【コウモリ通信】バックナンバー 2017年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2017.01.04.更新)


陶山神社


泉山磁石場


李参平の墓


寺沢広高の墓所

その197

 昨夏、亡父の故郷である佐賀を訪ねたとき、叔父に頼んで有田の磁器ゆかりの場所へ連れて行ってもらった。日本の磁器の歴史は有田から始まったと言われる。磁器は、花崗岩の風化物からなる白色のカオリン磁土を産出する「高嶺」がある景徳鎮で、なんと2000年ほど前の後漢時代に開発されている。ここに官窯が築かれた元代以降、中近東への輸出が盛んになり、中国の磁器は世界中の羨望の的となったが、製造技法は長らく謎とされてきた。18世紀になってようやく、ドイツのマイセンでその解明に成功したことはよく知られる。しかし、陸続きの朝鮮半島では10世紀には青磁がつくられていたし、日本では17世紀初頭に磁器製造が始まった。高度な技術が、あるとき突如として別の地域に出現した場合、そこにはなんらかの人の交流や技術移転があったと推測すべきだ。たいていは友好的なものではなく、戦争捕虜、難民、移民が関係するか、外交使節や商人などのスパイ活動によることが多い。

 日本の磁器の始まりについては、秀吉の朝鮮出兵の際に強制連行されてきた朝鮮人陶工によって先端技術が日本に流出した結果、とよく言われる。しかし、有田の陶山神社には、有田焼の祖とされる朝鮮人陶工の李参平が、彼を連れ帰った佐賀藩主である鍋島直茂と並んで相殿神として祀られている。李参平の墓は、日本の磁器発祥の地である天狗谷窯近くの白川共同墓地で半世紀ほど前に見つかっている。ご子孫はいまも有田で磁器を製作している。強制連行という言葉から連想されるものと、神として祀る行為には、どうもギャップがあるように思えて、少しばかり日本の磁器の歴史を調べてみた。

『多久市史』には、次のような経緯が書かれていた。朝鮮出兵の折に鍋島直茂軍が道に迷い、道案内を頼んだ一人が李参平で、そのまま朝鮮に残せば祖国を裏切ったかどで迫害を受けるだろうと、直茂の家臣の多久安順が船で連れ帰った。安順が朝鮮での職業を尋ねると、焼物をしていたと答えたため、試しに焼かせてみたところ、かなりの出来だった。この最初の試し焼きの場所は、父の実家のそばの西の原の唐人古場窯らしい。しかし、多久領内では思い通りの土が見つからず、ようやく有田で良質の磁石を探し当て、有田皿山の基礎を築いたという。もっとも、この記述の出典である「金ヶ江三兵衛由緒書」は19世紀初めに書かれたもので、実際には李参平の名前すら定かではないようだ。

 朝鮮出兵に際して、朝鮮から大勢の人が連行されたのは残念ながら事実で、そこに多くの技術者が含まれ、それによって日本の産業が大いに発展したことも間違いない。萩焼も薩摩焼も朝鮮人陶工が興した産業だった。加藤清正が連れ帰り、細川忠興のもとで上野焼と高田焼を始めた金尊楷にいたっては、産業スパイよろしく、一時帰国して朝鮮青磁の技法を習得して再来日している。だが、各地の窯のなかで、早期に磁器生産に漕ぎつけられたのは、有田のほかは、平戸藩主松浦鎮信が連れ帰った巨関が始めた三河内焼と、大村藩主大村喜前が連れ帰った李祐慶による波佐見焼しかない。何が違ったのだろうか。関連資料をざっと読んだだけだが、これには「岸岳崩れ」が関係しているようだ。

 朝鮮出兵では、肥前名護屋の勝雄岳に本陣として巨大な城が築かれ、諸国から何万もの将兵が集まってきたが、ここは松浦党の武将である波多親の居城があった場所だった。「海の武士団」松浦党の実態は、中国・台湾・琉球・朝鮮半島・九州一帯の海を支配した多国籍の倭寇の一派であり、略奪まがいの交易に従事していた。波多氏は1580年代に、多数の李朝の陶工を連れ帰り、岸岳の山麓に見張り役兼ねた七つの窯を築かせ、彼らの意のままに作陶することを奨励していた。これが唐津焼の始まりだが、古唐津の歴史はさらに30年ほどさかのぼるようだ。天下統一を目指した秀吉にとって波多氏のような海賊大名は目障りな存在だった。何かと難癖をつけて、朝鮮出兵後に波多氏の所領を没収した秀吉は、利休門下の茶人だった美濃出身の寵臣、寺沢広高にその所領を与えた。岸岳山麓の朝鮮陶工たちは肥前の各地に離散し、それを「岸岳崩れ」と呼ぶ。彼らが新たに有田、三河内、波佐見などで窯を築いたところへ、李参平などが加わったため、肥前では一気に産業規模の磁器生産が始まったのだ。寺沢広高ももちろん唐津焼を再興し、彼を通して、美濃焼にも新しい技術が伝わったという。唐津の叔父から聞いた郷土史がようやく理解できた気がする。

 現代の感覚では、日本と韓国、中国といった国と国との関係でものごとを考えがちだ。しかし、統一国家としての日本という意識がまだなく、九州が征伐すべき対象であった時代には、九州諸国の水軍や海賊にしてみれば、対岸の朝鮮半島南部は、秀吉の名古屋・大阪よりもよほど近い存在だったのだ。李朝の陶工の技術は当時の世界最先端にあったわけであり、かたや日本ではまだ釉薬を使う陶器の生産もおぼつかない状況だった。強制連行して働かせたというよりは、朝鮮陶工はむしろ明治初期のお雇い外国人のような存在だったかもしれない。陶磁器はいまや趣味の工芸品のような存在になりつつあるが、磁器生産は本格的な鉱業、林業、土を粉砕する水車場や高温の登り窯、呉須などを輸入する交易体制、製品の輸送・販売体制などを必要とする一大産業だ。窯業の栄えた九州が、幕末にいち早く産業化したのは当然のことだったのである。
(とうごう えりか)









