【コウモリ通信】バックナンバー 2018年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2018.01.06更新)





現在、翻訳中の
A Pioneer in Yokohama





『横浜外国人居留地ホテル史』
澤護著、白桃書房


その209

 この数年、毎年恒例のように締切りに追われた仕事をかかえての年越しとなっている。昨夏は3カ月間も仕事のない状態がつづいたので、それを考えれば、たとえ時間に追われていても、仕事があることはありがたい。しかも、いま取り組んでいる本は、失業中に読んであまりにもおもしろかったために、翻訳企画をもちかけて、とんとん拍子に決まったものなので、正月返上などとぼやいたら、罰が当たりそうだ。年末も必死に見直しをして過ごし、頭のなかがこの本のことでいっぱいなので、年始のエッセイながらちっとも新年らしくない話題で恐縮だが、どうぞご勘弁を。

 今回の本は、じつは開港当初の横浜に住んでいたオランダ商人によって140年ほど前に書かれた、事実にもとづく冒険譚だが、原書がオランダ語だったせいかいままで邦訳されていなかった。6年ほど前にこの本がアメリカで英訳されたおかげで私の目に留まることになった。史料も少ない幕末の横浜・長崎について、アメリカの研究者があれこれ調べ抜いて訳してくれたのに、とうの日本の読者がそれを知らずにいるのはあまりにももったいない。そう思って、重訳にはなるが、翻訳すべき作品と考えた。

 本書には、日本の歴史家が見落としてきた驚くべき事実がいろいろ書かれている。その一つに、コウモリ通信でも何度か触れた日本最初のホテルであるヨコハマ・ホテルに関する話があった。英訳者があげていた参考文献のリストには、澤護の『横浜外国人居留地ホテル史』も含まれていた。澤先生には大学時代に教わっているのだが、フランス文化史だったか文学史だったのかも覚えていない情けなさだ。のちに横浜の歴史に興味をもつようになり、ご著書を何冊か読んだ矢先に、先生は急逝されてしまい、横浜の歴史について直接お聞きする機会は永久に失われてしまった。それでも、ネット上に残された数々の論文を見つけるたびに、初期の横浜で活躍しながら誰からも忘れられた人びとを、一人ずつ丹念に調べあげておられた澤先生の熱意に感服したものだ。

 ヨコハマ・ホテルは、ここが当初唯一のホテルであり社交場でもあったため、数多くのエピソードを生む舞台となったのだが、ここがそもそも開港期に幕府が建てた御貸長屋の一隅であったことを、先生は気づいておられただろうか。しかも、まだ商館用の土地すら整備されていないのに、遊郭だけは用意しなければならないと考えた幕府が、太田屋新田の沼地の埋め立てが間に合わなかったために、唯一の役場であり、税関であった運上所の目と鼻の先に、急遽、臨時の遊郭を開業させたのだという。数カ月後に遊郭が現在の横浜公園の場所に移転すると、この長屋が空いて、そこをオランダ船ナッサウ号の船長だったフフナーゲルが買い取り、ホテルに改装したのだという。

 この一件に関する著者デ・コーニンの解説がじつにおもしろい。「東洋人はみなそうだが、日本人は非常に好色な民族だ。ヨーロッパ人との接触がなかったため、われわれの潔癖な習慣のことは知らず、外国人にも自分と同様の欠点は見られるに違いないと彼らは考えていた。外国人が日本を訪れたがるのは、ひとえに日本女性と知り合いになる下心があるためだという間違った観念を、非常に多くの日本人がいだいていたのである。荒海を航海してきたあと、横浜の桟橋に晴れ晴れと上陸した多くのまっとうな外国人は、礼儀正しい日本人がする無作法な仕草に直面することになった。彼らは歓迎のつもりで、遠路やってきた外国人がついに極楽に到着したことを知らせようとしていた」。遊郭の仮宅を改造したヨコハマ・ホテルについては、こう書いている。「これは日本の不道徳にたいして上品な文明が収めた最初の勝利であり、しかも数カ月前まで堕落した信奉者のいるお茶屋が放置されていた、まさにその場所で遂げられた勝利であった」

 日本の歴史家は通常、遊郭は一般の日本女性に外国人が手出ししないようにするために講じられた対策だったと説明する。実際、初期に単身で横浜にきた外国人の相当数が、「らしゃめん」を一人ないし二人囲っていた。しかし、こうした女性たちは実際には大半が女郎ではなく、町娘だったようで、日本通で知られた人びとの多くにはこのような日本人の内妻がいた。彼女たちはかならずしも、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』に登場する亀遊のような、喧伝された悲劇の主人公であったわけではないのだ。デ・コーニンによれば、開港当初の横浜には金貿易目当てのならず者の外国人も大勢いたので、幕府の対策がまったくの杞憂だったとは言えない。それでも、純粋に自由貿易のために来日した大多数の外国人にとっては、幕府によるこの過剰な手配は余計なもの、もしくは滑稽なものだったに違いない。今年は明治維新150周年でもあり、開国とはなんだったのかを振り返るよい機会でもある。なるべく春には刊行できるよう努力したい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.02.04更新)





