【コウモリ通信】バックナンバー 2015年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2015.01.03.更新)



その173

 何年か前にアメリカの友人が、自分はもう使わないからと言って日本円とアジアの他国の紙幣を普通郵便で送ってきてくれたことがあった。開けてみると旧札だった。沖縄に駐留していた夫のもとで新婚時代を送ったときの記念として、何十年間も手元に置いてあったものらしい。このところ時間を見つけては片手間に幕末関連の本を読んでおり、伊藤博文や井上馨など明治の元勲の経歴を調べた際にふと昔の千円札を思いだし、この友人からもらった旧札を引っ張りだしてみた。そこには板垣退助の百円札も同封されていた。

 大英博物館のニール・マクレガー館長によると、「あらゆるイメージのなかで最も効果的なのは、あまりにもよく目にするためにほとんど気づかなくなっているもの、コインである。そのため、野心的な支配者は通貨をつくる」(『100のモノが語る世界の歴史』)。しかし、一万円の聖徳太子は別として、お札に刷られていたあとの人たちが誰なのか、子供のころはあまり気に留めたこともなく、両目のところで折り目をつけ、見る角度を変えて笑わせたり、泣き顔にしたりして楽しんだ記憶しかない。ウィキペディアで確認してみたところ、1951年に岩倉具視(五百円札)と高橋是清(五十円札)が、53年に板垣退助、63年に伊藤博文と、元勲たちが日本を象徴するイメージとして選ばれていた。明治以来、日本銀行券に選ばれたそれ以外のシンボルは、大黒様や菅原道真、藤原鎌足、武内宿禰など、神や伝説的な人物である。戦後、次々に元勲が選ばれたのは、当時すでに彼らが英雄としていわば神格化されていたからだろうか。

 伊藤博文と井上馨はともに、江戸末期に横浜居留地一番地にあった英一番館、ジャーディン・マセソンの支店長サミュエル・ガウワーの手引きで1863年5月にイギリスへ密航し、長州五傑として知られるようになった。犬飼孝明氏(『密航留学生たちの明治維新』)などによると、長州藩がこのロスチャイルド系貿易商社から鉄製蒸気船ランスフィールド(壬戌丸)を購入した際に、井上が横浜で資金工面をしているので、そのときの縁故を頼ったようだ。伊藤と井上の二人はイギリスで薩英戦争や長州の外国船砲撃事件の報道を見て驚愕し、翌年6月に先に日本へ戻った。アーネスト・サトウは、「伊藤と井上はラザフォード卿に面会して、帰国の目的を知らせた。そこで卿は、この好機を直ちに捕らえ、長州の大名と文書による直接の交渉に入ると同時、一方では最後の通牒ともいうべきものを突きつけ、敵対行動をやめて再び条約に従う機会を相手にあたえようと考えた。……二人を便宜の地点に上陸させようと、二隻の軍艦を下関の付近へ急派した」((『一外交官の見た明治維新』)と書いている。

 ところが、この二人は渡航数カ月前の1863年1月まで、御殿山に建設中のイギリス公使館に放火するなど、過激な攘夷活動に走っていたのだ。犬塚氏によれば、井上はその直前には高杉晋作や久坂玄瑞らとともに、横浜の金沢まで遠出した外国公使暗殺計画を立てたものの未然に阻止されたため、「百折屈せず」と御楯組の盟約書に花押血判している。伊藤にいたっては、同年2月にも山尾庸三とともに塙忠宝と知人の二人を暗殺している。山尾庸三も長州五傑の一人で、のちに法制局初代長官を務めた。塙忠宝は塙保己一の四男で、幕命によって外国人待遇の式典について調査していたところ、孝明帝を廃位させようと企んでいると邪推されたあげくのことだった。

 要するに、外国人や自分と異なる意見の人を短絡的に敵と決めつけ、放火や殺人も厭わなかった人びとが、当の外国人を頼って渡航し、あまりの国力の差に肝をつぶして前言を撤回し、外国の力を借りて政権の座に就いたのだ。君子は本当に豹変するらしい。その背景には、英公使館焼き討ち事件後に佐久間象山を訪ねた久坂玄瑞らが、象山から開国の必然性を説かれたことがあるようだ。井上は象山の海軍興隆論だけを聞きかじり、突然、「外国へ遊学して、海軍の学術を研究する必要がある」(「懐旧談」、犬塚氏の書に引用)と目覚めたという。

 ハルビンで伊藤博文を暗殺したとされる安重根がテロリストか抗日義士かをめぐって、少し前にいろいろ騒がれていたが、当の伊藤は自身の非業の死を当然の報いと思っていたかもしれない。いずれにせよ、国を象徴する人物としてはあまりふさわしくないと判断されたためか、1984年にもう少し当たり障りのない夏目漱石に取って代わられた。件の旧札を送ってくれた友人は、かならずしも恵まれた人生を送っているわけではないので、円安で辛いが、せめて同額をドルに変えて、遅まきながら郵便で送ろう。このエピソードも添えて。

年末、仕事や雑事に忙殺されて引きこもっていたため、新年にふさわしくない話題で申し訳ありません。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2015.02.04.更新)






<>Illustrated London News 1872年10月12日号(雄松堂書店版より)


『百人一首 うばがゑとき』春道列樹 葛飾北斎画(岩波書店版より)
その174

 このところの円安のせいで観光地はどこも外国人で賑わっているという。「5年後の東京五輪に向け、人力車の台数を増やすか検討している」。先日、こんな記事を毎日新聞で読み、思わず苦笑してしまった。Rickshawという英単語があり、同様の乗り物がアジア各地に見られるので、中国かインドで発明されたのだろうとずっと思っていたが、人力車はどうやら日本が発祥の地らしい。まさに日本の伝統文化なのだが、発明されたのはじつは明治になってからだ。

 刀や甲冑をつくる鍛冶屋はいたのに、鉄を量産できなかったせいか、日本では車輪に鉄製の箍をはめることも、ハブを金属で補強することもなく、明治初期まで御所車のような巨大な木製の車輪が大八車にも使われていた。これではもちろん重過ぎて、人間一人の力ではとうてい引っ張れない。軽量で丈夫な車輪の製法は、幕末に馬車が導入されたときに伝わったと見られ、1865年にはフランスの技術指導で横浜に製鉄所もつくられたが、なぜか普及したのは人間が引く乗り物だった。そもそも家畜を去勢して荷を引かせる習慣がなく、牽引用に特殊な馬具を必要とする馬は、簡単な軛で間に合わせられる牛以上に利用が難しかったのだろう。畜産ですら、一部の藩で行なわれていたに過ぎない。馬車の通れるような舗装された広い道が少なく、橋もほとんどが木製で、渡し場があったことなども、江戸幕府が敢えて馬車を普及させなかった理由らしい。横浜には「馬車道」とわざわざ名づけられた通りがある。国によっては2000年以上も前から使われていた馬車が、日本では明治期の最新技術であったことが、この名称からもうかがえる。

「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と明治の流行歌にうたわれた「文明開化」という言葉は、福沢諭吉が最初にcivilizationの訳語として使ったものだという。文明と対置するのは未開または野蛮なので、そう考えると江戸時代までの日本は未開の地だったことになる。そんなことを書けば、むきになって反論されそうだが、室町末期に来日したザビエルはもとより、幕末にきた外国人の目にも、日本はきわめて特異なお伽の国として映っただろう。なにしろ、独特の文化があって、秩序も保たれているが、彼らが文明国の条件として考えるじつに多くのものが、江戸以前の日本には欠如していたからだ。何よりも、日本には人力以外の動力を使おうという発想がなかった。水車にしても、明治以前に普及していた地域は限られており、大半は最も単純な下射式だ。古代ローマには水車の動力を利用した製材所があったというが、日本では江戸末期でも人力一筋だったことが北斎の絵などからもわかる。

