいる。

 結局のところ、尖閣諸島のほうは1968年の調査で「イラクに匹敵する埋蔵量」だとされた石油が争点らしい。尖閣諸島は中国からつづく大陸棚のはずれ、水深200メートルほどの海域に位置するが、埋蔵されている場所は水深2000〜9000メートルの深海だという。北海の油田の多くは水深わずか60〜70メートルの海域で掘削されている。2010年にメキシコ湾で史上最悪の原油流出事故を起こしたBPの油田は、沖合80キロ、水深1522メートルの地点で掘削中だった。「ちきゅう」なら水深2500メートルの深海で地底下7000メートルまで掘れるそうだが、試料採取用の細い孔だけ開けてどうにかなるものでもないだろう。たとえ掘れたとしても、日本とは深海を隔てたこの海域の原油をどうやって運びだすのか。沖縄本島からも400キロはある。そのうえこの海域は台風の通り道だ。中国では渤海の浅瀬の油田ですら、すでに何度も原油流出事故が起きている。かりに日中両国が仲良く共同開発しても、海の生態系を破壊し、ただでさえ希少な水産資源を失う結果に終わりそうだ。

 このままさらに状況が悪化して、武力衝突にまで発展すれば、日本経済を支える中国との貿易(輸出入ともに20%前後)も途絶えることになる。日本は現在、食料の約12%を中国に頼っている。食料の30〜40%はアメリカからの輸入だが、アメリカはこの夏の大干ばつで穀類も豆類も大凶作だ。自分の国は自分で守ると勇ましい声をあげる人たちは軍備増強ばかり唱えるが、これでは精神力と竹槍で「鬼畜米英」に挑んだ時代の再来になりそうだ。食料も燃料も他国頼みの日本はそもそも自立していない。戦争になれば点滴や胃瘻チューブをはずされた状態になる。だから米軍には守ってもらい、基地を提供してオスプレイは配備させる。そんな主張に矛盾を感じないのだろうか。

 国を武力で守れた時代はとうの昔に過ぎている。たとえ厄介な隣人でも、裏切ることのできない信頼関係と共存関係をあらゆるレベルで築き、テロリストや暴徒を生む素地をつくらせないことしか日本が生き延びる道はないはずだ。戦国時代や幕末を舞台にした時代小説や漫画、ゲームにはまりすぎて、みんな時代錯誤に陥っていると、私は改めて思った。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2012.11.03更新)

ほぼ同じ場所で偶然に撮っていた写真を並べてみました。

その150

 翻訳本は固有名詞だけでもカタカナが多くなり、電文のようになって読みづらいので、カタカナ語はそれに相当する日本語があれば、なるべく置き換えるよう日ごろ心がけている。そんな言葉の一つが「テクノロジー」だ。文脈しだいで産業技術、技術などと訳すこともあるが、たいていは「科学技術」と訳す。ところが最近、科学への不信という風潮が感じられ、福島の原発事故以後はとくにそれが強まり、これまでの自分の訳語がはたして適切だったのか疑問に思うようになった。サイエンス(科学)とテクノロジー(科学技術)。どちらも定義は多様だが、敢えて言えば、科学は自然界の現象を理解しようとする人類の知恵の集大成で、数値や実験して誰もが認めうる結果を導きだす努力のことだ。一方のテクノロジーは、人間が自然を利用するために知恵を働かせ、編みだしてきた技術であり、人類が他の動物と異なった存在に進化したのはその技術ゆえとも言える。

 「科学は信じられない」という主張を見聞きするたびに、はたしてそれは「科学は信じられないから宗教や呪術へ戻れ」と言っているのか、「科学技術は信じられない」と言いたいのか、私は考えてしまう。もちろん、前者のような人も大勢いる。進化論を否定し、世界は『創世記』に記されたとおり数千年前に始まったと主張するアメリカの福音派などはその典型例だ。でも、大半の人は後者の意味で言っているのではなかろうか。少なくとも原子力発電は原子核物理学という「科学」を、原子力工学で応用した「科学技術」だ。原子核物理学からは核兵器もつくれるし、ガイガーカウンターのような機器も、考古学の世界を激変させた放射性同位体を使った年代測定技術も生みだされた。同じ大学で同じ応用物理を専攻しても、一方は水爆の設計者(ジョン・ナッコルズ)となり、もう一方は気候科学の基礎をつくる(ウォレス・ブロッカー)など、正反対の道を歩むこともある。

 地質学の世界でも同様のことが言える。同じ地質学を学んでも、もっぱら鉱物資源に関心を示しエネルギー産業や鉱業に進む人もいれば、過去の地震や気候変動の痕跡を地層に探る研究をする人もいる。最近、日本でもシェールオイルやメタンハイドレードが話題を呼んでいる。地中の奥深くで曲がるドリルを開発し、高圧の水や化学薬品を大量に注入し、石油もたくさん使って化石燃料を取りだすといった人間の知恵と執念には脱帽したくなるが、それはひとえに、危険をはらむ中東の石油に頼ることなくアメリカやカナダがエネルギーを100年ほど自給し、雇用を増やせるという政治・経済上の理由なのだ。

