【コウモリ通信】バックナンバー 2018年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2018.01.06更新)





現在、翻訳中の
A Pioneer in Yokohama





『横浜外国人居留地ホテル史』
澤護著、白桃書房


その209

 この数年、毎年恒例のように締切りに追われた仕事をかかえての年越しとなっている。昨夏は3カ月間も仕事のない状態がつづいたので、それを考えれば、たとえ時間に追われていても、仕事があることはありがたい。しかも、いま取り組んでいる本は、失業中に読んであまりにもおもしろかったために、翻訳企画をもちかけて、とんとん拍子に決まったものなので、正月返上などとぼやいたら、罰が当たりそうだ。年末も必死に見直しをして過ごし、頭のなかがこの本のことでいっぱいなので、年始のエッセイながらちっとも新年らしくない話題で恐縮だが、どうぞご勘弁を。

 今回の本は、じつは開港当初の横浜に住んでいたオランダ商人によって140年ほど前に書かれた、事実にもとづく冒険譚だが、原書がオランダ語だったせいかいままで邦訳されていなかった。6年ほど前にこの本がアメリカで英訳されたおかげで私の目に留まることになった。史料も少ない幕末の横浜・長崎について、アメリカの研究者があれこれ調べ抜いて訳してくれたのに、とうの日本の読者がそれを知らずにいるのはあまりにももったいない。そう思って、重訳にはなるが、翻訳すべき作品と考えた。

 本書には、日本の歴史家が見落としてきた驚くべき事実がいろいろ書かれている。その一つに、コウモリ通信でも何度か触れた日本最初のホテルであるヨコハマ・ホテルに関する話があった。英訳者があげていた参考文献のリストには、澤護の『横浜外国人居留地ホテル史』も含まれていた。澤先生には大学時代に教わっているのだが、フランス文化史だったか文学史だったのかも覚えていない情けなさだ。のちに横浜の歴史に興味をもつようになり、ご著書を何冊か読んだ矢先に、先生は急逝されてしまい、横浜の歴史について直接お聞きする機会は永久に失われてしまった。それでも、ネット上に残された数々の論文を見つけるたびに、初期の横浜で活躍しながら誰からも忘れられた人びとを、一人ずつ丹念に調べあげておられた澤先生の熱意に感服したものだ。

 ヨコハマ・ホテルは、ここが当初唯一のホテルであり社交場でもあったため、数多くのエピソードを生む舞台となったのだが、ここがそもそも開港期に幕府が建てた御貸長屋の一隅であったことを、先生は気づいておられただろうか。しかも、まだ商館用の土地すら整備されていないのに、遊郭だけは用意しなければならないと考えた幕府が、太田屋新田の沼地の埋め立てが間に合わなかったために、唯一の役場であり、税関であった運上所の目と鼻の先に、急遽、臨時の遊郭を開業させたのだという。数カ月後に遊郭が現在の横浜公園の場所に移転すると、この長屋が空いて、そこをオランダ船ナッサウ号の船長だったフフナーゲルが買い取り、ホテルに改装したのだという。

 この一件に関する著者デ・コーニンの解説がじつにおもしろい。「東洋人はみなそうだが、日本人は非常に好色な民族だ。ヨーロッパ人との接触がなかったため、われわれの潔癖な習慣のことは知らず、外国人にも自分と同様の欠点は見られるに違いないと彼らは考えていた。外国人が日本を訪れたがるのは、ひとえに日本女性と知り合いになる下心があるためだという間違った観念を、非常に多くの日本人がいだいていたのである。荒海を航海してきたあと、横浜の桟橋に晴れ晴れと上陸した多くのまっとうな外国人は、礼儀正しい日本人がする無作法な仕草に直面することになった。彼らは歓迎のつもりで、遠路やってきた外国人がついに極楽に到着したことを知らせようとしていた」。遊郭の仮宅を改造したヨコハマ・ホテルについては、こう書いている。「これは日本の不道徳にたいして上品な文明が収めた最初の勝利であり、しかも数カ月前まで堕落した信奉者のいるお茶屋が放置されていた、まさにその場所で遂げられた勝利であった」

 日本の歴史家は通常、遊郭は一般の日本女性に外国人が手出ししないようにするために講じられた対策だったと説明する。実際、初期に単身で横浜にきた外国人の相当数が、「らしゃめん」を一人ないし二人囲っていた。しかし、こうした女性たちは実際には大半が女郎ではなく、町娘だったようで、日本通で知られた人びとの多くにはこのような日本人の内妻がいた。彼女たちはかならずしも、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』に登場する亀遊のような、喧伝された悲劇の主人公であったわけではないのだ。デ・コーニンによれば、開港当初の横浜には金貿易目当てのならず者の外国人も大勢いたので、幕府の対策がまったくの杞憂だったとは言えない。それでも、純粋に自由貿易のために来日した大多数の外国人にとっては、幕府によるこの過剰な手配は余計なもの、もしくは滑稽なものだったに違いない。今年は明治維新150周年でもあり、開国とはなんだったのかを振り返るよい機会でもある。なるべく春には刊行できるよう努力したい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.02.04更新)





ポートワイン





ジュール・ロバン・コニャック


大木になった椿
その210
出島の「カピタン部屋」のダイニング

  海外から仲間が一時帰国するのに合わせてほぼ例年、和食の飲み屋やレストランで学生時代のサークルの同期会を開いているのだが、今年は私の勝手なお願いで銀座のポルトガル料理屋にしてもらった。お目当てはポートワインとマデイラワイン。先月の「コウモリ通信」にも書いた幕末のオランダ商人の本に、こうしたワインの話が度々でてくるからだ。それをただカタカナして済ませてしまうのは簡単だ。でも、「イギリス人たちは食事と一緒に飲んだ大量のポートワインの影響がまだ抜けていない」などと訳していると、幕末の日本まで船で運んできたワインがどんなものであったか、つい気になる。ポルトガル・ワイン専門店に気軽に行ければよいのだが、そんな気持ちの余裕もなく、昔の仲間の好意に甘えることにした。どちらも飲み放題プランには含まれておらず、今回は私だけこの甘いワインをアプリティフに飲ませてもらった。初めて食べるポルトガル料理は、魚介類たっぷりで素晴らしくおいしく、その他のワインやビールも飲み過ぎたので、食後のマデイラは諦めたが、ほんの一杯でも飲んでみると、居留地で酔っ払った外国人たちのことがより身近に感じられるから不思議だ。

 ワインにはまるで詳しくないが、大阪日本ポルトガル協会によれば、ポルトガルのワインの歴史は紀元前5世紀にフェニキア人によって始まり、マデイラワインは17世紀から、ポートは18世紀には登場し、スペインのシェリー酒と並んで、世界3大酒精強化ワイン、つまりアルコール度を高めたワインとして知られているそうだ。ウィキペディアによると日本に最初にもたらされたワインはポートワインらしい。

 この本はおもに横浜について書かれているのだが、1章だけ開国前の長崎の出島について割かれた章がある。一昨年に佐賀と長崎に旅行した際、夕方に駆け足ではあったが出島跡も見学したので、およその雰囲気はわかったが、水門や一番船船頭部屋、涼所などがどう再現されていたかは記憶にない。著者のオランダ商人デ・コーニンは、1851年に若い船長として出島に3カ月間滞在したことがあった。上陸した初日、家具一つない部屋で呆然としていたところへ、買弁が歓迎の意を込めてMoscovisch gebakなるお菓子を届けてくれた。これはマデイラケーキらしいが、オランダ語で検索するとやや異なるものがでてくる。そこへ通詞の吉雄作之烝と目付がやってきたため、携帯用フラスクに詰めたコニャックを分け合い、ちょっとした宴会を開いた。「二人の紳士が菓子数切れを食べ、コニャック数杯を飲み干したところで、作之烝は──まずは〈ジュール・ロバン・コニャック〉の名前を手帳に書き込んだあと──知り合えてよかったと述べ、それから暇乞いをした」。想像するとなんともおかしい。

「1782年創業のこの会社は今日でもコニャックを製造している」という英訳者の註を読み、私がネット検索したのは言うまでもない。作之烝もただの飲兵衛ではなく、仕事熱心だったのだと考えたい。当時と同じものかどうかはわからないが、ヤフオクにそれと思しきものがいくつか出品されていたので、木箱入りの、いかにも舶来品風のコニャックをつい購入してみた。無事に本になった暁に封を開けようと、こちらはまだ手を付けていない。

 ジュール・ロバンが幕末にどれだけ輸入されていたかはわからないが、1862年9月13日付の『ジャパン・ヘラルド』紙に掲載された別のオランダ商人ヘフトの広告では、ドルフィン号で到着したばかりの「ジュール・ロバン社コニャックの積み荷」が、砂糖やボローニャ・ソーセージなどともに宣伝されていた。ついでながら、同じ紙面に10月1日・2日に開催予定の競馬の予告があるほか、乗客欄には、ランスフィールド号で上海から到着したイギリス公使館のロバートソンとサトウの名前がある。この船は薩摩藩が買って壬戌丸となった。

 一読者として本書を読んだときには、調べたかった情報を手っ取り早く知ることに重きを置いてしまうので、こうした些細な事柄は読み飛ばしていた。とくにネット上で、知りたいキーワードを検索して、該当ページの前後だけを拾い読みした場合には、こうした「味わい」は得られない。本書には歴史的な「新事実」がかなり含まれており、史料としての価値がかなりあると思われる。だが、それ以外の、ページの端々に書かれていたちょっとした描写にも、別の意味の発見がある。幕末に来日した多くの外国人は、江戸湾に近づくにつれて見えてくる富士山の圧倒的な美しさに言及しているが、デ・コーニンも例外ではない。9月初旬に彼が来日した際に、すでに冠雪があったのかどうか定かではないが、彼の見事な描写は、冬に東南アジア方面から早朝に成田に着く便で帰国した際に、日本列島の上にそびえる富士山を見たときの感動を思いだす。いつか長い航海のあとに、海上から眺めてみたいものだ。

 やはり多くの外国人が書いているのは、日本の冬の野山に咲く椿だ。私には垣根のイメージしかなく、身近過ぎて意識に上らない花だったが、17世紀にケンペルが紹介して以来、東洋の神秘と結びついてきたのか、「椿姫」のオペラが上演されたばかりだったのか、彼らは椿に日本の美を感じていた。近所の公園に珍しく大木があったので、「椿が咲き乱れる森」はこんな感じだろうかと想像してみた。本は読み方しだいで、いかようにも楽しめる。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.03.02更新)