 じつは現在、なんらかの原因で文明が崩壊したあと、人類が狩猟採集生活に戻ることなく、再び文明を再建するためにどんな知識が必要か考える本を訳している。ところが、新しい章に入るたびに、うーむ、日本ではこれも明治の新技術なのに、と考え込まざるをえない。たとえば焼成煉瓦。関東大震災で煉瓦造りの西洋建築が多数崩れたこともあって、日本では一時的なブームに終わったようだが、煉瓦は建材であるだけでなく、家庭の暖炉から高炉までつくれる炉材でもあった。金属を製錬するにも、ガラスやセメント、化学肥料といった、「文明」を支えるさまざまなものを製造するにも、高温に耐える炉がなければつくれない。日本にも5世紀なかばには登窯が、ろくろや炭焼きの技術とともに伝わったようだし、粘土製の炉で木炭と鞴を使って砂鉄から鉄をつくるたたら吹きは行なわれていたようだが、トリップハンマーのような水力機械は普及せず、もっぱら鍛冶職人の腕頼みだったためか、大きな産業に発展することはなかった。トリップハンマーは前漢末期の書物にすでに書かれていて、後漢の杜詩はこれで冶金用の高炉を改良していたと知れば、なぜその知識が海を越えてこなかった、と唸りたくもなる。なお、江戸時代の参勤交代はひたすら徒歩だった。九州などの遠方の藩は部分的に御座船も利用したが、あっても小さな横帆一枚なので、基本は櫓走、つまり人力だったようだ。

 世界の発展からひたすら取り残された禁欲生活だった感が否めないが、だからこそ外国から物資を恒常的に輸入しなくても、島国で「自国軟禁」生活をつづけられたのだろう。製鉄業は世界各地で燃料の木炭をつくるために森林を破壊してきたし、明治以降は日本も足尾銅山に始まる公害に苛まれた。いろいろ考えれば、江戸時代の人びとは日々スポーツジムに通っていたようなもので、健康的でエコロジカルかつエコノミカルだ。何をなすにも大勢の人手が必要であれば、機械を所有できる少数の人間だけが絶大な権力をもつこともなく、失業者もなく、かなり平等な社会ということにもなる。文明滅亡が150年前に戻る程度なら、むしろ歓迎する人もでてきそうだ。もっとも、最近の人力車に取りつけてある自転車のようなホイールは、かなりの「文明」でなければ製造できない。歴史のどのあたりの日本を取り戻すべきなのか、悩ましいところだ。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2015.03.04.更新)




『近世史略』(明治五年刊)
その175

 近年、版権の切れた古書の多くが大学などの特別プロジェクトのおかげでネット上で手軽に読めるようになった。先日もジョン・R・ブラックの『ヤング・ジャパン』の原書を読んでいたところ、その記述の典拠が「Kinse Shiriaku」となっていて、思わず首を傾げた。キンセ・シリアク? 近世……尻悪? 調べてみると、アーネスト・サトウが1873年に翻訳したもので、原書は山口謙が1871年に著した『近世史略』であることがわかった。サトウの訳書のほうはいまでも簡単に買え、幕末史の本として海外で知られているようだが、原書の『近世史略』は古典籍総合データベースなどにはあるものの、いまや忘れられたも同然だ。運よく\3,000の古書を見つけ、思わず衝動買いした。

 届いてみると、その軽さにまず驚いた。裏が透けるほどの和紙に、おそらく木版で印刷され、和綴じになっている。しかも、私が入手したのは明治5年刊で、サトウが底本とした初版かもしれない。ぱらぱらとめくってみて、ふと「亜國使節丿下田ニアルヤ長州吉田松陰其門人渋木某ヲ率ヒ卒然使節ノ舟に就キ倶ニ航セン事ヲ請フ」という下りが目に留まった。『花燃ゆ』で先日、放送していた松陰の密航の箇所だ。

 さらにこうつづく。「其邦禁ヲ犯スヲ以テ吉田渋木及ヒ佐久間象山ヲ獄舎ニ囚フ象山ハ松代ノ人文學該博傍ラ洋書ヲ讀ム松陰初メ兵ヲ象山ニ學フ」。サトウの訳はこうだ。"For this infraction of the laws Yoshida, Shibuki, and Sakuma Shozan were cast into prison. Sakuma was a Matsushiro (in Shinano) man of vast learning, and also acquainted with European literature. He was Shoin's first instructor in the military art."


 明治初期に書かれた日本語よりも、英語のほうがよほどわかり易いのはなんとも情けない。こんな和本を出版してすぐに見つけ、一年後には訳書として刊行してしまったサトウの日本語の能力に感服した。このあとさらに、象山がオランダからの船の購入は、海外の情勢を知り、航海術を学ぶ機会にもなるので、オランダ人任せにせずに、日本人を派遣するようにと主張する言葉に「松陰斯ノ儀ヲ聞キ大ニ感發*スル所アリ窃ニ航海ノ志ヲ起ス」とつづく(私の版は*が叢に似た字になっている)。大河ドラマでは見事に省かれた密航の経緯が、ペリー来航に伴う近世の大事件として、ここにはきちんと書かれていた。これに先立って長崎のロシア船に密航を企てた松陰が、象山に別れの挨拶にきたときのことも、「象山其意ヲ察シ旅費ヲ興ヘ詩ヲ作リ行ヲ送ル」と記される。「環海何茫々、五州自成隣、周流究形勢、一見超百聞」で知られる餞別の詩と金四両のことだ。「松陰ノ捕ハル所持ノ行李ニ象山送別の詩アリ故ニ事象山ニ牽連スルナリ」として、象山が逮捕された理由もある。

 じつはブラックの本で最初に引っかかったのは、Ohara Shigetamiという名前だった。その一文の典拠がキンセ・シリアクだったために、この古書を入手するはめになったのだが、『近世史略』にはこうある。「松陰幕府ノ複タ輔クヘカラサルヲ謂ヒ乃チ廷臣大原重徳ヲ其藩ニ迎ヘ尊攘ノ説ヲ以テ藩論ヲ鼓動セント窃カニ書ヲ重徳ニ呈ス」("Shoin declared that it [the Bakufu] could not be saved. He secretly wrote to a court noble named Ohara Shigetami inviting him down to Choshiu, in order to get up an agitation in the clan for the expulsion of the barbarians, and the restoration of the Mikado.")。大原重徳(しげとみ)はのちに島津久光に警護させて幕府に文久の改革を迫った勅使で、これは幕府の権威を貶めた前代未聞の出来事だったそうだが、薩長に使い捨てられたのか、この人はあまり知られていない気がする。久光の一行はこの帰りに生麦事件を起こしている。

 松陰の再逮捕の下りではこう記されている。「適々間部下総守元老ノ命ヲ受ケ京師ノ有志ト唱フル者ヲ捕フ松陰即チ下総守ヲ圖ラント死志ヲ募リ京師ニ遣リテ事成ラス」(It happened that Manabe Shimosa no kami had arrested, by order of the Chief Minister, all the patriots of Kioto: and Shoin, collecting a number of desperate men, despatched them to the capital to assassinate Shimosa no kami.)。そして「匿名書ヲ禁中ニ投シ及ヒ梅田源次郎長州ニ遊フ時梅田ト密謀ヲ合スル事」は否定し、「因テ詳ラカニ之ヲ辯解シ却テ呈書及ヒ閣老ヲ圖ル事ヲ陳ス」(He therefore gave complete explanations on these two points, but confessed his letter to Ohara and his plot to assassinate the Minister.)。「松陰一タヒ航海ノ機ヲ誤ルヨリ為ス所皆蹉?人其志ヲ哀ムト云」(Every plan conceived by this man since his failure in the attempt to get a passage on board the American squadron had ended in disaster, and his fate excited universal pity.)

