今月のエッセイ 2017年10月
   

江崎リエ【はまって、はまって】……「なるべく歯科医院には近づかずに生きていきたいのだが」

東郷えりか【コウモリ通信】……「扇子を取りだして、覚えたての新しい言葉を筆ペンでサラサラと書き込んだら」

中埜有理【七月便り】……「ミュージアムといっても、ただのお菓子屋」

野中邦子【ぐるぐるくん】……「門番のおじさんに聞いたら、休館中という張り紙を指さされたのだった」

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ぐるぐるくん

野中邦子(2017.10.01.更新)


2階に図書室がある


ホテルの一階の書店


世界のベストセラーが並ぶ


ヴァーツラフ広場のもう1軒の書店


そのウィンドー


古書店かな?


ジョン・レノンの壁


ヴァーツラフ広場


展望塔


カフカの像



ストラホフ修道院のロココ調で装飾された哲学ホール














 チェコのプラハへ行ってきた。第一のミッションはストラホフ修道院の図書室を見ること。残念ながら、図書室の中には入れず、入口から覗いてみるだけ。写真もこの入口から撮るしかない。入場料100コルナに加えて撮影には50コルナの追加料金が必要。50コルナ払うとカメラのマークのついたシールを上着の袖にぺたっと貼ってくれる。

 修道院の2階に上がると、神学ホールと哲学ホールの二部屋がある。河出書房新社で出た拙訳書『世界の図書館』の表紙には神学ホールの写真が使われている。プラハへ行ったら、ぜひ見なくちゃね。中に入って棚をじっくり眺めたかったんだけどな〜。2つの図書室をつなぐ廊下には世界各地の珍品を集めた展示室がある。アルマジロの標本や貝類、工芸品や彩色写本など。

 プラハの街のよいところは、こぢんまりした規模で、メトロやトラムが走っていて、人間の足で歩きまわれるところだ。道が石畳で歩きにくいという難点はあるが、車社会でないところがいい。旧市街は古い町並みが残っていて、建物の装飾がとてもきれいだ。建築スタイルも、バロックからアールデコ、アールヌーボー、キュビスム、モダニスムと変化に富んでいて、目に快い。

 大きな川が流れているのもいいね。空が広々としている。旧市街には美術館や教会が並び、ちょっと郊外へ行くと贅沢な個人住宅にも趣がある。今回は新市街のさらに外れのほうへも行ったが、そのへんになると雰囲気は雑になるが、それでもあまりぎすぎすしていない。

 気が付いたのは、観光客がすごく多いこと。ツーリズムの街なのだなと強く感じた。ツーリストの1人としては、ほかにも大勢見物人がいるというのは、お仲間気分のせいか、なかなか緊張がゆるんで、よいものです。

 街のあちこちに本屋があるのもよい。ちょっと歩くと、明るいモダンな本屋や、クラシックで重厚な古書店が目につく。本屋のある街はいいですね。というのも、この次に翻訳する予定の本が書店にまつわるエッセーなので、よけい書店が目につくというわけです。書店のほうも中に入ってじっくり見る時間がなかったのが残念だけど、これだけでも、プラハ、よい街です。

 最初に泊まったホテルは繁華街のヴァーツラフ広場に面していて、とても便利だったのだが、この広場も「プラハの春」のときにはソ連の戦車が侵攻してきた場所だという。いまはマクドナルドやH&Mの店が並んでいて、西欧化いちじるしいとはいえ、歴史の重みを感じます。

 東欧ならではの独特の雰囲気があって、とくにアルファベット表記が英米とはまるで違い、エキゾチックな「K」の文字がたくさん使われている。自分の名前にKがあるので、なんとなくKの文字が好きなのだけど、スペインやフランスやイギリスではKをあまり見かけないので、ここで見るのが新鮮だった。赤毛のアンシリーズの中で、アンが友達のキャサリンにCatherineよりKatherineのほうがロマンチックですてきだ、というシーンがある。子供のころ「ふうん、そうなんだ〜」と思ったことを覚えている。

 有名なカレル橋を渡ったところにほど近く、ジョン・レノンの壁というのもある。圧政や束縛への抵抗は東欧ならではの歴史を感じさせる。プラハにはモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』が初演されたエステート劇場というのもあって、映画『アマデウス』はここでロケをしたそうだ。時間があったら、ここも中に入ってみたかったんだけどね。それに人形劇の劇場や国立歌劇場もパスでした。またの機会に期待。 