ポートワイン





ジュール・ロバン・コニャック


大木になった椿
その210
出島の「カピタン部屋」のダイニング

  海外から仲間が一時帰国するのに合わせてほぼ例年、和食の飲み屋やレストランで学生時代のサークルの同期会を開いているのだが、今年は私の勝手なお願いで銀座のポルトガル料理屋にしてもらった。お目当てはポートワインとマデイラワイン。先月の「コウモリ通信」にも書いた幕末のオランダ商人の本に、こうしたワインの話が度々でてくるからだ。それをただカタカナして済ませてしまうのは簡単だ。でも、「イギリス人たちは食事と一緒に飲んだ大量のポートワインの影響がまだ抜けていない」などと訳していると、幕末の日本まで船で運んできたワインがどんなものであったか、つい気になる。ポルトガル・ワイン専門店に気軽に行ければよいのだが、そんな気持ちの余裕もなく、昔の仲間の好意に甘えることにした。どちらも飲み放題プランには含まれておらず、今回は私だけこの甘いワインをアプリティフに飲ませてもらった。初めて食べるポルトガル料理は、魚介類たっぷりで素晴らしくおいしく、その他のワインやビールも飲み過ぎたので、食後のマデイラは諦めたが、ほんの一杯でも飲んでみると、居留地で酔っ払った外国人たちのことがより身近に感じられるから不思議だ。

 ワインにはまるで詳しくないが、大阪日本ポルトガル協会によれば、ポルトガルのワインの歴史は紀元前5世紀にフェニキア人によって始まり、マデイラワインは17世紀から、ポートは18世紀には登場し、スペインのシェリー酒と並んで、世界3大酒精強化ワイン、つまりアルコール度を高めたワインとして知られているそうだ。ウィキペディアによると日本に最初にもたらされたワインはポートワインらしい。

 この本はおもに横浜について書かれているのだが、1章だけ開国前の長崎の出島について割かれた章がある。一昨年に佐賀と長崎に旅行した際、夕方に駆け足ではあったが出島跡も見学したので、およその雰囲気はわかったが、水門や一番船船頭部屋、涼所などがどう再現されていたかは記憶にない。著者のオランダ商人デ・コーニンは、1851年に若い船長として出島に3カ月間滞在したことがあった。上陸した初日、家具一つない部屋で呆然としていたところへ、買弁が歓迎の意を込めてMoscovisch gebakなるお菓子を届けてくれた。これはマデイラケーキらしいが、オランダ語で検索するとやや異なるものがでてくる。そこへ通詞の吉雄作之烝と目付がやってきたため、携帯用フラスクに詰めたコニャックを分け合い、ちょっとした宴会を開いた。「二人の紳士が菓子数切れを食べ、コニャック数杯を飲み干したところで、作之烝は──まずは〈ジュール・ロバン・コニャック〉の名前を手帳に書き込んだあと──知り合えてよかったと述べ、それから暇乞いをした」。想像するとなんともおかしい。

「1782年創業のこの会社は今日でもコニャックを製造している」という英訳者の註を読み、私がネット検索したのは言うまでもない。作之烝もただの飲兵衛ではなく、仕事熱心だったのだと考えたい。当時と同じものかどうかはわからないが、ヤフオクにそれと思しきものがいくつか出品されていたので、木箱入りの、いかにも舶来品風のコニャックをつい購入してみた。無事に本になった暁に封を開けようと、こちらはまだ手を付けていない。

 ジュール・ロバンが幕末にどれだけ輸入されていたかはわからないが、1862年9月13日付の『ジャパン・ヘラルド』紙に掲載された別のオランダ商人ヘフトの広告では、ドルフィン号で到着したばかりの「ジュール・ロバン社コニャックの積み荷」が、砂糖やボローニャ・ソーセージなどともに宣伝されていた。ついでながら、同じ紙面に10月1日・2日に開催予定の競馬の予告があるほか、乗客欄には、ランスフィールド号で上海から到着したイギリス公使館のロバートソンとサトウの名前がある。この船は薩摩藩が買って壬戌丸となった。

 一読者として本書を読んだときには、調べたかった情報を手っ取り早く知ることに重きを置いてしまうので、こうした些細な事柄は読み飛ばしていた。とくにネット上で、知りたいキーワードを検索して、該当ページの前後だけを拾い読みした場合には、こうした「味わい」は得られない。本書には歴史的な「新事実」がかなり含まれており、史料としての価値がかなりあると思われる。だが、それ以外の、ページの端々に書かれていたちょっとした描写にも、別の意味の発見がある。幕末に来日した多くの外国人は、江戸湾に近づくにつれて見えてくる富士山の圧倒的な美しさに言及しているが、デ・コーニンも例外ではない。9月初旬に彼が来日した際に、すでに冠雪があったのかどうか定かではないが、彼の見事な描写は、冬に東南アジア方面から早朝に成田に着く便で帰国した際に、日本列島の上にそびえる富士山を見たときの感動を思いだす。いつか長い航海のあとに、海上から眺めてみたいものだ。

 やはり多くの外国人が書いているのは、日本の冬の野山に咲く椿だ。私には垣根のイメージしかなく、身近過ぎて意識に上らない花だったが、17世紀にケンペルが紹介して以来、東洋の神秘と結びついてきたのか、「椿姫」のオペラが上演されたばかりだったのか、彼らは椿に日本の美を感じていた。近所の公園に珍しく大木があったので、「椿が咲き乱れる森」はこんな感じだろうかと想像してみた。本は読み方しだいで、いかようにも楽しめる。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.03.02更新)





戸部の刑場があったくらやみ坂




その211
村垣範正の公務日記付録。樺太のエンルモコマフの図。
「蝦夷の海のあらきしほ路にひれふるハ鯨しやちほことゝにあさらし」


 仕事と雑用に追われているうちに、ただでさえ短い2月が終わってしまった。幕末のオランダ商人の本は初校を終えたので、だいぶ片づいた気はするのだが、次のゲラはまるで分野が異なるので、机や床の上に散乱した参考文献とコピーの山、それに何よりも頭のなかを整理しないと、何をどこで読んだのか、あとでさっぱりわからなくなってしまう。あれこれ調べているうちに、気になっていたいくつかの点を忘備録代わりに書いておく。