 なぜ英語を学ぶのか、といった議論が最近また盛んになっているが、『近世史略』をサトウ訳を頼りに読めば、歴史も古文も英語も一石三鳥で学べる。明治の刊行なので、本書はすでに明治政府の意向が反映されているだろうが、当時の日記、書簡、新聞などを幅広く引用しており、少なくともこの時代の通説は読みとれる。自国の歴史を忘れ、古語は読めなくなり、為政者に都合よく書き換えられても気づかない国民にとって、外国語は必携の鏡かもしれない。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2015.04.03.更新)




広重の品川御殿やま


品川御殿山のイギリス公使館設計図
(東京大学史料編集所所蔵)



御殿山通り


開東閣の石垣
その176

 桜が咲くのを待って御殿山に行ってきた。などと書くと、首を傾げる人が多いかもしれない。御殿山と聞けば、たいがいの人は御殿山ヒルズを連想するのではなかろうか。最近は御殿山トラストシティという名称に変わったらしい。「この公園は江戸の人びとが宴会を開く大行楽地だった。ピクニック・パーティの風習がこれほど盛大に行なわれる場所は、世界中で日本のほかにはないだろう」。ジョン・レディ・ブラックは『ヤング・ジャパン』のなかで、御殿山の花見について書いた『ジャパン・ヘラルド』紙(1862年7月12日・19日)の記事を詳しく引用して書いている。執筆者は誰だったのか、家康はここに御殿を構え、江戸に渋々やってくる諸藩の大名を出迎えてもてなしたが、三代の家光はもうその必要はないと判断して、江戸湾も東海道も品川の台場も見下ろせる軍事的にも要衝のこの地を引き払い、広大な跡地に桜を植えて江戸の住民の行楽地にしたといった説明が記事にはあった。「江戸近郊で御殿山ほど楽しい場所はない。行楽地はほかにもあるが、彼らには海の景色が必要だった――小高い場所――紺碧の海を縦横に進む白帆――心地よい木陰――遠くまで見渡せる景観……」とつづく。「御殿山に建設される屋敷に外国人を住まわせるわけにはいかないと、熱心な攘夷派によって最初から決まっていたのだといまでは言われている。……『やつらはわれわれの愛する桜の木を切り倒したのだ。外国人の家を建てる場所をつくるために。だが、それは落成する前にひどく赤い花となるだろう』と、侍は言った」と、ブラックはのちに書いた。

 侍の言葉はもちろん、文久2年12月(1863年1月)に起きた英国公使館焼き討ち事件を予告したものだ。襲撃者は高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多、伊藤俊輔、品川弥二郎、松島剛蔵、赤根武人など10人ほどの長州の若者だ。「その後幾年かたって、最も確かな筋から、放火の犯人は主として攘夷党の長州人であったことを聞いた。少なくとも、その中の三人は、後に政府の高官になっている。それらは総理大臣伊藤伯と井上馨拍で、三人目はだれであったか思いだせない」と、この公使館の完成を心待ちにしていたアーネスト・サトウは書いている(『一外交官の見た明治維新』坂田精一訳より)。

 御殿山は幕末のこの時期にどれくらい桜の名所でありつづけたのだろうか。広重の「名所江戸百景」(1856-58年)には、品川沖に台場を築くために山の形が変わるほど削られてしまったため、もう一度描いたという「品川御殿やま」の浮世絵がある。手前に見える崖のような部分だろうか。ほぼ同年に製作された地図には「御殿山 櫻ノ名所ナリ」という文字とでこぼこの区画がある。愛用の人文社の古地図ライブラリーには当時と現在を合成した地図もあるが、品川駅の場所は海だったようだ。桜の便りを待って、品川一帯を歩いてみた。

 まずは大木が鬱蒼と生い茂った一帯を、ぐるりと囲む高い石垣沿いに延々と歩いた。入口にたどり着くと、「三菱 開東閣」とあり、立入禁止だった。あとで調べてみたら、奇しくも伊藤博文邸だった地所を三菱2代目の岩崎弥之助が買い取ったもので、なかにジョサイア・コンドル設計の豪邸があるらしい。GHQに一時接収されていたが、現在は三菱グループの賓客接遇施設だとか。そこから原美術館へと回ると、ちらほら桜の木が見えてきた。御殿山通りにはちょっとした桜並木があってきれいに整備されている。その横には御殿山トラストシティの一角として池や人口の滝まで備えた日本庭園があり、この高級住宅街の住民の憩いの場となっていた。英国公使館があったとされる一帯は、御殿山を切り裂くかたちで山手線や新幹線が通っていることもあって見る影もない。「われわれの愛する桜」は、外国公使館の建設だけでなく、軍備と開発であらかた切り倒され、残された一等地にそうした行為で財を成した当人たちが住み込んで庶民を締めだしてきたということか。釈然としない思いで、駅の北側にある東禅寺まで歩いた。仮住まいしていたイギリス公使館が、水戸の浪人とその警備に当たっていたはずの兵に二度も襲撃された現場である。

追伸:4月18日から東京都美術館で始まる「大英博物館展――100のモノが語る世界の歴史」の公式カタログが出来あがりました。今回の展覧会にやってくる新たなモノたちの来歴を含め、A4変形版で写真も格段に大きくなりました。カバーが一新された筑摩選書の『100のモノが語る世界の歴史』(全3巻)と合わせて、ぜひ展覧会前にご一読下さい!
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2015.05.01.更新)




日本からのスケッチ。
リチャードソン氏殺害事件の賠償金を勘定する
Illustrated London News
1863年9月12日(復刻版、柏書房) 





日本の文明化の進展
Illustrated London News
1875年3月6日(復刻版、柏書房)
その177

 東京都美術館で開催中の「大英博物館展――100のモノが語る世界の歴史」に行ってきた。人類の数百万年におよぶ歩みを、100のモノを通して考えるというこの壮大なプロジェクトは、七つの海を制覇した大英帝国があってこそ可能になったものだろう。だが、世界の片隅の、とうに滅亡した文明にまで深い関心をいだき、残された断片を丁寧に調査、修復、保管し、世界中の研究者にそれを調べる機会を提供している大英博物館の姿勢には、やはり感服させられる。私はこの展覧会のもととなった本および、今回のカタログとパネルの翻訳に携わらせていただいたので、どの作品もすでによく知っているつもりだったが、やはり大きさや質感、細部や裏側などは、実物を見なければわからない。間近にじっくり見て初めて気づくことはいくらでもある。

 小さくて、ガラスケース越しに見るだけではちょっと物足りないものもあった。スペインの銀貨のピース・オブ・エイトもその一つだ。インカ帝国を征服したスペインがポトシ銀鉱山の豊富な銀で鋳造し、世界中で使われるようになった硬貨だが、私にとってこれは、アーサー・ランサム全集にでてくる緑のオウムのポリーの言葉だった。「八銀貨」という訳語に小さくピース・オブ・エイトとルビ文字が振ってあったので、小学生の私には謎の呪文のようだった。

 最近になって、この硬貨が幕末史によく登場するメキシコ銀、洋銀、メキシコドルと呼ばれていたものでもあることに気づいた。生麦事件でイギリスから10万ポンドの賠償金を要求されたとき、幕府はこれを1ポンド=4ドルの換算レートで、40万ドル分のピース・オブ・エイトで支払った。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のチャールズ・ワーグマンの絵には、神奈川運上所の役人が居心地悪そうに椅子に座りながら、硬貨を一心に数える3人の中国人と複数の日本人を見守る光景が描かれた。「早朝から2000ドルずつ収められた箱を積んだ荷車が公使館に到着し始めた。中国人の硬貨鑑定人(極東で硬貨が本物かどうか検査するために貿易商や銀行に雇われた人びと)がみな集められ、鑑定と勘定に取りかかった」と、アーネスト・サトウは書いた。「この作業に3日間が費やされた」のち、前年の第二次東禅寺事件の賠償金と合わせて44万ドルを詰めた合計220箱が、目を丸くした「ヨコニン」たちが「マロホド!」と見送るなか、アプリン中尉の率いる騎馬護衛隊と海兵隊に守られ、現在の象の鼻パークの桟橋の英海軍のパール号まで運ばれる様子も報じられている。

 鎖国時代にこれだけの洋銀を幕府はどうやって集めたのだろうか。いや、幕府だけではない。たとえば生麦事件後に薩摩藩がグラヴァー商会からイギリスの鉄製蒸気船ランスフィールド号を購入する契約を破棄された際に、噂を聞きつけた長州藩が代わりにこの船を英一番館のジャーディン・マセソン商会から12万ドルで購入している。この洋銀を調達したのは横浜本町二丁目の伊豆倉商店で、交渉役は町人姿で現われた井上馨だった。番頭の佐藤貞次郎は「其翌日志道聞多君御出にて、町人の姿、無刀は勿論、紺地に白の花形有る紺更紗の風呂敷に紙入様の物を包み、頸に巻掛け、伊豆倉見世先に立ち、予が名を呼で云く、今日洋銀五百枚程入用なり、赤根方迄持参を頼むと」と語った(『井上伯伝』、『密航留学生たちの明治維新』犬塚孝明著に引用)。この硬貨は1枚27gほどなので、12万枚となれば重量が3.24トンにもなるが、いったいどうやってひそかに支払いを済ませたのだろうか。井上はその後すぐに、このコネを使ってイギリスに密航するのだが、ランスフィールド号のほうは壬戌号と名前を変えられ、下関戦争でアメリカ軍艦ワイオミングの砲撃を受けて沈没した。