 ケーブルカーで登った丘の上にある展望台は、パリのエッフェル塔を模したといわれるが、日本人の私たちから見たら、これは通天閣ですよね。上まで登ってみたが、当然、ビリケンさんもテレビとうさんもいなかった。いちおう1階には土産物売り場があったけどね。

   プラハの文学者といえばフランツ・カフカが有名。ユダヤ人街のスペイン・シナゴーグの前にカフカの像があった。さすが『変身』の作家だけあって、ユニークな像ですね。ユダヤ人街といえば、有名なシナゴーグは修復中だったり、儀式の最中だったりして、中に入れなかった。そういえば、やはり見たかったクレメンティウムも修復中で休館していた。ここにはバロック様式の図書の間や、現在のチェコ国立図書館があるので、見学したいと思って前まで行ったんだけど、入口が見当たらないので、門番のおじさんに聞いたら、休館中という張り紙を指さされたのだった。シナゴーグも図書館も見られないとは、まるで近づきたくても近づけないカフカの「城」のようではないですか! 

 高台にあるストラホフ修道院のレストランからはプラハの街が一望できる。有名なチェコビールを飲みながら、しばし赤茶色の屋根のあいまに金色の装飾がきらめく風景に見とれました。

 空気がひんやりしていたプラハから戻ってくると、東京の残暑の湿気にぐったり。

(のなか くにこ)





プラハ市街遠望









コウモリ通信

東郷えりか(2017.10.01.更新)




『幕末の外交官 森山栄之助』
江越弘人著、弦書房









ガリヴァー旅行記にでてくるラピュータの叩き役 
@The University of Adelaide


その206
ヒュースケン日記(英語版)にあった彼の下田御用所のスケッチ

「昼食のとき、幸いにも肥後守の隣の席になったので、われわれは彼の扇子に単語帳をつくる作業に勤しんだ。彼はつい数カ月前まで、一度も外国人を見たことがなかったが、英語の文字は書くことができ、私が教えたすべての母音をすぐに聞き取って、正しく発音できるようになった。自分はまもなくヨーロッパへ派遣される大使の一人となるべく努力しており、そのため英語を学ぶ機会を失うまいとしているのだと彼は言った」。これはローレンス・オリファントが『エルギン卿遣日使節録』のなかで、「日本で出会ったなかで最も愛想がよく、聡明な人物」である岩瀬肥後守忠震について書いた一節だ。英単語を書き取った筆記用具は筆だろうか。胸元から翻訳アプリ付きのスマホの代わりに、外国語の単語を並べた扇子を取りだして、覚えたての新しい言葉を筆ペンでサラサラと書き込んだら、それだけで会話が弾むかもしれない。

 岩瀬忠震は、一八五八年七月二十九日にポーハタン号上で井上信濃守清直とともに日米修好通商条約を締結した人だ。つまり違勅調印と糾弾されつづけた行為の当事者である。調印に先立って孝明天皇の勅許を得るために、口下手な堀田正睦が上京した際には、能弁な岩瀬が助太刀する予定だったが、官位が低すぎて実現しなかったという。一年以上におよんだ交渉の矢面に立ったのは下田奉行だった井上で、ハリスやヒュースケンの日記には「信濃守」が頻出する。井上の兄で、奈良奉行時代に朝廷に強いパイプをもっていた川路聖謨も上京したが、勅許は得られなかった。幕府はそのままアメリカにつづいて、オランダ、ロシア、イギリス、そしてフランスとも次々に条約を結び、岩瀬はそのすべての調印にかかわる活躍をしたが、一橋派であり、弁が立ちすぎたのか、井伊直弼に睨まれて安政の大獄で永蟄居となり、1861年に42歳で病死した。

 こうした幕末の重要な交渉にほぼかならず登場するのが、Yenoskyとハリスに呼ばれた森山永之助(多吉郎)というオランダ通詞だった。「森山は気取った滑稽な作法の陰に、実際的かつ鋭い常識を限りなく秘めていた」と、オリファントも前述の本に書いている。「実際、彼はタレイラン風の外交官で、つねに穏やかに微笑み、しがない通訳に過ぎないという印象を与えようとしていたが、その人当たりのよい慎み深い態度からも、すべてを思いどおりに運ぼうとする秘めた野心と、みずからの能力へ揺るぎない自信が容易に見て取れた」

