今月のエッセイ 2018年11月
   

江崎リエ【はまって、はまって】……「炎のゆらぎに似せて明かりが揺れる」

東郷えりか【コウモリ通信】……「忖度とは無縁の、潔癖でとっつきにくい性格であったようだ」

中埜有理【七月便り】……「昨夜は初雪だったらしく、ベンチにうっすらと雪が積もっていた」

野中邦子【ぐるぐるくん】……「水面に石を一個投げ入れると波紋が生じ、穏やかではいられなくなる」

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はまってはまって

江崎リエ(2018.11.04更新)



卓上チーズフォンデュ



形燃料青い固



フェイクろうそく
ろうそくの炎を見る楽しみ


   少し前に、「炎を見るのが好きなので、IHより、ガスの火で調理をするのが好きだ」という話を書いた。夏の暑い間はそれ以外の「火」はいらないという思いだったのが、最近は卓上チーズフォンデュに使う小さなろうそくの火とか、アロマキャンドルの火を眺めて楽しんでいる。「暖炉の火もいいな」と思うけれど、それにはそれなりの家が必要だし、外が寒いのは嫌なので、それはたまに旅先で眺めるくらいがいいと思う。

 写真の卓上チーズフォンデュは、一人で食べるときにいいと思ってフランフランで買ったものだ。ろうそくもセットでついていたのだけれど、このろうそくの火だけではチーズが溶けなかった。なので、ガスの火でチーズを溶かしてから、卓上に持ってきて温めている。「チーズ、溶けないじゃない!」と思って説明書を読んだら、チョコレートフォンデュ用と書いてあった。「チョコレートはチーズより低温でも溶けるのだろうか」と思いつつも、チョコレートでは試していない。旅館に行くと食事の時に出てくる一人用コンロはもっと火力があったと思ってネットを検索してみたら、旅館のやつはちゃんと固形燃料とそれ用の器具を使っていた。昔はろうそくの火をつけていたような記憶があるのだが、昔からこの青い固形燃料だったのだろうか。

 アロマキャンドルは、きれいなデザインのものがたくさんあって選ぶのが楽しいのだが、それなりに値段が高いので大きめのやつを1年に1つくらい買って、少しずつ燃やして楽しむ。それほど気にはならないが、やはり煤が出るし、消し忘れも心配なので、燃やすときはけっこう心の準備がいる。それはそれで、特別な時間という感じがして好きだ。

 心配のいらないのは、写真のフェイクキャンドル。プレゼントにもらったものだ。周りは本物のロウで、電池で明かりが灯る。炎が見えないのが残念だが、電気を消してこれだけにすると炎のゆらぎに似せて明かりが揺れるので、ろうそく気分は楽しめる。

 クリスマス前はろうそくが脚光をあびる時で、様々なデザインのものがあちこちの店に並ぶ。クリスマス飾りと一緒に並ぶろうそくの中から、今年の冬の一本を探すのも楽しみの一つだ。サンタクロースなどの形があるものは、溶けて形が変わった姿が悲しいので、色がきれいで、使いかけでも形が美しいものを選ぶことにしている。今シーズンの一本もそのうち写真で見せたいと思っている。

(えざき りえ)











コウモリ通信

東郷えりか(2018.11.04更新)




『岩瀬忠震』
小野寺龍太著、ミネルヴァ書房





『史料 公用方秘録』
佐々木克編、彦根城博物館叢書



『あらしの江戸城』
猪坂直一著、上田市立博物館


その219
本覚寺にある岩瀬忠震の顕彰碑
  遅まきながら、『岩瀬忠震』(小野寺龍太著、ミネルヴァ書房)を読んだ。扇子に覚えたての英単語をさらさらと書きつけ、「日本で出会ったなかで最も愛想がよく、聡明な人物」とオリファントに絶賛された幕府の役人が、幕末関連書の端々に登場する初代の外国奉行の一人、岩瀬忠震であることを認識してから、横浜の本覚寺に昭和の後半に建てられた「開港の恩人」の顕彰碑や、東向島白鬚神社の明治初めの「墓碑」を見に行った。だが、彼の生涯についてまとまった本を読むのは、これが初めてだった。