 発端は、幕末最初の外国人殺傷事件、つまり1859年8月18日(安政6年7月20日)のロシア海軍軍人殺害事件の犯人が、水戸天狗党の藩士、小林幸八だと多くの資料に書かれていることだった。ところが、『日本人名辞典』によれば、小林幸八には小林忠雄という変名があった。一方、小林忠雄というのは、同年11月5日に起こったフランス領事代理ロウレイロの中国人従僕殺害事件の犯人として捕まった水戸浪士なのだ。ロシア人殺害者を小林幸八とした最も古い記述は、私が見つけた限りでは1898年刊の田辺太一の『幕末外交談』(p. 121)だった。1909年刊行の『横浜開港五十年史』上巻は、この田辺の書と同様の記述でロシア人殺害犯を幸八に、中国人従僕殺害犯を忠雄という別人にして(pp. 401、405)、幸八は水戸の武田耕雲斎らによる天狗党の乱が鎮圧された際に、ロシア人殺害犯であることが判明して横浜に送られ、慶応元年(1865年)5月に戸部で処刑されたとしていた。1931年刊行の『横浜市史稿』政治編2(p. 404)では、中国人従僕殺害犯の忠雄が天狗党の一派で、戸部で処刑され、共犯者の水戸の高倉猛三郎は遠島に処せられたとある。1959年発行の『横浜市史』第2巻(p. 254)は、『横浜開港五十年史』と同様の説明だ。かたや、『幕末異人殺傷録』(1996年)を書いた宮永孝は、1865年7月30日にフランスのメルメ・ド・カションが小林忠雄を尋問した記録を引用し、慶応元年8月11日に戸部で打ち首になったとしている。J・R・ブラックも中国人殺害について言及しているが(『ヤング・ジャパン』1、p. 33)、戸部での打ち首は1867年のこととしている。

 なぜこうも食い違っているのか。小林幸八は、司馬遼太郎が河合継之助について書いた『峠』にも登場するようだし、水戸藩属吏として贈正五位に叙せられているという。幸八と忠雄は同一人物なのか。彼は二度の殺人事件の犯人なのか、それともどちらか一方なのか。当時、横浜にいたジョゼフ・ヒコによると、ロシア人殺害事件は、「日本人一名太刀を以て走り蒐(かか)り、やにはに一人を切仆し数人に重傷を蒙らしぬ」(『ジョゼフ・ヒコ自叙伝』、p. 133)と、単独犯のようだ。じつはこの事件を測量船フェニモア・クーパー号の船員が目撃しており、水野・加藤両奉行が幕府公文書に「亜国測量船之水夫弐人其場之様子目撃せし迚(とて)、右船将よりも其始末具(つぶさ)に書記し、差し越したれば」(『開国の先駆者 中居屋重兵衛』、p. 159に引用)と書かれているようなので、ジョン・M・ブルック船長による報告がどこかに残っているかもしれない。中国人殺害犯は2人で、これは即死でなかった被害者自身が、提灯をかざして顔を覗き込まれたと語った記録が複数あるため、かなり確かだろう。小林忠雄を尋問したメルメ・ド・カションの記録は、非常にトンチンカンな内容だ。なぜ、清国人を殺したのかと問うと、「清国人ですと!……唐人(ヨーロッパ人)です……役人衆は清国人であったと信じさせたかったのです」と忠雄は言い張り、殺した相手は西洋人と信じ込んでいた模様だ。だが、雨の夕暮れで、主人のロウレイロの外套を着て、洋装していたとはいえ、提灯の明かりで顔を見たのであれば、西洋人と中国人を間違えるだろうか? 小林幸八は実際にロシア人殺害犯で、英仏両国を納得させるために中国人殺害犯に仕立てあげられたと考えれば、双方の話が食い違った理由は説明がつきそうだ。

 だが、田辺太一は『幕末外交談』(p. 142)に堀織部正利煕の自殺の原因として、「堀の従僕に、水野行蔵といふものありて、水戸藩と相交り、横濱にて魯西亜士官を(爿部に戈)殺せし一人なりとの嫌疑ありしを以て、職掌上深くこれを辱として、か?る次第に到れるなりともいへり」とも書いている。庄内藩の脱藩浪士、水野行蔵は、堀の従僕として箱館に赴いた人なので、樺太全島の領有権を主張したムラヴィヨフに腹を立てたと考えれば、殺害動機としては筋が通る。しかも、この人物は虎尾の会の清河八郎の愛妾、お蓮の面倒を何かと見るなど、かなり親しい間柄だったのだ。真犯人はいったい誰なのか。堀の家には坂下門外の変で闘死した河野顕三も寄寓しており、「その門下の者に不逞の徒がいなかったとは言い切れない」と、田辺太一は書いた。ちなみに、河野顕三は贈従五位で、靖国神社に祀られているらしい。外国奉行と神奈川奉行を兼務していた幕吏の身辺にまでテロリストがいたという事実は、幕末史を理解するうえで重要なポイントかもしれない。

