【コウモリ通信】バックナンバー 2013年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2013.1.08更新)


日没点の変化


船橋から見た富士山とスカイツリー


取り壊し中の団地(上)と
新しい分譲住宅(下)


その152

 「その日はたぶん、なんということもなく過ぎていくのだろう」。5年前、ローレンス・E・ジョセフの『2012地球大異変』という本の訳者あとがきに、私は当時にしては思い切ってそう書いた。世界にはいまも終末思想を信じる人が大勢いて、最後の審判の日に自分が救われることや、メシアが現われて新しい時代が始まることをひたすら信じて生きている。現実の世界に不満をいだく人が増えているいま、ハルマゲドンですべてがリセットされることを期待する風潮は着実に高まっており、それが予言を自己成就させる可能性があることを知ったからだ。日本はこのままでは衰退し中国に侵略されるなどと主張して人びとの不安を煽り、大真面目に核武装を訴える人も、こうした終末思想家に通ずるものがある。

 もちろん、いまの発展がいつまでもつづき、将来もずっと安泰だと思っているわけでもない。「日本を取り戻す」と言って選挙に圧勝した自民党の第一声は「経済を取り戻す」だったが、経済がすべてのキーワードだった時代はとうに終わっている。自分たちの置かれた環境のなかで持続可能な方向に進まない限り、この先は破綻の道を歩むことは明らかだ。環境収容力を超えたために滅亡した文明は、歴史上いくらでもある。公共事業に集中投資し、日銀に金融緩和を実施させたところで、一時的なカンフル剤で終わるに違いない。

 昨秋は娘が一時帰国していたためにあれこれ忙しく、締め切りにも追われていたため、暮れには珍しくひどい風邪をひいた。それでも、2012年12月21日は何ごともなく過ぎたし、冬至を境に日没点は少しずつまた北へ戻ってきている。もともと古代マヤの予言は、5200年間の"太陽"と呼ばれる一時代が終わることを意味していたに過ぎない。2012年の終末を信じて大勢の信者を集めていた教団や核シェルターに立てこもっていた人たちは、いまごろどうしていることだろう。

 年末年始は今年も船橋の母のところへ行って数日を過ごすことができた。母はとくに凝ったおせち料理をつくるわけでもないが、いまも黒豆、きんとん、何種類かの煮物、ごまめくらいは用意し、ベランダで育てている春菊をお雑煮に入れてくれた。暇さえあれば台所に立ち、あちこちを掃除して回っている母は、風呂の残り湯をたらいに汲んで洗濯機に移していた。「こうやって腰を鍛えているのよ」と得意げな母に、「バケツのほうがまだ楽じゃない?」と提案してみた。ポンプなど使う気はさらさらないらしい。

 元日には近所を十数キロほど散歩した。以前、私が住んでいた場所は分譲住宅が建ち並ぶ新しい街に変わり、記憶では田んぼだった場所は荒地になり、どこもかしこも宅地化が進んでいたが、高齢の母がまだ自分の足でこれだけの距離を歩けるということが、私にはなんともありがたかった。大晦日の日の入りも初日の出も見逃したが、元日の夕方、近所の高層住宅の最上階に母と上り、沈む夕日と富士山を眺めた。意外なことに、船橋のこんな場所から富士山とスカイツリーの両方が見えた。階段の踊り場に写真を撮りにきていた近所のおばさんとひとしきりしゃべり込みながら、オレンジ色に染まる空を眺めた。

 将来はばら色に見えないし、現実の暮らしも厳しい。でも、とりあえず健康で自立した生活が送れ、日々のちょっとしたことに感動できれば、それだけで充分に幸せだ。極端な悲観論やその逆の楽観論には惑わされず、毎日を大切に生きていきたい。本年もよろしくお願いいたします。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2013.2.04更新)


神田川:御茶ノ水付近の神田川


按針塚:横須賀の按針塚


ヤン・ヨーステン:八重洲口にある
ヤン・ヨーステンの碑



wheel:車輪の変遷
その153

 以前、古地図のおもしろさに目覚め、人文社の古地図ライブラリーのシリーズを四冊ほど買い込んだことがある。最近、江戸時代の船の利用について知りたくなり、またこのシリーズの東海道五十三次や名所江戸百景の本などをめくってみた。

 広重の代表作、保永堂版の東海道五十三次には、案の定、全55枚のうち船の登場する絵が14枚もあった。ついでに調べてみると、馬のいる絵は21枚、牛はわずか2枚、車輪のある乗り物は大津の牛車1枚しかなく、あとはみな駕籠で担がれるか、ひたすら足で歩いて旅をしていた。いまからたった180年ほど前の江戸後期にである。荷物は馬に括りつけられていることもあるが、ほとんどは人が背負うか、以前の佐川急便のシンボルのように棒の先につけるか、天秤で担いでいる。東海道はかなり整備され、江戸のメインストリートは広かったようだが、日本の街道は馬車や牛車を使うにはあまりにも坂が多かったのか。