戸部の刑場があったくらやみ坂




その211
村垣範正の公務日記付録。樺太のエンルモコマフの図。
「蝦夷の海のあらきしほ路にひれふるハ鯨しやちほことゝにあさらし」


 仕事と雑用に追われているうちに、ただでさえ短い2月が終わってしまった。幕末のオランダ商人の本は初校を終えたので、だいぶ片づいた気はするのだが、次のゲラはまるで分野が異なるので、机や床の上に散乱した参考文献とコピーの山、それに何よりも頭のなかを整理しないと、何をどこで読んだのか、あとでさっぱりわからなくなってしまう。あれこれ調べているうちに、気になっていたいくつかの点を忘備録代わりに書いておく。

 発端は、幕末最初の外国人殺傷事件、つまり1859年8月18日(安政6年7月20日)のロシア海軍軍人殺害事件の犯人が、水戸天狗党の藩士、小林幸八だと多くの資料に書かれていることだった。ところが、『日本人名辞典』によれば、小林幸八には小林忠雄という変名があった。一方、小林忠雄というのは、同年11月5日に起こったフランス領事代理ロウレイロの中国人従僕殺害事件の犯人として捕まった水戸浪士なのだ。ロシア人殺害者を小林幸八とした最も古い記述は、私が見つけた限りでは1898年刊の田辺太一の『幕末外交談』(p. 121)だった。1909年刊行の『横浜開港五十年史』上巻は、この田辺の書と同様の記述でロシア人殺害犯を幸八に、中国人従僕殺害犯を忠雄という別人にして(pp. 401、405)、幸八は水戸の武田耕雲斎らによる天狗党の乱が鎮圧された際に、ロシア人殺害犯であることが判明して横浜に送られ、慶応元年(1865年)5月に戸部で処刑されたとしていた。1931年刊行の『横浜市史稿』政治編2(p. 404)では、中国人従僕殺害犯の忠雄が天狗党の一派で、戸部で処刑され、共犯者の水戸の高倉猛三郎は遠島に処せられたとある。1959年発行の『横浜市史』第2巻(p. 254)は、『横浜開港五十年史』と同様の説明だ。かたや、『幕末異人殺傷録』(1996年)を書いた宮永孝は、1865年7月30日にフランスのメルメ・ド・カションが小林忠雄を尋問した記録を引用し、慶応元年8月11日に戸部で打ち首になったとしている。J・R・ブラックも中国人殺害について言及しているが(『ヤング・ジャパン』1、p. 33)、戸部での打ち首は1867年のこととしている。

 なぜこうも食い違っているのか。小林幸八は、司馬遼太郎が河合継之助について書いた『峠』にも登場するようだし、水戸藩属吏として贈正五位に叙せられているという。幸八と忠雄は同一人物なのか。彼は二度の殺人事件の犯人なのか、それともどちらか一方なのか。当時、横浜にいたジョゼフ・ヒコによると、ロシア人殺害事件は、「日本人一名太刀を以て走り蒐(かか)り、やにはに一人を切仆し数人に重傷を蒙らしぬ」(『ジョゼフ・ヒコ自叙伝』、p. 133)と、単独犯のようだ。じつはこの事件を測量船フェニモア・クーパー号の船員が目撃しており、水野・加藤両奉行が幕府公文書に「亜国測量船之水夫弐人其場之様子目撃せし迚(とて)、右船将よりも其始末具(つぶさ)に書記し、差し越したれば」(『開国の先駆者 中居屋重兵衛』、p. 159に引用)と書かれているようなので、ジョン・M・ブルック船長による報告がどこかに残っているかもしれない。中国人殺害犯は2人で、これは即死でなかった被害者自身が、提灯をかざして顔を覗き込まれたと語った記録が複数あるため、かなり確かだろう。小林忠雄を尋問したメルメ・ド・カションの記録は、非常にトンチンカンな内容だ。なぜ、清国人を殺したのかと問うと、「清国人ですと!……唐人(ヨーロッパ人)です……役人衆は清国人であったと信じさせたかったのです」と忠雄は言い張り、殺した相手は西洋人と信じ込んでいた模様だ。だが、雨の夕暮れで、主人のロウレイロの外套を着て、洋装していたとはいえ、提灯の明かりで顔を見たのであれば、西洋人と中国人を間違えるだろうか? 小林幸八は実際にロシア人殺害犯で、英仏両国を納得させるために中国人殺害犯に仕立てあげられたと考えれば、双方の話が食い違った理由は説明がつきそうだ。

 だが、田辺太一は『幕末外交談』(p. 142)に堀織部正利煕の自殺の原因として、「堀の従僕に、水野行蔵といふものありて、水戸藩と相交り、横濱にて魯西亜士官を(爿部に戈)殺せし一人なりとの嫌疑ありしを以て、職掌上深くこれを辱として、か?る次第に到れるなりともいへり」とも書いている。庄内藩の脱藩浪士、水野行蔵は、堀の従僕として箱館に赴いた人なので、樺太全島の領有権を主張したムラヴィヨフに腹を立てたと考えれば、殺害動機としては筋が通る。しかも、この人物は虎尾の会の清河八郎の愛妾、お蓮の面倒を何かと見るなど、かなり親しい間柄だったのだ。真犯人はいったい誰なのか。堀の家には坂下門外の変で闘死した河野顕三も寄寓しており、「その門下の者に不逞の徒がいなかったとは言い切れない」と、田辺太一は書いた。ちなみに、河野顕三は贈従五位で、靖国神社に祀られているらしい。外国奉行と神奈川奉行を兼務していた幕吏の身辺にまでテロリストがいたという事実は、幕末史を理解するうえで重要なポイントかもしれない。

 もちろん、堀織部正自身がただの排外主義者だったとは思わない。馬輸送を強引に迫るイギリスにたいし、「馬は武器第一にいたし、夫故馬具も武器に有之……支那と日本とは何之隔意も無之、戦争に用ひ候馬を、日本より出シ候ては、支那之恨を醸し候也」と主張した一例をとっても、まっとうな感覚の持ち主だ。村垣範正らとともに幕末に樺太まで調査に赴いた幕吏でもあり、箱館時代の従者には「不逞の輩」だけでなく、榎本武揚、武田斐三郎、玉虫左太夫、島義勇など錚々たるメンバーが揃っていた。国にたいする貢献としては、彼らのほうがはるかに大きかったはずだが、明治以降に贈位されることはなかった。開国したおかげで政権の座に着いたはずの明治政府にとっては、やみくもに刀を振りかざした者のほうが表彰すべき対象だったというのが、いまのところ私が理解しえたことだ。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.04.02更新)




*ブラフ25番のカルストの家




*ヤン・カルスト一家。
アナは後列左から2番目





*レントの娘ラウラ。
ロンドンで撮影





山下町25番のインペリアルホテル




今日のブラフ25付近の眺め



その212
幕末横浜オランダ人商人見聞録:『幕末横浜オランダ人商人見聞録』
C. T. A. デ・コーニング著、東郷えりか訳、河出書房新社(4月10日刊)


  昨秋から突貫工事で翻訳していたC. T. アッセンデルフト・デ・コーニングの本が、河出書房新社から『幕末横浜オランダ商人見聞録』という邦題で近々刊行される。薄い本なので、さほど苦労はしないだろうと思ったのだが、調べれば調べるほど新たな事実がわかり、校正中に何度も書き加える羽目になった。最後は時間切れで、邦訳版に盛り込めなかったことを、取り敢えずこのエッセイに書いておきたい。

 幕末の激動の時代を目撃した外国人が残した手記は多数あるが、その大半は外交官や軍関係者が残したもので、貿易商人による記録は少ない。幕末の政治に影響をおよぼしたのは、圧倒的に英・仏・米であり、明治以降はそれにドイツが加わり、江戸時代を通じて世界との唯一とも言える窓口であったはずのオランダの重要度は、蘭学が見捨てられるとともに、日本人のあいだで急速に下がっていった。鎖国時代に世の中の進歩から取り残されてしまった日本人は、手っ取り早く追いつくことに必死で、長年の恩人を忘れてしまったようだ。

 今回、特筆しておきたいのは、デ・コーニングの共同経営者であったカルストの一家のことだ。彼らに関しては、ポルスブルック領事の書簡と『市民グラフヨコハマ』から断片的な情報が見つかった程度だったが、ドイツの民間の研究者がおもに明治時代に来日した外国人の情報をご自分の趣味で集めた膨大なデータベース、Meiji-Portraits(http://www.meiji-portraits.de/)のサイトには非常に詳しく書かれていた。初代のカルスト船長が1861年にバタヴィアで死去していたことも、2人の息子、ヤンとレントが代わりに来日していたことも、このサイトから知った。日本に半世紀以上暮らしたヤンは、1864年にニッポンマルという400トンのブリグ帆船を日本政府(幕府)のために購入して、その船を回航してきたというが、これは確認できないので、勘違いなのか、歴史に埋もれていた新事実なのかはわからない。彼は先に来日にしていた弟のレントとともに、デ・コーニングが当初住んでいた居留地25番で貿易と保険業に従事したのち、独立して隣の26番で雑貨商を営んだという。

 この居留地25番の場所は神奈川県民ホール裏手の水町通り沿いで、現在はちょうどインペリアルビルがある付近だ。このビルは、1930年に川崎鉄三設計で建てられたモダニズム建築で、戦後は進駐軍に接収され、マッカーサーの護衛の将校の宿舎になっていたという。ヤン・カルストは明治に入ってから山手に移り、ここでもやはり25番に住んでいた。1915年6月27日にはこの山手25番の家で、横浜の港湾職員となっていた79歳のヤンの来日50周年記念が祝われ、友人たちが大勢、日本人も外国人も集ったと、『ジャパン・デイリーメイル』紙には書かれた。関東大震災で大被害を受けたあと、ヤンは神戸に移り住んでそこで亡くなった。