 わずか2カ月半のあいだに5カ国との条約に署名し、その直後に左遷され、開港後は蟄居を言い渡され、失意のうちに病死した岩瀬は、近年、その評価が大きく上がった。「日本の将来、すなわち開国、貿易、外国文明の移入、産業振興、富国強兵を安政の始めにはっきりと見通し、断固としてその道を推し進めたのは岩瀬を措いて他に見られない」と、著者の小野寺氏は書く。だが、その岩瀬は、安政2(1855)年に下田でロシアのプチャーチンとの再交渉に臨んだころはまだ、「攘夷的気分に浸っていた」らしい。彼は蛮社の獄の「妖怪」鳥居耀蔵の甥で、昌平黌出の儒者なので、無理もないかもしれない。本書によると、アメリカ領事のハリスとの初対面では反感をいだいた岩瀬が開国へと一気に傾いたのは、オランダ船将ファビウスとの安政3(1856)年9月下田での対談だという。オランダの医師ポンペが「トロイの木馬」と呼んだスームビング号、つまりのちの観光丸を回航してきた海軍士官だ。

 ところが、「開国の立役者・岩瀬忠震」は、安政5(1858)年6月18日、ポーハタン号で神奈川小柴まで乗り込んできたハリスのもとへ出張を命じられた日に、越前藩の松平慶永に「梧桐を洗する事方今之緊要」(『橋本景岳全集』2)と書き送っているのだ。この部分を小野寺氏は「松平忠固を辞職させることは日本の為になる」と訳している。梧桐は、桐が家紋の松平伊賀守忠固を意味する隠語らしい。上田藩主の松平忠固は積極的開港を主張しつづけた老中なのに、岩瀬はなぜ辞めさせようとしたのか。

 ハリスはその数日前、英仏の軍艦数十艘が日本に向かってくると幕府に報告して、揺さぶりをかけていた。岩瀬らは英仏の武力に屈して調印に追い込まれる前に、談判を重ねてきたハリスの助言にしたがってアメリカと条約を結ぶ必要があると考えていた。開港を目指す点では忠固と一致していたはずだが、岩瀬は幕府の独断での調印に懸念をいだいており、その点で両者はぶつかっていた。

 じつはこの年の1月、堀田正睦と川路聖謨とともに条約勅許をもらいに上京したものの、手ぶらで帰るはめになった岩瀬は、京都を去る前夜に越前藩の橋本左内に会って意気投合していた。「江戸に戻ってからの忠震は条約問題ではなくむしろ世子問題に熱中し」ていた、と小野寺氏は書く。橋下左内は安政4年ごろ開国派に変わっていたが、彼の目下の関心事は一橋慶喜を将軍継嗣にするための裏工作だった。水戸の徳川斉昭というカリスマを父にもつ慶喜を、病弱な将軍家定の後継者とし、外様大名や朝廷も巻き込んで国難を乗り切ろうとする考えだ。当時、人びとを二分していたのは開国か攘夷かではなく、むしろ一橋派か南紀派かであったのだ。後者は、従来どおり将軍はいわばお飾りとして譜代大名の閣老が政治を担うものだった。


東向島白鬚神社にある「墓碑
 誰もが将軍継嗣問題に夢中になっていたこの時期に、老中職にあった松平忠固だけは手遅れにならないうちに列強と条約を結ぶことに専念しており、継嗣問題は二の次と考えていた。「長袖[公卿]の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取計らハすしては覇府の権もなく時機を失ひ天下の事を誤る」(『昨夢紀事』4)というのは、条約調印の当日、6月19日の城中の評議で、勅許など待たずに調印すべきだと強く主張した際の忠固の弁だ。調印をなるべく延期するようにと井伊大老に指示され、では交渉が行き詰まった場合はどうするかと下田奉行の井上清直が問うと、「其節ハ致方無之」だが、でもなるべくと井伊は言い淀んだ(『史料 公用方秘録』2007)。忠固の生涯を描いた『あらしの江戸城』(猪坂直一、1958)という小説では、このあと忠固が井上・岩瀬両人に「『大老の仰せは、最後は貴殿等両人に任せるという事じゃ』と言って、暗に勇断あるのみという意を示した」とされる。この裏づけ史料はまだ見つけていないが、このときの会議を忠固が押し切ったのは疑いない。