 もちろん、堀織部正自身がただの排外主義者だったとは思わない。馬輸送を強引に迫るイギリスにたいし、「馬は武器第一にいたし、夫故馬具も武器に有之……支那と日本とは何之隔意も無之、戦争に用ひ候馬を、日本より出シ候ては、支那之恨を醸し候也」と主張した一例をとっても、まっとうな感覚の持ち主だ。村垣範正らとともに幕末に樺太まで調査に赴いた幕吏でもあり、箱館時代の従者には「不逞の輩」だけでなく、榎本武揚、武田斐三郎、玉虫左太夫、島義勇など錚々たるメンバーが揃っていた。国にたいする貢献としては、彼らのほうがはるかに大きかったはずだが、明治以降に贈位されることはなかった。開国したおかげで政権の座に着いたはずの明治政府にとっては、やみくもに刀を振りかざした者のほうが表彰すべき対象だったというのが、いまのところ私が理解しえたことだ。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.04.02更新)




*ブラフ25番のカルストの家




*ヤン・カルスト一家。
アナは後列左から2番目





*レントの娘ラウラ。
ロンドンで撮影





山下町25番のインペリアルホテル




今日のブラフ25付近の眺め



その212
幕末横浜オランダ人商人見聞録:『幕末横浜オランダ人商人見聞録』
C. T. A. デ・コーニング著、東郷えりか訳、河出書房新社(4月10日刊)


  昨秋から突貫工事で翻訳していたC. T. アッセンデルフト・デ・コーニングの本が、河出書房新社から『幕末横浜オランダ商人見聞録』という邦題で近々刊行される。薄い本なので、さほど苦労はしないだろうと思ったのだが、調べれば調べるほど新たな事実がわかり、校正中に何度も書き加える羽目になった。最後は時間切れで、邦訳版に盛り込めなかったことを、取り敢えずこのエッセイに書いておきたい。

 幕末の激動の時代を目撃した外国人が残した手記は多数あるが、その大半は外交官や軍関係者が残したもので、貿易商人による記録は少ない。幕末の政治に影響をおよぼしたのは、圧倒的に英・仏・米であり、明治以降はそれにドイツが加わり、江戸時代を通じて世界との唯一とも言える窓口であったはずのオランダの重要度は、蘭学が見捨てられるとともに、日本人のあいだで急速に下がっていった。鎖国時代に世の中の進歩から取り残されてしまった日本人は、手っ取り早く追いつくことに必死で、長年の恩人を忘れてしまったようだ。

 今回、特筆しておきたいのは、デ・コーニングの共同経営者であったカルストの一家のことだ。彼らに関しては、ポルスブルック領事の書簡と『市民グラフヨコハマ』から断片的な情報が見つかった程度だったが、ドイツの民間の研究者がおもに明治時代に来日した外国人の情報をご自分の趣味で集めた膨大なデータベース、Meiji-Portraits(http://www.meiji-portraits.de/)のサイトには非常に詳しく書かれていた。初代のカルスト船長が1861年にバタヴィアで死去していたことも、2人の息子、ヤンとレントが代わりに来日していたことも、このサイトから知った。日本に半世紀以上暮らしたヤンは、1864年にニッポンマルという400トンのブリグ帆船を日本政府(幕府)のために購入して、その船を回航してきたというが、これは確認できないので、勘違いなのか、歴史に埋もれていた新事実なのかはわからない。彼は先に来日にしていた弟のレントとともに、デ・コーニングが当初住んでいた居留地25番で貿易と保険業に従事したのち、独立して隣の26番で雑貨商を営んだという。

 この居留地25番の場所は神奈川県民ホール裏手の水町通り沿いで、現在はちょうどインペリアルビルがある付近だ。このビルは、1930年に川崎鉄三設計で建てられたモダニズム建築で、戦後は進駐軍に接収され、マッカーサーの護衛の将校の宿舎になっていたという。ヤン・カルストは明治に入ってから山手に移り、ここでもやはり25番に住んでいた。1915年6月27日にはこの山手25番の家で、横浜の港湾職員となっていた79歳のヤンの来日50周年記念が祝われ、友人たちが大勢、日本人も外国人も集ったと、『ジャパン・デイリーメイル』紙には書かれた。関東大震災で大被害を受けたあと、ヤンは神戸に移り住んでそこで亡くなった。


*アルホナウト号
*印のついた白黒写真はいずれも、Archive of the Family Bruijns/Amsterdam City Archives所蔵


 こうした情報を頼りに見つけたアムステルダム市のアーカイヴのサイト(https://archief.amsterdam/)には、カルスト家の多数の写真や文書が保管されていた。オランダ語のサイトをグーグル翻訳で読んでみると、保管された史料のデジタル化を無料で依頼できるらしいことがわかり、試しにいくつか選んでリクエストしてみた。数週間後、若干の史料がポジフィルムであるとか、肖像権の問題でスキャン対象から外されるが、その他は手続きに入るというメールがきた。さらに待つと、公開されたのでダウンロードが可能になったという旨の連絡がきた。そこにあった画像は、かなり鮮明で素晴らしく、訳書に盛り込めなかったことが悔やまれる。細々とした史料をきちんとリスト化して保管し、公開するだけでもたいへんな労力と思うが、なんら研究機関にも所属しない海外からの一利用者のリクエストに、これほどきちんと対応してくれたうえに、そのデジタル史料を無料で利用させるこの市のアーカイヴの気前のよさには感動し、すぐにお礼を書いた。ダッチ・アカウントなどという言葉があるように、オランダ人はケチだと言われるが、あらゆるものからお金を取ろうとする昨今の日本人のほうが、よほど守銭奴に成りさがって肝心なことを見失っている。