*アルホナウト号
*印のついた白黒写真はいずれも、Archive of the Family Bruijns/Amsterdam City Archives所蔵


 こうした情報を頼りに見つけたアムステルダム市のアーカイヴのサイト(https://archief.amsterdam/)には、カルスト家の多数の写真や文書が保管されていた。オランダ語のサイトをグーグル翻訳で読んでみると、保管された史料のデジタル化を無料で依頼できるらしいことがわかり、試しにいくつか選んでリクエストしてみた。数週間後、若干の史料がポジフィルムであるとか、肖像権の問題でスキャン対象から外されるが、その他は手続きに入るというメールがきた。さらに待つと、公開されたのでダウンロードが可能になったという旨の連絡がきた。そこにあった画像は、かなり鮮明で素晴らしく、訳書に盛り込めなかったことが悔やまれる。細々とした史料をきちんとリスト化して保管し、公開するだけでもたいへんな労力と思うが、なんら研究機関にも所属しない海外からの一利用者のリクエストに、これほどきちんと対応してくれたうえに、そのデジタル史料を無料で利用させるこの市のアーカイヴの気前のよさには感動し、すぐにお礼を書いた。ダッチ・アカウントなどという言葉があるように、オランダ人はケチだと言われるが、あらゆるものからお金を取ろうとする昨今の日本人のほうが、よほど守銭奴に成りさがって肝心なことを見失っている。

 今回デジタル化してもらった史料のなかでも、デ・コーニングと老カルスト船長がオランダから乗ってきた船であるアルホナウト号の水彩画は、本書に何度かその描写がでてくることもあり、とりわけ読者の方々にお見せしたかった。バーク型クリッパーのこうした船は、少ない乗組員で操縦できる効率のよい船だったという。この絵は、1861年に老船長が死去し、アルホナウト号が次のR. M. ドネマ船長の手に渡ったころにつくられた絵葉書のようだ。この船が1860年に香港で沈没しかけたことや、1868年に横浜・神戸間の航海中に行方不明になったことは、Piet's Scheeps Index(https://www.scheepsindex.nl/)というサイトで知った。ブラフ25番の家の写真もあった。いまでは高層ビルが立ち並んで景色が様変わりしているが、崖の輪郭だけは変わらない。兄弟はいずれも、日本女性とのあいだに子がいて、身体を壊してオランダに帰国した弟のレントは、Omea Taeko(大宮たえ子?)とのあいだの娘ラウラを連れ帰っている。レントはその後まもなく亡くなったが、ラウラは美しい女性に成長し、写真から推測すると、おそらくイギリス人と結婚して南アフリカに転居したと思われ、80歳前後まで生きて、没地はオランダのハーグだった。波乱の人生だ。


カルスト家の墓はサザンカの木の下にある

 兄のヤンは来日時に連れてきた妻を亡くしたあと、2度再婚しており、そのうちの1人がOrio(おりょう?)という日本女性で、明治の初めに名護市で娘が生まれている。貿易商人の家族は、バタヴィア、シンガポール、香港、上海、長崎など、各地の港に拠点を設け、そこを行き来していたので、沖縄のような思いがけない場所で、思いがけない人と結びついている。この娘ヨハンナ・クリスティナはアナと呼ばれ、横浜インターナショナルスクールで教えていたという。年齢から考えると1924年の設立メンバーだったのではないかと思われるが、同校に問い合わせてみたものの、古い史料は残っていないとのことだった。ヤンの家族写真のなかに、異母兄妹たちに囲まれた小柄なアナが写っていた。世界を股にかけたカルスト家のなかでもアナは日本に留まりつづけたと思われ、1964年に89歳前後で亡くなって、父やその他数名の家族とともに横浜外国人墓地に埋葬されている。彼らの墓はいちばん古い22区にあり、1860年に横浜で惨殺された2人のオランダ人船長のピラミッド形の巨大な墓碑のすぐ隣にある。カルスト老船長は事件当日、彼らに会いにヨコハマ・ホテルにでかけたところ、すれ違ってしまったために難を逃れた人だった。子孫たちは特別な思いでその区画を選んだのだろう。ラウラやアナは、その母親たちは、どんな生涯を送ったのか、興味は尽きない。

*印のついた白黒写真はいずれも、Archive of the Family Bruijns/Amsterdam City Archives所蔵
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.05.04更新)




東頭山行元寺




波の伊八の「波に宝珠」
(同寺パンフレットより)と
北斎の「神奈川沖浪裏」














その213
 先月、入れ替わり立ち替わり送られてくるゲラに埋もれていたころに、タイの友人たちが日本に遊びにきた。本来なら一緒に国内を回りたかったが、とうてい叶わず、せめてもと一日だけ付き合うことにした。すでに郡上八幡や金沢を旅行してきた彼らが、ぜひ行きたい場所として挙げたのがいすみ鉄道だった。満開の菜の花のあいだをのんびり走るローカル線の写真に惹かれたらしいが、どうせ行くなら一カ所くらいきちんと見学場所があったほうがよいと考え、上総中川の駅で下車して、田んぼのなかの道を4キロ近く歩いて、貴重な彫刻があるという行元寺まで行ってみた。

 なにしろ、このお寺には「波の伊八」と呼ばれる地元安房出身の彫物大工が彫った波に宝珠の欄間彫刻があり、それが葛飾北斎に「神奈川沖浪裏」のインスピレーションを与えたというのだ。ボランティア・ガイドのおじいさんの説明を聴きながら拝見した藁葺き屋根の建物内にある5面の欄間彫刻は、確かに躍動感にあふれた見事な作品だった。伊八の波には、富士山の代わりに宝珠が浮き沈みしており、人生にたとえたのではないかとの説明を受けた。馬で海に入って外房の大波を横から観察したと言われているらしい。北斎のあの作品は、江戸湾の波にしては、あまりにも大波だとかねてから思っていたので、勝浦辺りの波が下地にあったと考えれば、大いに納得がいく。武志伊八郎信由というこの彫刻師は、1752(宝暦2)年に下村墨村の名主の家に生まれたとされるので、馬に乗れる身分だったのだろうが、そんな家の息子が急に彫物大工になった背景には、この寺に「獏」と「牡丹に錦鶏」の優れた彫刻を残した群馬県花輪出身の高松又八(1716年没)が関係していそうだ。

 ネット上でざっと調べただけだが、この高松又八という公儀彫物師は、日光東照宮の幻の名工、左甚五郎につながる彫物大工の島村家初代俊元の弟子で、足尾銅山と日光と利根川、江戸を結ぶ「銅街道」沿いにあった花輪に、彫物師の一大集団を生みだした元祖だった。彼の作品は、行元寺のもの以外はすべて消失しているそうなので、その意味でもこのお寺は貴重な存在だ。

 一方、波の伊八は、島村家三代俊実の弟子である、上総植野村の島村貞亮に習ったという。彼が行元寺の欄間のために制作した「松鶴」の図には、菊のように見える「唐松」が彫られていた。日光の三猿の後ろにあるのと同様の奇妙な松だ。しかも、日光の「唐松」とそっくりに、中央に松ぼっくりが三つついた形で彫られている。非常に独創的な波にたいし、パターン化されたこの松は、彼の関心がそこにはなかったことの表われかもしれない。

 明代の磁器などにもよく描かれた「唐松」にたいし、「大和松」という、日本人の目にはより松らしく見えるパターンもある。日光東照宮の「猿の一生」の8枚の彫刻のうち3枚は「大和松」だ。この有名な猿のパネルは複数の彫刻師による共同作品か、もしくは松を彫る職人が複数いたのかもしれない。波の伊八はとりわけ「唐松」が好きだったようで、画像検索した限りでは、「大和松」は1作品にしか見つからなかった。「唐松」と呼ばれるくらいだから、このモチーフのルーツは大陸にありそうだ。形状からしてチョウセンゴヨウかもしれない。食用の松の実はこの木の種子だ。

 独創的でないこうした伝統模様には、文化の伝播の形跡が見えて、それはそれでおもしろい。工房で師から弟子へ受け継がれたパターンやモチーフは、竜や麒麟、仙人、天女、吉祥雲、蘇鉄、棕櫚など、想像上のものや外来のものを、似たような図案で広めてきた。左甚五郎に端を発する彫物大工たちの描く人物が、日光東照宮でも熊谷の妻沼聖天山歓喜院でも成田の新勝寺でも、中国人にしか見えない理由はそのあたりのあるのだろうか。波というモチーフも、波模様として背景に、あるいは縁取り程度によく描かれており、これを最初に図案化した人たちが海洋貿易に従事していたことを思わせる。端役だった波を主題としたところが、伊八の独創的なところだ。

 松と鶴のモチーフは、コトバンクによると「藤原時代に賞用された模様」であり、考えてみれば『100のモノが語る世界の歴史』の日本の銅鏡の図柄は松の枝をくわえた鶴だった。とりわけ松食い鶴の文様は、奈良時代に流行した花喰鳥を和風化したもので、起源は東ローマ、ペルシャあたりにあって、元来は王侯貴族を表わすリボンをくわえていたらしい。同書に掲載されたシャープール2世の絵皿には、リボンが付いていた。見る人が見れば、そこに脈々と伝わるものが感じられたのだろう。

 画像検索中に、富山にも「井波彫刻」という、やはり江戸中期を起源とする優れた欄間彫刻の伝統があることを知った。しかもこの夏、富山県博物館協会は「波の伊八パネル展」を開催するらしい。房総の伊八関連の作品はいずれも、寺社が細々と管理していて、行元寺のものなどは撮影も不可で、これでは一般に知られようがなく、まして研究対象にはなりにくい。もっと広く公開して、代わりに保存や展示の支援をしてもらえばいいのにと思うのだが、いまはお金のかかる文化財の保存に自治体も国も及び腰なのだろう。観光の目玉として売れるなら利用するという程度の、安易な対応をされて終わりなのかもしれない。政財界の有力者に文化人のいない国は、いずれ集団としてのアイデンティティを失う運命にある。

 日帰りできる距離とはいえ、そう簡単には行けない場所なので、こんなことがいろいろわかったのは友人たちのおかげだと感謝している。久々に田舎も歩いてカエルの合唱を聞いたのもよかった。次の仕事には、カエルの合唱が関係するのでなおさらだ。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.06.09更新)




