【コウモリ通信】バックナンバー 2016年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2016.01.04.更新)


読みあさった本の一部


BC4世紀ごろの騎馬俑と秦の銅車馬


鳥獣戯画展で見た高山寺の馬像

その185

 一冊の本を訳す際には、付け焼き刃で多数の文献を読みあさることになる。年明けに、河出書房新社から刊行されるブライアン・フェイガンの『人類と家畜の世界史』では、DNAの研究書から騎馬民族征服説をめぐる書物まで、あれこれ斜め読みした。なかでも加茂儀一氏の一連の家畜関連の著作は、インターネットもなく、デジタル資料もなかった40年近く昔に書かれたとは信じられないほど詳しく、いろいろ参考にさせていただいた。付箋を貼ったままのこれらの資料を読み返しながら、少しばかり日本在来馬について調べてみた。

 馬と言えばサラブレッドを思い浮かべるいまの日本人には、イングランドでも16世紀までほとんどの馬が小型であり、日本にいたってはわずか150年前までポニーに分類されるような馬しかいなかったことなど想像しにくい。いま世界にいる馬はほぼすべて、なんらかのかたちで人手を介して人間の都合で品種改良されてきたため、ラスコーやペシュメルルの壁画に描かれた野生の馬とは異なっている。ターパンと呼ばれるユーラシア大陸にいた野生種はすでに絶滅し、モウコノウマという亜種がかろうじて残っている。日本の馬は江戸時代まで積極的に選択して育種せず、自然に繁殖させていたことや、栄養価の高い飼い葉ではなく、周囲の野草を食べさせていたことなどから、古来の形質を残し、環境ごとの特徴をもつ馬になったようだ。肩までの高さが170cmにもなるサラブレッドにくらべると、わずかに残る日本在来馬は体高100cm程度の野間馬から130cm程度の木曽馬や道産子まで、いずれもかなり小型である。とかく馬格だけが注目されがちだが、頭が大きく胴が長いといった骨格上の特徴のほか、毛色にも特色があるらしい。一般の馬の顔や脚によくある白い模様は、在来馬ではまず見られない。在来馬には鰻線と呼ばれる背中の濃い線や、逆立ったたてがみなど、洞窟壁画の野生馬に見られる古い特色を残す個体もいる。

 これらの在来馬は、氷河期に日本列島にいた野生馬が家畜化されたわけではなく、野生馬が絶滅したのちに朝鮮半島経由でもち込まれた家畜種だった。加茂氏の本が書かれた当時は、縄文や弥生の遺構から馬の骨が出土したこともあって、大陸から馬がもち込まれた時期はかなり古いと考えられていたが、ずっと後世の馬の骨が混入していたことが近年、科学的に証明された。したがって、3世紀末に魏志倭人伝に「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書かれたとおり、それまで日本人が牛馬を使うことはなかったと、いまでは考えられている。4世後半になると、甲府市の塩部遺跡から馬の歯が見つかっている。『日本書紀』には応神天皇15年(在位期間は不明)に百済王が阿直岐を遣わし良馬2匹を貢いだとあり、『古事記』にも応神天皇の時代に照古王(近肖古王、在位346-375年)から雌雄の馬が阿知吉師につけて献上されたと記されている。阿直岐は、東漢氏の祖とされる阿知使主と同一人物とも言われる。この氏族は織物工芸に長けていたため、漢の字を「あや」と読ませ、やまとのあやうじと呼ばれるようになった技術者集団だった。その子孫が坂上田村麻呂、つまり最初の征夷大将軍なのだ。5世紀に入ると馬具や馬埴輪、馬の骨などが各地で出土する。

 記紀には、スサノオが天の斑馬(あまのふちこま)を逆剥ぎにして機織り小屋に投げ込む話や、保食神(うけもちのかみ)が死んだあと、その頭の頂が牛、馬になっていたことなどが書かれている。いくら神話とはいえ、存在すら知らない動物が登場するだろうか? となると、これらの神話も4世紀以降にできたということなのか。斑馬が文字どおり斑紋のある馬だとすれば、モウコノウマを家畜化しただけでなく、ターパンを家畜化した馬と掛け合わされていた可能性も高いようだ。「天の」という形容は、前漢時代に張騫(ちょうけん)がフェルガナからもち帰った汗血馬を天馬と呼んだことを思いださせる。秦時代の馬は、始皇帝の騎馬俑や銅車馬の馬を見る限り、かなりずんぐりして、たてがみが逆立ち、種子島にいたウシウマのように尾が棒状に見える馬だが、甘粛省の雷台漢墓から出土した有名な「馬踏飛燕」をはじめとする青銅の馬は、顔や脚、腹部の引き締まった、たてがみの垂れた馬なのだ。製作者の出身や技術の違いは当然あるだろうが、傍目にはかなり違う馬に見える。漢時代に品種改良された馬の子孫が、数百年後に日本まで渡ってきたかどうかは不明だが、後漢霊帝の末裔を自称した東漢氏にとって、天馬が大きな意味をもっていた可能性は高そうだ。在来馬のなかでは大きい木曽馬に、漢代に改良された馬を起源とするという説があるのは興味深い。塩部遺跡の歯のDNA解析ができたら、何か見えてくるかもしれない。

 戦闘用に訓練されていなかった在来馬の大半は、日清・日露戦争後に軍馬改良の目的で30年にわたって実施された馬政計画で、オスは去勢され、メスは輸入された種馬と交配させられ、やがて消滅していった。私の祖先は明治初期に軍馬買弁のために鹿児島まで行ったらしいので、一連の品種改良にいくらかは加担していたかもしれない。

 いろいろ調べ始めると止まらなくなるが、次の仕事のためにそろそろ頭を切り替えなければならない。ということで、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2016.02.03更新)


書き込みだらけになってしまった原書


英版(左)と米版(右)










『人類と家畜の世界史』
ブライアン・フェイガン著
河出書房新社
東郷えりか訳
その186

 昨秋から、立てつづけに3冊もの本を校正してきたので、さすがにへばっている。先日、刊行されたフェイガンの家畜の歴史の本のほかに、10年前に訳した本がめでたくも文庫化されることになり、訳文を全面的に見直したうえに、2年前に訳し、諸般の事情で刊行が遅れていたフリードリヒ・エンゲルスの伝記がようやく動きだしたためだ。部下も外注先もない個人商店は、こういうときになんとも辛い。2、3週間という短期間に、締め切りに追われながら何百ぺージもの原稿を一字一句見直すという苦しい作業を、まるで違うテーマで相次いでこなす羽目になった。一人で気長に作業をする翻訳期間とは異なり、多くの人の予定に差し障るので、一日の遅れも大きな迷惑になる。刊行月のずれは予算上困るであろうことは、会社勤めの経験からおおよそわかる。そうした心理的プレッシャーからつい座りつづけ、腰や目に大きな負担となる。

 なかでも先日、初校を終えたばかりのエンゲルスは500ページ近くあって、内容が内容なうえに、厄介なことが二つもあり難儀した。原書がイギリス版とアメリカ版で2割近く異なっていたのだ。半年もかけてイギリス版で最後まで訳したあとで、アメリカ版のほうが読みやすく編集し直されていることがわかったときは呆然とした。仕方なく、膨大な変更箇所を拾いだし、削除、追加、順序の入れ替えなどをして、なんとかアメリカ版に合わせた。ところが、初校で一文一文つけ合わせると、まだまだ見落としが随所にあり、その都度、双方の版の変更箇所を確認することに。細かい字の原書二冊とゲラを見くらべているうちに、自分がどこを読んでいるのかわからなくなることもしばしばだ。

 もう一つの難題は、各章に100前後の註が付いていて、その7割くらいが『Marx-Engels Collected Works』という全50巻の英訳版の引用だったことだ。日本には大月書店の『マルクス=エンゲルス全集』という、32年もの年月をかけて翻訳された53巻ものの全集がある。いまはありがたいことに年会費を払えばネット上でも読めるのだが、英版とは編集が異なり、ページ数はもとより、収録されている巻数も違い、文字検索ができない。いつ、どこで、誰が書いたのかもわからない引用文の全文をまずはネット上で検索し、それに相当する論文や手紙と該当ページを53巻のなかから探しだす、気の遠くなるようなパズルに1カ月は費やしたと思うが、校正中に追加でまたもや調べている。