コウモリ通信

東郷えりか(2017.02.03.更新)







その198

 1月に入ってから何度か、欧州の寒波で移民・難民に多くの死者がでているというニュースを目にした。こういう痛ましいニュースをここ数年、何度も見聞するが、「トルコに近いブルガリア山間部では、欧州を目指したイラク人男性2人とソマリア人女性1人が死亡」などと読んで、この地域の位置関係が頭に描ける人がどれだけいるだろうか。

 昨秋から、私は無謀にも考古学と言語学を融合させたような大部の専門書に取り組んでいる。扱っている地域は黒海とカスピ海沿岸を中心に、ウラル、アルタイ山脈までという、日本人にはとかく馴染みの薄い一帯だ。全体像を把握しようにも、地図帳のなかでこれらの地域のほとんどは、別々のページの片隅に申し訳程度に載っているに過ぎない。翻訳する以前に、まずはそれらをスキャンして張り合わせ、主要な河川をハイライトし、現在のどの国を流れているのかを知り、という作業が必要となった。その過程でようやく、トルコと東欧、ギリシャ、中東という、石器時代から多くの人びとの行き来があった地域の位置関係がよくわかり、いまも同じような経路で、難民がまたヨーロッパを目指している事実に気づかされたのだ。移住の遠因に気候変動とそれに伴う社会・政治情勢の変化がある点も変わらない。ソマリアの人は、イエメンから延々と逃避行した挙句だったのだろうか。クリミア半島のヤルタもセヴァストポリもはっきりと場所を確認したことはなかったし、毎日食べているカスピ海ヨーグルトの原産地がどこなのかも、ソチが地球の歴史上で大きな意味をもつ地域にあることも、ユーフラテス川がシリアを通り、貴金属を産出するカフカース地方につながることも、恥ずかしながら認識していなかった。

 およその地理が頭に入っても、この本に登場する無数の地名をカタカナに音写する作業は並大抵ではない。通常はカナ表記がどこかで見つかるし、いまは発音サイトも多数あるのでさほど苦労しないのだが、今回は無名の遺跡が多数含まれるため、著者が書いたラテン文字の綴りをネットで検索しても本人の論文しかヒットしないこともある。そもそも、本来はキリル文字や、ラテン文字にヒゲやら点が付く東欧やトルコの言語だったりするのが、一定の原則にもとづかないまま英語読みになっている。ピンインでない英語読みの中国語から、漢字を推測するようなものと言えば、おわかりいただけるだろうか。自国語にない音を英語流に表現したものから、その日本式の表記を想像するのは至難の業だ。結局、オリジナルの言語の表記を探しだし、ネット上にある親切な発音ガイドを頼りに読むことになるが、問題はキリル文字の固有名詞だ。

 じつは学生時代に一般教養でロシア語の授業を取ったことがあるのだが、この文字にめげて、数カ月で諦めたという情けない事情がある。今回は必要に迫られ、文字と発音の原則だけは学び直すことにした。そこで、曽祖父が書いた『新式實用露語獨修』という本がデジタル化されていたのを思いだし、ダウンロードしてみたのだが、1912年(明治45年)に刊行されたこのテキストは、「而シテ其ノ發音ハ」といった調子で、これを判読するだけで苦労しそうなので、即却下となった。「彼露國ハ我ト一葦帶水ノ隣邦ニシテ其民諄?些モ西歐人ノ驕傲ナク且歐洲人中最モ東洋的趣味ニ富ミ」などと書かれた序文だけは、当時の情勢もわかっておもしろかったのだが。

 結局、ネット上で見つけたいくつかの親切なサイトを参考に、一日ほど無駄にして自分でアンチョコをつくり、おおよそ読めるようにはなったものの、「後ろに無声子音がくると無声化」などという細かいルールをつい見落としてしまう。しかも、ウクライナ語やブルガリア語などで微妙に発音が異なるので、地図上で国境線を確かめ、どちら読みを優先させるのか悩まされることになる。

 固有名詞をカタカナに音写するこの作業は、日本の翻訳者にとってはかなりの負担だ。たとえば、一般読者に馴染みのあるコーカサスにすべきか、その他の地名の読みとの統一でカフカースにすべきかで、いちいち迷うはめになる。読みを間違えただけで、ここぞとばかりに揚げ足をとられるから余計に神経を使う。そもそも曖昧母音や種々の摩擦音、有気音・無気音、lとrなどは、カタカナでは表記できない。横書きの論文などは敢えて音写していないものが多く、そうなると確かに読みづらいが、外国語の文献と照らし合わせる場合にはむしろありがたいに違いない。

 などと、ブツクサ言っているとき、たまたま『日本語を作った男──上田万年とその時代』(山口謡司著、集英社インターナショナル)を読み、明治時代の識者が日本語の表記どころか、英語を日本の公用語にすることや、日本語のローマ字化、漢字撤廃まで検討していたことを知った。キリル文字を捨てた東欧の国々や、漢字を廃止した韓国やベトナム、アラビア語をやめたトルコ、英語を公用語(の一つ)にしたシンガポール、フィリピン、インドなど、考えてみれば世界にはこれを断行した例がいくらでもある。カタカナがおもに外来語を表記するようになったのは戦後のことなのだ。曽祖父の文章は漢字カタカナ交じりだ。言語はさまざまな事情で変わりゆくものであり、そこに背景となる歴史が透けて見える、というわけか。
(とうごう えりか)









コウモリ通信

東郷えりか(2017.03.03.更新)