『馬・車輪・言語: 文明は
どこで誕生したのか』
D. W. アンソニー著、筑摩書房




その214
 いまとなってはどの本だったのか思いだせないが、2009年の「コウモリ通信」を読み返してみると、仕事でリーディングした多数の英語の原書のどれかに、老子の「無用の用」が言及されていて、原詩を調べたことがあった。「三十輻共一轂。当其無、有車之用」と始まるものだ。このときはもちろん、無についてあれこれ考える老子の哲学に感服したのだが、それとともに私の記憶に深く残ったのは、輻(スポーク)も轂(ハブ)も馴染みのない漢字であるだけでなく、訳そうにも該当する日本語が思いつかないことだった。それぞれ「や」と「こしき」と読み、強いて言えばこれが日本語の訳語なのだが、実際には「や」は細長い形状から、「矢」のようなものという意味だったかもしれない。「こしき」は、同じ音で鹿児島の甑島にも使われる字があり、これは円形で中心に穴が空いた米を蒸すための土器だった。初めて車輪を見た飛鳥時代の人たちが連想したのは、この調理用具だった可能性はないだろうか。

 こんな経験がきっかけで車輪の歴史に興味をもったことから、あれこれ検索するうちに何度も拾い読みすることになったのが、アンソニー・W・デイヴィッドの『The Horse, the Wheel, and Language』(2007年)だった。その後、『100のモノが語る世界の歴史』の仕事でウルのスタンダードの鮮明な写真を見て、初期の車輪にはスポークすらなかったことに気づき、一つの技術が生まれる背景にどれだけの歴史が存在したのかを思い知らされた。

 一連の仕事がひと段落した2015年にとうとう原書を手に入れ、一気に読んだあげくに、折しも開催されていた「大英博物館展」の内覧会のあと、いま思えば能天気にこの本の翻訳企画を大英の仕事の編集者にもちかけたのだった。以来、紆余曲折を経てこのたびようやく邦訳版が完成した。邦題はそのままずばり、『馬・車輪・言語』となったが、「文明はどこで誕生したか」という副題が本書の内容を凝縮している。

 言語学と考古学という二つのまるで異なる分野の架け橋をつくることと、ロシア、ウクライナ、東欧という、長らく壁の向こうで馴染みのなかった地域の歴史と地理を概説することを目的とした本なので、著者は平易な文章を心がけ、専門用語を噛み砕いて説明している。だからこそ、私のような門外漢でも訳せると錯覚したのだが、いつものように調べた訳語をノートに書きつける程度では埒が明かず、途中でキリル文字や妙なアクセントだらけの東欧の文字の表記とともに、固有名詞をエクセルに入れ直す羽目になった。著者はアメリカ人なので、ロシア語などで書かれた論文から、これらの地名や文化名を一つひとつ拾っていた苦労は並大抵のものではなかったろう。そのためか、原書はスペル間違いも散見され、私は余計に悩まされることになった。

 本書について述べたいことはいくらでもあるが、まずは馴染みの薄い比較言語学に関連したことを書きたい。学生時代に言語学のほんのさわりだけ習ったことがあるが、当時の私にはチンプンカンプンでどうも興味がもてなかった。その後、『日本語のルーツは古代朝鮮語だった』(朴炳植著、HBJ出版局)という本を読んだことがあったが、いかんせん基礎知識がないため、いつか検証してみたいと思いつつ、半分ほど理解して終わった。したがって、私にとっては本書が事実上、初めて本腰を入れて読んだ言語学の本ということで、正直言えば、過去200年にわたって言語学者たちが築いてきた功績について理解するのが精一杯だった。

 それでも外国語を専攻し、こうして日々、言葉と格闘している身としては、本書の記述には思い当たる節が多々あった。その一つはクレオール語だ。別々の言語が収束した結果生じた言語のことで、名詞が格変化せず、単数・複数の区別がなく、動詞は時制、性別、人称によって変化せず、副詞や形容詞を強調するために反復するなどの説明を訳しながら、タイ語や日本語はクレオール言語ではないのかとふと思った。タイ語では、時制はただ助動詞か副詞を加えて表わすし、「マークマーク」や「ローンローン」のように形容詞を重ねて程度を表わす方法はえらくシンプルで、なかなか英語を覚えたがらなかった娘が、タイ語は素直に学べた理由がそこにあった。子供にしてみれば、「いっぱいいっぱい」、「暑い暑い」と言っているのと同じで、親近感を覚えたのだろう。だが、逆に言えば、日本語でもそういう表現は可能だということだ。日本の地理的条件や歴史を考えると、氷河期以降、大陸から海を越えて渡ってきた人びとは最初から家族連れで移住してきたわけではないだろう。男性中心で構成された渡来人が、すでに日本列島にいた女性と家庭を築き、その過程で語彙は増え、文法は単純化された可能性がありそうだ。渡来人は数こそ少ないが、高度な技術をもち、何よりも筆記を日本に伝えたわけだから、その影響力は絶大であったはずだ。

 もう一つ、とくに印象に残ったのが、どういう状況で言語の交替が起こるかに関する考察だ。スコットランドの漁民が話していたゲール語が、戦後、漁業の衰退とともに急速に消えていったことが例として挙げられ、わかりやすくこう書かれていた。「廃れてゆく言語にまつわる否定的な評価は、孫子の代によって重要度の低いものへと分類され直しつづけ、しまいには誰もおじいちゃんのように話したくはなくなるのだ。言語の交替と過去のアイデンティティの蔑視は、密接に関連しているのである」

 最近、やや下火になったが、一時期、「美しい日本語」が大いに流行った。翻訳文はただでさえ固有名詞がカタカナ表記なので、できる限りカタカナ語ではなく日本語に置き換えろと、故鈴木主税先生に言われつづけたため、前述のように私は日々、「日本語の」訳語を探すことに悪戦苦闘している。でも、それは結局のところ、「配偶者選好性」のような漢語に行き着くことが多く、大和言葉はあまりにも語彙が足りない。近年の日本語礼賛ブームは、じつは日本人としてのアイデンティティが揺らいでいることへの危機感の裏返しなのであって、これは決して言語だけの問題ではない。

 近年は、英語の早期教育をめぐる問題でも意見が大きく分かれている。実際には文科省の教育制度への不満が大きいようだが、すべての日本人に外国語が必要なわけではないという主張は、国内で安泰した地位を享受している人の発想だ。本書によると、こうした「地元型戦略」の人は、「自分が育ってきた母語である言語で、必要なことはすべて賄えるので、彼らはその言語だけを話すようになりがちだ」という。大学教育を受けた北米人の大半がこのカテゴリーだそうだ。だが、この先の世代にも、高度成長期やバブル時代を謳歌してきたわれわれの世代と同じ機会が確保できるのだろうか。あいにく、明日の暮らしの保証もない私のようなフリーランスは、リスク「分散型戦略」で多くの外国語を学ばざるをえない。言語というものにたいするこのような視点が得られることも、本書の大きな魅力の一つだ。ぜひご一読を。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.07.01更新)




『北斎漫画 3編』より




輪違い(七宝繋ぎ)文様




良渚文化の玉j








その215
 このところ文様の歴史に興味をもっている。葛飾北斎が『新形小紋帳』や『北斎漫画』で文様の手本を描いているのを知って、図書館から本を借りたり、中古の美術本を購入したりしてパラパラ眺めている。北斎は輸入顔料の「ベロ藍」を率先して使い、遠近法を学ぶなどして、西洋の技術を積極的に取り入れたことで知られる。そんな彼が輪違い、もしくは七宝繋ぎと呼ばれる文様らしきものの描き方を指南しているのだが、その方法を見て目が点になった。この文様は私のような文系人間から見ても、まずは正方形の内側に接する形で円を描き、正方形の四隅から、同じ半径で円を描いてゆくのが本来の描き方だと思うのだが、北斎は文様の花びらのような部分に注目し、そのパターンを反復するように教えているのだ。円の接線という発想がなかったのは間違いないし、4分の1ずつ円が重なっていることすら気づいていなかったのかもしれない。

 この文様はインダス文明の土器などに紀元前3000年には描かれていた。ヨーロッパではアレクサンドロス大王の東方遠征後に広まり、2世紀ごろからローマ帝国の各地でモザイク模様に頻繁に用いられた。ジャワ更紗ではこのモチーフはカウンと呼ばれ、13世紀以降に取り入れられた古典的文様の一つだという。17-18世紀にインドなどから輸入され、彦根藩が所有していた古渡更紗にも「輪違手」が若干含まれている。北斎はこの輪違いらしき文様に「大イ紋高麗形」と書いているので、畳の縁につける白と黒の織物である高麗縁(こうらいべり)のつもりだったのかもしれない。円を重ねずにぴったり並べた大紋の高麗縁は、親王・大臣などに使用が限られていた。四つの円のあいだに菱形のような隙間ができ、それぞれの円の中心点を結べば正方形になるところが、輪違いに共通する模様だ。高麗時代12世紀の韓国の国宝、青磁透彫七宝文香炉には、見事な輪違いの透彫りがあるので、高麗縁にも輪違いのものがあったと思われる。『枕草子』には「高麗縁の筵青うこまやかに厚きが」と書かれており、918年に建国された高麗と平安貴族に深い関係があったことが窺える。日本ではほかに、花輪違の家紋など、中心に模様を加えることも多かった。有職文様(ゆうそくもんよう)の小葵文や、更紗のウンヤ手も、輪違いの崩れたものの可能性がある。ウンヤの意味は不明だが、よく見ると盤長結(ばんちょうむすび)のような模様が描き込まれているので、それを指していたかもしれない。

『北斎漫画』八編の序文には、「離婁の明公輸子の巧も規矩を以てせざれば方員を成事能はず」と、『孟子』の一節が引用されている。規(き)はぶんまわしと呼ばれたコンパス、矩(く)は定規のことで、これらがなければ方形も円も描けないという意味だ。孟子(紀元前372-289年)は戦国時代の人なので、中国ではこの時代にはコンパスを使って正円を描いていたことになる。

 いや、それどころではない。紀元前3400-2250年ごろ長江下流に栄えた良渚文化から副葬品として多数出土する璧とjという謎の玉器が、現代人から見ても完璧な幾何学工芸品なのだ。壁(へき、bi)は直径20センチ前後の特大五円玉のような形状をしている。j(そう、cong)のほうは高さがまちまちの四角柱で、中央に円筒状の穴が貫通しており、強いて言えば、サランラップの箱の両端をくりぬいたようなものだ。どちらも工業製品を見慣れたわれわれの目にはさほど特異な形状には感じられない。しかし、新石器時代にあったはずの良渚文化で、直線、直角、平行線どころか正円、同心円、円柱といった幾何学の知識を必要とする精巧な製品が、軟玉(ネフライト)とはいえ、硬い石から製造されていたことにはただ驚かされる。jは長いものでは47センチ以上にもなり、その中心に上下からドリルで穴をうまく貫通させる作業は、現在の電動工具でも簡単ではないだろう。