 どう考えても仕事としては最悪なのだが、このエンゲルスの伝記、信じられないだろうけれど、驚くほどおもしろいのだ。著者は、執筆当時はロンドン大学で歴史を教えていたが、現在はイギリスの労働党の若手下院議員であり、幹部でもあるハンサム・ガイのトリストラム・ハント氏。マルクスとエンゲルスというと、もじゃもじゃペーターのような晩年のむさ苦しいイメージが定着しているが、黒イノシシとかムーア人と呼ばれていたマルクスにたいし、エンゲルスは実際にはかなりの伊達男で、若いころは相当な女たらしだった。膨大な著作物や手紙が残されているおかげで、この本では150年前の話とはとうてい思えないほど、人物が生き生きと描写されているだけでなく、20世紀を通してマルクスとエンゲルスの思想がどれだけ誤解され、曲解されてきたかがわかり、目から鱗が数十枚は落ちた気がする。おまけに、なんともユーモラスで、校正中も再び読んで一人でニヤニヤしたり、吹き出したりしてしまった。

 イギリスに亡命中のマルクスが『資本論』を書きあげるあいだ、エンゲルスが17年にわたって自分を犠牲にし、彼の生活を支えつづけた事実がどれだけ知られているかはわからない。わずか数ポンドでも送って欲しいとマルクスはたびたびエンゲルスに懇願するのだが、わが家も似たり寄ったりで、苦笑せざるをえなかった。海外や他業界の常識から考えれば異様な慣行と思うのだが、日本の出版業界では本が刊行されてから数カ月後にようやく印税が支払われるのが一般的で、その間の労働は刊行されなければ何年間でも未払いとなりうる。翻訳者とて霞を食って生きているわけではない。そのうえ年収がこうも不安定だと、収入のない年に腹が立つほど高額の税金や保険料を納めなければならない。今回はたまりかねて直訴し、特別に一部前払い金をいただいた。マルクスは天才であっても自己管理能力に乏しく、恐ろしく遅筆だったそうで、エンゲルスは大量の資料を提供し、理論形成を手伝っただけでなく、「肝心なことは、これが執筆され、出版されることだ。君が考えている弱点など、あのロバどもには絶対に見つからない」などと、17年間、叱咤激励をつづけた。そう、なんであれとにかく出版されることだ!と、私も内心思いつづけた。

 『共産主義者宣言』は意外なことに、出版時には世論から「沈黙の申し合わせ」に遭ったようだが、これだけ膨大な年月をかけて執筆された『資本論』も同じ運命をたどりかけ、エンゲルスは「熟練の広報担当者のような狡猾さで」宣伝工作に走る。「注目を集めるうえでの最善の策は、〈この本を非難させること〉であり、報道上で嵐を巻き起こすことだ」と考えたのだ。「現代の数々のメディア操作も本の売り込み術も、マルクスの最も有能な宣伝係によって始められた」らしい。私の2年越しの労作が鳴かず飛ばずにならないよう、なんとか3月に無事に刊行できたら、エンゲルスに倣って宣伝工作でもしたい気分だ。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2016.03.02更新)


ペンジョール





テガラランの棚田


ワヤン・クリ


リゾート・ウェディング


ジャワルトン
その187

 校正の仕事の合間に、こともあろうに、バリ島にきている。バリ島好きの甥がこの島で結婚式を挙げることにしたためだ。日本からはるばるバリまで飛んで、リゾートホテルの結婚式に出席するだけなんてあまりにももったいないので 前後に数日間、島内めぐりをしてみた。

 なにしろ、これまでバリについてはあれこれ読んできたからだ。ブライアン・フェイガンの『水と人類の1万年史』には、北部の山の上にあるバトゥール湖やブラタン湖をおもな水源とするバリで、棚田の水を人びとがどのように管理してきたかが書かれていた。私たちが訪ねたウブドは、円形劇場のように棚田が広がる、と19世紀にアルフレッド・ラッセル・ウォレスが書いたこの島の中腹にある。ウブドでは南北方向に何本も峡谷が走り、棚田はそのあいだの尾根に用水路を引いてつくられていた。もっと北部のテガラランのような急峻な棚田では、畦の一部を壊して上から滝のように水を流し入れていた。ウブドの町から少し歩くだけでも、こうした田園のなかを歩ける。取水口には、本に書かれていたとおりに小さな祠が立っていた。

 尾根沿いにある用水路と平行して、すぐ横の谷底を急流が走る場所を歩くと、バリの地形が実感できた。南北は緩い勾配だが、東西に移動しようものならたいへんだ。バリ最初の王国の所在地とも考えられているペジェンにどうしても行きたくて、地図上ではウブドからわずか4キロほどであることを確認して、自転車を借りてでかけた。ところが、途中の川を横切るたびに、猛烈な下り坂と上り坂を繰り返すはめになり、30度をはるかに超える気温のなかを、汗だくになりながらサイクリングすることになって、同行した姪と娘に大ひんしゅくを買った。それでも、この日は運良くペジェンのプラタラン・サシ寺院の祭日と重なり、村人総出のようなヒンドゥーのお祭りをのぞくことができた。もちろん、東南アジアで最古級と言われる紀元前3世紀ごろの巨大な青銅鼓、「ペジェンの月」も見てきた。裏側に回ると、空から落ちた月が爆発して割れたという言い伝えの残る底の部分が見えた。

 ウブドでは夜に王宮の中庭で伝統舞踊を見たほか、ホテルの敷地内で催される影絵芝居ワヤン・クリも鑑賞した。演目はちょうど、『100のモノが語る世界の歴史』でとりあげられていたビーマだった。ヤシ油ランプの裸火に照らしだされた細密模様の人形は期待どおりに神秘的な雰囲気を醸しだしていたが、80才の人形遣いがあまりにも激しく人形を動かすため、ドタバタ喜劇になっていた。ウブドで滞在したのは、「ホームステイ」と呼ばれる格安の民宿だったが、その名のとおりに家庭的な宿で、敷地の裏に耕筰放棄地が広がっていたため、居ながらにして草地をヒョコヒョコ歩くシロハラクイナや、青い羽と赤いくちばしが美しいジャワカワセミを眺められ、夜はホタルを楽しめるという特典付きだった。

 バリは、祭りを意味する言葉だそうで、年中どこかで祭りがあるらしい。210日周期のウク歴でいちばん大きな、日本のお盆のような祭りはガルンガンと呼ばれる。それが今年はそれが2月10日から始まっていたため、島内にはまだいたるところにペンジョールという竹飾りが飾られていた。バリでは昼過ぎと夜間にほぼ毎日スコールに見舞われ、結婚式の当日も途中で土砂降りになったが、甥と美人のお嫁さんのリゾート・ウェディングも、盛大なフォト・セッションも、なんとか無事に終えることができた。


 旅の最後には娘とバリ西部の国立公園にバードウォッチングにでかけた。あいにく私は水を飲み過ぎたためか体調を崩し、嘔吐を繰り返していたので、海辺の静かなコテージでぶらぶらしながらこのエッセイを書いている。海のなかには驚くほどの種類の熱帯魚がいて、コテージのすぐそばまでルサジカやジャワルトンがやってくるため、退屈はしない。従業員はみな気軽に話しかけてくる。バリではタクシーの運転手から、通りすがりに道を尋ねた老人まで、驚くほど多くの人がカタコトながら英語を話す。英語のほかフランス語や韓国語を話す人もかなりいるようで、これからは中国語だ、と言っていた。市場などでは、「5枚で1000円」「安いよ」などと声をかけられたが、日本人はとりわけ英語の通じない国民だと誰もが思っているらしい。大多数がイスラム教徒のインドネシアでヒンドゥー教を守り通し、独自の文化を築きあげられたのは、バリ人のこの柔軟なたくましさゆえではないかと思った。いろいろな意味で貴重な体験をした旅となった。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2016.04.07更新)





居留地70番だった付近












『エンゲルス──マルクスに将軍と呼ばれた男』
トリストラム・ハント著、筑摩書房



『インドカレー伝』
リジー・コリンガム著、河出文庫


その188

 自分の視野を狭めないために、できる限り多様な仕事に挑戦しているつもりなのだが、最近、まるで違う分野の本を訳していたはずなのに同じ話題が取り上げられていたり、関連する問題に気づかされたりすることが増え、なにやら世界が収斂しているような不思議な感覚がある。