 今回の大英博物館展には、ほかにも花祭りの「天上天下唯我独尊」ポーズのお釈迦様にしか見えないゴアのキリスト像や、シルクハットをかぶったシエラレオネの儀式用仮面など、不思議なものがたくさんきている。後者は理想の女性像を表現した仮面なのだそうだが、19世紀末にエリート層が男女を問わず、ステータス・シンボルとしてシルクハットをかぶるようになった時代の珍品らしい。つい苦笑したくなるが、日本でも明治期に同じような光景が見られたので、いずこも同じということか。「親子で似たような装いをして夕飯時に帰宅の途につく日本のパパは、親としての威厳だけでなく、この奇妙な恰好の息子の本来のあどけない魅力も、ほとんど発揮させていない」と、1875年の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュースは伝えている。

 東京都美術館では101番目のモノとして、坂茂の紙の避難所用間仕切りを選んでいた。紙管を使って教会も建ててしまう建築家なので、そのアイデアには脱帽だが、考えてみれば幕末にきた外国人はみな、日本人は木と紙の家に住んでいると書いていたので、いかにも日本らしい101番目のモノかもしれない。この展覧会は6月末まで東京で開催されたあと、福岡、神戸へと巡回する。4月からNHKラジオ第1で「モノが語る世界の歴史」という番組も放送されており、インターネットでも過去の放送を聴くことができる。一つの物を掘り下げることで見えてくる歴史の意外なおもしろさを、ぜひお楽しみください。
NHKラジオ「モノが語る世界の歴史」
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2015.06.16.更新)









その178

 人は自分が生まれた時代を基準にものごとを考える。19世紀生まれの人はもう存命ではないだろうから、いま生きている日本人はみな日本が先進国だと考えているだろう。たとえば私なら、テレビ、電話、自動車などが初めてうちにやってきたときのことは漠然と覚えている。最初の洗濯機には手回しの脱水機がついていたと思うし、時計はチクタク鳴るゼンマイ式や振り子式だった。それでも、電気・ガス・水道がなかった時代は知らない。平成生まれの若者なら、パソコンやファックス、ビデオがある生活が基準となり、いまの子供にいたっては、最初に目にした「玩具」がスマホかもしれない。

 自分が生まれるわずか数十年どころか数年前まで、こうした文明の利器がなかったことなどは、人はあまり考えない。まして、それらがどうやって発明され、つくられたかなどは意識しない。現代の生活を限りなく楽で豊かなものにしているインフラや先端技術が大災害で使用できなくなって初めて、人はあわてふためく。自分たちがいかに、とうてい理解できないほど複雑になった人間社会のなかで、日々、仕組みも原理もさっぱりわからないもののボタン操作だけを学んで、家事や仕事をこなした気分になっていたかに気づかされるのだ。

 こんなことをあれこれ考えさせられるきっかけとなった本が、このたび河出書房新社から刊行される。『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』というやや衝撃的なタイトルで、著者ルイス・ダートネル氏は、一見すると大学院生のような若いイギリスの研究者だ。すべてが崩壊しても、種となる知識があれば、文明は紆余曲折した中間段階を省いて急速に復興できるかもしれないと彼は考え、本書はいわばそのマニュアルとなっている。「おそらく歴史上で最も感銘深い一足飛びの離れ業をやってのけたのは、十九世紀の日本だろう」という彼の言葉を訳しながら、つい苦笑した。幕末に入ってきた多数の蘭書や長崎海軍伝習所、明治のお雇い外国人による技術指導、それらのおかげでいまの日本がある。日本人はまさに詰め込み勉強をしたわけだ。

 福島の原発事故以来とみに、科学技術によって人間は不幸になったとか、もう科学は信じられないといった主張を聞くようになった。技術がかならずしも人間を幸せにはしない実例は、確かにいくらでもある。それでも、著者が指摘するように、「科学の本質は、自分が間違っていたことを繰り返し認め、新しいより包括的なモデルを受け入れることにあるので、その他の信条体系とは異なり、科学の実践は僕らの物語が時を経るにつれて着実により正確になることを保証するのである」。科学の原理を応用したテクノロジー、つまり技術が役に立たなかったからといって、科学の原理そのものが間違っているとは限らない。間違いはたいがい、目先の便利さや利益にとらわれ、環境への影響を顧みなかった実践方法にある。文明というのは、農耕の始まりからして科学と技術の積み重ねだったのであり、「作物が栽培されている農地は非常に人工的な環境であり、自然はつねにそれに反発することを意味する」と、彼はいみじくも指摘する。移動しながら狩猟採集を営み、人口を増やさず、自然のリズムのなかで生きているごく少数の人びとを除けば、人類は農耕を始めて定住したときから、自然に背を向けてきたのだ。

 若い著者の鋭い指摘や解説に唸らされながら、それを確認するために今回も時間の許す限り調べものをし、実験できるものは自分でも試してみた。たとえばリジッド・ヘドル。平織りするために、「細長い隙間と穴が交互に一列に並んだ長い板に、それぞれ経糸を一本ずつ通すという独創的なもの」で、経糸を交互に上下させるいちばん単純な形態の綜絖だ。ネット上で見た画像を参考に、私はアイスクリームの棒を使って工作し、織物らしきものをつくってみた。本書のヒントに従って小麦粉と水を混ぜて培養してサワードウをつくり、ガスレンジについている魚用グリルでパンも焼いてみた。サワードウは冷蔵庫で一週間は充分にもつので、それ以来このパンを定期的に焼きつづけている。鉱石ラジオにも挑戦してみたが、なにしろ電気はまったくの不得意分野なので、カミソリの刃や鉛筆で工夫するのはあきらめ、基本セットを購入した。接続が悪いうえにアンテナが不出来なので、ラジオと呼べるようなものにはならなかったが、どこかの局の放送を聴力検査のようなかぼそい音で拾ったときは感激した。三鷹にある水車も見に行ったし、以前につくった動くカラスカードの仕組みがクランクであることを、いまごろになって知った。カムやクランクや歯車の仕組みが簡単に学べる玩具があれば、子供は夢中になって遊ぶだろう。いつか石鹸くらいは挑戦してみたいが、苛性カリをつくるのは一仕事のようだ。マンハッタンのほぼ東西に走るストリートでは、春分・秋分に近い日にストーンヘンジのような現象が見られることも本書で知り、ちょうど同じような条件にある近所のマンション群で、ビルの谷間から昇る朝日と沈む夕陽も眺めてみた。

 大惨事の生き残りが、私のような文系人間ばかりであれば、この本が見つかっても文明は再建できないかもしれないが、この本が植えた知識の種は着実に私のなかでも育ちつつある。意欲のある若い人にぜひ読んでもらいたい一冊だ。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2015.07.02.更新)


レジナルドの本


アーサーの本


アーサーのピカデリー、右側が邦訳書


イアンさんが送ってくれた「再会」の写真



虫食いのある横浜絵
その179
 幕末の日本にイギリス公使館付きの騎馬警備隊隊長として来日し、6年近く滞在中に私の高祖父に西洋式馬術を教えたアプリン大尉について、コウモリ通信に書いたのは昨年4月のことだった。「あっ、また伝次郎さんしてる!」と娘にからかわれながら、どうやら私は1年半ほどご先祖探しをつづけているらしい。その間にいくつか大きな進展もあった。アプリン大尉の直系の子孫ではないが、アプリン一族の歴史を調べあげていた遠縁の方と知り合いになれたのは、なかでも画期的だった。イアン・アプリンさんというこの方は、アプリン大尉の孫に当たる人とロンドンの紳士クラブでの遊び仲間だったそうで、一族に関する多くの情報を教えていただいた。たいへんご高齢ながら、いまなお国際問題に関する論文を執筆されている方なので、その後もたがいの祖先の話題に限らず、多岐にわたる問題についてたびたびメールをやりとりしている。