 忠固の日記はまだ読めていないが、政敵が残した記録を読む限りでは、忖度とは無縁の、潔癖でとっつきにくい性格であったようだ。国難に際して、大政は関東に委任されているという幕府の伝統を主張した忠固は、「京を軽蔑せらるゝハ以の外」と慶永には言われ、堀田政睦にまで「旧套固執」と決めつけられ、宇和島の伊達宗城には「伊賀といへる奸物」扱いされ、井伊直弼からは「伊賀抔ハ小身者の分際として」と蔑まされた。将軍家定の前で条約をめぐって井伊と「台前大議論」となり、岩瀬は左内に「愛牛(井伊)之逆鱗は定て條傳(忠固)と相觸候事に相察候」と書き送った。

 忠固はもともと姫路城主の酒井家の出で、通商・交易による富国政策への転換をいち早く理解し、ペリー来航時には無謀な攘夷を唱える水戸の斉昭に対抗している。『昨夢紀事』を書いた中根雪江は、開港やむなしの立場ではあったが、斉昭の信奉者であり、忠固が老中に再任した当初から、「元來姦詐にして僻見ある人」として忠固を警戒し、買収工作に失敗したのちは、「伊賀殿、殊に横柄を振はれ余抔をハ廃立を謀る不忠者の様に罵り辱しめらるゝこそ口惜けれ」と、嫌悪をあらわにした。「伊賀殿ハ衆人の嫌悪する處にて」と中根が書くように、忠固を共通の敵とすることで、本来対立していた井伊、慶永、堀田間が味方同士になるような、いじめの構造すら感じられる。

 大老就任早々、井伊が忠固の罷免を画策するなか、継嗣問題が片づくまではと将軍家定が罷免を先延ばしにしているのを察知したのか、忠固は登城しない、「異存申立」るなど抵抗を試み、京都の武家伝奏からの答書の到着を隠して公式発表を先延ばしにし、その間にハリスとの条約を締結させた可能性もあるらしい。わずか数カ月間、越前藩の裏工作に加担するうちに、煙たい上司のような忠固に敵意をいだくようになったのか、岩瀬は日米修好通商条約の調印という一大事すら、「事後に枢機の責任が問われることも予見して」強行突破し、まずは「梧桐を洗する事」が肝心と考えたと、北海学園大学の菊池久教授は「井伊直弼試論?幕末政争の一断面」(2018)で示唆する。

 一方の南紀派も、意のままにならない忠固を罷免しようと盛んに工作していた。東京大学史料編纂所の『大日本維新史料』の井伊家史料にもその一端が見られるが、将軍家定や側用人が忠固の罷免を拒みつづけた箇所は省かれている。この史料の原典となった「公用方秘録」は、明治政府の修史館へ提出された際に大幅な改変がなされていたのだ。条約調印の当日、6月19日の記事では、「公用方秘録」の改竄箇所は先の引用につづく部分で、井伊は実際には「事態の深刻さに後悔し、成す術を失っていた」(母利美和氏の解題)のに、明治政府に迎合して「平常、天朝を御尊敬被遊候御前」という言葉が加えられ、「勅許を待ざる重罪ハ甘じて我等壱人受候」という決意表明に書き換えられていたことが研究によって判明している(『史料 公用方秘録』に詳しい)。

 小野寺氏はこうした事実に目をつぶったのか、福地源一郎や徳富蘇峰以来の路線を踏襲したのか、このときの井伊を「最高責任者として当然ではあるが立派な態度であった」ともちあげる一方で、忠固については「諸悪の根源」、「表裏のある」、「隠れアンチ一橋派」と酷評する。井上と並んで岩瀬が外国奉行として尽力したことは疑いないが、『昨夢紀事』や左内との書状などを読むと、「天性の陰謀家」は忠固ではなく、岩瀬や左内のほうだろうと思う。国政の機密を漏らしつづけたのは岩瀬なのだ。彼を英雄視するあまり、開国に向けて幕閣として孤軍奮闘した松平忠固を不当に貶める書き方はいただけない。罷免された翌年9月、忠固はおそらく水戸の関係者に拳銃で暗殺されたと猪坂直一氏は書いた。岩瀬は訃報を聞いて溜飲を下げたのだろうか。
(とうごう えりか)







ぐるぐるくん

野中邦子(2018.11.04更新)


自転車の車輪(レディメイド)


ワインボトル乾燥器(レディメイド)


「大ガラス」のある会場風景




「MARCEL DUS|CHAMP」
野中邦子訳




階段を下りる裸体
 秋は美術展がいろいろあって楽しい。仕事がちょっとあいたので、あちこち観にいっている。上野の森美術館のフェルメール展、西洋美術館のルーベンス展など。