 たとえば、オスマンのパリ。賞賛の言葉だと思い込んでいたものの別の意味を最初に理解したのは、スジックの『巨大建築という欲望』という本だった。権力者と建築家が都市の設計図や模型を眺め、都市の中心部で膨れあがる貧民街を一掃して、整然とした美観につくり変え、その陰でどれだけの人びとの暮らしが奪われたかを、そしてそれがパリだけでなく、世界各地でどれだけ行われてきたかを同書は描いていた。『「立入禁止」をゆく』という都市探検の本では、オスマンのパリが、パリ市内の地下から石灰岩を採掘して建造され、空洞になった地下の採石場には、貧民街の古い墓から掘りだした遺骨を移動させたことを知った。いわゆるカタコンブ・ド・パリで、実際には18世紀から始められた。先月ようやく刊行された『エンゲルス──マルクスに将軍と呼ばれた男』(トリストラム・ハント著、筑摩書房)では、こうした一方的な都市整備を「オスマン」と名づけたのがエンゲルスであったことを知り、驚いた。「体裁の悪い横丁や小路は、この一大快挙へのブルジョワ階級からの惜しみない自我自賛の声とともに姿を消す」と、彼は1872年に『住宅問題』のなかで書いた。

 エンゲルスが生きた19世紀には、ロンドンでも人口が急増し、土地も埋葬地も不足していた。彼より12年先に亡くなったマルクスは新設されたハイゲート墓地に葬られ、のちに大きな銅像まで建てられたため、彼の墓所はいまも観光客や思想家が定期的に訪れる場所となっている。しかし、エンゲルスの墓はない。彼の遺体は遺言に従ってネクロポリス鉄道で運ばれ、火葬され、海に散骨されたからだ。「なかでも奇妙な私鉄路線はロンドン・ネクロポリス鉄道だ。これはロンドンと市の南西のサリー州にあるブルックウッド墓地とのあいだで遺体を運ぶために使われていた」と、『「立入禁止」をゆく』には書かれていた。この鉄道は第二次世界大戦中に空襲で破壊され、再建されなかったが、十数年前に訳した『ミイラはなぜ魅力的か』にも、地価の高い土地に残る古い墓地を処分し、死体の発掘を商売にする会社としてヴィクトリア朝時代からあるネクロポリス社がでてきたので、一部の事業は現在も継続しているようだ。

『エンゲルス』の著者は野暮な説明はしていなかったが、イギリスで火葬が合法化されたのはそのわずか10年前のことなので、エンゲルスの最期はいかにも、科学を信奉し、死後には期待せず、地上の楽園の実現に生涯を賭けた彼らしい。なにしろ、古代エジプト人と同じくらい、キリスト教徒にとっても、最後の審判の日に自分の肉体が残っていることは重要だったからだ。『100のモノが語る世界の歴史』にある金や宝石で飾られた14世紀フランスの聖遺物箱には、天使の像とともに、棺に入ったまま蘇り、両手を挙げて嘆願する七宝焼きの4人の裸の男女が付いていた。カトリック教会では死後も遺体が腐らないことが聖人であることの証拠とされ、不朽の遺体は信仰の対象であったと、前述のミイラの本には書かれていた。遺体がそれほどの意味をもつ文化で育ちながら、散骨まで望んだエンゲルスは、時代を1世紀半は先駆けていたのだろう。レーニン、スターリン、毛沢東、ホー・チ・ミン、金日成らが死体防腐処理を施されたことを考えれば、これら「後継者」とエンゲルスの根本的な違いが見えてくる。ソ連崩壊後、群衆の怒りの対象となったために火葬され直したスターリンを除けば、残りの指導者たちの遺体はいまなお「信仰」対象だろう。

『エンゲルス』には、1度だけ私の住む横浜も登場する。彼の生きた時代は、日本の幕末から明治初期にかけてなので、この本に触発されて調べ始めた私の先祖の足跡探しの時代とぴったり重なる。もちろん、横浜にきたのはエンゲルスではなく、彼の最大のライバルの無政府主義者バクーニンなのだが、思いがけない接点にグローバル化の始まりを見た気がした。エンゲルスとバクーニンは、ベルリン大学で同じ講義を受け、1848年の革命ではそれぞれバリケードについて戦った。バクーニンはそこで逮捕され、最終的にシベリア送りとなったが、脱出してアメリカ周りでヨーロッパに戻る途中、1861年夏に横浜に立ち寄った。宿泊先は、居留地70番にあった日本最初のホテル、ザ・ヨコハマ・ホテル。オランダ船ナッソウ号の元船長フフナーゲルの家を宿屋にしたもので、御開港横浜大絵図二編には「オランダ五番ナツショウ住家」として描かれている。彼はここで48年の革命仲間で、ペリー艦隊の随行員として有名な画家のヴィルヘルム・ハイネと再会したほか、シーボルト親子、ジョゼフ・ヒコらとも会ったようだ。このホテルは、開港直後に殺されたオランダ人船長らの宿泊および葬儀場所であり、1862年ごろからしばらくイギリスの海兵隊の宿舎にもなり、日本最初のビリヤード台があったことでも知られるが、1866年の豚屋火事で焼失した。現在は、住友海上・上野共同ビルがある。調べるたびに、思わぬ接点が見えてきて、雑学はなんとも楽しい。

 長くなって申し訳ないが、最後にもう一つ宣伝を。10年前に訳して以来、うちの食生活を大きく変えた本、『インドカレー伝』(リジー・コリンガム著、河出書房新社)がこのたび、文庫化されました! 中央アジアや帝国主義の歴史を知る本でもあります。これを機にぜひお読みください。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2016.04.28更新)


生麦事件現場


生麦事件犠牲者の墓


高島山公園の看板


程ヶ谷本陣

その189

 最近、立てつづけに『市民グラフヨコハマ』という廃刊になった季刊誌を図書館で借りてみた。横浜市が1971年から2003年まで年4回発行していたものらしい。毎回、テーマは異なり、歴史や自然、名所史跡の案内や街の歩き方のようなものまで多岐にわたる。市が発行していた雑誌にしては、驚くほど貴重な資料や写真が満載で、こういうものが廃刊になってしまうこと自体が、行政と市民双方の文化の後退を意味するんだろうかと寂しくなった。それでもまだ、合冊本が横浜市図書館から借りられるのだから、感謝すべきか。

 たまたま幕末に起きた生麦事件についていくつか当時の文献などを読みくらべ、事件の真相を私なりに探っていたので、『市民グラフ』に思いがけない記事を多数見つけて驚いた。ご存じと思うが、横浜に遊びにきていたリチャードソンという28歳の青年が、横浜在住の友人クラークと、その知り合いのマーシャル、および彼の義妹のボロデール夫人の4人で川崎大師まで馬ででかけ、途中の生麦村で薩摩藩の島津久光の行列とかち合い、リチャードソンが殺され、クラークとマーシャルが負傷した事件だ。彼らはみな、もともと上海や香港に拠点のあった貿易商で、新たに開港した横浜で商売を始めたり、休暇でやってきたりしていた。リチャードソンは惨殺される直前にロンドンの父親にこう書き送っている。「日本はイングランド以外の場所で私が訪れた最高の国です。山や海の景色は抜群です。到着以来、この国のいろいろなところを見て回りました。上海から馬を連れてきましたので、人に頼らずに比較的自由に動けますし、実際、多くの場所を訪れました。幸運にも、江戸に行くこともできました。日本人が他の国々との交わりを絶ち続けてきたことを考えれば、江戸という都市の素晴らしさは驚きです」(『生麦事件と横浜の村々』横浜市歴史博物館)

 この事件で負傷したウィリアム・マーシャルは、居留地58番に邸宅を構えていて、のちに山手通りと地蔵坂の角のあたりに美しいバラ園のある屋敷に移ったことを、『市民グラフ』41号の大特集号で知った。マーシャルの家は16番(リチャードソンの検視が行なわれたアスピノール宅の隣)だったとしている記事もあるので、何度か引っ越したのかもしれない。山手の「屋敷は〈ウィンザー・キャッスル〉と名付けられた。というのは夫人が私たち小さな社交界の、全員が認める女王であり、彼女の家が真に解放された、親切なもてなしで有名だったからであった」。常連は英国公使館員のミッドフォードと画家のワーグマンだったという。マーシャル夫人は、生麦事件で帽子を飛ばされ、前髪を切られたボロデール夫人の姉に当たる人で、記事には社交界の女王らしい写真が添えられている。46号には、明治初期に撮影されたこの山手のマーシャル邸のほか、横浜の珍しい写真が104枚もある。マーシャルは、共同経営者のマクファーソンとともに横浜の競馬にも深くかかわった人で、1872年、日本で最初の鉄道が開業し、衣冠束帯姿の明治天皇や政府高官、各国の大使が居並ぶなかで、商業会議所会頭およびヨコハマ・レース・クラブの役員として、居留民代表で祝辞を述べた人でもある。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』には、日英間の感情に配慮したのか詳しい説明はないが、「マーシャル氏が横浜の有力商人たちの祝辞をミカドに向かって朗読するところ」と題したワーグマンの挿絵が載っている。わずか10年前の事件当時をよく知るワーグマンは何を思ったのか。あるいは、薩摩藩士として生麦事件のときは抜刀する仲間を止めたという黒田清隆は、マーシャルに気づいただろうか。

