今月のエッセイ 2018年12月
   

江崎リエ【はまって、はまって】……「家にある好きな本を読み直そうかと」

東郷えりか【コウモリ通信】……「まず雌雄ありきという大前提」

中埜有理【七月便り】……「師走ともなると、町に異形の者たちが姿をあらわす」

野中邦子【ぐるぐるくん】……「たとえばランボー、あるいは中也」

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コウモリ通信

東郷えりか(2018.12.02更新)




『動物たちのセックスアピール』
河出書房新社




その220

 9月のコウモリ通信に書いた性選択の本が、どうにか無事に『動物たちのセックスアピール──性的魅力の進化論』という邦題で河出書房新社から刊行された。原題はA Taste for the Beautiful-The Evolution of Attractionという。濃いピンクの帯に白抜きで書かれた「魅力」の文字に、キラリンとばかりに星がついていることに、いまごろになって気づいた。最近は科学書のコーナーが棚の片隅にしかない本屋さんも多いが、うちの近所の本屋さんはこれまでに何度か宣伝をお願いしたこともあったせいか、数冊平積みしてくれていた。地元の応援は何よりもうれしい。

 この本は一般の読者向けに平易に書かれた進化生物学の本なので、訳すに当たって著書の意図を測りかねるようなことは少なかった。それでも、生物の生態の細かい状況や実験の手順の説明などは、文字だけでは正確な状況が思い描きにくく、毎度のことながら大量の動画や論文を検索して参照した。インターネットのおかげだといつも感謝しているが、その分、誰でも簡単に検索できるわけだから、訳者がその手間を惜しめば、すぐに誤訳と指摘されてしまう。

 今回はニワシドリ科の鳥の求愛の動画をいやというほど視聴したし、特殊な羽の形状に関する説明があったキガタヒメマイコドリの論文もずいぶん探した。左右の翼の一部の羽軸が棍棒状に太くなっていて、そのためにClub-winged Manakinと英語では呼ばれる鳥だ。この鳥にはもう一本、先端部が反り返った羽があり、左右の翼を頭上に高く上げて高速でぶつけ合う際にこの反り返った羽が、棍棒状の羽軸にあるギザギザの畝をこすり、ピッピーッと甲高い音を鳴らす。翻訳中にこの鳥の研究者ボストウィクによる動画や論文をかなり見たつもりだったが、今回このエッセイを書くために改めて探すと、別のもっと詳しい動画が見つかった。それによると、棍棒状の羽は次列風切りの6番と7番で、先端が反り返った羽は5番だった。しかも、左右の翼を毎秒107回という高速でぶつける際に5番の羽が同じ翼内の6番の羽の7本の畝を往復でこすり、107x14=1498回という振動数になり、それが計測すると1.5kHzのバイオリンのような音となるのだと説明していた。本書の著者は反対側の翼の羽とぶつかると解釈しており、私もそう訳したのだが、それはまあ仕方がなかったか。今回の動画でも、やはり畝があると思われるもう1本の棍棒状の羽、つまり7番に関する説明はなかったので、仕組みが完全に解明されたわけではないのかもしれない。

 こうしたことは、本書のなかではわずか2文の説明があっただけなのだが、私は大いに悩まされた。一連の畝をこすって音をだすということすら、最初は意味がわかりかねた。考えた末に浮かんだのが中南米のギロという楽器だった。ひょうたんなどに刻み目をつけ、棒でこすって音をだす打楽器だ。ウィキペディアの英語版でこの楽器の説明を見ると、アステカ族がオミツィカワストリ(omitzicahuastli)という類似の楽器を使っていたことや、それが小さな骨に刻み目を入れたものを棒でこする楽器だったことなどが書かれていた。ひょっとして、誰かが森でキガタヒメマイコドリの羽を拾い、そこからヒントを得たのではないか。そう思ってちょっと調べてみたが、アステカ族はメキシコ中部が本拠地で、キガタヒメマイコドリの分布はエクアドル北西からコロンビアのアンデス山脈西側であるようなので、残念ながら両者を結びつけるのは、誰かが遠くまで旅をしたのではない限り、やや無理がありそうだ。

 この本のテーマである性選択の理論は、性的二形がなぜ進化したかを解明するものなので、そこにはまず雌雄ありきという大前提がある。著者によれば、性差は生殖器ではなく、配偶子、つまり精子と卵で見分けられるのだという。その配偶子のサイズとそれをつくるためのコストが雌雄をそれぞれに変化させる。雌の卵は限られた資源だが、雄の精子は数時間で補給でき、大半の配偶システムでは、繁殖可能な雄がいつの時点でも余るようになる。そのため、雄はつねに競合相手に勝とうと鋭意努力することになり、それが性的な美を進化させることにもつながったという考えだ。