 長崎生まれの森山はオランダ語が堪能なだけでなく、早い段階から英語も独学しており、一八四五年には浦賀で日本人漂流者を送り届けにきたアメリカ捕鯨船マンハッタン号との交渉を、片言の英語と身振り手振りでやってのけた。その後、ラナルド・マクドナルドというアメリカ先住民シヌーク族との混血青年が、自分のルーツを求めて極東の日本へ密入国してきた好機に飛びついて、通詞の仲間14人で英語を学んだ。「学習は、大悲庵の座敷牢の格子を挟んで行なわれた。マクドナルドが牢の中で、英語を音読すると、格子の外側に並んで座っていた通詞たちは、一人一人順番に音読した。マクドナルドは、その都度発音を訂正し、そうして出来るだけ、彼が覚えた日本語でその意味などを説明した。それでもどうしても文字に書かなければ理解できないような時には、栄之助が中に入って蘭英辞書で確認したり、紙に書いたりして通詞たちに回覧させた」(『幕末の外交官森山栄之助』)。こんな授業なら、誰も居眠りはしなかっただろう。だが、7カ月後にはアメリカ軍艦プレブル号が捕鯨船乗組員らを引き取りにきたため、マクドナルドも帰国してしまった。船員らが長崎で虐待されていると噂されたあげくの来訪だったので、一歩間違えれば大事件に発展したところを、森山が覚えたての英語で交渉し、うまく乗り切ったという。

 森山はその後、日米和親条約、日米修好通商条約をはじめ、諸外国との条約締結で主席通訳官となり、プロイセンとの条約時にはヒュースケンとともに苦労して案文をつくった。この交渉は難航し、岩瀬のいとこで外国奉行だった堀利煕が謎の切腹を遂げ、その一カ月後にはヒュースケンが暗殺され、翌月には坂下門外の変が起きた。このころから攘夷の嵐が本格化したのだ。オールコックは『大君の都』で森山を「聡明で、おそらくその他どんな役人よりも信頼されている」と評しており、彼に絶大な信頼を置いていたことで知られる。賜暇で一時帰国した際には、文久遣欧使節の通訳として森山の派遣を依頼し、ヨーロッパまでの船旅を共にしたほどだったが、その森山も帰国後はしばらく身を隠さなければならなかったらしい。諸外国の代表とこれだけの信頼関係を築けた幕吏が、その後も外交の窓口にいれば、日本の歴史は変わっていただろう。

 オールコックは新たに外国掛に就任した老中の間部詮勝や脇坂安宅が、背後に七人の外国奉行を控えさせ、自分たちに「聞いたことを理解させるか、何はともあれその意味を説明させ、ときにはどんな返答をすべきか提案させる」様子を皮肉り、さながら『ガリヴァー旅行記』の「叩き役」のようだと著書に書いた。上の空の主人の頭や耳を、膨らませた膀胱に少量の豆などを詰めて殻竿のように棒にぶら下げたものでそっと叩いて注意を喚起する従者のことだ。イギリスなどの国々が幕府に不信感をいだいたのは、信頼できる交渉相手が次々にいなくなったことが最大の原因だ。こういう「叩き役」は現在も国会あたりに多数出没している。こうしてまた停滞から混乱に揺れ動くのだろうか。
(とうごう えりか)







はまってはまって

江崎リエ(2017.10.01.更新)


歯のメンテナンスに通うはめに


 新しい街に越してきて、歯医者に行く必要ができたので、新しく開業した歯医者に行った。5年くらい前のことだ。治療が終われば縁が切れるはずだったが、1、2年後に「治療からメンテナンスへ」という看板が歯科医院の前に立つようになり、「歯の全体の検査と定期的なメンテナンスを受けてほしい」という話が歯科医院唯一の歯科医である若い院長からあった。ちょうど、歯周病と認知症の関係が取りざたされている時期だったし、「80歳まで20本の歯を残そう」という8020運動を推進している財団法人の仕事をしていた時だったので、メンテナンスに対する興味もあり、歯科医師とも信頼関係ができたところだったのでOKした。

 ところが最初の検査では、歯の並びのレントゲン写真を撮るのに口を大きく開けさせられて大変だったり、歯周ポケットを測る器具がチクチク刺さるようで痛かったりで、OKしたことを後悔した。その後は歯科衛生師による歯の磨き方のレッスンを受け、今は3ヶ月に1回のメンテナンスに通っている。多分、病院で病気の治療をOKしても同じなのだと思うが、一度OKすると、あれよあれよと予想外の物事が進んで行く。そして、「ちょっと待って」と流れを止めるのはなかなか大変だ。

