今月のエッセイ 2019年1月
   

江崎リエ【はまって、はまって】……「惰性でやっている習慣をやめる実験、違うことをやってみる実験」

東郷えりか【コウモリ通信】……「石鹸で手を洗ったのち、腕時計もひっかからぬようはずしてから」

中埜有理【七月便り】……「玄米粥と紅芋とゆし豆腐汁とフルーツ」

野中邦子【ぐるぐるくん】……「切り捨てられる国民がどれだけいても政府は無視するだけ」

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ぐるぐるくん

野中邦子(2019.01.06更新)




あなたの故郷はどこ?

 ソ連が崩壊したとき、宇宙ステーション〈ミール〉にはひとりの宇宙飛行士セルゲイが取り残された。社会の混乱のなか、経済危機もあずかって、帰還予定がどんどん引き延ばされたが、表向きは宇宙滞在記録の更新という偉業とみなされて世間はもてはやした。

 キューバにはロシア留学経験のあるマルクス哲学を専門とする大学教授セルジオがいた。彼もまた、世界における共産主義体制の孤立のなか、生活苦に悩まされていた。

 宇宙のセルゲイとキューバのセルジオが偶然、無線を通じて交信し、会話を交わすようになる。セルゲイを地球に帰還させようと奔走するセルジオ。  ついにアメリカのNASAの協力により、セルゲイは無事地球に帰還する。英雄の帰還として歓迎されるが、その裏には無線仲間の友情があった。

『セルジオとセルゲイ 宇宙からハロー』はキューバ映画です。映像がきれいで、俳優は魅力的、意表をつくストーリーで、ユーモアもあり、家族愛と友情に胸を打たれる。

 しかし、私がいちばん強く感じたのは「国家は国民を守ってくれない」ということ。国家的な英雄だっていざとなったら見捨てられる。政治体制が変化すれば、共産主義から資本主義へと簡単に乗り換える。そこで切り捨てられる国民がどれだけいても政府は無視するだけ。

 有名な「茹で蛙」理論が出てくる。熱湯に蛙を放り込んだら、勢いよく逃げだすが、冷たい水からゆっくり温度を上げていくと、蛙はお湯から出ることなく茹であげられてしまう。日常の危険を回避できなくなる人間心理をあらわしている。

 「自分は大丈夫」と思っているうちにどうしようもないところまで来てしまう。まさにいまの日本の現実だ。

 もうひとつ、なかなか帰れない宇宙飛行士が地球を眺めていう。「こんなにすばらしい故郷があるのに自分はここで何をしているのか」。彼が故郷と呼ぶのはソ連でもロシアでもなく、共産主義国家でも資本主義帝国でもなく、「地球」そのものなのだ。

 国家元首や行政府の長はぜひ宇宙ステーションに滞在して、地球を見てほしい。この地球を傷つけて原発を作ったり、戦争をしたり、基地を作るために海を埋め立てたりすることがいかに愚かなことか、身をもって感じてほしい。

 それと、ロシア語が話せるキューバ人と片言だけどスペイン語ができるロシア人……言葉が通じないと理解もできない。外国語の習得って大事だな、とあらためて思いました。

  年頭にあたって、「地球を大事にする」ことを日々の目標に掲げたいと思います。2019年も牧人舎の活動をどうぞよろしく。

(のなか くにこ)





コウモリ通信

東郷えりか(2019.01.06更新)




「明細」


幕末の分限帳


上田紬のはぎれを買って
先祖調べノートのカバーにしてみた。


その221

 年末年始、つかの間を母のところで過ごした。締め切りを年明けまで延ばしていただいた仕事がある手前、本来は寸暇を惜しんで見直しに励むべきところだが、正月くらいは息抜きさせてもらおうと、ずっとお預けにしていたことを楽しんだ。昨秋、上田市立博物館を訪ね、そこで閲覧させてもらった史料の解読だ。

 上田市立博物館に上田藩士の格禄賞罰の記録として「明細」という文書があることを、赤松小三郎研究会主催の尾崎行也先生の講演会で教わり、秋に仕事の合間を縫って日帰りで行って見せていただいたのだ。同館では閲覧できる史料は10点に限られるのだが、膨大なリストから必要な史料を探しだすのは容易ではない。遠方のため特別扱いということで20点選ばせていただいたが、現場で索引の巻を見たら巻が家ごとに分かれていることが判明し、結局、その場で入れ替えてもらった。