 冒頭からのこうした説明は非常に説得力があり、第2章に「雄ならばできる限り多くの相手を得ようと努力するはずだ。つまるところ、彼らは雄ではないか?」と書かれたくだりでは、私はとくに問題も感じずそのまま訳していた。ところが、校正者はそこに疑問を覚えたようだ。なぜそう言えるのかと。

 じつは現在、またもや性に関する本を翻訳中なのだ。『動物たちのセックスアピール』がテキサス大学オースティン校の性選択分野では著名なマイケル・J・ライアン教授であるのにたいし、今度の本は若いインド系イギリス人女性科学ジャーナリストによるもので、従来の進化生物学のあり方そのものに挑む内容となっている。もちろん、進化論を頭から否定して人類はアダムとイブから誕生したと主張するような書ではなく、フェミニズム的な立場から性差という考えそのものに疑問の目を向けるものだ。それどころか、ダーウィンも所詮、ヴィクトリア朝時代の社会の風潮に染まった人であり、性差別主義者だったと指摘するのだ。フェミニズムもジェンダー問題も私にとってはまったく新しい領域なので、またあれこれ読んでいる。そのなかで、配偶子のサイズから男はいくらでも精子を提供できるため好色で、相手構わずとなり、女は卵子が希少なので、えり好みをして最もよい相手とのみ関係をもち貞淑だと考えるのは間違っていると主張する生物学者すら、最近ではいることを知った。これでは、ライアン教授の最初の前提が崩れることになる。校正者が疑問をいだいたのは、もっともだったのだ。

 役者は、悪役を演じるときも舞台の上ではその役になりきるのだろうが、訳者も一冊の本に取り組んでいるあいだは著者の思考に寄り添い、いわば著者に成り代わって語らなければならない。性選択の理論は数カ月にわたって苦労しながら理解してきたものだが、いまはその根幹を揺すぶられているような気分で、正直言って頭のなかは混乱気味だ。性選択の理論に興味がある方だけでなく、ジェンダー問題に関心がある方も、ぜひまずこちらの本をお読みいただき、来年、次の本が刊行されたら、双方を読みくらべていただきたい。
(とうごう えりか)







ぐるぐるくん

野中邦子(2018.12.02更新)




詩人たちはどこに消えた?

 駒井哲郎「煌めく紙上の宇宙」展(横浜美術館)第5章のテーマは「詩とイメージの競演」。詩人や作家とのコラボレーション作品が展示されている。詩画集や書籍の挿絵・装幀などで、作家はそうそうたる顔ぶれである。安藤次男、粟津則夫。山口裕弘、福永武彦、中村稔、石川淳、埴谷雄高、金子光晴、小山正孝、丸山薫、谷川俊太郎。  

 ところで、最近、世間ではあまり詩人の動静をきかない。私が十代のころは、周囲の若者が詩の1篇や2篇はそらんじていたものだ。たとえばランボー、あるいは中也、ボードレールの「悪の華」とか。ロートレアモンがはやっていた時代ではあるし、美大生だったこともあるけど。

 自分をかえりみても、このところ詩集を手にすることは減った。いちばん最近読んだのは『ボルヘス詩集』だけど、これも仕事の資料だった。

 しかし、思うに、詩の定義も時代によって変化しているのかもしれない。たとえば、歌詞。若者は「詩」は読まずとも、「歌詞」には親しんでいるようだ。古くは陽水、サザンの桑田さん、最近では星野源とか米津玄師とか、才能あふれるソングライターが人気をかちえている。

 絵画にしても、最近の文庫本の表紙にイラストや漫画風の絵が増えていることから類推するに、「言葉とイメージの競演」は昔とはちがう形で発展しているのかもしれない。  

 世代の同じ友人と話していて、「現代詩で人気のある現役詩人って誰?」という話になったが、いまだに人気のある詩人というと谷川俊太郎の名前が出る。ン十年前と同じではないか。「進歩がない!」と嘆きつつ、ふと見たら、横浜美術館で詩人の名前を発見した。

 来年2月から、最果(さいはて)タヒさんの詩の展示が始まるそうです。

 初めて聞く名前だったので、ネット検索してみたら、詩画のコラボ作品もたくさんありました。やはりあるところにはある、いるところには詩人もいるのですね。

 とはいえ、コラボの相手は萩尾望都であり、市川春子であり、また志村貴子、冬目景など、漫画家やイラストレーターが多い。なるほど、時代に遅れているのは私のほうであった。従来の詩人や画家という分け方を逸脱した動きがすでにあるのですね。