 自然は人類が利用するために存在すると考え、次々に新たなテクノロジーを考えだす工学者にも、経済の発展をとにかく最優先する財界人にも、「科学」など難解で危険だとして感情的に拒否し、それ以外の世界に没頭する人にも欠けているのは、人間社会も自然環境のなかに存在し、その大きなサイクルを乱せば自滅の道をたどるという自覚ではないだろうか。新しいテクノロジーが便利さと引き換えに環境を破壊しないか、便利になったためにかえってストレスが増え、肥満や成人病や認知症、うつ病になり、より不健全で社会保障費ばかりが増える社会になりはしないか、それを見極めるためにも、科学の知識、とりわけ環境学の基礎知識が万人に必要だ。

 かく言う私も、これまで何度も沈む太陽を眺めながら、季節によって沈む位置がこれほど変わることにすら気づかなかった。これからは日没点にも注意を向け、はるか昔に天体を観察しつづけ、科学の知識を蓄積してきた人びとの足跡を少しでもたどろうと思う。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2012.12.03更新)


トゥクトゥク


ターチン川の河口域


ターチン川とチャオプラヤ―川の分岐点


ブン・ボラペット

その151

 久しぶりにタイにきている。前回はほんのストップオーバーだったので、バンコクの街を歩くのも、本格的に鳥を見に行くのも数年ぶりだ。遊びに行く旨を伝えると、鳥見仲間が声を掛け合ってツアーや夕食会を企画し、マレー半島の付け根にあるケンクラチャーン国立公園を案内してくれ、今週末は北部のメーウォンにも行くことになっている。

 今回、意外だったのは、乾季であるはずの11月末に、毎日、ゲリラ豪雨のようなスコールに見舞われていることだ。バンコクではオート三輪のトゥクトゥクに乗っているときに土砂降りに遭い、右側半身がずぶ濡れになった。ケンクラチャーンの公園内では穴ぼこだらけの急傾斜の山道をピックアップトラックの荷台に乗って猛スピードで登ることになったが、途中、何度も川の浅瀬をジャブジャブと渡らなければならない。雨季には3ヵ月間通れないらしいが、乾季でもこれだけ雨が降れば、水位が高すぎる日もでてくるだろう。

 熱帯の気候は、熱帯収束帯が南北に移動することでやたらに雨が多くなったり、逆に干ばつになったり、極端に揺れ動くという。堆積物や洪水などで川筋が変わることもある。タイにこられなかった数年間にあれこれ読んだ本のなかで、私はタイ中部をチャオプラヤ-川とほぼ平行して流れる支流のターチン川に興味をもってきた。なにしろ、アユタヤ王朝の創設期に深くかかわっていたスパンブリーやウートンなどがこの川沿いにあるだけでなく、この川はかつて「最初の市」を意味するナコーンパトム付近で海に注いでいたと言われているからだ。川の名前そのものも、中国の港(桟橋)を意味する不思議な名前だ。元時代の史料に、フビライ汗の使節が川をさかのぼってナコーンサワンと思われる「上水」を訪れている記録もあり、その川とはチャオプラヤ-ではなくターチン川で、この川のほうがかつては大動脈だった可能性すらあるのではないかと私は想像を巡らしてきた。短い小論文もどき(angkorvat.jp/doc/cul/ang-cul26.pdf)を書いてみたことすらある。これまで推理してきたことを現地に赴いて少しでも確かめてみたい、というのが今回の旅のもう一つの目的だった。

 鳥見旅行の帰りに友人たちに連れて行ってもらったターチン川の河口域はいまでもかなり広く、大型船が多数停泊していた。スパンブリーからナコーンサワンのあいだにあるターチン川とチャオプラヤ-川の分岐点にも行ってみた。川沿いをずっとたどったわけではないが、この川は最上流地点でも小舟なら航行できそうなことがわかった。分岐点には、水の神ナーガが祀られた寺院があった。北部から流れてくる四本の川が次々に合流し、最終的にチャオプラヤ-川となる合流点パークナムポーにも行ってみた。「上水」と思われる場所だ。ついでにタイ最大の淡水湖である人造ダム湖ブン・ボラペットにも行き、広大な湖でボートを借りて水鳥を見て楽しんだ。ターチン川沿いにある100年市場と呼ばれるサムチュックが栄えた当時は、この一帯の川も地形もまるで違っていただろう。気候変動で水の循環が大きく変わろうとしているいま、川の歴史をたどることは大きな意味をもつに違いない。
(とうごう えりか)