その199

  このところ新聞紙上で何度か、ドイツからのアイヌの遺骨返還に関連する記事を読んだ。ドイツが所有する17体の遺骨のうち、明治初期に「不当な収集」によって日本国内からもち去られた1体で、アイヌ民族は「最も原始的な民族」だとされてきた、という内容だった。こうした記事を斜め読みすると、差別されてきたうえに、遺骨まで盗掘され、収集されたという怒りの感情が湧きあがる。だが、冷静になって考えると、この問題の背景には猟奇とかヘイトクライムとは異なる、もっと純粋な知的好奇心があったように思われる。

 実際には、新聞記事にもあるように、ドイツに先立って幕末にすでにイギリスの箱館領事館が、鳥類コレクターとして知られる博物学者ヘンリー・ホワイトリーとともに、アイヌ遺骨の盗掘事件を起こしている。この事件は外交問題にも発展し、実行犯は禁固刑に処せられ、落部村から盗掘された遺骨13体は1カ月後に返還され、すでにイギリスへ送られていた森村からの3体(および頭骨か)は2年後に送り返されてきた。箱館領事のハワード・ヴァイスは罷免され、後任のエイベル・ガワー(ジャーディン・マセソンのサミュエルの弟)やパークス公使は一分銀1000枚を慰謝料として払うなどして、幕引きを図った。ヴァイス領事は、その数年前の生麦事件で薩摩藩への報復を主張したためニール代理公使と対立したことで知られる。横浜の競馬でも問題を起こして、神奈川から箱館に左遷された人だったが、イギリスに帰国後は破産宣告をしている。盗掘事件はイギリスにとって大きな失点だったのだろう。

 ドイツにもちだされた遺骨の1体は、シュレージンガーという旅行者が盗掘し、その旨を民族学誌に武勇伝のように報告していた。インド、ヒマラヤなどを渡り歩いたのち来日し、1884年にオーストリア=ハンガリー帝国の横浜領事になったグスタフ・クライトナーも、アイヌの頭骨を入手するために発掘許可を申請しているが、却下されている。同じくオーストリア=ハンガリーの外交官を務めていたシーボルトの次男ハインリヒは大森貝塚を調査し、クライトナーとともにアイヌが日本民族の起源だと考えた。一方、同時期に大森貝塚を発掘調査したアメリカの動物学者エドワード・S・モースは、日本の石器時代人はアイヌではなく、プレ(先)アイヌだと主張した。これがのちにアイヌの伝説にあるコロボックルを、彼らが遭遇した先住民の石器時代人と考える説につながったという。先日亡くなった佐藤さとるの『だれも知らない小さな国』を読み返したくなる。ちなみに、クライトナーは1893年に45歳で脳卒中により死去し、横浜外国人墓地に埋葬されているようだ。『100のモノが語る世界の歴史』の縄文の鉢はハインリヒ・シーボルトが収集したものだった。

 それにしても、これだけ多くのヨーロッパ人がなぜ、盗掘のような手段に訴えてまでアイヌの遺骨や起源にこだわったのか。彼らはなぜ本州に住む「平たい顔族」の遺骨収集には熱を上げなかったのだろうか。ヨーロッパ人がアイヌに関心をもち始めたのは、じつは1618年にイエズス会士ジラロモ・デ・アンジェリスが松前に渡ってアイヌに布教を試みて以来らしい。アンジェリスは当時のアイヌの暮らしについて書き記すとともに、アイヌ語の簡単な語彙集も作成し、アイヌは「白人」で、西洋人の「仲間」だと考えていたという。

 幕末から明治にかけて、ヨーロッパ人がアイヌに多大な関心をいだきつづけた理由の一つがここにある。折しも、18世紀にインド判事として赴任していたウィリアム・ジョーンズが、サンスクリット語に古代ギリシャ語やラテン語との共通点を見出して以来、比較言語学が盛んに研究され、1889年にクチャの写本が発見されてトカラ語の存在が知られるようになり、20世紀に入ると敦煌やトルファンが探検されていた時代だ。ユーラシア大陸のはずれに浮かぶ日本列島に、印欧語族に加えられる可能性のある言語を話す少数民族がいるという仮定に(のちに否定されたが)、彼らは飛びついたのだ。1889年には聖公会の宣教師ジョン・バチェラーによる『蝦和英三対辞書』も刊行された。

 いま翻訳中の本には青銅器時代の人骨の図や写真がそこかしこに掲載されている。研究者は遺跡から出土した無数の獣骨まで数え、計測して埋もれた過去を推理している。多数の骨標本があってこそ見えてくる統計値もある。そうした学問上の需要と、たとえば自分のおじいさんの骨が盗まれて、どこぞの研究室の戸棚に入っていることへの生理的嫌悪感は、どう折り合いをつければよいのか。幕末にイギリス人が返還したアイヌの遺骨は、なんと1935年に北海道大学の児玉作左衛門博士が学生と再発掘し、新たに多数の遺骨とともに収集していた。全国の12大学や博物館にいまも1600体ほどのアイヌの遺骨が研究目的で保管され、その大部分は北大にあるという。収集された副葬品も多数が行方不明らしい。遺骨の大半は身元不明だが、返還の動きや訴訟が始まっている。

 骨格形態を研究する形質人類学は悪用もされたし、タブー視もされてきたが、分子人類学が盛んになってきた昨今では、新たな価値も見いだされるかもしれない。多くの人の想像力をかきたててきたアイヌの起源の謎を解く作業に、アイヌの人びと自身が積極的に取り組めば、遺骨を埋葬して法要を営んでおしまいとする以上に、祖先が残した究極の遺産から多くを学べないだろうか。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2017.04.03.更新)