 以前から車輪の歴史に興味をもっていたので、もう少し調べてみると、江戸百景の「高輪うしまち」の絵の解説に、1634年の増上寺安国殿建立時と、1636年の市谷見附の土手の石垣普請の際に京都から呼び寄せた牛持ち人足が、工事後に江戸への定住を許され、泉岳寺の近くに車町、俗称うし町ができたとある。神田明神祭と山王祭りの山車を曳くのも彼らの仕事であったそうだ。広重が描いた御所車に似た巨大な車輪は完全に木造に見える。ケルト族は早くも紀元前1千年紀に車輪の縁に鉄の輪をはめる発明をし、頑丈かつ軽量な車輪の馬車で遠距離を移動したそうだが。

 大津‐京都間には車石を敷いて牛車が通れる道があり、西日本では犂を使った耕作もかなり普及していたというが、江戸の浮世絵師たちは農耕牛の姿も描いていない。江戸にも「牛込」があるし、霞ヶ浦の近くに「牛堀」もあったようだが、関東に牛は実際どのくらいいたのだろう? ひたすら人力に頼っていたのは、日本に実用的な車輪をつくる技術がなかったからか、役畜がいなかったのか、道路が不整備だったのか、興味は尽きない。

 陸上の交通がこんな具合なので、江戸への物資の輸送の大半は海、河川、および運河によっただろう。浮世絵には筵の帆や松右衛門帆を掲げて沖合をゆく船や、お台場や永代橋近くの「江戸湊」に投錨する樽廻船などが数多く描かれている。物資はそこから小型船に積み替えられて日本橋や神田川沿いの河岸まで運ばれたそうだ。

 私は長年、外堀通り付近に通っていたので、神田川の土手は見慣れた光景だが、この部分が江戸初期に神田山を掘削して人工的につくられた掘割であることを地図上で確認したことはなかった。しかも家康が江戸入りした当初は、いまの新橋駅付近から東京駅の南あたりまで海が入り込み、日比谷入江と呼ばれていて、神田山を掘削した残土でここを埋め立てたというのは実に意外だった。ほぼ人力しかない時代に、なぜそんな大事業を急に思いついたのか。その答えは1600年に漂着したリーフデ号らしい。生き残ったウィリアム・アダムズ(三浦按針)とオランダ人ヤン・ヨーステンは家康の顧問となり、大砲や弾薬だけでなく、干拓技術や造船技術、鮮魚を日本橋に運ぶ海運業など、さまざまな知恵を授けたほか、朱印船貿易にも携わり、アユタヤから大量の蘇芳や鹿革をもち帰っている。八重洲という地名はヤン・ヨーステンからくるそうだ。ものづくり大国を自認するのであれば、技術の伝播の歴史をもっとしっかり見つめ直す必要があるだろう。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2013.03.04更新)


東京都水道歴史館の木樋


神田上水懸樋跡
その154

 江戸初期の史料『慶長見聞集』の「江戸町の水道の事」の項にこう書かれている。「見しは昔。江戸町の跡は今大名町に、今の江戸町は、十二年以前まで、大海原なりしを、当君の御威勢にて、南海を埋め陸地と為し、町を立て給ふ。然るに、町豊かに栄ゆるといへども、井の水へ塩さし入り、万民これを嘆く。君聞し召し、民を哀れび給ひ、神田明神山岸の水を、北東の町へ流し、山王山本の流れを西南の町へ流し、この二水を、江戸町へ遍く与え給ふ」。十二年以前までは海だったというのは、先月のコウモリ通信で書いた日比谷入江の埋め立てを指す。同じ史料によれば、この工事は慶長8年から行なわれたそうなので、4年間で成し遂げたということだろうか。人力も侮れない。

 一昨年、ブライアン・フェイガンの『水と人類の1万年史』を訳して以来、水道や運河の存在が気になる。水源から一定の量の水を自然流下させ、途中で両岸を浸食したり氾濫したりすることなく遠隔地まで水を運ぶには、綿密な測量にもとづく微妙な勾配の調整が必要であることを知ったからだ。人類の多くは遠くの水源から水を引いてくることで、どうにか共同体を維持してきた。灌漑用水路や水道とともに文明は発達したのであり、測量術や水理学は生きるための知恵だった。一方、世界でも稀なほど雨量の多い日本では、湧水も地下水も容易に手に入ったため、立地条件の悪い場所に許容量を超える人口が集中した江戸の建設時まで、飲料水を供給するための本格的な上水道は必要とされなかった。

 江戸時代の水道について知ろうと、本郷にある東京都水道歴史館に行ってみた。クレタ島ではテラコッタのパイプが、ローマでは石樋や鉛管が使われており、タイでは17世紀後半に西洋人技師がやはり素焼きの水道管を導入していたが、江戸の水道管の多くは木樋だった。大半は厚板を組み合わせた、およそ水道管には見えない構造物だったが、日本では古墳時代から下水、トイレ、近距離の導水管などに同様のものが使われていたし、木材も豊富なので、当然の選択だったのかもしれない。一本だけ丸太をくり抜いた木樋も展示されていた。江戸時代にどんなドリルでこれを製造したのか想像もつかないが、イングランドでは12世紀ごろすでに中空の丸太の排水管が使われていたとフェイガンの本に書かれていたのを思いだす。画像検索で見た16〜18世紀のロンドンの水道管も、これとそっくりだった。江戸時代のこの丸太の水道管は、日本で独自に発明されたものなのだろうか?