 今回デジタル化してもらった史料のなかでも、デ・コーニングと老カルスト船長がオランダから乗ってきた船であるアルホナウト号の水彩画は、本書に何度かその描写がでてくることもあり、とりわけ読者の方々にお見せしたかった。バーク型クリッパーのこうした船は、少ない乗組員で操縦できる効率のよい船だったという。この絵は、1861年に老船長が死去し、アルホナウト号が次のR. M. ドネマ船長の手に渡ったころにつくられた絵葉書のようだ。この船が1860年に香港で沈没しかけたことや、1868年に横浜・神戸間の航海中に行方不明になったことは、Piet's Scheeps Index(https://www.scheepsindex.nl/)というサイトで知った。ブラフ25番の家の写真もあった。いまでは高層ビルが立ち並んで景色が様変わりしているが、崖の輪郭だけは変わらない。兄弟はいずれも、日本女性とのあいだに子がいて、身体を壊してオランダに帰国した弟のレントは、Omea Taeko(大宮たえ子?)とのあいだの娘ラウラを連れ帰っている。レントはその後まもなく亡くなったが、ラウラは美しい女性に成長し、写真から推測すると、おそらくイギリス人と結婚して南アフリカに転居したと思われ、80歳前後まで生きて、没地はオランダのハーグだった。波乱の人生だ。


カルスト家の墓はサザンカの木の下にある

 兄のヤンは来日時に連れてきた妻を亡くしたあと、2度再婚しており、そのうちの1人がOrio(おりょう?)という日本女性で、明治の初めに名護市で娘が生まれている。貿易商人の家族は、バタヴィア、シンガポール、香港、上海、長崎など、各地の港に拠点を設け、そこを行き来していたので、沖縄のような思いがけない場所で、思いがけない人と結びついている。この娘ヨハンナ・クリスティナはアナと呼ばれ、横浜インターナショナルスクールで教えていたという。年齢から考えると1924年の設立メンバーだったのではないかと思われるが、同校に問い合わせてみたものの、古い史料は残っていないとのことだった。ヤンの家族写真のなかに、異母兄妹たちに囲まれた小柄なアナが写っていた。世界を股にかけたカルスト家のなかでもアナは日本に留まりつづけたと思われ、1964年に89歳前後で亡くなって、父やその他数名の家族とともに横浜外国人墓地に埋葬されている。彼らの墓はいちばん古い22区にあり、1860年に横浜で惨殺された2人のオランダ人船長のピラミッド形の巨大な墓碑のすぐ隣にある。カルスト老船長は事件当日、彼らに会いにヨコハマ・ホテルにでかけたところ、すれ違ってしまったために難を逃れた人だった。子孫たちは特別な思いでその区画を選んだのだろう。ラウラやアナは、その母親たちは、どんな生涯を送ったのか、興味は尽きない。

*印のついた白黒写真はいずれも、Archive of the Family Bruijns/Amsterdam City Archives所蔵
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.05.04更新)




東頭山行元寺




波の伊八の「波に宝珠」
(同寺パンフレットより)と
北斎の「神奈川沖浪裏」














その213
 先月、入れ替わり立ち替わり送られてくるゲラに埋もれていたころに、タイの友人たちが日本に遊びにきた。本来なら一緒に国内を回りたかったが、とうてい叶わず、せめてもと一日だけ付き合うことにした。すでに郡上八幡や金沢を旅行してきた彼らが、ぜひ行きたい場所として挙げたのがいすみ鉄道だった。満開の菜の花のあいだをのんびり走るローカル線の写真に惹かれたらしいが、どうせ行くなら一カ所くらいきちんと見学場所があったほうがよいと考え、上総中川の駅で下車して、田んぼのなかの道を4キロ近く歩いて、貴重な彫刻があるという行元寺まで行ってみた。

 なにしろ、このお寺には「波の伊八」と呼ばれる地元安房出身の彫物大工が彫った波に宝珠の欄間彫刻があり、それが葛飾北斎に「神奈川沖浪裏」のインスピレーションを与えたというのだ。ボランティア・ガイドのおじいさんの説明を聴きながら拝見した藁葺き屋根の建物内にある5面の欄間彫刻は、確かに躍動感にあふれた見事な作品だった。伊八の波には、富士山の代わりに宝珠が浮き沈みしており、人生にたとえたのではないかとの説明を受けた。馬で海に入って外房の大波を横から観察したと言われているらしい。北斎のあの作品は、江戸湾の波にしては、あまりにも大波だとかねてから思っていたので、勝浦辺りの波が下地にあったと考えれば、大いに納得がいく。武志伊八郎信由というこの彫刻師は、1752(宝暦2)年に下村墨村の名主の家に生まれたとされるので、馬に乗れる身分だったのだろうが、そんな家の息子が急に彫物大工になった背景には、この寺に「獏」と「牡丹に錦鶏」の優れた彫刻を残した群馬県花輪出身の高松又八(1716年没)が関係していそうだ。

 ネット上でざっと調べただけだが、この高松又八という公儀彫物師は、日光東照宮の幻の名工、左甚五郎につながる彫物大工の島村家初代俊元の弟子で、足尾銅山と日光と利根川、江戸を結ぶ「銅街道」沿いにあった花輪に、彫物師の一大集団を生みだした元祖だった。彼の作品は、行元寺のもの以外はすべて消失しているそうなので、その意味でもこのお寺は貴重な存在だ。

 一方、波の伊八は、島村家三代俊実の弟子である、上総植野村の島村貞亮に習ったという。彼が行元寺の欄間のために制作した「松鶴」の図には、菊のように見える「唐松」が彫られていた。日光の三猿の後ろにあるのと同様の奇妙な松だ。しかも、日光の「唐松」とそっくりに、中央に松ぼっくりが三つついた形で彫られている。非常に独創的な波にたいし、パターン化されたこの松は、彼の関心がそこにはなかったことの表われかもしれない。