「黄金」のチャリオット



リンチピン付きの円盤状車輪



人力車に早変わり
その200

 轂、輻、軸、軛、轅、轡、轍……。車偏の付くこれらの画数の多い漢字を読めて、意味がわかり、日常的に使っている人はどれだけいるだろうか。順番に、こしき、や、よこがみ、くびき、ながえ、たづな、わだちと読む。英語ではhub/nave、spoke、yoke、thill、rein、track/rutとなる。いずれも馬車に関連しており、どれも短い簡単な言葉だ。轅に相当するthillだけはもう日常語ではなさそうだが、残りはいまも比喩的な意味を含め、現役で使われている。

 現代の日本は自動車産業が国の「顔」にまでなっているが、日本の車の歴史は実際には意外なほど浅い。平安時代には牛車が貴族の一般的な乗り物だったと言われるが、古代の車輪の出土例はごくわずかしかない。ざっと調べた限りでは、最古のものは奈良県桜井市の磐余遺跡群から出土した7世紀末の木製車輪の一部だった。ほかに平城京などからも車輪部材や、轂の内側にはめた約5cm幅の鉄製の円筒、ス(かりも)などが数点と、都の通りの随所に轍が見つかっている。だが、同じ車偏の漢字に「輦」や「輿」もあり、二輪の上に屋形があって人が前後で押す輦車(れんしゃ)や、屋形を担ぐ輿が同時代に使われ、いまも二輪屋台や神輿になって祭りに登場することを考えると、牛の引く牛車や雑車が、平安時代にどれだけ普及していたかは少々疑問だ。馬車にいたっては、私の知る限りでは幕末以降だろう。日本で車が使われなかったのは、坂道も雨も多く、道路事情が悪かったことと、牛馬が少なかったためだろうが、車関連の「日本語」の馴染みの薄さはその歴史を如実に物語っている。

 いつから車輪の歴史に興味をもったのか忘れたが、『100のモノが語る世界の歴史』の仕事で、ウルのスタンダードやオクソスの二輪馬車を見たことで、好奇心をさらにかきたてられたのは間違いない。車輪は丸太を使ったコロから始まったと言われる。ただの輪切り状態の円盤から、数々の工夫を重ねてスポーク付きの複雑な構造に発達していった。ウルの四輪付き乗り物の絵には円盤状車輪に不思議な模様が描かれていて、どういう構造なのか随分と頭をひねったものだ。現在、翻訳中の本で車輪の詳しい歴史を知る過程で、ハブの中心にあった棒状のものはリンチピンだと気づいてちょっとうれしくなった。英語のlinchpinはよく使われる言葉で、日本語では通常、「要」、つまり扇の骨を束ねる金具として訳される。それが実際には、車輪が外れないように、車軸の端に(ときには車輪の両側に)貫通するように挿す輪止めのピンのことだと理解する日本人は少ないだろう。漢和辞典や中国語辞典によると、これに相当する漢字は「轄」だった。管轄、所轄などの言葉でしか見ることのない漢字だが、このピン一本で車輪が外れるのを防ぐのだから、なるほどと思わせる意味だ。

 そんなことをあれこれ考えているうちに、実際に車輪がどうなっているのかどうしても確認してみたくなった。という口実で、本当は締め切り間際で諦め半分の単なる逃避なのだけれども、しばし紙工作にふけってしまった。娘の友人が送ってきてくれた金貨チョコ、ハヌカ・ゲルトの包みがいかにも金属的フォイルで、9枝の燭台や素敵な模様がエンボスされていたので、まずはそれで二輪戦車をつくってみた。参考にしたオクソスの模型は紀元前500-300年ごろのもので、私が訳しているステップの文化よりはるかに後世の作品なので、時代考証的にはめちゃくちゃだが、とりあえず8本スポークの金ぴかチャリオットをこしらえてみた。チャリオットの定義は、2輪で、スポーク型車輪を使い、御者が立って操縦するハミを付けた馬が牽引する高速の乗り物なのだそうだ。車輪がただの円盤状だったり、椅子席があったりする乗り物ならカートと呼ぶ。ということは、兵馬俑坑の日傘を差した銅車馬はチャリオットではない。ウルの乗り物は4輪なうえに車輪が円盤状で、輓獣は鼻輪で制御されたロバとオナガーの交雑種と考えられているので、これは戦闘用ワゴンと呼ばれる。最古のスポーク型車輪は、ウラル川上流のステップに紀元前2100年ごろにあったシンタシュタ文化の墓から出土している。数年前に隕石が落下したチェリャビンスクの近くだ。ステップの車輪のスポークは12本だったと思われるが、のちにメソポタミアやエジプトへこの技術が伝わると、スポークの本数は4本または6本に減り、逆にインドや中国ではさながら光輪のように20本以上に増えている。平安時代などの車輪も21本や24本のスポーク付きだ。

 私の紙模型のチャリオットには、家畜化されて間もない時代のステップの馬に、ハミと楕円の円盤状チークピースを付けてみたが、当時どんな具合に馬を車に付けていたかは不明だ。ウルの戦闘ワゴンのほうは轅が一本で、その上に手綱を通す金具があるのはわかったが、軛がどうなっていたかはわからない。 不細工な紙の模型でも、ハブに厚みがないと車輪が傾いてしまうことや、軸受けの摩擦が問題になっただろうことは想像がついた。ボールベアリングのない時代のこと、軸受けは車体の下に穴を開けた程度の滑り軸受けで、そこに潤滑油を注したと思われ、実際、?(脂角、あぶらつの)という漢字があるそうだ。漢字も調べるとおもしろい。ついでながら、チャリオットの轅を逆向きに付けたら人力車になることを発見して、思わず吹きだした。手軽に製造できる実用的な車輪をついに手に入れたのちも、日本人はやはり人力が好きだったらしい。
(とうごう えりか)