 ちょっと変わり種だったのは、国立博物館でやっていた「デュシャンと日本美術展」。いつもは日本美術や仏像展などを催している国立博物館の平成館でデュシャンが見られるというのは貴重な体験だ。同じ建物の隣の会場では「運慶快慶展」をやっていた。

 まず入口にあるのは、規制の大量生産品をアートに変貌させたレディメイドのひとつ、「自転車の車輪」。木のスツールの上に車輪をさかさまにして、くっつけてある。デュシャンの作品は「芸術とはなにか」ということを問いかけるコンセプチュアルアートだ。いわゆる「芸術作品」を無条件で信じるのではなく、人が何を美しいと思うのか、なにをアートとみなすのかを探っている。ありきたりの日用品を「芸術」として提出すると、見た人の心になにが起こるのか。それは心の池に石を投げいれるようなものだ。なにごともなければ平穏に過ぎていく水面に石を一個投げ入れると波紋が生じ、穏やかではいられなくなる。そういう動揺がキライな人は、デュシャンの作品にも反発する。でも、人は生きているかぎり、心を動かさないで過ごすことは不可能だ。現実に生きていれば、さまざまな理不尽や苦労があり、また感動や歓びもある。そういう心の動きこそ、芸術の源泉だよね。

 話はそれるが、テロ集団に拉致監禁されたジャーナリストにたいして、「自己責任だ、謝れ」という論調もあるようだ。でも、そういう態度こそ、池の水面に波を起こしたくない人たちのものだと思う。他者の人生に無関心でいるのが当然というような風潮は、私はいやです。一方で、人の考えや行動を国家の規準に合わせて縛ろうとするのにも嫌悪を感じる。道徳や美意識を権威によって決められたくない。現在の日本がひどい国になりつつあるのに目をつぶっていたら、自分や自分の子孫が不幸になる。

 20世紀美術の最大の発明は「醜さ」の発見だという説がある。ヒトの無意識をさぐるシュルレアリスムにもそういう傾向がある。隠していたものを暴くことだからね。内心の欲求を見透かされたくないブルジョワがシュルレアリストを目の仇にした気持ちもわかる。

 とはいえ、シュルレアリスムの作品についてつねづね感じることだが、作品そのものがいまや美しく見えるのですね。マックス・エルンストしかり、イブ・タンギーしかり。デュシャンもそうです。ワインボトルを洗って干しておくための乾燥器が美しいものとは思えません。いわんや、男性用の小便器ときたら……。ところが、突起のたくさんついたボトル洗浄器が天井からのライトに照らされ、いくつもの突起が影を落とすようすが美しく、なんらかの意味を持つように思えてくる。この写真の奥に小さく見える小便器のほうは、さすがに美しいとは思えないが、当時の観客が感じたような嫌悪感はもはやなく、白々とした物質の存在感を放つ。

 「大ガラス」だって、意味不明な、思わせぶりな、わけのわからない図形が描かれたガラス板だったものが、現代人の目には、乾いた詩情あふれる美しい作品に見える。時の流れ、人の意識の変化とは面白いものだ。ちなみに、この通称「大ガラス」、正式な名称は「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」である。デュシャンにとってタイトルとは作品を説明したり、作者の意図を伝えたりするものではなく、見る者のイマジネーションを刺激するためのものだった。瀧口修三の有名な誤訳――「oculiste=眼科医」を「occultiste=占星術師」と読み違えた――もデュシャンにしてみれば、「してやったり」とほくそ笑んだのではないだろうか。

 油彩画の「階段を降りる裸体」も発表当時は、「どこに階段がある? どこに裸体がある?」と不評だったらしいが、いま見ると、モノトーンに近い抑えた色彩、輝くようなクリーム色、リズミカルな線の連なり、滑らかなマチエールが、まさに目を喜ばせる構成物となっている。単純に「きれいな絵」といえるのではないだろうか。

 「デュシャンと日本美術」というタイトルの展覧会だったが、せっかくのデュシャン作品の印象を壊したくなかったので、付属の日本美術の会場は(企画者のかたには申し訳ないが)さっと通り抜けるだけにした。

 ちなみに私が訳したデュシャンの画集(美術出版刊)が出たのは1990年です。うわ、すごい昔だ!