(のなか くにこ)







はまってはまって

江崎リエ(2018.12.02更新)



夜の外出を減らそうかと


   昼間は家で一人で仕事をしているので、夜はなるべく出かける機会を作るようにしている。取材がなければ、ほとんど人と話す機会がないので、声を出して血の巡りをよくするために、週一回は語学教室に通っている。放っておくと運動不足で体が固まるので、週1回はヨガ、その他に3ヶ月クールで区が主宰する体育教室に週1回通っている時もある。このほかに月に1回は落語会と芝居見物を楽しみ、月に1、2回はミュージシャンの息子のライブを聴きに行く。「あちこち出かけて忙しいですね」と言われることもあるが、別に忙しくはない。気ままな一人暮らしなので家事はほとんどしないし、一人分の料理も皿洗いもあっという間に終わってしまう。仕事に追われていれば夜の外出が息抜きになるし、仕事がない時は一日中暇なわけで、出かける機会があってうれしい。

 そもそも夜に頻繁に出かけるようになったのは夫が亡くなってからだ。家で仕事をしていた夫は毎日家にいて、夜は一緒に飲みながらいろいろな話をしていたので、亡くなった後の一人の夜が嫌で、毎晩出かけるところを作っていた。しかし、最近少し心境が変化してきた。そんなに出かけるところを作らずに、夜に家にいてもいいのではないかと思うようになったのだ。夫が亡くなって14年が経ち、一人で家にいることにもさすがに慣れてきた。心が強くなったとも言えるし、いろいろな記憶が薄れてきたとも言えるだろう。私が年齢を重ねて、頻繁に出かけるのがしんどくなってきているのかもしれない。

 自分でも心境の変化の理由はよくわからないが、この気持ちに従って、来年は少し夜家にいる時間を増やそうと思っている。以前は「家にいると深酒をして、アル中になりそう」という心配もあったのだが、最近は飲まなくなったし、飲めなくもなったので、この心配もなさそうだ。ただし、夜に家で何をするかという問題は出てくる。テレビはつまらないし、料理や菓子作りは、作るのは楽しいけれど食べなくちゃならないし、好きだった編み物やクロスステッチは目が疲れて続きそうにないし。お気に入りの作家が見つかれば読書が楽しいのだが、それがなかなか難しい。とりあえず、正月休みは家にある好きな本を読み直そうかと思っている。

今年最後のエッセイですね。皆様、1年間読んでくださってありがとう。
来年もよろしくお願いします。

(えざき りえ)












七月便り


中埜有理(2018.12.02更新)




 師走ともなると、町に異形の者たちが姿をあらわす……って、師走、関係ないか。仕事が一段落したので、よく聞くけどじつは行ったことがない都内の美術館めぐりをしました。文京区の弥生美術館、南青山の根津美術館、岡本太郎記念館、汐留ミュージアムなど。根津美術館の庭園は紅葉が見事だった。茶室の入口にひっそりと、しかし存在感たっぷりにたたずむ石の像。只者ではない雰囲気をただよわせる。

 岡本太郎の旧居を用いた美術館。庭にはこんな顔のオブジェ。異形そのもの。

 ぐにゃぐにゃした触手をもった彫像に不思議な顔、顔、顔。

 

 しかし、作品もさておき、なにより異形の者というべきは、彼自身ではないだろうか。写真からも熱さが伝わってくる。1階のアトリエには太郎氏をかたどったマネキン人形まであった。「ジャズ」がテーマの展示で、シャンソンの「枯葉」をうたう画家の声がスピーカーで流れていた。

 マネキンといえば、映画館のロビーでフレディ・マーキュリーと遭遇。見た目が逸脱していると世間に受け入れられないという実例のようなフレディ。でも、セルフプロデュースに長けたフレディはそれを逆手にとって、何万人ものファンから愛されることになった。映画を見ながらほんとに泣いている人がいて驚いた。

 恨みをもって死んだ人間が異形の者となって転生し、恨みを晴らそうとするのは『魔界転生』。溝畑淳平演じる天草四郎はワイヤーアクションで宙を飛び、美しい容姿がぴったりでした。この旗は猪塚健太さんが演じた荒木又右衛門。転生した亡者どものなかでも、とびきりの異形っぷり。

 

 師走になると出現するクリスマス関連の不思議な者たち。銀座の街角でサンタ帽をかぶり、壁に身を寄せる黒い天使。なんだかわけがわからない。

 異形感(?)あふれるイルミネーション。「地蔵か?」と思わせる雪だるまたちがうずくまっている。やや不気味。

 きれいといえばきれいだけどね。



(なかの ゆうり)




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