コウモリ通信

東郷えりか(2017.05.08..更新)






その201


  先々月のエッセイを書いた際に、たまたま見つけた古い写真のサイトの管理者と、その後もやりとりがつづいている。彼女がどれだけ古い写真を専門にしているのかはわからないが、フォトヒストリアンなる仕事があるらしいことも初めて知った。古い写真には確かに驚くほどの情報が込められている。何かヒントがあるのではないかと思い、図書館から『甦る幕末』(朝日新聞社)というライデン大学収蔵の古い写真をまとめた写真集を借りてみた。お目当ての人物はあいにく見つからなかったが、何点か非常におもしろい写真を見つけた。

 なかでも画期的だったのは、表紙にもなっているフェリーチェ・ベアト撮影の生麦事件の現場写真だ。もちろん何度となく見ている写真なのだが、見開き一面に高画質で印刷されていたので、正面の掘っ立て小屋に書かれた「松」のような文字まで読みとることができた。この写真は東海道に立つ数人の人物と街道沿いの家屋が画面の左側にあり、中央に大きな松の木があって、右半分は田園風景が広がるやや奇妙な構図になっている。初めて見る写真機と西洋人に好奇心のほうが勝ったのか、ポーズを撮るように棒立ちになった侍と足軽(1人は日傘までもって!)や、物陰から覗く村人がおかしいので、よく左側を中心にトリミングされてしまっているが、写真家の意図を察するに、ベアトが本当に撮りたかったものは小屋の裏側にある農地だったのだろう。そこにリチャードソンの遺体が遺棄されていたからだ。事件当時、ベアトはまだ来日していないので、1863年5月以降、おそらくは秋に同行者が現場を教えたのだろう。

 この場所は、斬られたリチャードソンが数百メートル馬で走りつづけたあと力尽きた、甚五郎女房ふじの水茶屋付近だと考えられる。落馬後に、彼は数人の薩摩藩士に畑のなかへ引きずられ、そこで滅多斬りにされて放置された。1883(明治16)年になって鶴見神社の宮司だった黒川荘三氏が、地元の人から事件現場を教えてもらい、そこの土地を購入して慰霊の石碑を建てた。キリンビール横浜工場の近く、第一京浜から旧東海道に入るために横道に入る手前にその石碑はあったが、首都高の横浜北線の工事現場となったため、ここ数年、200メートルほど旧東海道に入った場所に石碑は移されていた。

 生麦事件は謎だらけの複雑な事件で、これまでに何冊もの本が書かれ、多くの人がその真相に迫ろうと試みてきた。しかし、当時のさまざまな史料を読み直し、実際に現場を歩いてみると、実際には誰もが見落としてきた重要な点がいくつもあることに気づく。昨年、それまでに調べたことをまとめて、生麦参考館を訪ねた。というのも、詳細は省くが、私の推論では、リチャードソンの遺体発見現場は、明治以来の碑が設置されていた場所ではなく、むしろ仮設場所に近かったからだ。工事が終わったら、碑は元の場所に戻される予定となっていたので、館長には一応その旨をお伝しておきたかった。土地の問題もあるので元の場所に戻したとしても、井土ヶ谷事件碑のようにせめて、実際の現場はどのあたりかを明記できたらいいと思ったのだ。

 その後、あまりに本業が忙しく、生麦事件のことはなかば忘れかけていたのだが、ベアトの拡大された写真を眺めているうち、ふと気がついた。侍たちの足元に影が延びていることに。松の大木の影も畑側に延びている。撮影時間がわからないので、影がどの方向を指しているかは定かではないが、南でないことだけは確かだ。ところが、もともとの石碑の場所が遺体発見現場だとすれば、道の南側に畑があったことになる。侍の刀の位置からも小屋の文字からも逆版でないことはわかるので、この写真は川崎側を背にして撮影されたのだろう。実際の落馬地点と私が推理した場所は、目撃記録のある桐屋源四郎の店を過ぎて、生麦の1840年代の史料では道の南側に茶屋が並んでいた松原の付近だ。彼が最初に斬られた地点は、一般に言われる豆腐屋の村田屋勘左衛門の前よりも、さらに100メートル近く川崎寄りだったので、途中そこでもう一度斬りつけられて瀕死の重傷を負いながら、この付近まで馬上にしがみついていただけでも奇跡的だ。江戸時代までこの一帯は海岸線がすぐそばまで迫っていたので、田畑はいずれも道の北側にあった。南側には、あったとすれば家庭菜園くらいのものだろう。影の方向の発見は、私がこれまで推理してきたことを裏づけるもう一つの強力な証拠となった。これぞモノが語る歴史だ。

 もちろん、生麦事件をめぐる大きな謎とくらべれば、事件の詳細はそのごく一部に過ぎない。事件を少しでも調べた人は、ここに歴史の大転換点があったことに驚かされる。この事件がなければ明治維新は起こらず、日本の近代化が別方向に進んだ可能性すらあるのに、明治16年にはすでに遺体発見現場がうやむやになるほど事件は風化し、生麦の遠浅の海岸は埋め立てられていった。1911年の碑の写真の背後には空き地が広がって見える。事件の詳細についてはあらかたわかったので、今後はその背景に的を絞って、明治維新とはなんだったのかをもう少し探ってみたい。何よりもまず、足元やパソコン内や私の頭のなかに、集め過ぎた大量の資料を整理する時間が欲しい。脳のバッファーに入ったままのごちゃごちゃデータでは、二度と引きだせなくなりそうだ。
***
 長くなったが最後にもう一つ、宣伝を。昨年3月に出版された拙訳書『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』(筑摩書房)が1年以上かけて、このたびめでたく重版されることになった。読んで、批評してくださった方々に感謝したい。著者トリストラム・ハント氏はブレグジット後の労働党に限界を見たのか、年初にヴィクトリア&アルバート博物館の館長に転職した。時代を先駆けて生き、民主化に期待するたびに失望させられたエンゲルスの人生を書き尽くした彼は、我が身を重ねているのだろうか。重版を機にぜひご一読を!
(とうごう えりか)