 歯科医からは「最初にお口全体の検査をさせていただきます」と言われてOKしたが、歯のレントゲン写真を何枚も撮って痛い思いをするという説明はなかった。私は思ったことは相手に伝える方なので、この時も「こんなに大変だとは思わなかった。聞いていたら止めていた」と伝えたが、ここまで検査をしたので、「もうやめる」とは言わずに今に至っている。歯科医師の方も「説明が足りなくてすみません」とは言ったが、「一から十まで説明したのではメンテナンスを受ける人は減ってしまう」という思惑があるのかもしれない。

 定期的なメンテナンスのほとんど歯科衛生士の手に任されているが、ここでの相性も問題だ。歯科医は最初に信頼できるかどうか吟味したが、その診療所にいる歯科衛生士があまり気に入らなくても、担当を変えてくれとは言いにくい。さらに、お金の問題がある。虫歯になるリスク回避、歯を失うことで食べる楽しみを失う、噛めなくなることで認知症リスクが高まるなどのリスク回避と考えれば高くはないのだろうが、3ヶ月に1回2千円から3千円を取られると、「自分は幾つまでこういうものを払い続けられるだろうか?」と考える。こういうところでも今後のr高齢者の健康格差は広がっていくのかもしれない。ずっと歯医者が嫌いだったので、なるべく歯科医院には近づかずに生きていきたいのだが、3ヶ月はすぐに経ち、またメンテナンスの日がやってくる。

(えざき りえ)












七月便り


中埜有理(2017.10.01.更新)




 プラハの食卓。プラハなのにウィンナコーヒー。奥はカフェラテ。コーヒーは全般においしかった。

 真ん中は有名なチェコ料理、グラーシュのダンプリング添え。ダンプリングというから、ニョッキみたいなのかと思ったら、蒸しパンみたいな食感だった。けっこうおなかにたまる。青唐辛子がものすごくカラい!

 チェコといえば地ビールが有名。まずはライトビールを試してみた。のど越しさわやかでおいしい。

 

  

 トマトサラダは、長ネギの輪切りみたいなのがのっていて、さっぱりした味。ドレッシングも油を使っていないようだった。これくらいのプチサイズがうれしい。

 スープで煮た白ソーセージ、左上の小皿には生姜とマスタード。右上はチーズのフライにフライドポテト添え。隣のテーブルの人が注文していて、おいしそうだったので試してみた。ガイドブックによるとホスポダ(ビヤホール)の定番だそうだ。お肉の料理は重そうだったので……日本人は小食で困るね。

 これはストラホフ修道院のレストランで注文したのだけど、中身がなんだかわからない。麦のリゾットのような感じで、上にパルメザンチーズの削ったのとイタリアンパセリのようなものがのっている。メニューには、チェコの伝統的な家庭料理というようなことが書いてあった。味はよくて、おなかにやさしい一皿ではあった。

 

 チェコ名物のお菓子(菓子パン)のトゥルデルニーク。真ん中の写真のように棒にパン生地を巻きつけて炭火で焼いて、中にジャムやチョコを塗ったり、アイスクリームを詰めたりして食べる。アイスクリーム入りを食べてみた。パン生地がもっちりしていてボリュームがある。繁華街のいたるところでこの屋台が目についた。みんなよく食べていた。

 黒ビールも試してみた。ギネスほど濃厚ではなく、色のわりにさっぱりしている。今回はテニス観戦仲間のKIAとブリ子がいっしょ。



 ストラホフ修道院から坂を下って、ジンジャーブレッド・ミュージアムへ。ミュージアムといっても、ただのお菓子屋。でも、店内にはいろんなジンジャー・クッキーが並んでいて壮観だった。お土産にクッキー型を買ってきた。

 壁の人型や色とりどりのハートも全部クッキーなのだ! 色鮮やかなアイシングで飾り、文字も書ける。クッキーでメッセージを送るのはなかなか楽しそう。

 手前はアメリカン・ハンバーガー、フライドポテト添え。デカいよ! 後ろに見えるのがチェコの名物料理らしく、田舎風の堅いパンをくりぬいてスープを詰めたもの。これも直径20センチくらいあるので、とても完食は無理。



(なかの ゆうり)




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