 鉄道建設に反対だった西郷隆盛、従道兄弟も式典に出席しているが、彼らは生麦事件の前に、島津久光が勅使大原重徳の警護という名目で江戸へやってくる途中の京都で起きた、薩摩藩内部の過激派粛清、寺田屋騒動で藩から弾圧を受けていたため、生麦事件の行列にはいなかった。大原重徳という公家は策士なのか、薩長に利用されたのかよくわからないが、やはり開業式典列車に乗っている。新橋から横浜まで、汽車は途中、袖ヶ浦の入江を横断する幅60メートルの堤防の上を走った。大隈重信の発案によって、高島嘉右衛門が突貫工事で築きあげたものだ。当時の横浜駅はいまの桜木町付近にあり、現在の横浜駅一帯はまだ入江で、西口地下街などは海底だった。小松帯刀と大久保利通も生麦事件時に薩摩藩の行列にいて、事件後、程ヶ谷宿で隠蔽工作に腐心している。小松はのちに密航留学生をイギリスへ送り、鉄道敷設を推進したが、開通前に病死した。鉄道建設に反対した大久保は、開業式には出席しなかったが、数週間後に試乗して鉄道ファンに変わったらしい。なんとも激動の時代だ。

 マーシャルは開通式典で祝辞を述べた翌年に44歳で急逝し、外国人墓地に葬られた。もう一人の負傷者ウッドソープ・C・クラークは重傷だったせいか、事件から数年後に33歳で急死した。彼らが当初埋葬された区画は、外国人墓地の古い一角でいまは公開されていないが、近年、リチャードソンの墓の横にこの二人も埋葬され直されたので、山手の墓地入口からではなく、アメリカ山公園に登る小道の手前を右に曲がれば、柵越しに覗ける。『市民グラフ』の33号などには外国人墓地に眠る人のリストもあった。これも貴重な資料だった。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2016.05.25.更新)


つい買ってしまったスヌーピーの本

その190

 またもやカレンダーと未訳のページの厚みを見比べてはため息をつく日々を過ごしている。脇目も振らず、必要最低限のことだけを調べて少しでも先に進めるべきなのに、どうもあれこれ首を突っ込んでは寄り道をしている。先日も、慶応義塾のモットーとして知られる「ペンは剣よりも強し」が、実際にはエドワード・ブルワー=リットンが戯曲『リシュリュー』のなかで使った言葉だと知って、長年の勘違いを正すべく、あちこちのサイトを覗いてしまった。

 何しろ、私にとってこの成句は何よりも、家にあった2本の交差するペンをかたどった鋳鉄製の灰皿と結びついていたからだ。禁煙時代のいまから思えばありえないことだが、母が大学の卒業記念にもらったものだった。実家の灰皿はすでに処分されていたので、ネットで検索してみたら同じ卒業年度が刻まれた灰皿がヤフオクにでていて、いい値段で落札されていた! 南部鉄器だったらしい。母はこの成句が誰か外国人の言葉だと知っていたので、どうも私が勝手に福澤諭吉の言葉だと思い込んでいたようだ。考えてみれば、福沢諭吉は徹底的な開国派で文明開化を主張した人ではあったけれども、尊王攘夷から手のひらを返したような明治政府が大嫌いで、明治以降もむしろ旧幕臣と親しかったので、武士としてのアイデンティティとも言える刀を真っ向から否定するこの言葉に、どれほど共感していたかは疑問だ。慶応のホームページを見ると、大学のモットーとして採用されたのは明治なかばになってからだそうだ。

 このブルワー=リットンの作品は、明治時代の日本でよく読まれていたのか、1878年(明治11年)には『花柳春話:欧州奇事』がロウド・リトン著として翻訳されている。「万能のドルの追求」という言葉で知られる戯曲『マネー』も翻案され、『人間万事金世中』という歌舞伎として翌年に上演された。「万能のドル(almighty dollar)」という言い回しそのものは、実際にはブルワー=リットンより少し早く、1836年にワシントン・アーヴィングがお金に支配された北部人を自嘲して使った言葉だった。アメリカで米ドルが発行され始めてまだ数十年という時期なので、これはスペインの「ピース・オヴ・エイト」を含めたドルだったのではなかろうか。少なくとも、明治時代の日本人にしてみれば、当時の国際通貨だった洋銀、メキシコ・ドルであったに違いない。

 ブルワー=リットンはこのように名句で知られるが、現在、私が翻訳中の雨をテーマにしたネイチャーライティング風の本によると、彼の名前は1830年の小説『ポール・クリフォード』の書き出しで、むしろ有名であるらしい。「暗い嵐の夜のこと(It was a dark and stormy night;)」という、なんの変哲もない出だしだが、セミコロンの先にやや陳腐で装飾過剰な文体が長い一文でつづく。「雨は激流となって降り、例外的にときおり降り止むのは、屋根をガタガタと鳴らし、暗闇に立ち向かう街灯の消え入りそうな炎を激しく揺らしながら、通りを吹き抜ける猛烈な突風に(何しろ、この物語はロンドンが舞台なのだ)妨げられた場合だけだった」。この程度の筆の滑りで、のちのちまで笑われるのは気の毒な気もするが、確かにちょっと臭い。

 じつは、彼のこうした「評判を確立するうえで最も寄与したかもしれない」のが、スヌーピーなのだという。スヌーピーはアメリカを代表する次の名作を執筆すべく、犬小屋の屋根にタイプライターをもちだして、この書きだしを繰り返し打っていた。彼の場合はもっぱら、「暗い嵐の夜だった」の先が思い浮かばない。「ブルワー=リットン・フィクション・コンテスト」も1983年から毎年開催されていた! 小説を書くほど暇のない人が、未発表の想像上の小説の、最悪な書きだしの一文(60語ほど以内)だけを競うコンテストだ。コンテストはサンノゼ州立大学のライス教授が遊び心で始めたもので、そもそも彼がブルワー=リットンに注目したのは、ヴィクトリア朝時代のあまり有名でない小説家で、ハイフンの付いた妙な名字の人(家名にこだわる名家同士の子孫という意味か)だからだという。彼の作品自体はいまではほとんど忘れられていて、スヌーピーの著者シュルツもブルワー=リットンが出典だとは知らなかった。「暗い嵐の夜だった」というのは、実際にはオランダの昔話によくある始まりだったらしい。

 ところで、この小説家の息子と孫はともにインド総督となり、初代および2代目のリットン伯爵となったが、孫のヴィクター・ブルワー=リットンのほうは日本人にとっては、満州事変の調査のために国際連盟によって派遣されたリットン調査団の団長としてより知られていた。関東軍が柳条湖付近で満鉄の線路を爆破し、それを口実に軍事行動に乗りだした、暗い歴史への転換点だ。

 これを機に柳条湖事件についても調べたいところだが、そろそろ、肝心の「雨」の本の翻訳に戻らねば! 
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2016.07.03.更新)


ブルックが勝海舟のノートに描いたというスケッチ
『万延元年遣米使節史料集成 第五巻』より


その191

 豊田泰氏の『開国と攘夷』という本を、日ごろ参考書代わりに愛用している。さまざまな事件や出来事が簡潔に解説されたうえに、膨大な文献から重要な箇所が出典を明記のうえで引用されているので重宝している。先日たまたま咸臨丸の航海について読み、あまりにおもしろかったので、図書館からブルックの日記と書簡からなる『万延元年遣米使節史料集成』第五巻を借りてみた。