コウモリ通信

東郷えりか(2017.06.02.更新)


サージェントの絵はがき




ユキノシタ(絵:東郷なりさ)
その202
豊顕寺

 春には目処がつくはずだった仕事が、読みが甘くていまだに終わらない。巻末の原註ときたら小さな活字に騙されていたが、ゆうに本文の2章分ほどもの量があって、ひたすらパソコンに向かう毎日がつづいている。そんな私の気晴らしとなってくれたのは、今年初めて花が咲いた庭のユキノシタだ。

 ユキノシタは葉が食用にも漢方薬にもなり、花は可憐だが、さほど珍しくもなく、いくらでも自生する植物なので、わざわざ鉢植えにして眺めている人は少ないだろう。うちでも十数年間、繁茂したセンリョウの下に放置して冷遇していたのだが、数株を鉢に植え替え、少しばかり日当たりのよい場所に置いてやったところ、やたらに大きな葉を付けるようになった。私がそんな特別待遇をする気になったのは、ひとえにロバート・フォーチュンの本を読んだからだ。

 幕末に来日した植物学者のロバート・フォーチュンは、1848年に東インド会社のためにチャノキを中国からインドへ輸送したことで知られる。もっとも、それに先立つ1835年にG.J.ゴードンが8万本の茶の苗木を送ったことが、イギリスの紅茶産業の始まりだったと、リジー・コリンガムが『インドカレー伝』のなかで書いているので、フォーチュンが紅茶の生みの親ではなさそうだ。

 それでも、『幕末日本探訪記:江戸と北京』(三宅馨訳、講談社学術文庫)と題された彼の旅行記には、桜田門外の変の数カ月後に来日し、江戸にも二度滞在して王子や染井村を訪ねて回ったことなどが綴られ、当時の日本を知るうえで貴重な記録となっている。神奈川での彼の滞在先は、「古い友人で、中国のデント商会の支配人であり、ポルトガルとフランスの領事を兼任するジョゼ・ロウレイラ〔ママ〕がそこに住んでおり、私の滞在中、彼の寺の部屋を親切にも使わせてくれた」とだけ書かれている。ロウレイロはフランス領事館の置かれた慶運寺にいたと、どこかで読んだ記憶があるのだが例のごとく思いだせない。

 フォーチュンは、ヘボン博士などに勧められて三ツ沢の豊顕寺も訪ね、ここでコウヤマキを見ている。かつてはたくさんの修行僧がいたというこの寺の広大な敷地は、現在は大半が豊顕寺市民の森として一般に開放されている。ネットで公開されている原書を最初に読んだので、Bokengeeと書かれたこの寺がどこなのかしばらく見当がつかなかった。コウヤマキは五重塔などの建材として重宝された樹のようで、関東では珍しかったのだと思われる。フォーチュンが見に行ったこの大木は1945年5月29日の横浜大空襲で焼失し、切り株だけになってしまったらしいことを後日知った。探しても見つからなかったわけだ。

 フォーチュンの訪日目的の1つは、18世紀にアジアから導入された際に雌木ばかりがもち込まれ、実をつけることのなかったアオキの雄木を、日本で入手することだった。日本の雄木によって、「たわわになる深紅の実」がヨーロッパでも実るようになり、19世紀末にはアオキは大流行したが、その後は日本と同様、ありふれた存在になってしまったようだ。

 フォーチュンが採集した植物は多岐にわたるが、その1つにヤマユリがある。江戸時代にはユリはもっぱら食料とされていたらしく、フォーチュンは野菜としてまず百合根を見ていた。横浜に居住していたアメリカの商人、フランシス・ホールと散歩にでかけた際に群生するユリに感動し、数日後、金沢方面まで遠出をした折にヤマユリの根を掘り返している。ホールもヤマユリの球根を故郷のニューヨーク州エルマイラにもち帰った、という彼の日記の解説を読んだとき、ふと頭に浮かんだのがJ. S. サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」の幻想的な絵だった。提灯をもつ2人の少女の背景に描かれていたユリは、フォーチュンかホールがもち帰った日本のヤマユリだろうか。そんな発見を娘に伝えたところ、「絵はがきもっているよ」とすぐに探しだしてくれた。なんと1998年のテート・ギャラリー展のときの購入物! よほど印象に残った絵だったのだろう。サージェントはアメリカ人だが、生涯をほとんどヨーロッパで過ごしており、1885年から翌年にかけて制作されたこの作品はテムズ川を航行中に上流のパンボーンで見た光景だった。よってフォーチュンに分がありそうだが、1873年のウィーン万博で広まったものかもしれない。

 そんなフォーチュンが2年近くにおよんだ日本と中国の滞在を終えて帰国の途についたとき、「なかでもとくに気に入っていた植物で、喜望峰周りの長い船旅に委ねたくないものは、私自身が世話をしながら陸路で故郷にもち帰った。そうした1つが、愛らしい小さなユキノシタだ。その緑の葉は、白、ピンク、バラ色とさまざまな色で美しく斑になり、色づいている」と書いているのだ。彼の言う陸路は香港、スリランカに寄り、スエズからエジプト国内を移動し、地中海をまた航行してサザンプトンまでというルートで、荒海から守り、上陸地では新鮮な空気に触れさせるという念の入れようだった。

 名だたるプラントハンターがそこまで手をかけて故郷にもち帰った植物とわかると、道端の草も貴重に見えてくるからおかしい。彼が選んだユキノシタは、葉が赤い斑入りの変種らしく、うちの庭にあるのはごく普通のタイプだが、花が咲いた記念に、学生時代は植生を研究した娘に絵を描いてもらった。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2017.07.02.更新)