 イアンさんからは、アプリン大尉の長男レジナルドが書いたAcross the Seven Seasという自叙伝も、手元に二冊あるからと分けていただいた。レジナルドがハリー・パークスの息子と同級生であったことや、父のアプリン大尉が1877年に露土戦争でコンスタンチノープルに派兵されたことなど、私が興味をもちそうな箇所一つひとつに丁寧に付箋をつけて送ってくださった。レジナルドはそれこそ七つの海を越えて大英帝国の軍人および政治家として生涯を送った人であり、勲章をつけた軍服姿の写真からは武勲を誇る厳めしい人物が想像された。軍人の書いた自伝など、武勇伝ばかりなのではないかと期待せずに読み始めたのだが、これがじつにユーモアたっぷりの文章で、ボルネオの首狩り族から信頼された唯一の西洋人であったことや、演劇好きで、バイオリンを持ち歩いていたこと、自分の持ち馬の黒いポニーで競馬に興じたことなどが綴られていた。1890年ごろ、21歳で赴任したシンガポールで、ラッフルズ・ホテルに宿泊したときのことを彼はこう書いている。「一カ月間、船の寝台で過ごしたあとで、陸に上がってゆっくりくつろげる晩になるだろうと期待した。ところが、大きな蚊帳の下で苦痛に満ちた、眠れない夜を過ごすはめになった。蚊帳のなかには、ホテル中の蚊がすべて入っていたらしい。蚊どもは私の体のいちばん柔らかい部分から血を吸って、たっぷり欲望を満たしていた。翌朝、起きると、顔も足首も手首も腫れあがり、シーツとカーテンには赤い染みがあったので、多くの敵をやっつけたのは確かだった。ただし、犠牲者が流した血は、私自身のものなのだが」

 レジナルドの弟のアーサーは、若いころは劇団に入っており、のちに戯曲や小説を書いて有名になった。彼が残した作品は100冊以上ある。イアンさんのお勧めで、私はPhilandering Anglerという最晩年に書かれた自叙伝を購入した。末子であるアーサーは、父のアプリン大尉とよくフライフィッシングにでかけたようで、晩年までお父さんにもらった釣り竿と狩猟服を愛用していた。一家はデヴォン州トーキーにあるチェルストン・マナーという豪邸に住んでいたのだが、「私の父は財産を胴元の鞄に移してしまったので、私の教育は14歳のときに終わりを迎えた」と、彼は書いている。アプリン大尉が競馬で財産を失ったというのは、横浜で競馬に興じていた居留地の人びとのことを考えると、なんだか笑える。「私の父には不思議な魅力があった。父は犬や女たち、魚、家禽、それに自然とともに生きる貧しい民を魅了することができた」とも書いている。伝次郎もその魅力にやられた1人なのだろう。息子たちはいずれも金儲けには無頓着で、世界各地を冒険心の赴くままに渡り歩く人生を送ったようだ。

 ほかにもアーサーの作品を読みたいと思ってネットを検索中に、彼の小説Piccadillyが、『ロンドン・バレー・ピカデリー』という題名で1930年に春陽堂から邦訳出版されているのを発見した! 原書はその前年に刊行されていた。訳者は西宣雄氏で、おまけに中出三也氏の挿絵付きだ。「世界大都會尖端ジャズ文學」シリーズの一環として昭和5年にこんな本が出版されていたのは、その後まもなく鬼畜米英の時代を迎えることを考えると、じつに意外な感じがする。これはまだ積ん読状態だが、時間を見つけてじっくり味わいたい。息子たち二人の家系は残念ながら途絶えてしまっているが、若くして亡くなったと思われる娘の子孫が、姓は異なるが存命であるらしいこともわかった。

 5月初めには、イギリスに3カ月ほど滞在中の娘が、電車を乗り継ぎ、はるばるデヴォン州までイアンさんご夫妻に会いに行ってくれた。いわば150年ぶりの子孫同士の再会が実現したのだ。まるで孫を迎えるみたいに大歓待してくださったようで、一族に関する膨大なファイルを見せていただいたほか、アーサー・ランサムの話から鳥や絵のことまで話題が尽きなかったとかで、祖先の話にあまり興味がなかった娘も非常に楽しかったらしい。お土産には、アプリン大尉が来日した1861年に制作された、虫食いのある、芳虎の「外国人物尽英吉利」の横浜絵をもたせた。これまでわかった限りの事実と時代背景をまとめた25ページもの報告書や多数の画像データにも、イアンさんは丁寧に目を通してくださった。私も遠からぬうちにお金を貯めてイアンさんを訪ね、いまはホテルになっているチェルストン・マナーにも一泊くらいはしてみたい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2015.08.04.更新)


『山本五十六』半藤一利著
平凡社ライブラリー


その180

「五十六さんは本当に戦争に反対だったのよね」。先月、高齢の親戚を訪ねた折に、そのおばあさんのつぶやいた一言がずっと気になっていた。そこで私にしては珍しく、映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六−太平洋戦争70年目の真実−』を観たり、半藤一利氏の『山本五十六』を読んだりしてみた。長年、山本五十六のことは日本をアメリカとの戦争に巻き込んだ張本人だと思っていたが、彼が真珠湾攻撃を思い立った背景や、自分の意図に反して結果的に騙し討ちになったことに山本自身が苦しんだことなどがわかった。山本五十六にミッドウェイ海戦を決断させたのは、1942年4月18日のドゥーリットル中佐指揮のB-25による日本初空襲だったと言われる。半藤氏によれば、「本土空襲を誰よりも危惧していた山本には、大きな衝撃であった。宇垣参謀長に敵艦隊の迫撃を任せると、色青ざめた山本は長官室に引き蘢り、出てこなかった」。

 すでに前年12月から遠方で日米戦争が始まっていたとはいえ、これは日本の本土が突如として敵襲にさらされた実例であり、いまの安保法案をめぐる問題で取り沙汰されている悪夢そのものだろう。真っ昼間に太平洋から飛んできた16機の爆撃機B-25は、ウィキペディアによると、水戸の上空で偶然にも東条英機を乗せた専用機とたがいの顔が見えるほどの20kmの距離ですれ違った。その後、16機は各地の軍事設備を空襲し、87人の民間人死者をだし、病院を含む262戸の家屋を焼いた、と日本語のウィキペディアにはある。日本側は太平洋上で5隻の監視艇を沈没させられたほか、戦闘機など4機を失っているので、死者には軍人が含まれると思われるが。米軍の16機は当初の計画どおり同盟国であった中華民国の浙江省を目指して日本を去った。一部は燃料不足からソ連領や日本軍の支配地域に不時着して捕虜となるか死亡したが、ドゥーリットル本人は堆肥の山にパラシュート降下して生き延び、ほかの隊員も現地の中国人の協力で生還し、アメリカに凱旋して英雄となった。昭和天皇は防衛総司令官の東久邇稔彦王から「敵機は一機も迎撃できませんでした。また今のような体制では国内防衛は不可能です」と報告を受けたそうだ。もちろん、大本営発表では「敵機9機を撃墜。損害軽微」と修整された。国民の疑念を晴らすために、大陸に不時着したB-25の残骸を運んで靖国神社に展示したそうだ。

 日本側は、波間すれすれを飛んで忽然と現われた米軍爆撃機にあわてふためくばかりで失態を演じたようだが、この攻撃はアメリカ側にとっても途方もない賭けであったようだ。16機のパイロットはいずれもそれまで空母から飛び立った経験もなく、しかも作戦当日の早朝に、銚子沖1200kmの海域で哨戒艇に見つかってしまったため、計画より10時間早く、310kmも遠い地点から飛ばざるをえなかった。こんなふうに意表を突いた方法で不意に攻めてくる敵にたいし、つねに万全の防備を固めることははたして可能なのか。相手の裏をかくのが戦争であり、戦争中に技術は思いがけない大躍進を遂げるものでもある。後知恵で批判するのは簡単だが、想像を超える事態には対処しようがない。