 まともに外洋にでたこともなかった日本人が、「自力で」冬の北太平洋を越えたことで知られる航海だが、実態はやや違った。以前にも「コウモリ通信」に書いたが、日本人はジョン万次郎のほかはほぼ全員が船酔いで使いものにならず、乗り組んでもらった11人のアメリカ人に頼りきりだったという。そのアメリカ人のまとめ役が、深海測量器を発明した測量専門家でもある海軍将校ジョン・マーサー・ブルック大尉だった。1860年2月10日に出航したが、翌日には「日本人は全員船酔いだ」と、彼は書いた。「日本人は帆をたたむ事ができない」、「真夜中。暴風の中で船室にもぐっている日本人は、砂の中に頭だけをつっこんで、全身をかくしている積りの駝鳥とよく似ている」など、ブルックの日記には厳しい言葉がつづく。海にでて2週間以上を経てなお、「勝艦長は幾分気分がよさそうだったが、まだ寝たままである。彼にスープとブドー酒を少々与えた。提督〔木村芥舟〕は部屋に籠っている」有様だった。

 後世の人間から見れば笑い話だが、長崎伝習所でわずか数年の訓練を受けただけで、オランダから購入したばかりの咸臨丸に乗り込んだことを考えれば、無理もない。『氷川清話』によれば、勝海舟は「ちやうどその頃、おれは熱病を煩って居たけれども、畳の上で犬死をするよりは、同じくなら軍艦の中で死ぬるがましだと思ったから……妻にはちよつと品川まで船を見に行くといひ残して、向ふ鉢巻で直ぐ咸臨丸へ乗りこんだ」。「およそこの頃遠洋航海をするには、石炭は焚かないで、帆ばかりでやるのだから」と、海舟が言うように、基本的には風任せであるから、往路はまず北上し、北緯40度付近を偏西風に乗ってサンフランシスコを目指した。スペインのガレオン船が16世紀から利用しつづけた航路だが、アメリカ人にとってはまださほど馴染みのある海域ではなかったようだ。ペリー艦隊は喜望峰回りで日本にやってきたし、遣米正使を乗せたポーハタン号も、当初は西回りをするつもりだったが、日時がかかり過ぎるという幕府の意向で北太平洋航路になったという。すでに北太平洋探検に加わってこの海域を測量してきたブルックにしてみれば、「〈パシフィック〉という名は、その海が普段静穏であるためにつけられた名前であり、従って〈アトランティック〉はもっと荒い」と思えたのだろうが、それでも2月の北太平洋はときおり南東や北東から激しい風も吹き、苦労が絶えなかった。「三日分の石炭しか持っていないので、午後三時には蒸気をとめよう。……もし米国の石炭を積んでいたら、順風の吹きはじめるまで六日か七日は蒸気で走れるのに」と、ブルックは嘆いた。無寄港でサンフランシスコまで行くには、水も節約しなければならない。同乗のアメリカ人水夫が水を無駄にしたためブルックに抗議したときのことを、福沢諭吉が『福翁自伝』に書いている。「その時に大いに人を感激させしめたことがある……カピテン〔ブルック〕の言うには『水を使うたら直に鉄砲で撃ち殺してくれ、これは共同の敵じゃから』」と答えたのだという。

 前述の第五巻にはブルックの日記や書簡の原文もある。自分の乗り込むことになった船をブルックがCandemarと書き、のちに万次郎と一緒にCandin marruと綴ることに決めたと言いながら、Candinmarro、Candinmarruhなど、どんどん変わってしまうのがわかるのも楽しい。「艦長の名は、Kat-sha dring-tarro」と教えられたときのブルックの困惑ぶりが目に浮かぶ。その後、海舟本人がCats lin-taroと綴ってみせたらしい。

 ブルックは航海中の日本人の無能ぶりをアメリカで言いふらすことなく、逆に日本人がいかに経験を積んで操船能力を高めたかを報告し、帰路については台風の季節の前に、北回帰線以南の穏やかな海域を貿易風に乗って進むよう助言してくれたようで、一行はハワイ経由で、今度こそ自力で帰国した。ブルックの日記はこの航海から100年後に、彼の孫が序文を書き、福沢諭吉の孫で慶応の教授だった清岡瑛一氏が訳すかたちで出版された。なお、咸臨丸はブルックの書簡から292トンとされていたらしいが、『海軍歴史』にある27間半×4間という寸法は帆船に蒸気機関搭載のコルベットでは最大級のようなので、排水量ではなく、純トン数で620トンであったかもしれない。咸臨丸は明治初期に北海道へ移住を余儀なくされた仙台藩の人びとを乗せた折に津軽海峡サラキ岬沖で座礁し、その後沈没した。錨だけが1984年に引き揚げられている。

 遣米使節の正使を乗せたポーハタン号は、ペリー艦隊の旗艦として日米和親条約が調印された船であり、吉田松陰が密航を試みた船でもある。松陰は1859年11月に処刑された。この船は1858年の日米修好条約時にも利用され、その後、日本の小判を上海に運んで儲けたと言われている。正使に同行してこの船でアメリカへ渡った小栗忠順は、この不公平な交換比率を是正するために奮闘した。黒船ポーハタンは、南北戦争を経て1886年まで活躍したらしい!
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2016.08.03.更新)


名護屋城址からの玄界灘


陶山神社


多久聖廟.


多久の朝

その192

 またもや校正の合間を縫って旅行にでたため、旅先の長崎で夜の九時にカリヨンのようなものを聞きながら、このコウモリ通信を書き始めた。今回はほぼ40年ぶりに亡父の故郷である佐賀に叔父と叔母夫婦を妹と訪ね、ついでに長崎まで足を延ばした。父とは疎遠だったので、これまで佐賀の祖先のことや親戚の多くを知らないまま過ごしてしまったが、父のきょうだいも残りわずかになり、この機を逃したら永久にわからず仕舞いになると思い、一念発起したしだいだ。なにしろ、国内線に乗るのも20年以上ぶりと言えば、この旅が私にとっていかに特別なものだったかおわかりいただけるだろうか。

 母方の祖先は出身地がばらばらなうえに、移動を重ねているので、故郷と呼べるものがどこにもないが、父方は少なくとも300年以上は佐賀の多久という土地に住んできて、一族のお墓は天神山という裏山にあることはこれまで何度か聞いてきた。妹は子供のころにここにお墓参りにきたことがあり、崩れかけた墓石が怖かったうえに、てっぺんにあるお堂で白髪のおばあさん(つまり祖母)が木魚を叩いている姿に震えあがったらしい。その裏山もどんどん裾野が削られて宅地化され、いまではわずかな木立となり、お堂も倒壊しかけて片づけてしまったとかで、陽の降り注ぐ空き地を見て妹は拍子抜けしていた。

 この裏山のすぐそばの小料理屋で、お向かいに住むいとこ夫婦と食事をした際に、子供のころから私の祖母を知っていたという店主から、この裏山に入り込んでいたずらをしては、よく祖母に怒られたという話を聞かせてもらった。店主の奥さんは、長年、その裏山には入ったこともなく、天神山という名称も知らず、やはり木魚の音だけは不気味だと思っていたそうで、自分の子供が言うことを聞かないと、「ドンドン山に連れて行くよ」と脅していたというから、大笑いしてしまった。

 一度しか会ったことのないこの祖母は、私にも無愛想で不機嫌なおばあさんに見えたが、若いころはテニスをするモダンガールで、祖父との出会いもテニスを通じてだったらしい。祖父は私が生まれる数カ月前に他界してしまったので会ったことはないが、長年、教員を務めたあと、炭鉱の町として急成長した多久の町長、および市長にもなり、無理がたたって任期中に病死した。曽祖父が炭鉱事業に手をだして多大な負債を残した話は、以前に叔父に教えてもらったが、多久そのものが炭鉱の町だったとはついぞ知らなかった。叔父の計らいで、歴代市長として多久市役所の応接室に飾られている祖父の写真を見せていただけることになり、そのうえ現職の横尾市長にもお目にかかることができた。六巻+別冊の人物編からなる『多久市史』の刊行を8年前に成し遂げた横尾市長のご紹介で、多久の郷土資料館の西村館長からも石器時代に始まる多久の長い歴史を、特別講義していただいた。館長のお母さまはなんと、「チョビ髭の東郷シェンシェイ」の教え子だったらしい! 佐賀弁はサ行がsh音になるのが特徴と、『多久市史』で読んだすぐあとだったので、これを聞いて思わずニヤリとしてしまった。

 多久には東原庠舎(とうげんしょうしゃ)という朱子学の学校が元禄時代からあり、1708年には全国でもわずか14カ所しか現存しない孔子廟の一つ、多久聖廟が建てられた。昔、父に連れてきてもらった記憶はあるが、どういう場所なのかはさっぱり理解していなかった。多久聖廟ではいまでも毎年4月と8月に釈菜(せきさい)という孔子と四配を祀る行事が行なわれ、孔子のような服を着て聖廟詣でをすることを館長から教わった。行列の先頭を行くのは水色の服を着た多久市長で、叔父によると、祖父もその行事を執り行なったことがあるらしい!