 『慶長見聞集』に書かれた水道は実際にはごく限定的なもので、寛永6年(1629)ごろ水戸藩邸に上水が引かれているため、神田、日本橋方面に給水していた神田上水は、それ以降に懸樋で神田川を越え、地面に木樋を埋設するかたちで整備されたと考えられている。

 稲作をするには田んぼを水平につくり、近くの川から水を引いてこなければならないし、巨大古墳を建造するには相当な土木技術が必要だ。ギリシャ人が発明したコロスバトス(コロバテス)と思われる水準器は、鎌倉時代にすでに日本にもあったようだ。夜間に提灯をもった人びとを立たせ、灯から灯の高さを離れた場所から測って勾配を知る提灯測量の記録も江戸時代にはかなりある。多摩川から全長43キロ、標高差92メートルで水を引いた玉川上水でも、こうした測量が実施されたとも言われるが、実際はどうだったのだろう?

 この時代にはイエズス会士から航海術や天文測量術を学んだ人もいたし、明の数学書も入ってきている。さらに1643年のオランダ船ブレスケンス号事件の埋め合わせに、1649年から51年までオランダ商館に外科医カスパル・シャムベルゲルや臼砲射撃専門のユリアン・スヘーデルらが派遣され、このスヘーデル伍長が家光の家臣に三角測量を伝授したようだ。玉川上水は1652年に計画され、翌年4月に着工した。偶然の一致だろうか? 「当君の御威勢」の陰には、諸般の事情による技術の伝播と、試行錯誤があったに違いない。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2013.04.04更新)


観音崎灯台からの浦賀水道


浦賀の渡し


フランシスコ修道院の跡地
その155

 昨年、徳川家康の時計を調査した大英博物館が「16世紀最高傑作」だと発表したニュースが話題を呼んだ。1607年に房総沖で座礁したスペイン船サンフランシスコ号の乗組員317人を岩和田村民が救助したことへのお礼に、来日したビスカイノから家康が贈られた品である。記事を読んで、私は時計そのもの以上に、江戸初期に1000トン級のガレオン船が房総沖でいったい何をしていたのかに興味を覚えた。少し調べてみると意外な事実が次々にわかってきた。

 スペインはそれに先立つこと1565年には、アメリカ大陸に建設したヌエバ・エスパーニャのアカプルコから太平洋を横断して香料貿易の拠点であるマニラへ向かう貿易ルートを開発していた。アカプルコとマニラはほぼ同緯度にあるので、往路は北東からの貿易風に乗って、途中マーシャル諸島やグアムに寄航しつつ西へ向かえばよい。復路は北緯38度付近までいったん北上し、そこから偏西風に乗って島一つない太平洋のこの海域を横断し、サンフランシスコ沿岸に達したあと南下したと考えられている。スペイン船はその少し前の1596年にも土佐沖に漂着しているので、フィリピンから黒潮に乗って日本沿岸を航行していた可能性が高い。日本が鎖国しているあいだも、スペインのガレオン船は1815年にメキシコが独立するまで近海を定期的に行き交っていたのだ。

 それどころか、家康はこの貿易の途中でスペイン船に日本に寄航してもらうことを考え、その拠点として浦賀にフランシスコ会修道院の建設を許可していたという。スペインは旧教だが、一連の交渉にはウィリアム・アダムズが通訳として幕府とのあいだに入った。浦賀については、幕末にペリー艦隊が沖合に来航したことくらいしか知らなかったが、江戸初期にアダムズが乗ってきたリーフデ号もここへ廻航されてきたし、徳川水軍の将で、巨大な安宅丸を建設した向井忠勝の本拠地でもあり、重要な湊だったらしい。そこで先日、ようやく春らしくなった日に浦賀湊と灯台や砲台跡のある観音崎を歩いてみた。

 いちばんの目的はフランシスコ会修道院跡を探すことだった。ところが、地元の人たちに聞いてみても、「そう言えば昔は大きな墓のようなものがあった」とわかっただけで、古そうな石垣の先は行き止まりになっていた。近くにあったはずのアダムズの浦賀邸も、井戸と江戸末期の祠が残るばかりだった。三浦半島のこの一帯は関東大震災のときの震源地でもあり、江戸時代の痕跡はかき消されてしまったようだ。川幅ほどしかない浦賀湊には、桧皮葺の屋根を模した遣明船のような渡し船がいまも行き来するが、ペリー艦隊はとても入れそうにない。やはり久里浜沖に投錨してボートで上陸したようだ。海岸まで丘陵が迫り、あちこちにワカメが干してある浦賀はあまりにものどかで、マニラ・ガレオンが寄航する一大貿易港に発展したかもしれない場所とは想像もできなかった。

 造船所で12年間、徒弟として働いた経験のあるアダムズは、家康に懇願されて80トンと120トンの小型ガレオン船を伊東で建造している。サンフランシスコ号に乗っていたドン・ロドリゴ総督らスペイン人は、後者の「サン・ブエナ・ベントゥーラ」号を家康から譲り受けて無事に太平洋を横断し、アカプルコに帰還した。ちなみに日本ではこの時代にもう二隻ガレオン船が建造されており、いずれにも向井忠勝がかかわっている。四度の貴重な実習体験を積んだ船大工たちが、江戸時代に和船の造船技術を大きく進歩させた可能性も大いにありそうだ。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2013.05.06更新)