居留地48番館



『日本絵入商人録』に描かれたモリソン商会




「創建時と見なされるキーストーン」
その203
神奈川芸術劇場横の展示

 暑くなる前に調べておきたいことがあって関内まで自転車で行ったついでに、神奈川芸術劇場の建設工事時に修復されたモリソン商会の一部を見てきた。二〇〇七年には発掘現場の見学会もあったようで、当時まだ横浜の歴史になんら関心をもっていなかったことが悔しい。劇場の壁際に展示されたレンガの遺構の一部や、現場や発掘物の写真、居留地時代の版画などを見て、E・ラザファードの小説『ロンドン』の最後に、考古学者の子孫が遠い祖先が残した硬貨やタイルを発見する場面を思いだした。

 この建設現場は居留地の48番、49番、53?55番に相当していた区画で、関東大震災時に大きな被害を受けた。そのうちの一軒、48番にあったのがモリソン商会で、1868年に来日したスコットランド人のお茶の検査官ジム・ペンダー・モリソンがフレーザー氏と創設したモリソン&フレーザー商会に始まり、のちに単独のモリソン商会となった。以前に横浜開港50周年を記念した1909年の『ジャパン・ガゼット』紙の特集号で、このモリソン氏が初期の横浜の社交界について語った記事がおもしろかったので彼の名は記憶に残っていたのが、来日した年が私の個人的な調査の対象外だったので、それ以上に調べたことはなかった。今回、居留地で行なわれていた演劇について再度調べた際に、たまたま彼が鎌倉の材木座にモリソン屋敷と呼ばれた広大な屋敷を構えていたことを知り、横道に逸れてまたあれこれ調べてしまった、というわけだ。

 材木座の屋敷は、3,000坪を超える敷地に本宅と外国人用の貸家8軒がある壮大な規模のもので、大勢の使用人がいたようだ。お茶の検査官でなぜそれほど儲けられたのかと思ったら、モリソン商会は日本におけるダイナマイトの総代理店であったと、三田商店のホームページに書かれていた。劇場横に展示されていた往時の版画にも、「ノベル氏製ダイナマイト、并ニ暴烈藥、日本賣捌所、横濱四拾八番、モリソン商會」と紹介文が付いていた。暴烈藥は、英語の表示から察するにblasting gelatine、ゼリグナイト、つまり世界初のプラスチック爆弾のようだ。ウィキペディアによれば、国産ダイナマイトは1905年に初めて群馬県岩鼻村で製造された。前年の日露戦争では、「旅順攻囲戦における坑道戦ロシア軍の東鶏冠山北堡塁を2,300kgものダイナマイトで吹き飛ばした」とあるので、モリソン屋敷はその産物かもしれない。

 モリソン家は長く横浜や鎌倉に住みつづけたのか、外国人墓地にモリソン姓の人が数人葬られている。初代のJ. P. モリソン氏は1931年まで生きて天寿を全うしたようだが、1923年の関東大震災で2人が落命している。ブランドワークス研究所の記事によれば、息子夫婦が山下町の商会で亡くなったらしい。鎌倉の屋敷も大震災で大破し、いまでは片方の門柱が残るだけのようだ。関東大震災時の鎌倉の多数の写真も見つけた。地震で脆くも崩れた赤レンガの建物の一部が、神奈川芸術劇場の一角に外壁を「モルタル塗り」、つまりセメントで固めて、上部や開口部にガラスケースを入れたかたちで残っている。

 二種類の案内板の写真を撮って帰宅後に読み直したところ、この建物は明治16年にJ.P. モリソンの事務所兼住居として建てられたが、被災して二階部分が崩れ、震災後に道路建設のため西側部分を削られたが、大正15年から昭和53年までヘルム兄弟商会が所有していた。平成13年に神奈川県が重要文化財に指定し、保存工事をした、ということのようだ。この表示の下には、不可解なフランス積み(正しくはフランドル積み)の図がある。レンガの長手と小口を交互に積むと両端がギザギザになってしまうので、端をまっすぐにするには細い特別なレンガを隙間に入れないといけない、と言いたかったらしい。

 より不可解なのは、横浜市都市計画局都市デザイン室が設置したもう一つの案内板だ。「関東大震災で、当初の2階建てが平屋となり、平面規模も6割に縮小されている。石灰製の目地を持つフランス積で、設計尺度はメートル法が用いられている。北側主入口のアーチ上部に創建時と見なされるキーストーンが置かれている」と、首を傾げたくなるような文が連ねられていた。下にある英文のほうがはるかにわかりやすいのは、英文がオリジナルだったからなのか。

 "Its construction is characterized by Flemish bond of bricks with no modern mortar but traditional lime…"とあるのは、「石灰製の目地を持つ」部分の説明だろう。英語ではこういう充填材をモルタルと呼び、その素材にlime(消石灰、つまり漆喰)が使われるか、cement(石灰と粘土の混合物を高温で焼き、粉末石膏を合わせたもの)かで区別する。それぞれ水と砂を混ぜてドロドロにして使う。英訳者が敢えて現代のモルタルと入れたのは、もう一方の案内板に、「外壁は建築当初煉瓦積みの上にしっくい塗りと想定されますが、保存工事ではモルタル塗りで仕上げています」と書かれていたことが頭にあったのだろう。こうなると、目地の話をしているのか、外壁のことなのかわからない。

 初代J. P. モリソン氏は多方面で活躍した人で、横浜カントリー&アスレチッククラブの創設者でもあり、彼の功績をたたえたページを見つけた彼のひ孫と玄孫が別々に連絡してきていた! これぞ小説『ロンドン』だ。先祖の足跡をたどって横浜の歴史に首を突っ込んだ私には、大いに共感するものがあった。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2017.08.03.更新)