 私が璧とjを知ったのは数年前の『100のモノが語る世界の歴史』の本と大英博物館展の図録の仕事からだったが、用途不明の翡翠の玉器ということで、頭のなかに宙ぶらりんの状態で収まっていた。一般には、戦国時代の書とされる『周礼』に、璧とjがそれぞれ天と地を表わすと書かれたことを根拠に、祭器として説明される。だが、実用性のない祭器をつくるために、新石器時代の人がこんな高度な技術を生みだすだろうか? 中国古代史の専門家からは、『馬・車輪・言語』に毒されているとして一笑に付されるに違いないが、結論から言うと、円盤状の璧は車輪そのものか轂(ハブ)の補強材で、円筒状にくりぬかれたjは軸受、つまり車軸を回転させるためのベアリング・ブロックだったのではないかと推測している。これらは当初、ステップのワゴン葬墓のように、天国へ行く車の代わりに墓に納められたのではないか。硬い素材による完璧な円や円筒への異様なまでのこだわりは、車輪と軸受の製造以外に思いつかない。

 一つのヒントは、良渚文化を代表する装飾にある。人面の神が獣にまたがる姿を表わしたものだ。おそらくより古い形態では、神は大きな被り物をしたギョロ目の人物だが、jに刻まれ様式化されたものは、正円の左右にわずかに線を引いた切れ長の目に、頭部には二本のバンドをはめ、巻き毛の顎髭のような枠に下部を囲まれている。少し時代が下った三星堆遺跡から出土した仮面や人物像をどことなく思わせる濃い顔だ。獣もやはり正円のびっくり眼で、その周囲には幾重にも細かい同心円や渦、線が描かれている。この「神」は西方から馬に乗ってやってきた印欧語を話す民族だったとは考えられないだろうか? 高度な技術や武器・道具をもち、おそらくは硬く丈夫な素材を求めて馬で途方もない距離を一気に移動してきた少数の異民族だ。彼らが翡翠を扱う紅山文化と遭遇し、現地民と良渚文化を築いたのではないのか? 在来民にとっては、幾何学の知識や製造技術を教え、大きな馬を操る彼らはまさに神だったのではなかろうか?

 手間暇かかるjは早くに廃れたが、璧は漢代まではつくりつづけられ、その一つは宮崎県串間市で出土した。璧の形状はのちに青銅鏡や硬貨に受け継がれたとも考えられている。ハブが四角く、車軸に固定されていたと思われる円盤状車輪もヨーロッパで出土しているので、永楽通宝のような四角い穴開き硬貨も、五円玉も、じつは璧の遠い子孫なのかもしれない。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.08.02更新)




インペリアルビル




インペリアルビル一階。
手すりの先端にあった大きな装飾物は、
戦時中、金属供出させられたという。





インペリアルビルのモザイクの床




昭和ビル




ジャパンエキスプレスビル



その216
 先日、仕事が少し一段落した折に、横浜の山下町25番地にあるインペリアルビルを再び訪ねてきた。オーナーの方にお会いして貴重なお話を伺える機会だったので、私一人ではもったいないと思い、参加させていただいたばかりの地元の歴史研究会、 横浜歴史さろんの方々もお誘いして行った。

 訪問前には少しだけ下調べもして行った。Meiji-Portraits (meiji-portraits.de/)のサイトからは、4月のコウモリ通信に書いたカルスト家の時代以降の居留地25番の歴史もいくらか判明した。本当にありがたいデータベースだ。デ・コーニングのビジネス・パートナーであった老カルスト船長の息子レントは、1864年にはデ・コーニングと袂を分かち、保険業と貿易会社のカルスト&レルズ商会を設立した。前回も書いたように、レントはやがて健康を害し、日本人女性とのあいだに生まれた当時6歳くらい娘ラウラを連れて1872年にオランダに帰国した。レントの兄のヤンは別会社を経営していたので、レントの帰国とともにカルスト&レルズ商会は撤退したと思われる。

 居留地25番では、同社の従業員のJ・P・フォン・ヘーメルトが保険の代理店業を営むようになった。翌1873年からは、シモン・エヴァース商会もやはり保険の代理店業を25番で始めており、1886年発刊の『日本絵入商人録』にはこの両社が25番の入居者として書かれている。初代ヘーメルト氏は、1894年に箱根の奈良屋ホテルで急死し、息子が後を継いでいるが、その息子も1900年には廃業して、数年後に日本を去った。ヘーメルトのあとには、24番のマイヤー商会の従業員のR・シャフナーが自社を設立して25番に入り、少なくとも1908年までは営業していた。一方のシモン・エヴァース商会は、経営者がたびたび入れ替わりはしたが、1920年まで25番に横浜支店を構えていたようだ。同社はなんと、レイボルド株式会社として現在も日本に拠点をもっており、2005年に編纂された「レイボルド100年の歩み」には、この25番の当時の貴重な写真が掲載されていた!

 1923年の関東震災で横浜は壊滅的な被害を受けた。地価が下落したのを機に、開港以来、居留地で外国人がもっていた永代借地権を政府が買収し始めたという事実を、この原稿を書きながら初めて知った。居留地そのものは1899年に廃止されたが、永代借地権が最終的に解消したのは1942年のようだ。横浜から外国商館がなくなったのは、震災と永代借地権の消滅の両方によるものだったのだ。

 現在、この地にあるインペリアルビルは、1930年に上田屋ビルディング第2号館として建設された。長期滞在する外国人向けのアパートとして、現オーナーの祖父に当たる方が新たに始めた事業だったという。お祖父さまはジャーディン・マセソンに勤めたのち、弁天通で絹製品を製造販売する上田屋を開業なさったそうで、そちらが本業だった。アメリカのメイシーズから受注した1937年という日付入りの絹の婦人パジャマや下着などの型紙が、ガラス付き木箱のなかにまだ大切に保管されていた。見事なピンタックの入った絹のドレスシャツは、足踏みシンガーミシンで職人さんが縫製していたそうだが、太平洋戦争で徴兵されてほぼ全員が戦死してしまったという。つい数年前まで得意先であったアメリカを敵に回し、彼らはどんな思いで戦地に赴いたのだろうか。上田屋は、ホテルニューグランド裏手にあった1号館のほか、24番地の互楽荘を3号館とするはずだったが人手に渡った、という話をオーナーから伺った。私は昭和史には疎いので、そのまま聞き流していたのだが、あとで調べてみて驚いた。高級アパートとして建設されたこの建物は、太平洋戦争中に海軍に接収され、戦後は米軍に接収されて神奈川県で初の慰安所となったのだという。

 インペリアルビルも、わずか一日の猶予を与えられただけで米軍に接収され、その翌日には屋上に小屋が建てられ、マッカーサーの将校用の部屋が増築されていたそうだ。川崎鉄三設計のモダニズム建築という割には、外観がいま一つ垢抜けて見えなかった理由は、屋上部に現存する占領軍による増築部分のせいだったのだ。横浜は空襲によって大被害を受けたが、インペリアルビルや隣の互楽荘は最初から接収しようと目を付けていたらしくほぼ無傷だったそうで、B29の焼夷弾攻撃はきわめて正確だったとオーナーは語っておられた。屋上の小屋はその歴史をいまに語る証人だ。

 この日、私は川崎鉄三に敬意を表して、彼が設計した昭和ビルとジャパンエキスプレスビルも訪ねてみた。昭和ビルのほうはテナントの弁当屋がビルの雰囲気を台無しにしていたが、入り口にはインペリアルビルの一階とそっくりの八角形と正方形のタイルが敷かれていた。検索してみると、江戸東京たてもの園に移築された子宝湯にもよく似たタイルが使われていた。1929年に足立区に建てられたこの銭湯は、「施主が出身の石川県から気に入った職人をつれてきて造らせたという」。川崎鉄三は経歴がよく知られておらず、謎の建築家らしいが、石川県の出身と考えられている。何か関係があるだろうか? 東京高等工業学校(現在の東京工業大学)の建築科で欧米に留学経験のある前田松韻に学び、1912年に卒業。彼の顔写真入りの明治45年の卒業アルバムは高値で売られていた。いまも熱烈なファンがいるらしい。その後、台湾総統府に勤め、廈門、香港、海南島、広東など海外を転々としているが、西洋風の建築は、こうした東アジアの都市で学んだのだろうか。横浜へは1925年に若尾幾太郎商店の「若尾ビル」を新築するためにやってきた。幾太郎は、甲斐出身の生糸王若尾逸平の異母弟の(初代)幾造の孫に当たる。若尾家は横浜開港以来、甲州財閥として名を成し、銀行業から東京馬車鉄道、東京電燈(のちの東京電力)まで手広く経営していたようだ。まったくの偶然ながら、インペリアルビルを訪問した日に、私の先輩が送ってくださったクリスチャン・ポラック著『絹と光』(アシェット婦人画報社)には、『横浜諸会社諸商店之図』(1886年ごろ刊)に掲載された生糸賣込問屋若尾幾造の銅版画が転載されていた。上田屋も甲府の出身だそうで、川崎鉄三にビルの設計を依頼した経緯には、若尾家が何かしら関係していたのだろう。

 ウィキペディアよると、若尾家は1930年の昭和恐慌の影響などで没落している。川崎鉄三自身も1932年にはおそらく43歳で没している。現存する彼の作品であるインペリアルビルとジャパンエキスプレスビル(ともに1930年)、昭和ビル(1931年)は、いずれも最晩年の作品ということになる。ジャパンエキスプレスビルの2階には、古い床板もそのままに、往時の雰囲気を活かした輸入雑貨・衣料店が入っている。少し暇になったら、1階でビールでも飲みながら、横浜の歴史に思いを馳せてみたい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.09.07更新)