その156

坤輿万国全図(部分)
 先月の「コウモリ通信」で、江戸初期にヌエバ・エスパーニャからきた使者ビスカイノについて触れた。マニラ・ガレオン船の安全な寄港地を探すため、カリフォルニアの海岸線を測量してサンディエゴなどの地名をつけ、イギリス海賊のキャヴェンディッシュに襲われたサンタアナ号にも乗船していた人だ。ビスカイノはただ返礼のために訪日したわけではない。日本近海の北緯38度付近にあるとされた「金銀島」を探す密命を帯びていたのだ。『東方見聞録』に「島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している……その宮殿は……屋根がすべて純金で覆われている」と書かれて以来、ヨーロッパ人にとって日本は謎の黄金の国だった。測量を名目に家康から航海を許可されたビスカイノのために、向井忠勝は江戸時代三隻目のガレオン船を建造したが、この船は浦賀沖ですぐに沈没した。

 黄金の国ジパングの伝説は、平泉の金色堂の話を伝え聞いた人の妄想から生まれたのだろうと、これまで漠然と思っていた。しかしそれならなぜ、北緯38度などという具体的な位置が伝えられていたのか。この時代、日本全国の地図はまだどこにも存在しなかった。マテオ・リッチの坤輿万国全図に描かれた日本も、近畿以東は完全にデフォルメされている。1602年の日本版では、太平洋の東の沖に大きな「金嶋」が浮かぶ。もちろん、こんな沖合に島はないが、東日本大震災で5m東にずれた牡鹿半島の目と鼻の先には、その名も金華山という島がある。この島の黄金山神社は古くから金華山信仰の場で、女人禁制の修験場だった。しかし、この島では金は採れない。

 ならば、金色堂の金はどこからもたらされたのか。すぐに思い浮かんだのは佐渡金山だったが、開発されたのは江戸時代だった。答えはどうやら北緯39度の海岸から5キロほど内陸に入った、陸前高田市の玉山金山らしい。この恐ろしく入り組んだリアス式海岸を、スペインのガレオン船に乗って測量し、金銀島を探していたビスカイノ一行は、1611年12月2日に越喜来村(現在の大船渡市三陸町)の沖で慶長三陸地震の4mの大津波に遭遇し、村人が山に向かって走って逃げ、村が一瞬にして消える様子を目撃している。

 玉山金山の歴史は、仙台藩の鉱山を1595年から代々監督してきた松阪家に伝わる、江戸後期に書かれた文書にしか残されていない。しかし、その内容は他の史料からもおおむね裏づけられるという。当初は砂金採掘だったようだ。白村江の戦い(663年)以前に人質として日本に送られてきた百済の王子の子孫、百済王敬福が743年に陸奥守に任じられ、陸奥国小田郡で大陸の採金技術を使って日本で初めて金を産出し、献上した900両の金は東大寺大仏のめっきに使われた。「続日本紀」には749年に「陸奥国始貢黄金」と記されている。「平家物語」の「金渡」にも気仙郡の金が登場する。平重盛が1175年ごろ寧波の育王山阿育王寺と南宋皇帝に黄金数千両と材木を、宋人船頭の妙典に託して贈ったと記されているのだ。ちなみに金色堂は1124年に完成している。マルコ・ポーロが元代のモンゴル人や中国人から伝え聞いた黄金の国ジパングの噂のもとは、ここにありそうだ。

 玉山金山は、秀吉の天下統一とともにその支配下に入ったが、金山一揆(1594年)のあと伊達政宗の直営となり、以後、仙台藩の莫大な財源となった。ビスカイノは政宗に江戸時代四隻目のガレオン船サン・フアン・バウティスタ号の建造をもちかけた。この船は石巻の月の浦か水浜で、800人の船大工、700人の鍛冶屋、および3000人の大工を総動員して45日間で建造されたと言われ、慶長遣欧使節はこの船に乗って太平洋を渡った。ビスカイノは金銀島こそ発見しなかったが、日本の金のありかにはたどり着いていたのである。

(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2013.06.03更新)










コニストン湖






横十間川親水公園
その157


日本丸

 ブライアン・フェイガンの『海を渡った人類の遥かな歴史』という本が河出書房新社から刊行された。私にとって彼の著書を訳すのはこれで5冊目になる。これほどの縁になった理由が、本書の序文を読んだとき初めてわかった。70年におよぶ彼の航海人生の原点に、子供のころ読んだアーサー・ランサムの本があったと書かれていたのだ。私も子供のころランサム全集にはまった一人で、昨年は小説の舞台の一つとなったコニストン湖まで行ってきたほどだ。彼の根底にある価値観に、私が共感してきたのは無理もない。

 とはいえ、自分のヨットで世界の海を旅してまわるフェイガン氏とは異なり、私の海の経験と言えば、彼が嫌う大型クルーズ船やフェリーの旅くらいしかない。帆船に乗った経験は一度もないし、カヌーやボートも川や湖でしか漕いだことがない。5万年以上におよぶ人類と海の歴史を探ろうとする本書を訳すには、私はあまりにも力不足だった。関連書をあれこれ読んでみたが、なにしろ「海を解読する」と彼が表現するものは、スポーツや芸術分野の体で覚える感覚と同様に、文字では伝えきれないものだ。大海の真っ只中で波と風に翻弄される体験は、実際にそれと闘った人にしか理解しえないだろう。それでも、その感覚を少しでもつかめたらと思い、時間を見つけてはあちこちに足を運んだ。