 明代の磁器などにもよく描かれた「唐松」にたいし、「大和松」という、日本人の目にはより松らしく見えるパターンもある。日光東照宮の「猿の一生」の8枚の彫刻のうち3枚は「大和松」だ。この有名な猿のパネルは複数の彫刻師による共同作品か、もしくは松を彫る職人が複数いたのかもしれない。波の伊八はとりわけ「唐松」が好きだったようで、画像検索した限りでは、「大和松」は1作品にしか見つからなかった。「唐松」と呼ばれるくらいだから、このモチーフのルーツは大陸にありそうだ。形状からしてチョウセンゴヨウかもしれない。食用の松の実はこの木の種子だ。

 独創的でないこうした伝統模様には、文化の伝播の形跡が見えて、それはそれでおもしろい。工房で師から弟子へ受け継がれたパターンやモチーフは、竜や麒麟、仙人、天女、吉祥雲、蘇鉄、棕櫚など、想像上のものや外来のものを、似たような図案で広めてきた。左甚五郎に端を発する彫物大工たちの描く人物が、日光東照宮でも熊谷の妻沼聖天山歓喜院でも成田の新勝寺でも、中国人にしか見えない理由はそのあたりのあるのだろうか。波というモチーフも、波模様として背景に、あるいは縁取り程度によく描かれており、これを最初に図案化した人たちが海洋貿易に従事していたことを思わせる。端役だった波を主題としたところが、伊八の独創的なところだ。

 松と鶴のモチーフは、コトバンクによると「藤原時代に賞用された模様」であり、考えてみれば『100のモノが語る世界の歴史』の日本の銅鏡の図柄は松の枝をくわえた鶴だった。とりわけ松食い鶴の文様は、奈良時代に流行した花喰鳥を和風化したもので、起源は東ローマ、ペルシャあたりにあって、元来は王侯貴族を表わすリボンをくわえていたらしい。同書に掲載されたシャープール2世の絵皿には、リボンが付いていた。見る人が見れば、そこに脈々と伝わるものが感じられたのだろう。

 画像検索中に、富山にも「井波彫刻」という、やはり江戸中期を起源とする優れた欄間彫刻の伝統があることを知った。しかもこの夏、富山県博物館協会は「波の伊八パネル展」を開催するらしい。房総の伊八関連の作品はいずれも、寺社が細々と管理していて、行元寺のものなどは撮影も不可で、これでは一般に知られようがなく、まして研究対象にはなりにくい。もっと広く公開して、代わりに保存や展示の支援をしてもらえばいいのにと思うのだが、いまはお金のかかる文化財の保存に自治体も国も及び腰なのだろう。観光の目玉として売れるなら利用するという程度の、安易な対応をされて終わりなのかもしれない。政財界の有力者に文化人のいない国は、いずれ集団としてのアイデンティティを失う運命にある。

 日帰りできる距離とはいえ、そう簡単には行けない場所なので、こんなことがいろいろわかったのは友人たちのおかげだと感謝している。久々に田舎も歩いてカエルの合唱を聞いたのもよかった。次の仕事には、カエルの合唱が関係するのでなおさらだ。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.06.09更新)




『馬・車輪・言語: 文明は
どこで誕生したのか』
D. W. アンソニー著、筑摩書房




その214
 いまとなってはどの本だったのか思いだせないが、2009年の「コウモリ通信」を読み返してみると、仕事でリーディングした多数の英語の原書のどれかに、老子の「無用の用」が言及されていて、原詩を調べたことがあった。「三十輻共一轂。当其無、有車之用」と始まるものだ。このときはもちろん、無についてあれこれ考える老子の哲学に感服したのだが、それとともに私の記憶に深く残ったのは、輻(スポーク)も轂(ハブ)も馴染みのない漢字であるだけでなく、訳そうにも該当する日本語が思いつかないことだった。それぞれ「や」と「こしき」と読み、強いて言えばこれが日本語の訳語なのだが、実際には「や」は細長い形状から、「矢」のようなものという意味だったかもしれない。「こしき」は、同じ音で鹿児島の甑島にも使われる字があり、これは円形で中心に穴が空いた米を蒸すための土器だった。初めて車輪を見た飛鳥時代の人たちが連想したのは、この調理用具だった可能性はないだろうか。

 こんな経験がきっかけで車輪の歴史に興味をもったことから、あれこれ検索するうちに何度も拾い読みすることになったのが、アンソニー・W・デイヴィッドの『The Horse, the Wheel, and Language』(2007年)だった。その後、『100のモノが語る世界の歴史』の仕事でウルのスタンダードの鮮明な写真を見て、初期の車輪にはスポークすらなかったことに気づき、一つの技術が生まれる背景にどれだけの歴史が存在したのかを思い知らされた。

 一連の仕事がひと段落した2015年にとうとう原書を手に入れ、一気に読んだあげくに、折しも開催されていた「大英博物館展」の内覧会のあと、いま思えば能天気にこの本の翻訳企画を大英の仕事の編集者にもちかけたのだった。以来、紆余曲折を経てこのたびようやく邦訳版が完成した。邦題はそのままずばり、『馬・車輪・言語』となったが、「文明はどこで誕生したか」という副題が本書の内容を凝縮している。

 言語学と考古学という二つのまるで異なる分野の架け橋をつくることと、ロシア、ウクライナ、東欧という、長らく壁の向こうで馴染みのなかった地域の歴史と地理を概説することを目的とした本なので、著者は平易な文章を心がけ、専門用語を噛み砕いて説明している。だからこそ、私のような門外漢でも訳せると錯覚したのだが、いつものように調べた訳語をノートに書きつける程度では埒が明かず、途中でキリル文字や妙なアクセントだらけの東欧の文字の表記とともに、固有名詞をエクセルに入れ直す羽目になった。著者はアメリカ人なので、ロシア語などで書かれた論文から、これらの地名や文化名を一つひとつ拾っていた苦労は並大抵のものではなかったろう。そのためか、原書はスペル間違いも散見され、私は余計に悩まされることになった。