(のなか くにこ)










七月便り


中埜有理(2018.11.04更新)




 秋ですね。紅葉狩りに日光へ行ってきました。友人が車を出してくれて、運転も引き受けてくれた。よき友がいて幸せ。

 東北道から日光自動車道、山がほどよく紅葉している。山肌を彩る赤や黄色の落葉樹はかすかな凹凸、薄い立体感があって、まさに「錦繍(きんしゅう)」という形容がふさわしい。

 いろは坂に入る前に、霧降(きりふり)の滝に立ち寄った。久しぶりに見る滝。動きのある水の流れは目に快く、たぶんマイナスイオンのせいか、リラックスできる(スパセーボ効果=気のせいかもしれないが)

 

 いろは坂の途中、明智平に立ち寄る。いろは坂の渋滞は有名なので、平日とはいえ覚悟していたのだが、午後だったので、帰途につく下り坂はかなり詰まっていたが、登りは停滞なくすいすい進んだ。唯一、明智平に入る手前だけ少し待たされた。

 車から降りるとかなり寒い。風もあって、防寒具が必要なくらい。標識の根元、ずんぐりと丸い石碑には幸田文の『崩れ』からの一節が刻まれていた。展望台までロープウェイで3分。展望台からは、はるかに中禅寺湖、そこから流れ落ちる華厳の滝が見える。外国人観光客も大勢いた。

 さらに奥日光に向かい、湯ノ湖畔に出る。龍頭の滝は2本の滝からなる。規模としては小さいが、滝壺が近いので、水音やしぶきに迫力がある。

 

 奥日光の湯本温泉へ向かい、湖畔からやや離れたホテルに到着。部屋に露店風呂がついている。お湯は熱く、空気はひんやり、気持ちいい!

 大浴場は、それほど広くないが、クラシックな雰囲気の石造りで、いい感じ。お客さんがいないときに、iphoneでパチリ。お湯は硫黄の香りが強く、うっすらと白濁していて、いかにも温泉という感じ。すごくよかった。

 ホテルの中庭にある足湯。ラウンジから出られる。昨夜は初雪だったらしく、ベンチにうっすらと雪が積もっていた。

 

 ラウンジでは薪ストーブに火が入っていた。昨今、都会では焚火も禁止されているので、燃える火を見るのは久しぶり。

 日光名物の湯葉と焼き葱が具のお吸い物。栃木牛のステーキがメインの夕食はとても美味でした。食べるのに夢中でメインの写真を撮り忘れるというお約束のような展開。

 行きの東北道羽生サービスエリアで昼食に食べたラーメン。この羽生SAには帰り道でも立ち寄ることになった(ただし上り線)。

 

 湯ノ湖畔にある金谷ホテル付属のカフェ・ユーコンでお茶。三種のミニロールケーキ盛り合わせ。ベリーのソースがおいしい。外のテラス席は湖がすぐそばに見えて気持ちがいいけど、寒いのでブラケットが常備してあった。

 晴れ渡った空のもと、湖面が輝いている湯ノ湖。湖畔には真っ赤に紅葉した楓やナナカマドがあってきれいだった。

 秋らしい青空のもと、紅葉と白樺の白が映える。雄大な山の姿を見ると気分が晴れる。

 

 日光江戸村! にゃんまげのふるさと。大忍者屋敷で、忍者ショーを観た。入場を待つあいだ、入場整理係の忍者が真四角の薄い紙を配っている。折り紙かな? 何を折るのかな? あ、きっと手裏剣だ! と想像をたくましくしたのに、予想は外れた。答えは「おひねり」。お金を包んで舞台に投げてください、とのこと。外国人のお客さんも多かったので、「フォト、ビデオ、オーケー、バット、ノーフラッシュ、OK? チップ(紙をひねる動作)、スロウ(投げる動作)・トゥー・ザ・ステージ・プリーズ」と。最近の忍者は英語もしゃべれないとまずいらしい。

 忍者ショーのあと食べたのは、江戸風のかき揚げそば。かき揚げが丸くて大きい! 

 帰りの東北道、羽生サービスエリアに立ち寄ったのは、池波正太郎の「食」をテーマにした江戸の町並み風フードコートがあるから。行きの羽生SAで、急きょgoogle検索して発見しただだけなんだけどね。おなかがすいていたら、いろいろ食べられたんだろうけど、帰宅後の夕飯用に鰻弁当を買っただけ。思いがけず、時代小説風の江戸趣味を楽しんだ日光旅行でした。

(なかの ゆうり)




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