土台に三葉文の付いた
慕容部の金製歩揺付冠飾





藤ノ木古墳出土の
鞍金具の亀甲繋ぎ文



江田船山古墳出土の金銅製飾履。
かつては歩揺が付いていた


その217

いくつかの地図を元に合成した遼西、遼東一帯の地図

 日本の古代史は、手がかりとなるはずの『古事記』や『日本書記』がなんとも意味不明なうえに、解釈を試みる多くの人の渡来人アレルギーが凄まじく、一歩踏み入れるたびに辟易として長らく近づく気になれなかった。ところが、祖先のルーツ探しで北関東の歴史をおさらいした際に、以前に切り抜いてあった上野三碑や埼玉の稲荷山古墳の新聞記事を読み直したことから、多胡碑の「胡」とは何を意味するのか興味をもち、そこから大量の資料を斜め読みし始め、昔読んだ江上波夫の『騎馬民族国家』も引っ張りだしてみた。幕末までたどった祖先の一人は、高麗流八條家馬術を学んでいたので、漠然と高句麗との関係を考えていたのだが、ひょっとすると「東胡」の可能性もあるかもしれない。そう思った理由の一つは、『馬・車輪・言語』を訳した際に参考に読んだ、沖ノ島など、ムナカタの遺跡に関するいくつかの論文だった。図版にステップからの技術を思わされる銅矛などが掲載されていて、遼寧式と書かれていたことだ。そこで、五胡十六国時代についてざっと学び、遼寧式銅剣は春秋戦国時代の燕にいた遊牧民と関連がありそうなことまではわかったが、決定的な参考文献となりそうな本が高額で、図書館にも入っておらず、まだ読めていない。一方、少し時代は下って4世紀から5世紀にいまの遼寧省西部を中心に前燕、後燕、北燕の「三燕」を相次いで建国した鮮卑の慕容部が、日本の古墳時代と奇妙につながりがあることはわかった。そこでこれに狙いを定めて少々調べてみた。以下、その付け焼刃の知識から、頭のなかを整理するために少しばかりまとめてみた。

 3世紀から4世紀にかけて、ユーラシアでは気候が寒冷化して牧草が育たなくなり、遊牧民が次々に南下した。鮮卑とはひどい漢字を当てはめられているが、東洋史学者の白鳥庫吉は、帯鈎(たいこう、帯金具)を意味する古代トルコ・モンゴル語sarbiがその語源の一つではないかと考えていた。三頭の鹿が並ぶ図柄のベルト・バックルや、「晋式帯金具」と呼ばれる龍文や葉文の透かし彫りが施された金具が出土している。ステップの騎馬民族にとってベルトが象徴的な意味をもっていたことを考えると、なるほどと思わせる説だ。鮮卑はいくつかの部(氏族)に分かれており、華北を統一して五胡十六国時代を終わらせた北魏の建国者はその拓跋部だった。上野三碑は北魏や仏教関係者と関連があると言われる。鮮卑は氏族外婚制であるため、母方の血筋が部ごとにかなり異なるらしい。慕容部の始祖とされる莫護跋は3世紀後半にかつての長城の南側の大凌河流域、つまり元の「燕」に移り住み、晋の礎を築いた司馬懿に協力して勢力を伸ばし、その子孫がやはり「燕」の国号で前燕を建国した。羽振りのよい時代には中原にまで進出した三燕国だが、本拠地は遼西の龍城、現在の遼寧省朝陽市だった。慕容部については、『晋書』に、歩くと薄い金属片の葉が揺れる、当時流行の歩揺冠をこの莫護跋が気に入っていたため、歩揺が訛って慕容になった(其後音訛、遂為慕容焉)という説が、真偽はともかく書かれている。中国語だと慕容はMurong、歩揺はbuyaoで似ても似つかないが、ハングルだと容はyong、揺はyo、日本語ならどちらも音読みはヨウなので、鮮卑の言葉はこれに近かったのかもしれない。

 この歩揺冠は、印欧祖語の原郷であるドン川下流のノヴォチェルカッスクにある紀元前1世紀のサルマタイ王女墓や、アフガニスタンの後1世紀のティリヤ・テペ遺跡などにその源流が見られ、日本では藤ノ木古墳や三昧塚古墳、山王金冠塚などから歩揺付きの金銅製の冠が出土しており、新羅からは純金の金冠も6点見つかっている。金銅は、青銅製品に水銀に溶かした金を塗り、加熱して水銀を蒸発させ金を付着させてつくるそうだ。日本では銅も金も8世紀にようやく産出するようになり、錫鉱が見つかったのは確か明治になってからで、辰砂は早くから採掘していても水銀に精錬できていたかは定かではなく、アマルガム鍍金は難易度の高い技術だ。歩揺は小さな飾りだが、歩くと揺れて光るだけでなく、金属音がしたのではなかろうか。質素な土器やb器をつくって暮らしていた人びとにとって、その輝きと音は、文明と権力を何よりも表わす威信財だったに違いない。昭和初めの作であるうちのお雛様は、享保雛と似たような垂飾がゆらゆらと下がる冠をつけている。こんな冠を日本でも実際に使っていたのかと、子供心に不思議だったが、能や稚児行列の天冠にも似たものが見られるし、大日如来の冠や舞妓のびらびら簪まで、その後継種はいまもいたるところに健在だ。日本と朝鮮半島からは、歩揺のついた金銅製の靴も副葬品として出土している。飾履と呼ばれるこうした靴は、サイズが巨大で、底面にまで歩揺がつくなど、実用ではなかったようだ。鮮卑の飾履は本体が革製だった可能性がありそうだ。

 鮮卑の遺跡から出土する「晋式帯金具」の詳しい研究が長年かなり行なわれているのは、4世紀前半とされる日本の新山古墳と、5世紀とされる行者塚古墳からも類似の金銅製帯金具が見つかっており、早期における東アジアの交流の証拠となっているからだ。日本で出土した帯金具についている文様は、「三葉文」と呼ばれている。三葉文は前燕建国前の晋代のものとされる十二台のM8713号墓や房身村2号墓から出土した樹状の金製歩揺の土台にも見られる。金沢大学考古学紀要32の大谷育恵氏の「三燕金属製装身具の研究」(2011)には多くの写真が掲載されており、参考になる。生命の樹を表わしたこの装飾は、土台の四隅に小さな穴があり、布製の冠に縫いつけた金?(きんとう)と考えられている。最初に見たとき、この文様はそれこそ燕ではないかと思ったが、中央の突起のない「双葉」になることもあり、パルメットの東アジア版の忍冬唐草文、つまりスイカズラ属のつる草と考えられているそうだ。鮮卑に忍冬はしっくりこないが、中国語でも金銀花と呼ぶようなので、鮮卑の金ピカ好きを反映するのかもしれない。これは仏教と関連して西域から伝わった文様のようだ。三燕時代の墓とされる遼寧省北票市の喇嘛洞墓地から出土した帯金具には、これとそっくりなものと、少し異なるものがあり、前者が晋朝の官営工房でつくられ、後者は三燕での模倣品と考えられている。鮮卑はステップや西域の文化を身につけてきたように、漢文化も積極的に取り込んでいたのだ。新山古墳の年代が4世紀前半だとすれば、その帯金具を日本にもたらしたのは誰だったのか。

 細々と書いたらきりがないが、馬関連で何よりも気になるのは、6世紀後半の藤ノ木古墳から出土した金銅製鞍金具と、朝陽市十二台88M1墓出土の鞍金具の文様の類似だ。金銅製で亀甲繋ぎ文に透かし彫りという点は、無関係とは思えない。しかも、それぞれの角に円形の飾りが付いている点までそっくりだ。亀甲繋ぎ文は飾履にも刻まれていたので、なおさら興味がわく。ネットで調べる限り、慶州や大邱の遺跡からも類似の鞍が出土している。三燕の鞍金具と日本で出土するものとのあいだには、型式上で若干異なる部分があるようで、朝鮮半島を経由して技術が伝わる過程で型式が変化したのではないかと、『三燕文化の考古新発見』(飛鳥資料館)には書かれていた。

 鮮卑に関連した遺物は、中国でも江蘇省から広東省まで広範囲で見つかっているという。高句麗を経由せずに新羅や伽耶に鮮卑の文化が伝わったのは、黄海の交易に従事していた海洋民がなんらかの形でかかわっていたとも考えられている。いずれにせよ、古代の謎は簡単には解けそうもない。気長に調べていくことにしよう。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.10.03更新)




新入りのおチビさん




昔つい買ってしまったダッバ


最近つい買ってしまった
遮光器土偶と馬型埴輪


その218
 昨秋からつづいていた怒涛の日々をなんとか乗り越えた気がする。数カ月ほど失業していた折、別件でお電話をいただいた編集者に、「仕事ないですかね、暇なんですけど」と言ってみたところ、ちょうどリーディングの仕事があるからと頂戴したのが、先日終えたばかりの本の仕事だった。企画会議はすんなり通ったのだが、完全原稿がまだでておらず、待っているあいだに状況が一変して別の本2冊が先に刊行されることになったため、発売予定の遅いこの仕事が後回しとなった。このように、自分の予定がまったく立たず、繁閑の差があまりにもあるのが、出版翻訳の苦しいところだ。年始にはこの本の最終原稿がPDFファイルで届いていたのだが、本腰を入れて取り組めるようになったのは5月以降だった。綱渡りも3本目となるとさすがに注意散漫になり、気力も衰え、なかなか思うように進まなかった。

 しかも、今回は性選択という進化生物学の本で、前2冊とは分野もまるで異なり、参考文献を何冊か読んで付け焼刃の勉強はしたものの、細かい用語の使い分けなどはさっぱりわからない。学術用語は、学会ごとに、研究者ごとに勝手に訳語をつくってきたせいなのか、同じ現象でも分野が変わると用語もころころ変わるのでじつに厄介だ。生物を専攻した娘が翻訳書の誤訳を指摘するのをしょっちゅう耳にしていたので、この本は原稿段階から読んでもらうつもりだった。ところが、とうの娘が8月に出産をし、睡眠不足と慣れない育児と、自分自身の仕事で手一杯のため、とくに問題の多い箇所だけは引用元の論文から読んでももらったが、それ以上は頼めなかった。そこで、同じく生物好きで、少なくとも通勤時間は原稿読みに使えそうな娘の夫に、ない時間をひねりだして読んでいただいた。まあ、その分、私も週に3回は沐浴や子守を手伝い、ダッバというインド製ステンレスの弁当箱にあり合わせの昼食を詰めて通っている。まあ、餅は餅屋、適材適所ということで、私は子守と、湯女(余計なサービスなしの)と、ダッバ・ワラ(弁当運び人)を兼業し、利用できる伝は活用することにした。初校前の荒削りの訳文に婿殿は面食らったようで、怪しい箇所をあちこち見つけてくれた。そもそも言葉の定義づくりが本職とかで、見ているところがじつに細かい。生物でsupernaturalを超常的と訳すのは違和感があるとか、触角葉とすべきところを触覚葉にしていた漢字の間違いまで、いろいろ指摘された。