 本書について述べたいことはいくらでもあるが、まずは馴染みの薄い比較言語学に関連したことを書きたい。学生時代に言語学のほんのさわりだけ習ったことがあるが、当時の私にはチンプンカンプンでどうも興味がもてなかった。その後、『日本語のルーツは古代朝鮮語だった』(朴炳植著、HBJ出版局)という本を読んだことがあったが、いかんせん基礎知識がないため、いつか検証してみたいと思いつつ、半分ほど理解して終わった。したがって、私にとっては本書が事実上、初めて本腰を入れて読んだ言語学の本ということで、正直言えば、過去200年にわたって言語学者たちが築いてきた功績について理解するのが精一杯だった。

 それでも外国語を専攻し、こうして日々、言葉と格闘している身としては、本書の記述には思い当たる節が多々あった。その一つはクレオール語だ。別々の言語が収束した結果生じた言語のことで、名詞が格変化せず、単数・複数の区別がなく、動詞は時制、性別、人称によって変化せず、副詞や形容詞を強調するために反復するなどの説明を訳しながら、タイ語や日本語はクレオール言語ではないのかとふと思った。タイ語では、時制はただ助動詞か副詞を加えて表わすし、「マークマーク」や「ローンローン」のように形容詞を重ねて程度を表わす方法はえらくシンプルで、なかなか英語を覚えたがらなかった娘が、タイ語は素直に学べた理由がそこにあった。子供にしてみれば、「いっぱいいっぱい」、「暑い暑い」と言っているのと同じで、親近感を覚えたのだろう。だが、逆に言えば、日本語でもそういう表現は可能だということだ。日本の地理的条件や歴史を考えると、氷河期以降、大陸から海を越えて渡ってきた人びとは最初から家族連れで移住してきたわけではないだろう。男性中心で構成された渡来人が、すでに日本列島にいた女性と家庭を築き、その過程で語彙は増え、文法は単純化された可能性がありそうだ。渡来人は数こそ少ないが、高度な技術をもち、何よりも筆記を日本に伝えたわけだから、その影響力は絶大であったはずだ。

 もう一つ、とくに印象に残ったのが、どういう状況で言語の交替が起こるかに関する考察だ。スコットランドの漁民が話していたゲール語が、戦後、漁業の衰退とともに急速に消えていったことが例として挙げられ、わかりやすくこう書かれていた。「廃れてゆく言語にまつわる否定的な評価は、孫子の代によって重要度の低いものへと分類され直しつづけ、しまいには誰もおじいちゃんのように話したくはなくなるのだ。言語の交替と過去のアイデンティティの蔑視は、密接に関連しているのである」

 最近、やや下火になったが、一時期、「美しい日本語」が大いに流行った。翻訳文はただでさえ固有名詞がカタカナ表記なので、できる限りカタカナ語ではなく日本語に置き換えろと、故鈴木主税先生に言われつづけたため、前述のように私は日々、「日本語の」訳語を探すことに悪戦苦闘している。でも、それは結局のところ、「配偶者選好性」のような漢語に行き着くことが多く、大和言葉はあまりにも語彙が足りない。近年の日本語礼賛ブームは、じつは日本人としてのアイデンティティが揺らいでいることへの危機感の裏返しなのであって、これは決して言語だけの問題ではない。

 近年は、英語の早期教育をめぐる問題でも意見が大きく分かれている。実際には文科省の教育制度への不満が大きいようだが、すべての日本人に外国語が必要なわけではないという主張は、国内で安泰した地位を享受している人の発想だ。本書によると、こうした「地元型戦略」の人は、「自分が育ってきた母語である言語で、必要なことはすべて賄えるので、彼らはその言語だけを話すようになりがちだ」という。大学教育を受けた北米人の大半がこのカテゴリーだそうだ。だが、この先の世代にも、高度成長期やバブル時代を謳歌してきたわれわれの世代と同じ機会が確保できるのだろうか。あいにく、明日の暮らしの保証もない私のようなフリーランスは、リスク「分散型戦略」で多くの外国語を学ばざるをえない。言語というものにたいするこのような視点が得られることも、本書の大きな魅力の一つだ。ぜひご一読を。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.07.01更新)




『北斎漫画 3編』より




輪違い(七宝繋ぎ)文様




良渚文化の玉j








その215
 このところ文様の歴史に興味をもっている。葛飾北斎が『新形小紋帳』や『北斎漫画』で文様の手本を描いているのを知って、図書館から本を借りたり、中古の美術本を購入したりしてパラパラ眺めている。北斎は輸入顔料の「ベロ藍」を率先して使い、遠近法を学ぶなどして、西洋の技術を積極的に取り入れたことで知られる。そんな彼が輪違い、もしくは七宝繋ぎと呼ばれる文様らしきものの描き方を指南しているのだが、その方法を見て目が点になった。この文様は私のような文系人間から見ても、まずは正方形の内側に接する形で円を描き、正方形の四隅から、同じ半径で円を描いてゆくのが本来の描き方だと思うのだが、北斎は文様の花びらのような部分に注目し、そのパターンを反復するように教えているのだ。円の接線という発想がなかったのは間違いないし、4分の1ずつ円が重なっていることすら気づいていなかったのかもしれない。