 ドゥーリットル空襲についてはわずかに調べた限りなので不確かだが、それでも非常に気になる点がいくつかあった。日本語の資料には「葛飾区 にある水元 国民学校 高等科生徒石出巳之助が機銃掃射 を受け死亡した」ほか、無関係の場所を爆撃したため、「早稲田中学 の校庭にいた4年生の小島茂と他1名が死亡」などとあるが、英語版ウィキペディアには「死者約50人、負傷者約400人(民間人を含む)」と書かれているだけで、その他の英語資料も空襲による実害は少なく、むしろ心理的に大きな損害を与えたと書かれているものが大半だ。B-25は爆撃機だが、爆弾を落とすだけでなく機関銃も搭載されていた模様だ。民間人が機銃掃射されたのであれば、「損害軽微」どころではない。日本側はなぜその事実を世界にすぐに公表して、米軍の戦時国際法違反として追及しなかったのだろうか? 代わりに東京で軍律裁判を開き、捕虜にした8人のうち3人をそそくさと処刑したために、のちに東京裁判で裁き返されたようだ。

 ネット検索するうちに、処刑された6番機の機長だったディーン・E・ホールマークという28歳の若者に関する記事を見つけた。アメリカの現役軍人アダム・ホールマーク少佐が映画『東京上空三十秒』を偶然に観て、同姓であることに興味をもち調べた結果、遠縁に当たることを知り、その後、生存する元隊員を訪ね歩き、何年もかけてつぶさに調査した結果をまとめたものだ。2011年に書かれたこの記事には、ディーンが日本軍から受けた拷問の様子や、日本語しか書かれていない供述書に署名を強要されたこと、処刑の知らせに遺族が打ちのめされた様子などが綴られている。存命の元隊員たちは2013年まで、この空襲の成功を刻んだ銀杯をもち寄り、記念行事をつづけたようだ。

 同じ空襲の歴史認識になぜこうも多くの齟齬が、戦後70年を経てなお、日本政府が全幅の信頼を寄せる米国とのあいだにあるのだろうか。アジアの国々とのあいだとなれば、誤解はうずたかく積もっているに違いない。国際情勢の雲行きが怪しくなってきたいま、急ぐべきことは、無駄に終わるどころか、やぶ蛇になりかねない再軍備ではなく、相互の古傷の正確な診断と治療だろう。
(とうごう えりか)




コウモリ通信

東郷えりか(2015.09.07.更新)


照ヶ崎海岸のアオバト


澤田美喜記念館の鐘


記念館の二階の礼拝堂


このトンネルの先に
エリザベス・サンダース・ホームがある


その181

 どういう経緯で澤田美喜さんの話になったのかは記憶にない。「じつは澤田美喜は大おばなの」。大学に入って少ししたころだったと思うが、友人からそう聞かされて驚いたことがある。ふだん自慢話などしない友人が、深い尊敬の念を込めて語った口調が強く印象に残った。いまから思えば、美喜さんはその前年に旅先のマヨルカ島で急逝されたばかりだったので、関連の記事かテレビ番組を見たあとで話題になったのかもしれない。戦後まもなく夜行列車の網棚にあった風呂敷包みから、混血の嬰児の遺体がでてきた事件をきっかけに、エリザベス・サンダース・ホームという、米兵とのあいだに生まれた引き取り手のない混血児を育てる養護施設をつくった人だということなどは、当時の私もおおよそ知っていたと思う。その後、私の祖母の昔の同級生が美喜さんの親族で、件の友人はその同級生の孫に当たることがわかり、さらにびっくりするとともに、澤田美喜さんは私にとってどこか身近な存在となった。

 その後、旧東海道を探索したり、アオバトを見に行ったり、大磯宿場祭りで「こまたん」のあおばと屋にお世話になったりで、大磯に行くたびに、駅前にあるエリザベス・サンダース・ホーム、というよりステパノ学園の前を通ることになった。なにしろ、旧岩崎邸のこの広大な一画はちょっとした森になっていて、夏場に丹沢から照ヶ崎海岸に海水を飲みに飛来するアオバトの、一時休憩地になっているのだ。それでも、これまでは外部の人間がふらりと立ち寄れる場所ではなかったので、なかを見たことはなかった。

 先日、『GHQと戦った女 澤田美喜』(新潮社)という青木富貴子さんの新刊を図書館で借りて読んだ。これまでに彼女の作品は、『アメリアを探せ』、『731』の2冊しか読んだことがないが、どちらもよく調べあげた力作だった。今回の本では岩崎彌太郎の孫娘としての、澤田美喜さんの生い立ちに多くのページが割かれている。三菱商会は1873年に設立されてから翌年の台湾出兵、および1877年の西南戦争まで、わずか4年のあいだに巨万の富を蓄えた。彼女が生まれたころは六義園も清澄庭園も岩崎家の邸宅で、美喜さんは幼いころ津田梅子に英語を学び、外交官の妻として海外に暮らしたあいだにはパール・バック、ジョゼフィン・ベイカー、マリー・ローランサンなどとも交流があったという。

 しかし、本書が青木さんの作品らしくおもしろくなるのは、「清里の父」ポール・ラッシュとの交友関係からだろう。二人は1935年に聖路加病院を通じて知り合ったそうだが、戦後にGHQの一員として再来日したラッシュは、麹町一番町にあった澤田家の邸宅を接収して設けられた民間諜報局(CIS)で東京裁判にかける戦争犯罪人に関する情報収集をしていた。当時、ここで働いていた日系情報将校をインタビューし、アメリカの国立公文書館で資料を探す調査は、ニューヨーク在住の著者ならではのことだ。本書のインタビューの多くは10年近く前のもので、当時すでに高齢だった証言者の多くはもう他界しているか、記憶が不確かになっているだろうから、そういう意味でも貴重な資料だ。

 澤田美喜さんについていろいろ読んだら、突然、大磯に行きたくなった。敷地内にある澤田美喜記念館は、昨年からスタッフが拡充されて一般人も気軽に入れるようになっていた。まずは照ヶ崎海岸まで下りて、朝の潮風とアオバトの乱舞をしばらく堪能し、お世話になっているアヴィアントのパン屋さんにも立ち寄ってから、いざ開かれた門のなかへ。館内には、美喜さんが集めた隠れキリシタン関係の品々をはじめ、彼女の遺品や写真がところ狭しと並べられていた。幸い、私たちのほかに来館者がいなかったため、丁寧な説明を受けながらじっくり眺めて回り、隠されたキリスト像が反射光のなかで現われる魔鏡も見せていただいた。美喜さんはなぜエリザベス・サンダース・ホームにここまで心血を注いだのかという最大のテーマに、戦争で巨万の富を築いた岩崎彌太郎の孫として生まれ、美人の母に似ず、「いごっそう」の祖父と顔も性格もそっくりで女彌太郎と言われた彼女なりに、戦争の後始末をつけたかったのではないか、と青木さんは推論していた。美喜さんの長男は、「占領軍に恥をかかせてやろう」としたのだと考えていたらしい。記念館で美喜さんが蒐集した多数の聖母子像を眺めているうちに、彼女はこの姿に自分を重ねていたに違いないと思えてきた。岩崎家に生まれ育ったことは宿命で変えられない。しかし、そのなかでただ華やかな外交官の妻として、恵まれた家庭の母として、期待されたとおりの人生を送るのではなく、自分が支えなければ消えてしまうたくさんの幼い命を育てあげることに、いわば天命を見出していたのではないだろうか。大磯のホームはいまでは戦争の落とし子たちの命を救う役目は終わり、さまざまな事情から親元で暮らせない子供たちの生活の場となっているそうだ。「岩崎のお嬢さん」が思いつきで始めた事業は、戦後70年を経ても大磯の海と森とアオバトと、彼女の遺志を受け継ぐ人びとによって守られていた。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2015.10.03.更新)