 石鹸で手を洗ったのち、腕時計もひっかからぬようはずしてから、事務室の片隅で寛文期の分限帳など、数百年は昔の古文書を恐る恐る開いた。和紙の保存状態はかなりよく、雁皮のような紙に書かれたものはとくに、虫食い一つ見当たらなかった。ページをめくって祖先と思しき人の名前を見つけるたびに、古いコンデジで撮影させてもらった。「明細」そのものは閲覧できたのは原本ではなく、マイクロフィルムの紙焼きを閉じた分厚いものだった。後日、撮影した大量の画像を多少整理はしたものの、パソコンの画面で拡大してみたところで、ミミズの這ったような筆文字から私が読み取れるのは年代と若干の固有名詞、それにいくつかの文字程度で、どれだけ眺めても肝心なことはわからない。

 ほんの150年までは、文字の読める人ならば基本的に読めたはずの崩し字だが、現代人にはある意味でヒエログリフよりも難解だ。そもそもどこに切れ目があるのかわからない。ネット上にあるくずし字解読ソフトや変体仮名の一覧などはそれなりに活用してみたものの、私がこの文書を読めるようになるには、シャンポリオンやジョージ・スミスのような才能と根気が必要だ。早々に諦め、フェイスブックで知り合い、まだお会いしたことすらないお友達で、以前にもいくつかの史料を解読してくださった方のご好意にすがることにした。

 今回、活字にしていただいたものを頼りに筆文字を一応はたどってみたが、よくまあこれを読んでくださったと、驚かされることばかりだった。「明細」に書かれた祖先の「初代」は分限帳でも同一人物らしき人が確認でき、そちらはかなり楷書に近い字だったので、てっきり「有右馮」かそれに近い名前だろうと思っていたが、「有右衛門」であったらしい。右衛門のような一般的な名前の崩し字は、独特のセットになっていたのだ。わずかな時間では全文の読みくらべは不可能なので、まずは活字にしていただいた内容の解読に専念した。それすら、理解できたのは半分くらいだろうか。

「明細」に記されたうちの祖先の項は元禄12(1699)年から始まっていたが、実際には宝暦4(1754)年生まれの4代目の時代に編纂が始まったと思われる。4代目のこの生年ですら、「戌三拾四歳」というわずかな文字を手掛かりに、FB友の方が編纂時から逆算して、干支から推測してくださったようだ。「明細」には藩士に登用された年月は書かれているが、生年の記載はなく、藩士で亡くなった没年しか書かれていないからだ。古文書の解読には相当な推理力が必要だ。そのためか、初代から3代目までは記述が少なく、有右衛門は元禄12年に中小姓で召出され「馬術申立」であったことしかわからない。それでも、私が最初に見つけた幕末の祖先は上田藩の馬役であったし、「明細」に書かれた祖先はすべて馬関係だったので、この初代が馬術関連の専門職として登用されたのは間違いないだろう。門倉という名字や言い伝えから、元々の祖先は上田ではなく、北関東の出身だったと思われる。明治期に曽祖父が各地の墓を整理して、新たに下町のお寺につくったと伝わる墓には、天和から元禄13年までの古い墓石が数基あるので、これらは上田藩に入る前にいた土地にあったのだろう。

 記述が詳しくなる4代目以降は、「賞」より「罰」を食らうことのほうが多かったと思われ、たびたび「不埒」や「不身持」で「御叱り」を受けて「閉門」、「閉戸」の処分を受けていた。数日から数十日間の蟄居を命じられていたのだ。4代目は気の毒に、倅の不身持で家老に呼びだされた際に「途中より差塞」(ふさがり)、翌日病死していた。母に伝えると、「読んでくださった方はさぞかしおかしかっただろうね」と苦笑していた。私の祖父などもいたずら坊主だったらしく、小学校の貴重なピアノに自分の名前を彫り、曽祖母が学校から呼びだしを食らったそうだ。一生消えない汚点だと先生からさんざん叱られたのに、「関東大震災でそのピアノは燃えちまったんだ」と後年、わが子たちに自慢していたというから、これもDNAなのかもしれない。

 代々の祖先はおおむね八石三人扶持など、かなりの薄給取りで、中小姓止まりだったが、それとは別に家督として七拾石ほどが相続されていたようだ。幕末の6代目伝次郎も、15歳で組外御徒士格となってまもなく「猥に在町え打越、為酒食」したほか、「口論」や「御政治等批判」など「身分不相応」なことをしてお叱りを受けているが、後年は馬術の「教授骨折」の功で「御酒吸物被下」ことが多くなった。彼は徒士頭格になり獨礼席まで昇格したので、出世頭だったようだ。それにしても、御酒はともかく「吸物」とは、えらくささやかな褒美に思えるが、これはとくに上田藩だけの習慣ではないようだ。年末にプリントアウトした文章を娘にちらりと見せたところ、「あっ、伝次郎さん、骨折している!」と言うのには笑った。古文書は難しい。