その204
私のささやかなコレクション。右下は清の古銭

 久々に時間ができたので、これまで中途半端になっていた諸々のことがいくらか整理されたが、それと同時に読みたい本も増えて、家のなかはちっとも片づかない。『横浜市史稿』という昭和6〜8年刊の11巻本まで、置き場所も考えずにヤフオクで購入してしまい、断捨離に逆行している。何巻かはデジタル化されているが、やはり手元に紙の本があればこそ発見できることもある。

 最近、幕末の通貨事情についてかなり調べたところ、どうしても本物の貨幣が見たくなり、これまたオークションに手をだしてしまった。以前に富岡八幡宮の骨董市で寛永通宝などの銭貨は買ったことがあったが、「ペニー貨ほどの厚さの良質の銅でできており、縁が厚目になっているが、仕上げはなかなか美しい」と、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に書かれていた天保通宝はもっていなかった。幕末に諸外国とのあいだでさまざまな問題を起こす原因となった一分銀も、どうしても現物を見てみたかった。

 「一分銀は三枚でも一ドルより目方が軽いのだが、日本人はこの国では一ドルと一分銀が等価なのだと主張する。となると、われわれは三倍以上も支払って買い物をすることになる。彼らが言うには、鉱山はすべて政府のもので、埋蔵する金銀は木や石と同じようなものだが、政府がそれを鋳造して刻印すると、その銀塊に価値が生ずるのだから、外国人がもち込む硬貨はすべて溶かして一分銀に改鋳しなければならない」。アメリカの総領事ハリスのオランダ語通訳として来日したヒュースケンは、日米修好通商条約の締結に向けて下田で交渉をつづけていた一八五七年の三月一日の日記にこう書いた。「商業は血液であり、一国の生命の大いなる源だ」と書きつつ、ヒュースケンはこの進歩や文明が本当に日本のためになるのかと、自問もしていた。暗殺事件ばかり有名だが、日記を読むと、彼やハリス、通訳の森山多吉郎の苦労がよくわかる。

 江戸時代の通貨制度はあまりにも複雑で、ちょっとかじった程度ではほんの一部しか理解できない。重要な点の一つは、金貨と銅貨が枚数で数えられる計数貨幣だったのにたいし、銀(天保丁銀、保字銀)は重さで価値が決まる秤量貨幣で、「金貨一両=銀六〇匁」を基準としていたことだ。ところが、幕末には財政難のため、重さ一五匁(もんめ)の銀に相当する価額の計数貨幣として天保一分銀が同時に発行されていた。幕府は開港前、あれこれ理屈を並べて、この軽い一分銀が一ドル相当だと主張した。このドルは当時の世界通貨で、スペインの新大陸植民地であるヌエバ・エスパーニャのポトシ銀山の銀を使って大量に発行された、レアル・デ・ア・オチョ、通称ピース・オヴ・エイトという大型銀貨のことで、日本ではメキシコ・ドルとか洋銀と呼ばれたものだった。最終的にハリスに押し切られ、100ドルが一分銀311分相当という交換率になったが、洋銀のほうが純度は若干低かった。一分銀が不足したためか、品質を同じにするためか、おそらくはその双方の理由から、洋銀をそのまま一分銀に鋳直したものが、安政一分銀となった。

 『100のモノ』の「ピース・オヴ・エイト」の章には、この硬貨の真ん中に大きな穴を開けて、打ち抜いた中身は小銭として使い、外側はシリング貨として使用していたオーストラリアの事例が紹介されており、そのアイデアに笑ったことがあったが、日本でもこれを一分銀に吹き直していたとは、ついぞ知らなかった。幕府は改鋳費用として、6%の手数料を両替時に差し引いていた。

 実際に手にしてみた天保一分銀は、画面から想像していたよりはるかに小さく、安政の一分銀にいたっては横幅がさらに狭く、わずかに軽い。古銭のサイトを見ると、周囲に配置された桜のなかに、上下が逆さの「逆桜」が裏表一つずつあり、その位置によって取引価格も変わるとか、側面の処理が異なるとか、文字の書き方でも値段が変わるとか、細々とした鑑定ポイントが書かれている。私にはそういうマニアックな趣味はないので、150年以上前の銀貨を手にしただけで、充分にうれしかった。ついでに洋銀のほうも、eBayで1753年のピラー・ダラーを破格値で競り落としたはずなのだけれど、無事に届くかどうか。天秤があれば、一分銀三枚と自分でくらべてみたいところだが、これ以上は無駄な散財はしまいと自分に言い聞かせ、掛け算で我慢することにした。

 前述の『横浜市史稿』産業編によれば、「洋銀一箇は一分銀三箇と取替へるべく幕府より布告された。併し相對取引は二分前後を以て行はれたと云ふことである」。相場はつねに一分銀高だったのだ。ところが、外交官だけは条約で定めたレートで一定額を交換できたため、それによって潤った人びともいたという。

 また、一分銀が15匁相当として4枚で金貨一両と交換できたため、開港当初は金銀比価が世界の相場といちじるしく異なり、それに付け込んで半年で30万から40万両ほどの金が流出したと考えられ、オールコックなどはこれが外国人への悪感情につながったと主張した。実際にはオールコックらの指摘を受けて、開港の翌年1860年5月には純金量が天保小判の三分の一の万延小判が発行されて流出は食い止められている。だが、金の流出以上に、開港によって大量の外貨が一部の人びとの懐に流入し、次々に新貨が発行されて貨幣価値が下がってインフレになり、銅銭の中国への大量密輸による混乱が起きたことなどが、社会を根底から揺るがしたらしい。貨幣こそ血流ということか。
(とうごう えりか)