錦の御旗:「戊辰所用錦旗及軍旗真図」国立公文書館デジタルアーカイブ


旧500円札には岩倉具視が描かれていた


「加茂の水」は本書のなかの一篇

その182

 あれは錦の御旗が揚がったのだと、安全保障関連法が成立した瞬間に思った。「宮さん、宮さん、御馬の前にひらひらするのは何じゃいな」と歌われた錦の御旗は、慶応4年1月4日(1868年1月28日)、午前8時、征討総督となった仁和寺宮が、薩摩藩本陣が置かれた東寺から鳥羽街道へ進軍を開始したときに最初に掲げられたようだ。「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ、知らないのか、トコトンヤレナ」という品川弥二郎の歌詞からもわかるように、沿道で見守る群衆はもちろん、じつは誰も見たことのない旗だった。

 それもそのはず、錦の御旗は大政奉還に先立つそのわずか数カ月前、蟄居中の岩倉具視が玉松操という攘夷・討幕を目論む策略家に考案してもらったものだからだ。実物はおろか絵図すらないものを、平安時代から南北朝時代のわずかな記述をもとにつくりあげた。材料の大和錦と紅白緞子は、大久保利通が妾の帯にするという口実で京都の西陣で10月に買い求め、それを品川が長州に運んだ。岡吉春という有識家が平安時代に書かれた「皇旗考」をも参考に、養蚕局に籠って金糸・銀糸を使って刺繍を施させるなどして、一カ月でひそかに幟に仕立てたという。山口市後河原に製作所跡を示す石碑がある。山口市文化政策課のサイトに、これは長さ約4.5m、幅1.35mほどの大きな幟旗で、表に金で日像、裏に銀で月像があり、その上にそれぞれ赤および白セイゴの二つ引きがついており、牡丹に七宝唐草のつなぎ模様があったという明治38年の記事がある。ただし、明治21年に絵師に描かせた「戊辰所用錦旗及軍旗真図」では日月章はそれぞれ別旗だし、神号の書かれた旗もある。司馬遼太郎は「加茂の水」で錦旗は2旒で菊花章入りの紅白旗が10旒あったとしており、結局いまや誰にも実体はわからないようだ。仁和寺が所蔵する錦旗はなんら図像のない金色で、間に合わず仏壇に使われる打敷で代用したのではないかと推測されている。そのせいなのか、明治5年刊行の『近世史略』に「総督仁和寺宮進マントン錦旗前駆ニ翻カヘル賊ノ弾丸或ハ錦旗ニ中ル」と書かれた箇所を、アーネスト・サトウは "the gold brocade standard of the Mikado"と訳している。菊紋は、1869年にようやく太政官布告をもって使用が公式に制限されているので、幕末にはまだ皇室のシンボルとしての認識は薄かった可能性がある。

 鳥羽・伏見の戦いが勃発する数週間前の慶応3年12月8日、夕方から開かれた朝議で岩倉具視の謹慎処分が解かれた。公卿たちが未明に退廷したあと、待機していた薩摩藩などが御所の門を固めるなかで岩倉が5年ぶりに参内し、玉松操が起草した王政復古の大号令が発せられた。これによって幕府だけでなく、朝廷側の摂政関白も廃止され、太政官代として総裁、議定、参与の三職が置かれた。公武合体を望んでいた孝明天皇は1年前に35歳で急逝しており、「幼冲の天子」はまだ16歳だった。公武合体派の摂政・二条斉敬や、中川宮など21名の殿上人は参内を禁じられた。小御所会議と呼ばれるクーデターだ。担ぎだされた「宮さん」の仁和寺宮は仁和寺の門跡だったが、勅命によって12月に還俗し、新政府の議定に任ぜられていた。いわゆる官軍が目印として筒袖につけていた錦の切れ端を、江戸の人びとは当初、「密カニ之ヲ嘲リ呼テ錦切ト言フ」とばかにしていたが、5月の上野戦争で彰義隊がほぼ全滅するにいたって、「錦切レの威遂ニ都会ニ振フ居ル」と、『近世史略』にはある。前述したように、当初は錦旗に発砲した人もいたわけなので、この幟旗のもつ意味は4カ月たって「錦切れ」とともに、ようやく人びとのあいだに浸透したのだろう。

 体格のよい若手議員がスクラムを組んで委員長のまわりに防壁をつくり、「議場騒然、聴取不能」のなかで打ち合わせどおり与党議員だけが起立した瞬間は、傍目には何が起きたかわからなかった。だが、御所の9門が封鎖されたなかで開かれた幕末の小御所会議も、じつは同様だったのではなかろうか。言論の府における暴挙を恥じるどころか、「防衛大学名物の〈棒倒し〉を参考」にした「鉄壁の守備」だとメディアが喧伝したところも、まがい物の錦の御旗の威力を平然と歌った「トコトンヤレ節」と似ている。大久保利通は子孫の活躍ぶりに満足だろうか。強引なやり方で成立させた法律がどれだけの威力をもち、国を変えてゆくのかはまだわからない。いつのまにかみな口を閉ざし、反対派としてデモの先頭に立った人が、かつての旧幕府軍のように朝敵として迫害されたり、革命に付き物の内部粛正に発展したりする事態だけは避けたい。

 国を二分する争いの発端は、江戸時代には黒船来航に始まる西洋諸国の脅威だったが、いまは隣国の台頭という脅威、つまりは外圧だ。内戦は多くの禍根を残すだけでなく、外国からの干渉も招く。本来ならば国民が心を合わせて、こうした時代の変化に柔軟に対応すべきなのに、なぜか国内の強引な権力闘争にすり替わってしまう。「日本人が議論しないという習慣に縛られて、安んじるべきでない穏便さに安んじ、開くべき口を開かず、議論すべきことを議論しないことに驚くのみである」と、福沢諭吉が『文明論之概略』(斎藤孝訳、ちくま文庫)で述べている状態は、1世紀半を経ても変わらない。なんとも権威に弱い国民だ。国の進路が変わる重大な争点も、他人事のようにやり過ごして保身に努める大半の人を見ると、人の中身はすぐには変わらないことを痛感する。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2015.11.07..更新)


鶴岡八幡宮 流鏑馬神事





にんじんキャンペーンで試乗させてもらった
乗馬クラブクレイン神奈川


その183

 春から取り組んでいた人間と動物の関係史、いわば家畜の歴史の本の翻訳を先日ようやく終えた。締切りをだいぶ過ぎてしまったため、この一カ月半はほとんど缶詰状態だったが、馬について気になっていた点のごく一部を調べたので、頭を整理するためにちょっと書いておく。

 今回、訳したブライアン・フェイガンの本は、人類が野生動物を家畜化した過程を推測しながら、それが人類の歴史をどう変えてきたかを考察するものだった。いろいろ考えさせられることばかりの本だったが、そのなかで遊牧民に悩まされつづけた趙の武霊王(在位前325-前299年)のことが触れられていた。中国は、最初の王朝である商(殷)の時代にステップの騎馬文化が伝わり、その商はステップの民である周王朝によって滅ぼされた。中国の古代王朝が内陸部にあった理由も、青銅器のデザインがユーラシア的である理由も、そう考えると簡単に説明がつく。馬はもともとステップの草原の生物だ。つまり、森林に覆われることがなく、農耕にも人が定住するにも不向きなだだっ広い土地を容易に確保できて初めて、馬の量産は可能になる。中国を支配した遊牧民出身の王朝も、その何千年も前から住み着いていた農耕民を肥沃な土地から追いだして、そこを馬のための牧草地に変えたりはしなかった。そのため、定住に適した中国国内では馬はつねに不足し、辺境の地で開かれる市で、農産物や工芸品などと交換に遊牧民から馬を買わざるをえなかった。こうした市が開けない不作の年がつづくと、遊牧民は穀物倉庫を襲撃した。趙は長城を築いてそのような襲撃に対処した国の一つだが、武霊王は保守的な官僚の抵抗をよそに、遊牧民の効率のよい乗馬服を着てみせ、二輪戦車主体の戦術を抜本的に変え、趙軍の戦力を大幅に改善したという。胡服騎射として知られるものだ。