 伝次郎が元治元(1864)年9月に「西洋馬具御買入并馬療為取調、折々横浜表え罷越、蘭人え問合候様被仰付」という記述は重要かもしれない。従来、上田関係の資料は『上田市史』の記載を引いて万延元(1860)年にイギリスの公使館付騎馬護衛隊長のアプリンから西洋馬術を学んだとしていたが、アプリンの来日は1861年11月で、それ以前に短期間来日したとしても馬術を学ぶ余裕はなかったはずなので、元治元年になってからおそらく上田の生糸商人のつてなども使って、伝次郎がアプリンに接近したという私の当初の推測のほうが、結局は正しかったかもしれない。

「明細」から判明した大きな収穫は、7代目とされる正体不明の庄次郎が養子で、私の曽祖父が生まれたと推測される明治2年に「不熟に付」という言い訳のような理由で離縁されていたことだ。このため、曽祖父は伝次郎の年取ってからの息子という可能性が高まった。私の先祖探しも、おかげさまでだいぶ進展した気がする。今年こそ、この記録をまとめる時間が欲しい。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
(とうごう えりか)







はまってはまって

江崎リエ(2019.01.06更新)



日々の習慣と思い込み


   毎日習慣にしていて、その心地よさや効用を信じていることがある。たとえば、朝のコーヒー。お湯を沸かしてゆっくりとドリップコーヒーを入れ、その香りをかぐだけで体が目覚めてくつろぐような気がするし、苦味のあるブラックコーヒーを味わうと頭が覚醒する気がする。コーヒーの飲みながら新聞を読むのも若い頃から続いている習慣で、たまの新聞休刊日には何かが欠けたような気分になり、1日の始まりに肩透かしを食らったような気になる。夕食に飲むお酒は食欲を亢進させる気がする。寝る前に飲むお酒は仕事で疲れた頭と体をリラックスさせ、眠りに入りやすくする気がする。

 「気がする」と繰り返し書いたのは、こうしたことをしなくても暮らし方によって同様の効用があったり、心地よさを味わったりできることを知っているからだ。朝のコーヒーは好きだが、息子の家に泊まり行って朝のコーヒーの代わりに日本茶が出てきても、頭は覚醒する。旅先で朝の新聞を読んでも楽しくない。新聞記事の中身が読みたいのではなく、座って新聞を大きく広げる時間が好きなのだと思う。ヨガで断食をするとその後は少しずつ食事を普通に戻すので、断食後3週間はお酒を飲まないのだが、夕食にお酒がなくても食欲はちゃんとあるし、寝酒を飲まなくても適度に体を動かしていればよく眠れる。

 このような経験を通して、「自分の生活にはこれが必要と思っていたけれど、なくても何の問題もない」と気づくことはいくつもある。それでやめる習慣もあれば、それでも続ける習慣もある。それでも続けるということは、その中に自分に合った心地よさがあるということだろう。夫が亡くなり、息子が独立して、私が初めての一人暮らしを始めて丸7年が経った。一人で暮らすようになってからも、それまで家族で暮らしていた時の習慣を続けて、「朝はコーヒーを入れ、新聞を読み、朝食を食べ、昼間は仕事をし、夕食の支度をして飲み始める」ことを繰り返してきたが、どれも続けている理由は「習慣だったから」で、やめても支障のないことばかりだ。今年は惰性でやっている習慣をやめる実験、違うことをやってみる実験をしてみて、今の自分に心地よい習慣をセレクトしたいと思う。

 皆様、今年もよろしくお願いします。

(えざき りえ)












七月便り


中埜有理(2019.01.06更新)




 年末年始は那覇で過ごしました。太陽が出ると汗ばむほどですが、曇り空や雨になるとさすがに那覇でも寒いです。そうはいってもコートやダウンジャケットは不要。アパートの中庭、いつもグリーンがみずみずしくて好きです。

 喪中なのでおせち料理は作らず(喪中にかぎらず、いつも作らない)玄米粥と紅芋とゆし豆腐汁とフルーツの朝食。

 銀行でカレンダーをもらってきた。右は沖縄銀行、澄み切った水の珊瑚礁の写真がとてもきれい。左は琉球銀行、例年どおり紅型模様。

 

 休暇中の課題図書(?)は『マリア・シャラポワ自伝』(文藝春秋)。女子の試合はあまり見ないんだけど、ドーピングとセリーナとの確執とディミトロフとの別れの理由を知りたいと思って読んでみた。うまくはぐらかされてしまった。

 モノレールで小禄のベスト電器へ行ったり、おもろまちへ映画を見にいったり。

 大晦日の映画館はなんと貸切状態でした。

 

 元日には波上宮へ初詣に出かける。「国家鎮護」と「萬民泰平」はセットでなければだめだよね。萬民を無視して国家だけ守るなんてとんでもない(安倍自民にいっている)。

 波の上ビーチは平和でした。

 公設市場もお正月は休み。モンドリアン風の色分割で飾られた家。浮島通りにて。



(なかの ゆうり)




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