 この文様はインダス文明の土器などに紀元前3000年には描かれていた。ヨーロッパではアレクサンドロス大王の東方遠征後に広まり、2世紀ごろからローマ帝国の各地でモザイク模様に頻繁に用いられた。ジャワ更紗ではこのモチーフはカウンと呼ばれ、13世紀以降に取り入れられた古典的文様の一つだという。17-18世紀にインドなどから輸入され、彦根藩が所有していた古渡更紗にも「輪違手」が若干含まれている。北斎はこの輪違いらしき文様に「大イ紋高麗形」と書いているので、畳の縁につける白と黒の織物である高麗縁(こうらいべり)のつもりだったのかもしれない。円を重ねずにぴったり並べた大紋の高麗縁は、親王・大臣などに使用が限られていた。四つの円のあいだに菱形のような隙間ができ、それぞれの円の中心点を結べば正方形になるところが、輪違いに共通する模様だ。高麗時代12世紀の韓国の国宝、青磁透彫七宝文香炉には、見事な輪違いの透彫りがあるので、高麗縁にも輪違いのものがあったと思われる。『枕草子』には「高麗縁の筵青うこまやかに厚きが」と書かれており、918年に建国された高麗と平安貴族に深い関係があったことが窺える。日本ではほかに、花輪違の家紋など、中心に模様を加えることも多かった。有職文様(ゆうそくもんよう)の小葵文や、更紗のウンヤ手も、輪違いの崩れたものの可能性がある。ウンヤの意味は不明だが、よく見ると盤長結(ばんちょうむすび)のような模様が描き込まれているので、それを指していたかもしれない。

『北斎漫画』八編の序文には、「離婁の明公輸子の巧も規矩を以てせざれば方員を成事能はず」と、『孟子』の一節が引用されている。規(き)はぶんまわしと呼ばれたコンパス、矩(く)は定規のことで、これらがなければ方形も円も描けないという意味だ。孟子(紀元前372-289年)は戦国時代の人なので、中国ではこの時代にはコンパスを使って正円を描いていたことになる。

 いや、それどころではない。紀元前3400-2250年ごろ長江下流に栄えた良渚文化から副葬品として多数出土する璧とjという謎の玉器が、現代人から見ても完璧な幾何学工芸品なのだ。壁(へき、bi)は直径20センチ前後の特大五円玉のような形状をしている。j(そう、cong)のほうは高さがまちまちの四角柱で、中央に円筒状の穴が貫通しており、強いて言えば、サランラップの箱の両端をくりぬいたようなものだ。どちらも工業製品を見慣れたわれわれの目にはさほど特異な形状には感じられない。しかし、新石器時代にあったはずの良渚文化で、直線、直角、平行線どころか正円、同心円、円柱といった幾何学の知識を必要とする精巧な製品が、軟玉(ネフライト)とはいえ、硬い石から製造されていたことにはただ驚かされる。jは長いものでは47センチ以上にもなり、その中心に上下からドリルで穴をうまく貫通させる作業は、現在の電動工具でも簡単ではないだろう。

 私が璧とjを知ったのは数年前の『100のモノが語る世界の歴史』の本と大英博物館展の図録の仕事からだったが、用途不明の翡翠の玉器ということで、頭のなかに宙ぶらりんの状態で収まっていた。一般には、戦国時代の書とされる『周礼』に、璧とjがそれぞれ天と地を表わすと書かれたことを根拠に、祭器として説明される。だが、実用性のない祭器をつくるために、新石器時代の人がこんな高度な技術を生みだすだろうか? 中国古代史の専門家からは、『馬・車輪・言語』に毒されているとして一笑に付されるに違いないが、結論から言うと、円盤状の璧は車輪そのものか轂(ハブ)の補強材で、円筒状にくりぬかれたjは軸受、つまり車軸を回転させるためのベアリング・ブロックだったのではないかと推測している。これらは当初、ステップのワゴン葬墓のように、天国へ行く車の代わりに墓に納められたのではないか。硬い素材による完璧な円や円筒への異様なまでのこだわりは、車輪と軸受の製造以外に思いつかない。

 一つのヒントは、良渚文化を代表する装飾にある。人面の神が獣にまたがる姿を表わしたものだ。おそらくより古い形態では、神は大きな被り物をしたギョロ目の人物だが、jに刻まれ様式化されたものは、正円の左右にわずかに線を引いた切れ長の目に、頭部には二本のバンドをはめ、巻き毛の顎髭のような枠に下部を囲まれている。少し時代が下った三星堆遺跡から出土した仮面や人物像をどことなく思わせる濃い顔だ。獣もやはり正円のびっくり眼で、その周囲には幾重にも細かい同心円や渦、線が描かれている。この「神」は西方から馬に乗ってやってきた印欧語を話す民族だったとは考えられないだろうか? 高度な技術や武器・道具をもち、おそらくは硬く丈夫な素材を求めて馬で途方もない距離を一気に移動してきた少数の異民族だ。彼らが翡翠を扱う紅山文化と遭遇し、現地民と良渚文化を築いたのではないのか? 在来民にとっては、幾何学の知識や製造技術を教え、大きな馬を操る彼らはまさに神だったのではなかろうか?

 手間暇かかるjは早くに廃れたが、璧は漢代まではつくりつづけられ、その一つは宮崎県串間市で出土した。璧の形状はのちに青銅鏡や硬貨に受け継がれたとも考えられている。ハブが四角く、車軸に固定されていたと思われる円盤状車輪もヨーロッパで出土しているので、永楽通宝のような四角い穴開き硬貨も、五円玉も、じつは璧の遠い子孫なのかもしれない。
(とうごう えりか)