 数ヵ月前には、和船に乗れる場所があることを知り、江東区の横十間川親水公園まで行ってみた。江戸時代、この一帯は縦横に運河が張りめぐらされ、多数の船が行き交っていた。この文化をいまに伝えるために、和船友の会の人たちが伝馬船、網船などに無料で乗船体験をさせてくれる。少しだけ櫓も漕がせてもらった。

 ここで知り合った人に勧められ、神奈川大学で開かれた国際常民文化研究機構主催の研究発表会にも行ってみた。ミクロネシアのカロリン諸島ポロワット島で、手に入る材料のみを使い、上半身裸の太めのおじさんたちが大勢でわいわいがやがや楽しげに、ひたすら人力だけで大型外洋カヌーを建造する過程を撮影した貴重な映像記録などを見ることができた。蔓を巻尺代わりに使い、中央の位置は蔓を半分に折って決める人びとに、生きる力を見た気がした。そのほかに、これまで素通りしていたみなとみらいの日本丸にも初めて乗ってみたし、御座船安宅丸に一人で乗って東京湾ミニクルーズもしてみた。


御座船安宅丸

 しかし、この本が追究するのは造船の歴史ではない。海図もコンパスもなかった時代、自分がいまどこにいるのか、どこへ向かっているのかも定かでない状況で、人はなぜ海に乗りだし、どうやってその海を読み解いたのかを探るものだ。最初はもちろん、陸地から離れず、目立つ陸標を頼りに航行した。地乗りとか、山あてと呼ばれる航法だ。簡単そうに思えるが、山並みだって見る方角によってまるで違うし、天候によっては見えないこともある。船乗りは空を眺めて天気を予測し、季節ごと、日ごと、時間ごとの風、潮流、干満の変化を知り、水深を測り、五感であらゆる兆候を察知しながら慎重に海にでていった。六分儀もない時代に、太平洋に点在する小島へ渡っていった人びとの知恵と勇気は私の理解を超える。それでも高所から遠方を眺め、太陽の位置で方角を推測し、風向きを肌で感じ、日没点の変化をたどるなど、ささやかな努力はしてみた。体で覚えるこういう感覚こそが、本当の生きる力になる。怖いけれど、いつか私も本物の海を味わってみたい。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2013.07.03更新)



















その158

 このところカラスの本を翻訳している。そのなかに同じカラス科の鳥である賢いカササギがたくさん登場する。カササギと聞いて、たいていの人がまず思い浮かべるのは、あの和歌だろう。「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」。読み手は万葉集の編者とも言われる大伴家持(718〜785年)だ。ところが、カササギってどんな鳥と聞かれて、白と黒にくっきりわかれた鳥の姿がすぐに目に浮かぶ人は少ないだろう。それもそのはず、カササギは日本では佐賀平野と筑後平野を中心とした九州の一部にしかまず見られない鳥だからだ。秀吉の朝鮮出兵の際にもち帰った移入種だとする説が有力だ。

 では、なぜ奈良時代にカササギの橋などという言葉が歌に詠まれたのか? カササギの橋って、いったいどんなもの? 私はついぞ知らなかったのだが、「カササギの橋と言えば、七夕に決まっているじゃない」と、母にあっさり言われた。前漢時代に編纂された『淮南子』の巻末付録に書かれたのが最初と考えられている。七月七日に織女を牽牛のもとへ渡すために、カラスとカササギが河をうずめて橋をつくるのだそうだ。ただし、現存する文書記録としては唐代の『白孔六帖』にその引用として、「烏鵲填河成橋而渡織女」とある。

 カササギもカラスも、冬季には集団でねぐら入りをする。大群が空を舞う様子を見て、天の川を連想し、空に架ける橋を思いついたのかもしれない。カササギは飛ぶと羽の白さが際立つから、暮れゆく空に映えるだろう。なにしろ、カササギの学名はピカ・ピカ(Pica pica)なのだ! もちろん単なる偶然で、ラテン語のピカはまだらという意味で、カササギを指す。カササギの分布を調べると、東は朝鮮半島からシベリア沿岸部、カムチャッカ半島まで、西はイギリス諸島まで広大な地域にまたがるが、暑い地域は苦手らしい。またアイスランドや日本の本州にいないことを考えると、海を渡るのも好きではなさそうだ。

 カササギの橋という概念は、日本には機織の技術と七夕伝説とともに5世紀ごろに入ってきたようだ。養蚕や原始的な織物の技術はさらに早く3世紀ごろに伝わっている。棚式の機なので「たなばた」ということで、機織生産は大化の改新で律令体制に組み込まれ、全国的なものになったという。中国では漢代にはすでに庶民の男は牛を使って農地を耕し、女は機織をするのが一般的になり、このころ七夕伝説も確立したようだが、日本では牛が少なかったからか、牽牛の技術のほうは広まらなかったらしい。彦星という、職業不詳の名称に変わったのも、牛飼いのイメージが湧かなかったからかもしれない。6世紀末に推古天皇が新羅に送った特使が2羽のカササギをもち帰っている。大阪にある鵲森宮という神社がその記念のようだが、このときは繁殖しなかったようだ。