 関東に生まれ育った私にしてみれば、防人歌も元寇も秀吉の朝鮮出兵も、遥か遠い場所で起きた歴史の教科書の一文に過ぎなかったが、佐賀では歴史を通じて、それらすべてが目の前に迫る異国の存在として現実となっていたことを今回の旅で実感した。太宰府が中世まで日本の海外との窓口であったことは言うまでもないが、唐津で田舎暮らしを満喫する叔母夫婦の家に泊めていただいた際に寄った名護屋城址からは、うっすらではあったが壱岐の島影が見えた。その先には対馬が、そして朝鮮半島がある。朝鮮出兵を前に巨大な城まで築いて、戦国武将たちがこの山がちな半島に大集結した光景など想像もできない。叔母の家の近くにある鏡山の頂上や、多久の両子山など、目視できる40里ごとの高台に?(ほうと読むそうだ)が設置され、異国船などが近づくとのろしを上げて知らせていたと、斜め読みした『多久市史』には書いてあった。まるで北米の先住民のようだ。こうした土地柄を反映してか、多久のような内陸部でも弥生時代以降、多くの青銅器や金細工品、馬具などが出土している。

 多久は、日本の磁器の製造にも大きな役割を担った。陶祖の李参平は、「白磁の製造技術の移転を狙って、数多くの朝鮮の陶工が日本へ連れて行かれた」わけではないらしい。長くなるので、これについてはまた別の機会に書くことにするが、彼は最初、多久の地にやってきたのだ。じつに多くのことを学び、驚きの連続の充実した5日間になった。猛暑のなかを、詮索好きの姪に辛抱強く付き合ってあちこち案内してくれた叔父に、心から感謝している。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2016.09.02.更新)


佐古墳墓地


『ファー・イースト』に掲載された梅ヶ崎招魂社


祖母がもっていた長崎符からの通達の巻物.


江崎べっ甲


明治40年の長崎市地図
その193

 7月末の小旅行の続編で恐縮だが、佐賀のあと2日半ほど訪ねた長崎でも思わぬ収穫があったので、忘れないように書いておきたい。以前にも書いたので、ご記憶の方もあるかもしれないが、私の母方の曽祖父が長崎の人だった。といっても養子に入ったので、長崎の家については謎だらけだった。今回の「調査旅行」の目的は、祖母がもっていた戊辰戦争時の掛け軸に書かれていた、長崎振遠隊の山口亀三郎との関係を探り、祖母の出生地を訪ねることだった。

 箱館海戦で戦死した亀三郎は、前年暮れに廃寺にされた大徳寺跡地の大楠神社に葬られた。この墳墓地は梅ヶ崎招魂社と改名され、J. R. ブラックが発行した『ファー・イースト』紙にも紹介された。1939年に全国の招魂社が護国神社と改名され、梅ヶ崎護国神社となったあと、42年に少し北の長崎縣護國神社に移転した。ところが、移転先は爆心地に近かったために大破し、振遠隊関連で現存するものは、仁田佐古小学校裏の墳墓地内の振遠隊戦士遺髪碑と、大徳寺公園にある梅ヶ崎招魂社跡の碑くらいしかない。19歳で箱館湾に沈んだ亀三郎は、英霊の先駆けの忠魂というわけだが、死後も翻弄されたようだ。民家のあいだの狭い階段を上って墓地にたどり着くと、あいにく門が施錠されていた。諦めきれず近くの地区センターに行ったところ、幸いにも鍵を貸してもらえた。墓地内は草木が生い茂り、碑の前まで近づけなかったが、「箱館之役我隊乗朝陽艦」の文字や、明治元年にこの部隊を派遣した「知府澤公」の文字は見えた。長崎府知事の澤宜嘉は文久3(1863)年に「七卿落ち」した1人だ。彼はすぐ外務卿に栄転したので、亀三郎への通達では府知事名は清原朝臣となっていた。

 翌日、長崎歴史文化博物館の資料室で振遠隊について検索してみると、山口誠一という名前が目に留まった。娘が高校生のときに調べたノートにあった名前なので、閲覧させてもらった。「振遠隊人別山口誠一と葡アントニー・ロレイロ混雑一件、明治3年」と題された文書を開いてみると、密封されていた明治初期の空気が漂いだしたかのようだった。山口誠一自筆の文書は、達筆過ぎて読めなかったが、「元振遠隊山口順太郎祖父、山口誠一」という署名は読み取れた。順太郎という名は通達に書かれていたので、山口誠一の息子が亀三郎で、享年19歳の彼に順太郎という息子がいたということか。この文書には、英文の書類も同封されていた。これは判読できたので少し調べてみると、書き手はなんとデント商会で『長崎ガゼット』紙を発行していたアントニオ・ロウレイロだった。「混雑一件」は、彼のもとで働いていた誠一の弟に、長崎在住の商社名をカタカナで版木か何かに彫らせる仕事を与えたところ、納期を守らずトラブルになった挙句に、誠一が侍を連れて乗り込んできて暴言を吐いたという事件だった! 山口誠一は血気盛んなお方だったようだ。

 祖母については、死亡時に取り寄せた戸籍があったはずなのだが、旅行前に捜してもらったものの見つからず、諦め半分で長崎市役所に立ち寄ってみた。私と祖母の関係を証明する書類一つもたず、窓口で恐る恐る尋ねたところ、担当者がそれは熱心に調べてくれ、祖母や曾祖父母の生年・死亡日、養母の名前などを伝えると、方々の役所に電話で確認し、複雑な経緯が切り貼りされた除籍謄本を二時間かけてだしてくれた。おかげで、祖母の本籍が今魚町だったことや、曾祖父の熊本の実家、曾祖母の下関の実家なども判明した。今魚町という町名はもはやないが、市職員の話と博物館で見た古地図から、魚の町付近だろうと見当をつけて行ってみると、江崎べっ甲という江戸時代からの老舗が見つかった。ゼロの桁が多すぎてお土産は買えなかったが、店員に聞いてみたら、やはりかつては今魚町と呼ばれていたそうで、古い看板にもそう書かれていた。大津事件前に、皇太子だったニコライ2世が来店したこともあり、その記念写真を店主の親戚の上野彦馬が撮影していた。彦馬は私の祖母が生まれたときにはすでに亡くなっているが、祖母の幼少期の一連の写真は、養家を継いだ証として、彦馬の後継者に撮影されたのかもしれない。長崎には当時、多くのロシア人が住んでいたため、江崎べっ甲の表看板にはロシア語も書かれている。曽祖父がロシア語を学んだ理由がようやく見えてきた気がした。

 今魚町は、多数の石橋が架かる中島川の中心地にあり、偶然にも私はその前日、袋橋の欄干に座って眼鏡橋をスケッチしていた。もう一度、川沿いを歩いた際に、ふと見た案内板に私の目は釘付けになった。原爆がもともと小倉に落とされる予定だったことは知っていたが、長崎市の投下照準点は、袋橋の一つ手前の常盤橋から賑橋だったのだ。ところが、雲に覆われて目視できず、雲の切れ目から見えた浦上の軍需工場が目標にされたという。

 長崎滞在の最後の日は朝から浦上へ行った。幕末に長崎にきたフランスのプティジャン神父が、ここで隠れキリシタンに出会った「信徒発見」は、奇跡として世界中で歓迎された。だが、迫害は明治になって澤宣嘉府知事のもとで過酷さを増し、1873年までに662人が命を落とした。1945年8月9日には、爆心地から半キロの距離にあった浦上天主堂は瞬時に倒壊し、2人の神父と18人の信者が下敷きになった。炎天下の浦上地区を歩きながら、上空の雲の切れ目のせいで7万4千人と言われる人びとが命を奪われた不条理を味わわされた。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2016.10.01..更新)





『雨の自然誌』
シンシア・バーネット著、
河出書房新社



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その194

 いつか読もうと思いつつ、なかなか機会のなかったスタインベックの『怒りの葡萄』。先日ようやく、ジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演の映画のYouTube版ではあったけれど、観ることができた。プア・ホワイトを描いた話であることは言うまでもないが、ジョード一家がオクラホマの農場を去る羽目になった背景は、どのくらい知られているだろうか。そう、1930年代にアメリカの西経100度線付近からロッキー山脈にかけての大平原、グレートプレーンズで断続的に発生した猛烈な砂嵐、ダストボウルのことだ。