 胡服なる服装は、人びとが馬に乗り始めてからすぐにステップで発明された衣服で、「チュニックのような衣服を何枚も重ね着してベルトで絞めたものにズボン」を履き、それをブーツのなかに仕舞い込んだおかげで、乗り手は馬上で体をひねり動き回ることができ、膝で馬の動きをうまく操作することが可能になった。確かに、春秋戦国時代や秦・漢時代の将軍の絵などを見ても、トーガのようなロングスカート状の服に鎧を着込んでいる。これでは馬にまたがれない。チュニックにズボンと聞くといかにも西洋風だが、このズボンは袴(こ)と呼ばれていたらしい。そう、はかまなのだ。大国主命のような古墳時代の服も褌(はかま)と呼ばれ、足には皮履を履いていた。ズボンと革靴がのちに着物と草履に変わったあたりに、その後の日本の歩んだ道が反映されている。

 ステップの遊牧民は、馬に乗って高速で移動しながら振り向きざまに矢を射ることができた。パルティアンショットと呼ばれるこうした騎射は、5世紀初頭の高句麗の徳興里古墳や舞踏塚古墳などにも描かれている。高松塚古墳とキトラ古墳と似た服装の人物が描かれていることで知られる古墳だ。そうなると日本の流鏑馬はどうなのか、気になるところだ。流鏑馬の起源は9世末ごろと言われる。運よく鎌倉八幡宮で9月に流鏑馬神事があったので、締切りは気になったが、でかけてみた。両側に観客がずらりと並ぶ細長い馬場を、華麗な狩装束をまとった射手たちが馬を襲歩で走らせながら側方に設置された三つの的めがけて射る。境内のなかで全体が見通せないが、間近に見るとかなりの迫力だ。弓は弓道のものより若干、短く軽いようだが、それでもモンゴル兵の弓などにくらべるとずっと長い。馬乗袴に夏鹿毛の行騰(むかばき)という、西部劇でカウボーイが脚につけるチャップスに似たものをつけている。バンビのような白い斑点のある鹿革(これは子鹿というわけでなく、夏毛なのだそうだ!)は日本のものとしては意外な気がしたが、実際にはむしろ江戸時代が特殊だったのかもしれない。足先はよく見えなかったが、物射沓(ものいぐつ)というなめし革に黒漆を塗ったブーツのようなものを履いていたらしい。

 馬について知りたいと思い、乗馬クラブの試乗キャンペーンにも参加してみた。じつは高校時代にアリゾナのキャンプ地で地元の若者と一時間ほど野山を走り回った経験がある。引き馬以外に乗ったことのなかった私は、落馬するまいとしがみつき、両腿内側に巨大な青あざをつくった。今回の乗馬クラブでは親切なトレーナーから、馬は走ると体が上下するので、歩くとき以外は鐙の上でタイミングよく立ち上がって腰を浮かすのだと教わった。流鏑馬でも射手は同じ位置を保ちながら、脚だけで馬を制御し、次々に矢を番えなければならない。相当な訓練を積まなければできない技だ。ところが鐙そのものがかなり後世の考案物で、4世紀初頭の中国北部の陶馬俑が最古の物証と言われるので、スキタイ人やパルティア人は鐙なしで、膝で馬を締めつけてこの離れ業をやってのけていたことになる。日本に朝鮮半島から馬が渡ってきたのは5世紀ごろで、最初から鐙付きだった可能性がある。馬との関係一つをとっても、狩りや軍事関連に留まらず、驚くほど多くの人類史が見えてくる。じつにおもしろい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2015.12.01..更新)


近所の牛舎


イギリスで見た牛の母子

その184

 英単語のなかには、辞書を引くとあまりにも違う意味が並んでいて、面喰らうものがある。その典型例はstockだ。「ストックがある」と言えば在庫という意味だし、ストックマーケットのように株式の意味にもなる。ところが、スープの出汁もストックだし、「アイリッシュ・ストック」ならアイルランドの出身という意味にもなり、ライブストックなら家畜という意味にもなる。言語学的には、いくつもの過程を経てこれだけの意味に変化したのだろうが、この言葉の根底には、富を増やすための種、およびその蓄え、という意味がありそうだと最近になって気づいた。日々、狩猟採集をして暮らしていた人びとが、あるとき農耕と牧畜というかたちで食糧を生産し始め、それによって余剰が生まれ、所有できる富が形成された。かつてはその富は、蹄付きの生きたon the hoofの財産である家畜や、備蓄された穀類や豆類だったのが、いつの間にか株券という紙切れに変わり、やがて電子データになってしまったのだろう。

 いま必死に校正中のブライアン・フェイガンの家畜の歴史の本では、人間が時代とともに動物を個々の存在としてではなく、肉や乳、毛などの量という数値でしか見なくなった過程が描かれている。英単語のcattle、sheep、swine、fowlなどが通常は単複同形である理由は、じつはこの辺にありそうだ。一頭、一匹ずつ、顔を覚えて育てる存在ではなく、群れで飼い、なるべく短期間に太らせて目方で売り払うような対象だ。鹿、deerは家畜化されたことはないが、moose / elkとともに狩猟対象のgameであり、鹿肉はつねに食用とされてきた。魚、fishも同様に漁の対象で、中世ヨーロッパではcarpの養殖も盛んに行なわれていた。もちろん、食用に育てられてもgoatには複数形があるし、牛や羊や鹿を意味する言葉でも、bull / cow / ox / calf、ram / ewe / lamb、stag / doe / fawn などには複数形がある。だからこんなことを理解しても、テストの点数を取るにはそれぞれの細かい規則を覚えるしかないが、どの単語が使われているかで、話者がその動物を個々の生き物として見ているのか、単に肉や毛の塊として見ているのかがわかるのかもしれない。

 高校時代にアメリカでお世話になった家の隣には二頭の馬がいて、あるときcoltが生まれたと聞いて見に行った。子馬を表わす別の単語があることを知っただけでも驚きだったのに、それがオスの子馬を指す言葉で、メスならfillyだと言われたときには唖然とした。なぜそんなに多くの言葉が必要なのか当時は理解できなかったが、動物を表わす語彙の豊富さは、暮らしのなかでそれらにはっきりと異なる役割があったからこそなのだ。日本人は明治になるまで、世界でも稀な非畜産民であったため、大半の人にとって家畜は「馬」や「豚」でしかなく、成獣でも雌雄をいちいち気にすることはなく、まして去勢されているかどうかなど、考えもしない。家畜を群れで飼う場合には、手間がかからず、喧嘩をせず、従順であることが何よりも優先される。繁殖用に必要な最低数の種畜以外は、たいてい幼いうちに去勢されてしまう。自然界では捕食者から身を守り、群れのなかの優劣を決めるうえで重要だった角も、囲いのなかでは無用の長物で、ほかの個体にも飼い主にも危険なものとなる。そのため、いまでは品種改良によって角のない品種が生みだされたり、角が生えないように焼ごてで除角されたりする。

 私が通った小学校の裏にもかなり広い牧場があったし、いま住んでいる近所にも酪農家がある。牛はそれなりに馴染みのある動物だったはずだが、家畜についてあれこれ考えるまでは、あの敷地内にメスしかおらず、乳をだすために牛たちは、どこからか空輸されてきた冷凍精子というオスによってつねに妊娠させられていることなど、考えてもみなかった。子牛のいる時期には外で牛を見ることもあったように思うが、乳牛はたいがいどこでも狭い牛舎に繋がれたまま機械で搾乳されている。イギリスの湖水地方で、放牧された母牛から乳をもらっている子牛を見たときに、何か新鮮で意外な気がした自分が情けない。

 毎日、乳製品や肉や卵を食べているのに、それらの食品を生産するために犠牲になった多数の生き物について、私は何を知っていたのだろう? 捕らわれ、食され、利用された挙句に、人間の都合に合わせて祖先の野生種とはまるで異なる生き物につくり変えられ、可能な限り効率よく利用されて生涯を終わるのだ。多くの人はペットを溺愛する一方で、自分たちの生命を支えてくれている動物のことは考えようともしない。折しも、中国でクローン肉牛100万頭計画という記事を新聞で見かけた。家畜は工場で生みだされ、工業製品である飼料を与えられて最短時間で肥大させられる、文字どおりの工業製品になるのだろうか。どうも人間は、食糧を生産しだして人口を増やし始め、stockをつくりだしたときから、生物としては道を誤りつづけたような気がしてならない。

(とうごう えりか)