 大伴家持は子供時代を大宰府で過ごしているので、朝鮮半島から渡ってきたカササギをそこで見たのではないかと思ったが、可能性は薄そうだ。彼が読んだ歌も七夕ではなく、冬の情景であり、宮中の階に降りた霜を見ての連想だろうと解釈されている。有名な「月落烏啼霜満天」の漢詩も、天の川を天の霜にたとえたらしい。要するに黒地に白のまだら模様は、天の川であり、カササギの橋であり、霜なのだろう。想像すると幻想的なので、娘に頼んでカササギの消しゴム判子をつくってもらい、烏鵲橋の絵を描いてみた。

 ついでに大伴家持の経歴を読むと、その後782年に陸奥按察使に任命され、まもなく死去したが、桓武天皇が信頼していた中納言・藤原種継の暗殺事件の首謀者と目され、埋葬も許されなかったとある。奥州で日本初の金が見つかってから約30年後のことだ。彼が書いた「賀陸奥国 出金詔書歌」の一部は、準国歌とも言われた「海ゆかば」の歌詞となった。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2013.09.03更新)


9月中旬刊行予定
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その160

群集や暴徒を意味する英語にモッブ(mob)という言葉がある。この言葉は動物が捕食者にたいし群がり、騒ぎ立て、ときには集団で攻撃するモビングという行動を表わす場合にも使われる。生物にとって危険な状況を記憶し、次に同様の目に遭ったときにそれを思いだして、闘争か逃走かという恐怖反応を引き起こすことは、生存に必要なごく基本的な機能であり、脳の扁桃体の働きで深く脳裏に刻まれる。だが、カラスのように高度な生物は、自分がじかに体験した危険だけでなく、仲間からも危険な人間について学ぶのだという。

 今月、河出書房新社から刊行される拙訳書『世界一賢い鳥、カラスの科学』にはこんな一節があった。「彼らはわれわれに威嚇した物知りのカラスを観察し、その仲間に加わっていた。威嚇行為は広まりやすい。そのため、一羽が威嚇すると、聞こえる範囲にいるすべてのカラスが飛んできて、その群れに加わる」。こうした「社会学習」は動物のなかでは特殊であり、認知機能として高度なものだ。自分より強い相手に立ち向かうモビングは、繁殖期にテストステロンで攻撃性が高まっている時期に増えるのだという。

 インターネットで情報を交わし、全国から集まってくるデモと、カラスのモビングはじつによく似ている。勤めていたころ、組合活動でメーデーのデモに参加させられ、シュプレヒコールを聞きながら延々と歩く行為にうんざりした経験が何度かある。私のデモ嫌いの一部はこの体験からくるのだが、残りは自分の生存を脅かす敵がいるという意識が希薄だからかもしれない。賃上げしてくれない経営者も、原発の再稼動を目論む電力会社も、日本の離れ小島の領有権を主張するアジアの隣人も、私とは意見が異なり、議論すべき相手だとは思っても、敵ではない。しかし、中東のデモや、ヘイトスピーチを連呼する在特会のデモの参加者などは、「話せばわかる」とか「相手を説得する」理性的な段階は超え、「やるか、やられるか」という防衛本能に駆られているように見える。その多くは血気盛んな年代で、自分がじかに痛い目に遭っておらずとも、敵についてインターネットなどを通して学び、不安と憎悪のスイッチが入ってしまったようだ。

 この本にはカラスの子殺し、仲間殺しに関するこんな気になる言及もあった。「カラスは何にとりつかれて殺害に走るのだろうか? 脳の化学的性質に生じる微妙な変化が、群れの一員にたいする態度のそのような激変の根底にあるのだろうか? われわれは誰でも、環境しだいで、あるいは社会的仲間から受ける合図しだいで、自分の感情が急速に変わることを経験している」。縄張りを守る、伴侶を守る、または捕食者を巣の近くから追い払うため、ストレスホルモンや性ホルモンによって攻撃性が高まったあげくに、それが本来は守るべき別の対象に向けられる可能性が示唆されているのだ。自制心があるはずのエリートや、正義感が強いはずの警察官が、性衝動に駆られて信じがたい行動に走ることから考えても、人間はストレスを受けると、理性が働かなくなり本能に操られるようだ。衣食足りて礼節を知るではないが、道徳教育が役立つのは世の中が平和である限りなのだろう。

 本書には、ワタリガラスと暮らした経験もある共著者による表情豊かなイラストが多数掲載されている。邦訳版の表紙には、娘のなりさによるリノリウム版画を採用していただいた。イギリスで3年間、絵本の勉強をし、鳥のスケッチ修行を積んできた娘にとって、何よりもありがたい第一歩となった。書店で見かけたら、ぜひお手にとってみてください!
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2013.10.07更新)


石巻新浜地区


第18共徳丸









石巻日本製紙
その161

 青春18きっぷの使用期限すれすれの9月初旬、仕事で来日していたタイの友人たちと、イギリスから帰国したばかりの娘と一緒に東北旅行にでかけた。震災以来、津波の被災地を自分の目で見たいと思っていたので、短い旅とはいえ、これでようやく念願がかなったわけだ。音楽家の友人たちは仙台の定禅寺ストリートジャズ・フェスティバルにつられ、娘は福島で開催されていた若冲展を目当てに、私の東北鈍行列車の旅に同行してくれた。