 梅雨のシーズンには間に合わず、先週ようやく刊行に漕ぎつけられた『雨の自然誌』(シンシア・バーネット著、河出書房新社)という本に、ダストボウルにいたるまでの経緯が綴られていた。そして、そこに『怒りの葡萄』のジョード一家も、荷物をまとめて逃げだした25万人以上の人びとの一部だと書かれていたのだ。映画では砂嵐そのものはほとんど描かれていなかったが、ジョード家のおじいさんは、著者バーネットが書いていたように、「日照りで作物を失い、土地や農耕具、家屋は銀行に取りあげられ」、いよいよ立ち退きさせられる段になると、必死の抵抗をしていた。「うちの爺さんが70年前にこの土地を手に入れ、親父はここで生まれ、わしらみんなここで生まれたんだ。ここで殺されたのもいるし、ここで死んだ者もいる」

 ダストボウルの70年ほど前と言えば、ちょうど1862年にホームステッド法が制定されたころだ。19世紀初頭、この一帯はまだアメリカ大砂漠と呼ばれていた。アメリカバイソンの群れを追って、移動を繰り返していた先住民だけが暮らせる土地だったのだ。やがて一時的に降雨パターンが変わって降水量が増えた。すると、未開発の土地であれば160エーカー分が無償で自営農地になることがこの法律で定められ、そのうまい話につられて、大量の入植者が押し寄せた。西部の開拓と文明化は神がアメリカ人に与えた「明白な運命」だという宗教的使命感と、「耕せば雨が降る」という幻想、それに大陸横断鉄道敷設という野心と欲得に後押しされたものだった。しかし、実際には雨が順調に降る年のほうが少なく、ダストボウルの時代には10年近く旱魃がつづき、砂嵐で大量の表土が失われた。ジョード一家の祖先がようやく手に入れた土地は、本来、人が定住できるような土地ではなかったのだ。

 軽快なジャズ音楽で知られるルート66は、ジョード一家や隣人がオンボロ・トラックに家財道具を積み込み、乳と蜜の流れる土地、カリフォルニアを目指してひたすら進んだ砂漠の道だった。著者バーネットが雨に因んだもろもろの芸術作品について書いていた章には、乾いた砂漠の土地を表現した曲として、映画『パリ、テキサス』に使われたライ・クーダーの曲のことが少しばかり触れられていた。ネット上で見つけた動画はルート66から始まり、禿山が連なり回転草が転がるような景観をどこまでも真っ直ぐ貫くハイウェイが映しだされ、ライ・クーダーのボトルネック奏法のブルース・ギターが、押し殺した嗚咽のような、切ないメロディをかき鳴らしていた。

 1930年代の砂嵐の被害をいちばん受けた地域はテキサスの北部とオクラホマの細長く伸びた「パンハンドル」と呼ばれる地域、および隣接するカンザス、コロラド、ニューメキシコの一部だが、この一帯は現在、冬小麦の産地であるほか、トウモロコシ、綿花なども栽培されている。かつては大砂漠と呼ばれた地域が、アメリカ随一の穀倉地帯となっているのは、ダムや人造湖のおかげでもあるが、なんと言っても、テキサスからサウスダコタまでつづく巨大なオガララ帯水層が地下にあるからであり、その水を汲みあげて潅水するようになったからだ。何年も前のことだが、デトロイト経由でヒューストンに飛んだとき、巨人のオセロゲームのように奇妙な円形が無数に並んでいるのを上空から見たことがある。センターピボットで潅水するために、水が届く範囲だけがきれいに緑色の円になり、それ以外は茶色い土壌が広がっていたのだ。忘れてはならないのは、帯水層の水は何百万年もの歳月をかけて溜められた、氷河期から水だということだ。わずか半世紀ほどのあいだに、その水位は危険なレベルにまでに下がっている。しかも、こうした大規模農場を動かすにも、肥料や農薬にも、大量の石油が使われ、政府の補助金というカラクリで農産物の価格は安く抑えられ、それがまた大量の燃料を使って世界各地へ運ばれ、大量の電気を使って巨大冷凍・冷蔵庫で保管され、世界中の人びとの食糧になっている。

 日本人にとってはあまりにも当たり前な存在である雨をテーマに、その科学からSF小説、軍事作戦、文学、ロック音楽、雨具の歴史、さらには都市から有害な流去水を海に垂れ流さないための取り組みにまで言及したこの本に取り組んでいた数カ月間、私は雨が降るたびに、雨粒が葉に当たるかすかな音に耳を傾け、空気のにおいを嗅ぎ、うちの壊れた雨樋から窓に落ちる滝を眺め、土砂降りでも道路を冠水させることなく排水されてゆく雨水の行方を追った。ネイチャー・ライティング風のバーネットの美しい文体が、私の拙い訳文でどれだけ日本の読者に伝わるか心許ないが、一部の章だけでも読んで、日々の暮らしを振り返っていただけたらうれしい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2016.11.02..更新)


カオ・サームロイヨート




プラヤーナコーン洞窟




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その195

 9月末に、久々にタイへ数日間行ってきた。プミポン国王が亡くなる少し前だったので、まだ平常どおりのタイを見て、友人たちとも旧交を温めて、楽しいひと時を過ごせたが、今後、タイ社会はどう変わるのだろうか。

 今回はフアヒンヘ行ったので、プラチュワップ・キーリーカン県内のカオ・サームロイヨートまで足を伸ばした。ここを訪ねたかった理由は二つある。一つ目は1868年8月18日に、ラーマ4世、つまり『王様と私』のモンクット王が皆既日食を観測した場所と言われているからだ。タイでは昔から何事も占星術で決めてきたが、僧侶時代に西洋の天文学を独学した王は仏暦が不正確であることを知った。みずから計算をして皆既日食の日時と適切な場所を割りだし、チュラロンコン皇太子と西洋人の天文学者らの前でその時刻を秒単位で当てて見せたことで、王の威光を国内に示しただけでなく、西洋諸国にもタイ(シャム)人が科学を解する民であることを証明したのだという。モンクット王のこの偉業は、タイが東南アジアのなかで唯一、西洋に征服されることなく、独立を保てた理由の一つと言われる。もちろん、領土の割譲など、それ以外の要因のほうが大きいだろうが、幕末に西洋の技術をいち早く習得して、日本は侮れない国であることを示そうと腐心した幕府の試みと重なるものがある。

 日食を観測した具体的な地点はわからず仕舞いで、仕方なくグーグル・マップでこの半島の地図を眺めていたところ、ケイヴ・テンプルなる場所を見つけ、とりあえずそこへ行くことにした。プラヤーナコーン洞窟というこの鍾乳洞は道路が通じておらず、小舟で近くまで行くしかない。しかも海岸には桟橋もなく、靴を脱いでズボンをたくしあげ、浅瀬をジャブジャブと歩いて乗り込まなければならない。洞窟までは山道を430メートル登る。まだ雨季の最中で、頭上に雨雲が垂れ込めてきたときに洞窟内に入ると、頭上にぽっかりと開いた割れ目から差し込む光とともに、降りだした雨が銀色の粒になって落ちてくるのが見えた。暗い洞穴のなかでも、割れ目の下だけは植生があり、まさしく恵みの雨に思われた。洞窟のさらに奥に、やはり頭上に大きな割れ目のある広い空間があり、中央にはチュラロンコン王時代に建てられたという祠があった。モンクット王は日食観測のときにマラリアに冒され、その後まもなく永眠したので、息子にとってここは思い出の地だったのかもしれない。

 もう一つの理由は、1941年12月8日、ちょうど真珠湾攻撃と同日に、マレー作戦で日本軍が上陸した地点の一つだと、どこかで読んだからだ。下調べ不足で、実際の上陸地点はさらに40キロほど南の、ラウム・ムワック山という半島の南北にあるプラチュワップ湾とマナオ湾であったことを帰国後に知った。ビルマとの国境まで10キロという地点だ。その他の上陸地点はさらに南部が多く、12月のこの時期に大雨が降るので、作戦当日も荒天で難儀したようだ。ざっと調べたところによると、タイ中部南端付近のプラチュワップでは、陸軍が徴用した輸送船、浄宝縷丸に乗り込んだ千人余りの宇野支隊の一部が、7隻の小舟に分乗して上陸作戦を実行していた。真珠湾攻撃は手違いから宣戦布告が遅れたことで知られるが、同日に奇襲が計画されたマレー作戦では、ハーグ陸戦条約などは無視して、端から宣戦布告する気もなく対英戦に突入した。それどころか、友好国のタイに領土内通過を承認させようとしたのが奇襲の数時間前で、ピブンソクラーム首相はイギリスとの関係悪化を恐れて日本主催の晩餐会に姿を見せず、正式な協定を結ぶことなく午前3時には上陸が開始された。翌日の昼過ぎまで戦闘がつづいて、日泰双方に多数の犠牲者がでたという。