 校正者や編集者からもゲラで多数の鋭い指摘を受けた。翻訳中に不明な点を深く調べてしまうと、そのことに気を取られて文脈を見誤ることがある。私が左右非対称のシオマネキの説明の続きと思い込み、人間が柄付きブラシで背中を擦るようなイメージと誤解していた箇所では、超多忙な編集者がそのブラシの絵を描き、「このような生物が思い浮かばないです」と、丁寧に間違いを指摘し、本来、著者が意図したはずの全身が左右非対称の生物である海綿の絵まで添えてくださった。自分の勘違いにようやく気づいたとき、その絵を見て笑いが込み上げてきたのは言うまでもない。働き詰めだったこの1年間に老眼も確実に進行した。イタリックで書かれた学名は2カ所もスペルを間違えていたし、tailとtrailを読み間違えていたのだ。「モルフォチョウは尾をひらひらさせて」と訳したところ、「尾があるんですよね? 念のために」と、ゲラに書かれたのには参った。慌ててモルフォチョウを画検索してみたが、尾状突起もない。蝶に尾はないよなあ、と頭をかきつつ、原文をよく見たらtrail、つまり小道沿いにひらひらと飛んでいたのであり、またもや苦笑せざるをえなかった。こうした支援体制があってこそ仕事がつづけられてきたのだと、感謝することしきりだった。

 自分ではまだ若いつもりでも、体は確実に衰えてきている。それを実感したのが娘の出産当日だった。出産時に悲劇に見舞われた親戚、友人が何人かいるし、私自身も恐ろしい思いをしたので、出産時にはかならず付き添うと伝えてあった。破水したという電話で叩き起こされると、寝ぼけ眼で家を飛びだした。ところが路面とのあいだの最後の段差を忘れていたため、思いっきり転び、学生時代のゲレンデ以来、久々の顔面制動をするはめになった。痛む顔を押さえつつ、夜更けに坂道を駆け下りる姿を見ている人がいたならば、『やまんばのにしき』にでてくる山をゴーッと駆け下りる山姥かと思っただろう。おかげで、初孫とは、青あざに擦り傷というひどい顔で対面するはめになった。余談ながら、瀬川康男が描いた山姥の錦は亀甲繋ぎ文の錦だった!

 娘は低体重児でシワシワのヨーダそっくりの顔で生まれたが、孫娘もかろうじて2500gのラインを超えた程度の小さい赤ん坊で、オルメカ族のトウモロコシ頭かと思うほど頭が細長かった。ふっくらツヤツヤした赤ちゃんモデルとは程遠い姿に、誰に似たんだろうねえ、とお互いを探り合った。あぐらをかいた鼻だけは間違いなく娘似で、「よりよって、鼻が似るとは」と娘が嘆いていた。「自分の顔は、ある意味で自分のものだが、実際には両親や祖父母、曽祖父母など代々受け継がれてきた特徴のコラージュからなるものだ。悩みの種の、あるいはお気に入りの唇や目も、自分だけのものではなく、祖先の特徴なのだ」と、『馬・車輪・言語』で著者アンソニーは語る。泣いて目元を真っ赤にするときは、「遮光器土偶」などと呼ばれているらしい。ひどくぐずる子ではないが、うまく寝つけないときは抱っこで子守唄や童謡がやはりいちばん効く。数十年ぶりに歌おうと思ったが、どれも歌詞はうろ覚えになっていた。適当にごまかして歌うと、おチビさんがまだ焦点のよく定まらない目で、眉間にシワを寄せ、お父さんそっくりの表情で「本当にそう?」と言わんばかりにこちらを見る。ゲラで散々、やれ、日本語として不自然だとか、同じ助詞が連続しているとか、漢字が間違っているなどと指摘された挙句に、子守唄までチェックされるのは情けない。

 しかし、これから言語を習得する重要な時期に、間違った歌詞を教えるのはいかがなものかと思い直し、子守唄&童謡の歌詞アンチョコをつくった。娘のときは手抜きだったので、今回は「裏の松山蝉が鳴く」、「花は何の花、つんつん椿、水は天からもらい水」といった歌詞の五木の子守唄と、民謡だが「こきりこの唄」も加えた。こちらも「向かいの山に鳴くヒヨドリは、鳴いては下がり、鳴いては上がり」という歌詞があるらしく、YouTubeで見てみたら、ヤマドリの尾を、古墳時代の冠の飾りのように綾藺笠につけて、こきりこささらを打ち鳴らすささら踊りが素敵だった。

 ただでさえ時間がない私に子守業の追加は痛手だが、そこから新たに学ぶことも、思わぬ発見もあるだろう。進化論の一つに「おばあさん仮説」もあるそうだし、幼児が言語を習得する過程は、昔から私の関心事の一つだ。座り詰めで悪化しつつある腰がぎっくり腰にならない程度に、うまく両立させたい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.11.04更新)




『岩瀬忠震』
小野寺龍太著、ミネルヴァ書房





『史料 公用方秘録』
佐々木克編、彦根城博物館叢書



『あらしの江戸城』
猪坂直一著、上田市立博物館


その219
本覚寺にある岩瀬忠震の顕彰碑
  遅まきながら、『岩瀬忠震』(小野寺龍太著、ミネルヴァ書房)を読んだ。扇子に覚えたての英単語をさらさらと書きつけ、「日本で出会ったなかで最も愛想がよく、聡明な人物」とオリファントに絶賛された幕府の役人が、幕末関連書の端々に登場する初代の外国奉行の一人、岩瀬忠震であることを認識してから、横浜の本覚寺に昭和の後半に建てられた「開港の恩人」の顕彰碑や、東向島白鬚神社の明治初めの「墓碑」を見に行った。だが、彼の生涯についてまとまった本を読むのは、これが初めてだった。

 わずか2カ月半のあいだに5カ国との条約に署名し、その直後に左遷され、開港後は蟄居を言い渡され、失意のうちに病死した岩瀬は、近年、その評価が大きく上がった。「日本の将来、すなわち開国、貿易、外国文明の移入、産業振興、富国強兵を安政の始めにはっきりと見通し、断固としてその道を推し進めたのは岩瀬を措いて他に見られない」と、著者の小野寺氏は書く。だが、その岩瀬は、安政2(1855)年に下田でロシアのプチャーチンとの再交渉に臨んだころはまだ、「攘夷的気分に浸っていた」らしい。彼は蛮社の獄の「妖怪」鳥居耀蔵の甥で、昌平黌出の儒者なので、無理もないかもしれない。本書によると、アメリカ領事のハリスとの初対面では反感をいだいた岩瀬が開国へと一気に傾いたのは、オランダ船将ファビウスとの安政3(1856)年9月下田での対談だという。オランダの医師ポンペが「トロイの木馬」と呼んだスームビング号、つまりのちの観光丸を回航してきた海軍士官だ。

 ところが、「開国の立役者・岩瀬忠震」は、安政5(1858)年6月18日、ポーハタン号で神奈川小柴まで乗り込んできたハリスのもとへ出張を命じられた日に、越前藩の松平慶永に「梧桐を洗する事方今之緊要」(『橋本景岳全集』2)と書き送っているのだ。この部分を小野寺氏は「松平忠固を辞職させることは日本の為になる」と訳している。梧桐は、桐が家紋の松平伊賀守忠固を意味する隠語らしい。上田藩主の松平忠固は積極的開港を主張しつづけた老中なのに、岩瀬はなぜ辞めさせようとしたのか。

 ハリスはその数日前、英仏の軍艦数十艘が日本に向かってくると幕府に報告して、揺さぶりをかけていた。岩瀬らは英仏の武力に屈して調印に追い込まれる前に、談判を重ねてきたハリスの助言にしたがってアメリカと条約を結ぶ必要があると考えていた。開港を目指す点では忠固と一致していたはずだが、岩瀬は幕府の独断での調印に懸念をいだいており、その点で両者はぶつかっていた。

 じつはこの年の1月、堀田正睦と川路聖謨とともに条約勅許をもらいに上京したものの、手ぶらで帰るはめになった岩瀬は、京都を去る前夜に越前藩の橋本左内に会って意気投合していた。「江戸に戻ってからの忠震は条約問題ではなくむしろ世子問題に熱中し」ていた、と小野寺氏は書く。橋下左内は安政4年ごろ開国派に変わっていたが、彼の目下の関心事は一橋慶喜を将軍継嗣にするための裏工作だった。水戸の徳川斉昭というカリスマを父にもつ慶喜を、病弱な将軍家定の後継者とし、外様大名や朝廷も巻き込んで国難を乗り切ろうとする考えだ。当時、人びとを二分していたのは開国か攘夷かではなく、むしろ一橋派か南紀派かであったのだ。後者は、従来どおり将軍はいわばお飾りとして譜代大名の閣老が政治を担うものだった。


東向島白鬚神社にある「墓碑
 誰もが将軍継嗣問題に夢中になっていたこの時期に、老中職にあった松平忠固だけは手遅れにならないうちに列強と条約を結ぶことに専念しており、継嗣問題は二の次と考えていた。「長袖[公卿]の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取計らハすしては覇府の権もなく時機を失ひ天下の事を誤る」(『昨夢紀事』4)というのは、条約調印の当日、6月19日の城中の評議で、勅許など待たずに調印すべきだと強く主張した際の忠固の弁だ。調印をなるべく延期するようにと井伊大老に指示され、では交渉が行き詰まった場合はどうするかと下田奉行の井上清直が問うと、「其節ハ致方無之」だが、でもなるべくと井伊は言い淀んだ(『史料 公用方秘録』2007)。忠固の生涯を描いた『あらしの江戸城』(猪坂直一、1958)という小説では、このあと忠固が井上・岩瀬両人に「『大老の仰せは、最後は貴殿等両人に任せるという事じゃ』と言って、暗に勇断あるのみという意を示した」とされる。この裏づけ史料はまだ見つけていないが、このときの会議を忠固が押し切ったのは疑いない。