 福島へ行くと言うと、別のタイの友人が心配して、本当に安全なのかと何度も確認してきた。海外から見れば、福島という地名はチェルノブイリと変わらない。汚染水の問題等を考えれば、安全だと言い切ることはとうていできないが、福島に暮らしつづけている人がいて、美術展を見に行くような日常的な生活も送っていることを、海外の友人たちに見せるだけでなく、自分でも納得したかった。郡山付近を通過しながら、山の向こうに日本中を震撼させた福島第一原発があることを想像してみたが、目の前に広がる長閑な田園風景とはあまりにも相容れなかった。

 震災の翌日、毎日新聞の一面を飾ったのは名取市の海岸を襲う大津波の写真だったが、やや内陸を走る東北本線からは仙台平野の被災状況はわからなかった。上空からは浸水して塩分濃度が下がらない土地とそうでない農地とのコントラストがはっきり見えるそうだ。仙台市内がどこも満室だったので、松島の手ごろな値段の旅館に泊まったところ、子供のころからドラえもんのファンという若い友人は、初めての日本旅館体験に大はしゃぎだった。翌朝は小雨の降るなか松島の海岸を歩いた。湾内に浮かぶ多数の島のおかげで、大きな津波被害を免れたことを思うと、日本三景のこの海岸がいっそうありがたく感じられた。

 夜行便でタイに帰国する友人たちを東京行きの高速バスに乗せたあと、娘と二人だけでさらに石巻と気仙沼まで足を伸ばした。石巻の駅のすぐそばに、津波がここまで到達したという看板があったが、町並みからはもう津波の痕跡は感じられない。震災当日、門脇小学校の生徒をはじめ、多くの人が避難したという日和山にまず向かった。山というよりは、横浜のどこにでもありそうな小高い住宅地で、てっぺんから海側を見下ろすと、雑草の生い茂った殺風景な土地が広がっていた。海岸沿いのこの低地にはところどころ水が溜まり、側溝もあふれんばかりで、流された家の土台の脇にガマが生えていた。後日、日和山幼稚園の裁判記事を読んだ際に、この新浜地区の光景がよみがえり、石巻が身近に感じられた。

 柳津から先の海岸線沿いを走る区間は、線路を再建する代わりに、単線の幅で道路が整備され、そこを代替輸送のバスBRTが走っている。途中、道路沿いに「ここまで浸水区間」といった看板が設けられていた。何度もトンネルをくぐり、外へでた途端、目の前に小さな海岸が迫る光景が繰り返される。破壊された線路や、鉄骨だけが残った南三陸の防災庁舎なども見えた。気仙沼ではわずかな時間しか過ごせなかったが、折しも住宅街に乗りあげた330トンの漁船、第18共徳丸の解体工事が始まる直前で、ミサゴの飛ぶ青い空のもとで、すでに風化しつつある悲劇の名残をスケッチすることができた。津波は湾奥の低地を破壊し、交差点にある建物にとくに被害をもたらすが、高台に建つ家は海岸に近くても無傷で、浸水しただけならば修復可能であることなどが、急ぎ足で町を歩きながら見てとれた。帰路、金色の稲穂が一面に広がる景色のなかを、地元の元気な高校生たちと一緒にロングシートの鈍行列車で進む旅はじつに楽しかった。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2013.11.03更新)




その162

 一つのことをコツコツとつづけるのが苦手な私だが、この一年間、頑張りつづけたことがある。コウモリ通信にも何度か書いた日没点の変化の観測だ。近所に、北斎が富嶽三十六景に選んだ旧東海道の尾根道の近くで、西に富士山が望める開けた場所がある。夕方、西の空が明るい日にはその尾根道まで通い、同じ場所から日没の瞬間を写真に撮りつづけた。住宅地とはいえ、横浜の地形は山あり谷ありなので、最後の坂を登るまで実際にはこの眺望は見えない。今日はきっと富士山も日没も見える、と思って行っても、ちょうど富士山のあたりだけ曇っていたり、山並のすぐ上に細く棚引く雲がでていて日没が見えなかったり、空振りに終わることもたびたびあった。逆に、薄曇りであきらめていたら、日没の瞬間になって富士山がシルエットで浮きあがることもよくあった。

 そんなこんなで記録しつづけた日没の写真は、冬至のころには真西よりはるかに南に沈む太陽があり、春分、秋分のころは富士山のやや北に、夏至になると駅前のビルの陰で見えないほど北に日没点が移動する。太陽が沈む地点の手前にある陸標―――マンションや鉄塔など―――の位置が地図上で確認できれば、南または北に何度ずれているか、方角がわかるだろうと考え、数キロ先に見える高層の建造物を自転車で探しにも行った。冬至の太陽が沈む方向に見えるひときわ高い鉄塔は、うちから遠く離れた米軍の深谷通信隊内にそびえる鉄塔だった。春はどんどん日没点が富士山の裾野を移動する様子を観察しつづけ、幸運にも晴天の日にダイヤモンド富士を見ることもできた。

 自他ともに認める方向音痴の私がこんな苦労をして観測しつづけたのは、地図や方位磁石のない時代、古代人にとって季節ごとの太陽の昇る位置や沈む位置は重要な意味をもっていたことを知ったからだ。天照大神を祀る伊勢神宮や福知山市の皇大神社が、冬至の太陽の昇る位置からその場所が決まったという説もある。