 この時代、英仏日の三国から迫られていたタイは、二重外交で難局を切り抜けようとし、捕虜を使った軍需物資輸送用の泰緬鉄道の敷設という日本側の無謀な計画にも協力した。連合軍側の捕虜約6万5000人の2割ほどが過酷な労働や虐待、疫病、飢えで死亡したことは、映画『戦場にかける橋』などで有名だが、東南アジア各地から連行されてきて、人数すら正確に把握されていない数十万の「労務者」からも7万人以上の死者がでたことはどれくらい知られているだろうか。カンチャナブリーのクウェー川鉄橋やJEATH戦争博物館へは、十数年前に行ったことがある。日本兵に虐待される捕虜を描いた展示物や、連合軍共同墓地に眠る若い兵士たちの墓標を見るのは辛かったが、鉄道そのものは観光地化されていて拍子抜けした覚えがある。靖国神社の遊就館に展示された泰緬鉄道の蒸気機関車前では、知ってか知らでか、若者たちがピースサインを掲げて記念撮影していた。茶番劇として歴史が繰り返される予感がした。

 マレー作戦で主任参謀を務めたのは、最近また著作の復刻版がやたら宣伝されている「作戦の神様」、辻正信中佐だった。終戦はバンコクで迎え、僧侶に変装するなどして「潜行三千里」で東京裁判を免れ、のちに返り咲いて衆議院議員にまでなったものの、謎の失踪を遂げた人物だ。プミポン国王の兄で、20歳で死去したラーマ8世の死に、辻が関与していたという説まである。親日家のピブンソンクラーム首相は、戦後の度重なるクーデターを巧みに乗り切り、1957年の第8次内閣まで政権の座に居座ったが、晩年は日本に亡命して相模原で生涯を終えたという。誰を頼って来日したのか、気になるところだ。日本とタイの思わぬ結びつきを、いまごろになって知る旅となった。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2016.12.02.更新)




その196

 イギリスのEU離脱につづいて、トランプ大統領が誕生することになった2016年という年は、のちに歴史の転換点として記憶されるのだろうか。まるで民主的なヴァイマル憲法の時代の直後に、ダミ声で喚く風采の上がらない男が権力を掌握したときのようだ。格差を見せつけて憎悪や恐怖を掻き立て、既得権益をもつ集団や、保護されてきた弱者をひとまとめに敵と見なすことで、大衆心理を操る指導者が各地に現われている。不満をもつ中間層が指導者として選んだ人物が、富を独り占めする超富裕層で、金ぴかのペントハウス御殿にトロフィー・ワイフをはべらせる王様的な人物であることは、なぜか矛盾にはならない。標的は政界のエスタブリッシュメントであり、グローバル化なのだと言われて、大衆の怒りの矛先が巧みにすり替えられたからだ。

 トランプ氏当選後に、大勢の専門家がこの選挙の勝因なり敗因なりを分析しているので、私のような現代アメリカ政治の門外漢がいまごろ何を言っても、ぼやきでしかない。ただ、12年前にサミュエル・ハンチントンの遺作で、奇しくも『分断されるアメリカ』という邦題のついた本の翻訳に携わり、その後、アマルティア・センのグローバリズムやアイデンティティに関する論文を訳し、さまざまな歴史書にかかわってきた身としては、大半の論者が見落としている点があるように思えてならない。17世紀の入植者の子孫という、正真正銘のエスタブリッシュメントだったハンチントンは、9・11後にアメリカで愛国心が一気に高まった時期に、"Who Are We?"という原題のこの本を突きつけ、アメリカのナショナル・アイデンティティを鋭く問いただした。移民問題やヒスパニック人口の増加、グローバル化、それに対抗する宗教右派の動きなどを論じた彼は、「アメリカの信条」、つまり人種や民族とはかかわりなく、宗教的信条を問われることもなく、誰でもアメリカ人になれるというイデオロギーはもう諦め、グローバルで普遍的な国から、アングロ・プロテスタントの文化を中心としたキリスト教国として再定義することを暗に提案していた。要はグローバリズムからナショナリズムへの転換を唱えたものだ。ハンチントンはとりわけアメリカの既存の文化に同化せず、英語も話せないヒスパニック系移民の増加を憂いていたが、アメリカが1830年代と40年代にメキシコから武力で奪ったテキサスからカリフォルニアにいたるまでの広大な地域を、メキシコからの移民が人口学的にレコンキスタ(再征服)していることは正しく理解していた。

 アメリカという国民国家が19世紀以降、急速に世界大国になれたのは、先住民とメキシコから広大な土地を強奪し、ロシアとフランスから不毛の土地を破格値で購入したところ、たまたま石油や金などの鉱物だけでなく、巨大な帯水層が見つかったからだ。さらに、二度の世界大戦時には疲弊した旧世界の国々に軍需物資を売って大儲けし、国が焦土と化すこともなく、戦後は独り勝ちするという幸運にも恵まれたからだ。強引な手口が大目に見られてきたのは、「アメリカの信条」という普遍的な理想を曲がりなりにも掲げて、祖国の圧政や貧困や停滞に苦しむ、トランプ氏の祖父母や母親、二人の妻のような人びとに、希望の地として門戸を開きつづけたからだ。いまになってアメリカを狭義に再定義して、自分たちの後ろで門を閉めるのであれば、支配文化に同化したくないアメリカ人にとっては、白人でもなくキリスト教徒でもない人にとっては、苦しい時代となるだろう。国民国家は多数派や支配層には居心地のよい囲いとなるけれども、少数派や弱者にとってはさまざまな機会を奪われ、自分と相容れないアイデンティティを押しつけられる檻にもなりうる。

 今後、正義の押し売りができなくなるアメリカは、自由貿易にも背を向けて、武器や食糧をどう売りつけるつもりなのだろう? 他国間の紛争を煽って商機を狙うのだろうか。中国やベトナム、メキシコなどの安い労働力を閉めだそうとするトランプ支持者は、自分たちが代わりに過酷な労働を低賃金で担うのか。それとも、オーラの消えて久しいメイド・イン・アメリカ製品を愛国心から高額で買い支え、内需拡大に努めるのだろうか。アメリカ文化ともはや切り離せないグローバル企業が世界市場で利益を上げてきたことは忘れて、アメリカ第一主義を唱えることに、矛盾はないのか。「偉大なアメリカを取り戻す」というスローガンがこれほど効果を上げたのは、大恐慌時代を知る世代がすでに他界したか、発言力を失ったことと無縁ではない。空前の好景気に生まれたベビーブーマーにとっては、その黄金時代が基準になる。地球の未来などは、老い先短い彼らの眼中にはなく、ただIPCCのような怪しい世界組織に生来の権利である炭鉱の仕事を奪われた、という理屈になるのだろう。一国のGDPを上回る売上高のグローバル企業だけでなく、国連やEUをはじめとする諸々の国際組織や、自国の連邦政府までも敵視する地域密着型のお山の大将タイプの人びとは、不況の原因も、自分の羽振りが悪くなったのも、すべてグローバル化とそれに伴う移民のせいにする。こうした外国人嫌いの論調は、近年、アメリカだけでなく、世界各地で顕著であり、日本のインテリ層にも多数見られる。  

 グローバル化は文明が行き着いた当然の結果であって、本当の問題はむしろ増え過ぎた人口と環境の悪化であり、開発と拡大がつきものの資本主義と不自然な国民国家、およびポピュリズムに移行中の民主主義の行き詰まりではないのか。便利や幸福を追求したはずの技術も、緑の革命も貧困対策も医療の発展も、あいにく裏目にでた。地球の環境収容力に合わせて人口と人間活動を平和裏に縮小するという、動物本能に逆らうような持久戦に地球規模で取り組めるほど、人類の大多数は進化しなかったのだ。科学者が立てた都合の悪い予測には耳を塞ぎ、時間は巻き戻せると主張するお山の大将たちが勝ちつつある。今後は各国が生き残りをかけて争い、その過程で環境が荒廃し、人類が大量死する道が選択されたのだと考えるのは妄想だろうか。そうして、地球はようやく人間という厄介な生物を一掃するのかもしれない。
(とうごう えりか)