 忠固の日記はまだ読めていないが、政敵が残した記録を読む限りでは、忖度とは無縁の、潔癖でとっつきにくい性格であったようだ。国難に際して、大政は関東に委任されているという幕府の伝統を主張した忠固は、「京を軽蔑せらるゝハ以の外」と慶永には言われ、堀田政睦にまで「旧套固執」と決めつけられ、宇和島の伊達宗城には「伊賀といへる奸物」扱いされ、井伊直弼からは「伊賀抔ハ小身者の分際として」と蔑まされた。将軍家定の前で条約をめぐって井伊と「台前大議論」となり、岩瀬は左内に「愛牛(井伊)之逆鱗は定て條傳(忠固)と相觸候事に相察候」と書き送った。

 忠固はもともと姫路城主の酒井家の出で、通商・交易による富国政策への転換をいち早く理解し、ペリー来航時には無謀な攘夷を唱える水戸の斉昭に対抗している。『昨夢紀事』を書いた中根雪江は、開港やむなしの立場ではあったが、斉昭の信奉者であり、忠固が老中に再任した当初から、「元來姦詐にして僻見ある人」として忠固を警戒し、買収工作に失敗したのちは、「伊賀殿、殊に横柄を振はれ余抔をハ廃立を謀る不忠者の様に罵り辱しめらるゝこそ口惜けれ」と、嫌悪をあらわにした。「伊賀殿ハ衆人の嫌悪する處にて」と中根が書くように、忠固を共通の敵とすることで、本来対立していた井伊、慶永、堀田間が味方同士になるような、いじめの構造すら感じられる。

 大老就任早々、井伊が忠固の罷免を画策するなか、継嗣問題が片づくまではと将軍家定が罷免を先延ばしにしているのを察知したのか、忠固は登城しない、「異存申立」るなど抵抗を試み、京都の武家伝奏からの答書の到着を隠して公式発表を先延ばしにし、その間にハリスとの条約を締結させた可能性もあるらしい。わずか数カ月間、越前藩の裏工作に加担するうちに、煙たい上司のような忠固に敵意をいだくようになったのか、岩瀬は日米修好通商条約の調印という一大事すら、「事後に枢機の責任が問われることも予見して」強行突破し、まずは「梧桐を洗する事」が肝心と考えたと、北海学園大学の菊池久教授は「井伊直弼試論?幕末政争の一断面」(2018)で示唆する。

 一方の南紀派も、意のままにならない忠固を罷免しようと盛んに工作していた。東京大学史料編纂所の『大日本維新史料』の井伊家史料にもその一端が見られるが、将軍家定や側用人が忠固の罷免を拒みつづけた箇所は省かれている。この史料の原典となった「公用方秘録」は、明治政府の修史館へ提出された際に大幅な改変がなされていたのだ。条約調印の当日、6月19日の記事では、「公用方秘録」の改竄箇所は先の引用につづく部分で、井伊は実際には「事態の深刻さに後悔し、成す術を失っていた」(母利美和氏の解題)のに、明治政府に迎合して「平常、天朝を御尊敬被遊候御前」という言葉が加えられ、「勅許を待ざる重罪ハ甘じて我等壱人受候」という決意表明に書き換えられていたことが研究によって判明している(『史料 公用方秘録』に詳しい)。

 小野寺氏はこうした事実に目をつぶったのか、福地源一郎や徳富蘇峰以来の路線を踏襲したのか、このときの井伊を「最高責任者として当然ではあるが立派な態度であった」ともちあげる一方で、忠固については「諸悪の根源」、「表裏のある」、「隠れアンチ一橋派」と酷評する。井上と並んで岩瀬が外国奉行として尽力したことは疑いないが、『昨夢紀事』や左内との書状などを読むと、「天性の陰謀家」は忠固ではなく、岩瀬や左内のほうだろうと思う。国政の機密を漏らしつづけたのは岩瀬なのだ。彼を英雄視するあまり、開国に向けて幕閣として孤軍奮闘した松平忠固を不当に貶める書き方はいただけない。罷免された翌年9月、忠固はおそらく水戸の関係者に拳銃で暗殺されたと猪坂直一氏は書いた。岩瀬は訃報を聞いて溜飲を下げたのだろうか。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2018.12.02更新)




『動物たちのセックスアピール』
河出書房新社




その220

 9月のコウモリ通信に書いた性選択の本が、どうにか無事に『動物たちのセックスアピール──性的魅力の進化論』という邦題で河出書房新社から刊行された。原題はA Taste for the Beautiful-The Evolution of Attractionという。濃いピンクの帯に白抜きで書かれた「魅力」の文字に、キラリンとばかりに星がついていることに、いまごろになって気づいた。最近は科学書のコーナーが棚の片隅にしかない本屋さんも多いが、うちの近所の本屋さんはこれまでに何度か宣伝をお願いしたこともあったせいか、数冊平積みしてくれていた。地元の応援は何よりもうれしい。

 この本は一般の読者向けに平易に書かれた進化生物学の本なので、訳すに当たって著書の意図を測りかねるようなことは少なかった。それでも、生物の生態の細かい状況や実験の手順の説明などは、文字だけでは正確な状況が思い描きにくく、毎度のことながら大量の動画や論文を検索して参照した。インターネットのおかげだといつも感謝しているが、その分、誰でも簡単に検索できるわけだから、訳者がその手間を惜しめば、すぐに誤訳と指摘されてしまう。

 今回はニワシドリ科の鳥の求愛の動画をいやというほど視聴したし、特殊な羽の形状に関する説明があったキガタヒメマイコドリの論文もずいぶん探した。左右の翼の一部の羽軸が棍棒状に太くなっていて、そのためにClub-winged Manakinと英語では呼ばれる鳥だ。この鳥にはもう一本、先端部が反り返った羽があり、左右の翼を頭上に高く上げて高速でぶつけ合う際にこの反り返った羽が、棍棒状の羽軸にあるギザギザの畝をこすり、ピッピーッと甲高い音を鳴らす。翻訳中にこの鳥の研究者ボストウィクによる動画や論文をかなり見たつもりだったが、今回このエッセイを書くために改めて探すと、別のもっと詳しい動画が見つかった。それによると、棍棒状の羽は次列風切りの6番と7番で、先端が反り返った羽は5番だった。しかも、左右の翼を毎秒107回という高速でぶつける際に5番の羽が同じ翼内の6番の羽の7本の畝を往復でこすり、107x14=1498回という振動数になり、それが計測すると1.5kHzのバイオリンのような音となるのだと説明していた。本書の著者は反対側の翼の羽とぶつかると解釈しており、私もそう訳したのだが、それはまあ仕方がなかったか。今回の動画でも、やはり畝があると思われるもう1本の棍棒状の羽、つまり7番に関する説明はなかったので、仕組みが完全に解明されたわけではないのかもしれない。

 こうしたことは、本書のなかではわずか2文の説明があっただけなのだが、私は大いに悩まされた。一連の畝をこすって音をだすということすら、最初は意味がわかりかねた。考えた末に浮かんだのが中南米のギロという楽器だった。ひょうたんなどに刻み目をつけ、棒でこすって音をだす打楽器だ。ウィキペディアの英語版でこの楽器の説明を見ると、アステカ族がオミツィカワストリ(omitzicahuastli)という類似の楽器を使っていたことや、それが小さな骨に刻み目を入れたものを棒でこする楽器だったことなどが書かれていた。ひょっとして、誰かが森でキガタヒメマイコドリの羽を拾い、そこからヒントを得たのではないか。そう思ってちょっと調べてみたが、アステカ族はメキシコ中部が本拠地で、キガタヒメマイコドリの分布はエクアドル北西からコロンビアのアンデス山脈西側であるようなので、残念ながら両者を結びつけるのは、誰かが遠くまで旅をしたのではない限り、やや無理がありそうだ。

 この本のテーマである性選択の理論は、性的二形がなぜ進化したかを解明するものなので、そこにはまず雌雄ありきという大前提がある。著者によれば、性差は生殖器ではなく、配偶子、つまり精子と卵で見分けられるのだという。その配偶子のサイズとそれをつくるためのコストが雌雄をそれぞれに変化させる。雌の卵は限られた資源だが、雄の精子は数時間で補給でき、大半の配偶システムでは、繁殖可能な雄がいつの時点でも余るようになる。そのため、雄はつねに競合相手に勝とうと鋭意努力することになり、それが性的な美を進化させることにもつながったという考えだ。

 冒頭からのこうした説明は非常に説得力があり、第2章に「雄ならばできる限り多くの相手を得ようと努力するはずだ。つまるところ、彼らは雄ではないか?」と書かれたくだりでは、私はとくに問題も感じずそのまま訳していた。ところが、校正者はそこに疑問を覚えたようだ。なぜそう言えるのかと。

 じつは現在、またもや性に関する本を翻訳中なのだ。『動物たちのセックスアピール』がテキサス大学オースティン校の性選択分野では著名なマイケル・J・ライアン教授であるのにたいし、今度の本は若いインド系イギリス人女性科学ジャーナリストによるもので、従来の進化生物学のあり方そのものに挑む内容となっている。もちろん、進化論を頭から否定して人類はアダムとイブから誕生したと主張するような書ではなく、フェミニズム的な立場から性差という考えそのものに疑問の目を向けるものだ。それどころか、ダーウィンも所詮、ヴィクトリア朝時代の社会の風潮に染まった人であり、性差別主義者だったと指摘するのだ。フェミニズムもジェンダー問題も私にとってはまったく新しい領域なので、またあれこれ読んでいる。そのなかで、配偶子のサイズから男はいくらでも精子を提供できるため好色で、相手構わずとなり、女は卵子が希少なので、えり好みをして最もよい相手とのみ関係をもち貞淑だと考えるのは間違っていると主張する生物学者すら、最近ではいることを知った。これでは、ライアン教授の最初の前提が崩れることになる。校正者が疑問をいだいたのは、もっともだったのだ。

 役者は、悪役を演じるときも舞台の上ではその役になりきるのだろうが、訳者も一冊の本に取り組んでいるあいだは著者の思考に寄り添い、いわば著者に成り代わって語らなければならない。性選択の理論は数カ月にわたって苦労しながら理解してきたものだが、いまはその根幹を揺すぶられているような気分で、正直言って頭のなかは混乱気味だ。性選択の理論に興味がある方だけでなく、ジェンダー問題に関心がある方も、ぜひまずこちらの本をお読みいただき、来年、次の本が刊行されたら、双方を読みくらべていただきたい。
(とうごう えりか)