 時計のない時代には、まぶしい太陽を見つづけて南中を見届けなければ正午がわからないし、空高く昇っている天体は角度を測るのが難しい。しかも、その高度は日ごとに変わるのだから、そこから自船位置の緯度を割りだそうと思えば、その日に計測した数値に当てはまる緯度を知るための複雑な計算か、膨大な数値表が必要だ。昔の航海士の知識に追いつくのは、私にはあまりにも難しそうだが、せめて地平線に太陽が沈む位置の季節ごとの変化くらいは、誰かに教えられた既存の知識としてではなく、自分で確かめてみたいと思ったのだ。


 グレゴリオ暦とグリニッジ標準時が定まり、正確な地図が描かれるようになってからまだ一世紀半も経ていないのに、それ以降に生まれた人はみな、暦と時計と地図に従って生きるようになり、自然には目を向けなくなったのかもしれない。あらゆる情報がネットで調べられる現代では、正確な時刻も、自分がいる位置も、日没時刻も、コンピューターで計算された数値として瞬時に得られる。必要なのは検索能力だけになり、自然の変化が実際はどう起きているのかも知らないまま、暦どおりに衣替えをし、冬も夏も定時に出勤し、天気予報を見て傘や上着を持参するか決める。何か肝心なものが欠けてはいないのか。

 一年間、同じ場所に通ったおかげで、夕方この尾根道に散歩にくる近所の多くの人とも顔見知りになった。秋のダイヤモンド富士は曇り空と雨天つづきで見られなかったが、「太陽は見えても、肝心の山がないねえ」などと他愛もない会話を交わしながら入り日に見入り、雲を眺める時間を、一日のうち数分でももてたことが、何よりもの収穫だった。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2013.12.03更新)




その163

 10年間、連日のように酷使し、修理に修理を重ねたDELLのXPマシンの動きがかなり怪しくなったため、一大決心をしてMac miniに乗り換えた。これで煩わしかった数日ごとのアップデートに悩まされることもなくなり、雑用をしながら起動するのを待つ必要もなくなった。いちばんうれしいのは、音が静かなことかもしれない。前のPCはふだんでもうるさかったが、暑くなるとファンが恐ろしい音を立てるので、真冬以外は保冷剤が欠かせなかったが、新しいパソコンは電源が入っているのか、思わず耳を近づけたくなるほど静かだ。そのおかげか、長時間、仕事をしても疲労感が少ないような気がする。

 日常的に聞こえるこうした騒音などは、いつの間にか慣れてしまい、あまり意識にのぼらなくなるが、実際には慢性ストレスとなって体内に蓄積されているのだろう。満員電車に乗って出勤し、職場であれこれ言われ、合間に私用メールやSNSをチェックし、色も音もあふれる繁華街を歩いて、高くて買えない/買ってはいけない誘惑物に囲まれる生活をつづければ、たとえ何事もなく一日が終わったとしても、体に大きな負担がかかるに違いない。最近、誰もが苛立って見えるのは無理もない。だから、帰宅途中に人身事故で電車が十数分遅れでもすれば、それが英語で言うlast strawになる。荷を極限まで積まれたラクダは、あと藁一本でも載せれば背骨が折れるということわざだ。

 ラクダも藁もいまの日本人にはピンとこないので、こういう慢性ストレスについて家族や友人に注意を喚起するときなどは、私はその状況をコップの水にたとえることにしている。水位が低ければ、数滴増えたところで別に問題はないけれど、水がコップの縁まで入っていて、表面張力ですっかり盛り上がった状態であれば、そこに最後の一滴が落ちただけで、水はあふれてしまう。誰かにちょっと何か言われたくらいで落ち込んだり、些細なことで家族に腹を立てたりするようになったら要注意だ。パソコンなどは簡単に買い替えられるものではないし、嫌な上司に異動していただくのはさらに難しいだろうが、変えられることから始めて、余計な刺激は取り込まないようにし、日頃からコップの水位を下げておく努力はしたい。

 何よりも、自分がいまどんな精神状態にあるのかを客観視する、鬼太郎パパのような目が欲しい。そのための手っ取り早い方法は、自己中心になりがちな日常を抜けだして尺度を変えてみることだろう。遠くを見る、空を見上げる、 野山や海辺を歩くなどして、自分の存在が小さくなれば、かかえていた不満も悩みも相対的に小さくなる。そんなことを考えて、先週、朝五時に起きて近くの空き地までアイソン彗星を見にでかけた。北斗七星からアルクトゥルスを探し、そこからスピカを見つけて、水星とのあいだの夜空を双眼鏡で懸命に見たが、暗い星がいくつか見えるばかりだった。2日つづけて頑張ったが、横浜の住宅街では夜空が明るすぎて、双眼鏡では尾が見えなかった。光がありすぎて見えないなんて、情報過多で肝心なものが見えなくなっているいまの時代のようだと妙に納得していたら、今度はアイソンが崩壊したというニュースが。今年最高の天体ショーはお流れらしいが、残った塵くらいは見えることを期待したい。

 余談ながら、夕日に照らされた飛行機雲を誰かが彗星と間違えたらしく、かなりの人がスマホで夕空を撮影している光景も駅前で見かけた。いまの時代、ふだん夕空を見上げることもない人がきっと大勢いるに違いない。
(とうごう えりか)