今月のエッセイ 2017年8月
   

江崎リエ【はまって、はまって】……「モエレ沼公園はイサム・ノグチの最後の仕事なのだ」

東郷えりか【コウモリ通信】……「貨幣こそ血流ということか」

中埜有理【七月便り】……「見るたびにアイラインが濃くなるような気がする」

野中邦子【ぐるぐるくん】……「官憲に殺害されたプロレタリア作家までTシャツの模様にしちゃう」

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ぐるぐるくん

野中邦子(2017.08.03.更新)
















意匠の楽しみ

札幌・中島公園の豊平館
  人間、生きていくのに必要な最小限のものさえあれば生きていける、というものでもない。人間は群れをなして生きる動物であり、生存のための殺し合いやいじめがある一方で、遊びやユーモアが不可欠だ。

 その最たるものが、意匠の楽しみだろう。「デザイン」とはより総合的で広い概念をさすが、「意匠」はこまごました具体的な装飾を意味する。まあ、必然性のない遊びではあるが、人はどうしてもあれやこれや、飾りたてたり、工夫を凝らしたり、ということをしてしまう生き物らしい。

 たとえば、汚水を流す下水道のマンホールのふたに絵を描く必然性はまったくないが、そこにラッコの親子の絵を描いてしまう。何の役にも立たない。でも、かわいい。人形劇団こぐま座の劇場は、窓が顔の目鼻に見えるよう配置されている。

 札幌の中島公園にある豊平館を見てきた。かつて北海道初の西洋式ホテルとして建てられ、最初の宿泊客は明治天皇だった。豊平館という名前は、北海道開拓庁の長官だった黒田清隆が「豊かさと平和」を祈ってつけた。のちに総理大臣になる黒田清隆は、五稜郭に立てこもった旧幕軍の残党と闘ったり、西南戦争に参戦したりと、日本の内乱期を生き延びた人である。画家の黒田清輝は遠い親類にあたる。実戦を経験しているだけに、豊かさと平和を希求する気持ちは強かったのかもしれない。

 この豊平館はその後、市営の結婚式場となり、2012年まで営業されていた。市営だけに、宗教色は排除され、式は人前式だったという。いいね。

 外装の特徴的なブルーは、染料が進歩していなかった昔、ラピスラズリの粉末が使われた。マイアミ・ビーチのアールデコ建築を思わせるパステルカラーがモダンでおしゃれ。私は結婚式全般が嫌いなんだけど、こういう会場なら式をあげてもいいかも……予定はありませんが。

 客室の大きさや作りはほとんど同じだが、天井の照明と漆喰細工は部屋ごとに異なる。部屋には植物の名前がついていて(梅とかエゾヒナゲシとか女郎花とか)、それにちなんだ草花の模様が漆喰で描かれている。建築当初は、この漆喰に鮮やかな色がついていたらしい。一部、修復・復元されていた。当時、電気はまだなかったので、灯りはロウソクだったそうだ。大広間のシャンデリアも全部ロウソクだというから、メンテが大変だったろうな。復元された赤い絨毯もとてもきれい。大広間にはタブレットが置いてあって、舞踏会の様子がバーチャルで体験できる。ボランティア・ガイドのおじさんが丁寧に解説してくれて面白かったわ。

 こういう意匠に凝るという行動は、もちろんお金と時間に余裕がなければできないことで、見方を変えればゼイタクといわれてしまう。ゼイタクは敵だ、と思うか、ゼイタクは素敵だと思うかの違い。私としては、ステキだのほうに傾きたいが、プロレタリア作家の小林多喜二に思いをはせれば、複雑な思いもある。なぜ多喜二を連想するかというと、小樽文学館で多喜二の顔写真がついたTシャツを見て、一瞬、欲しいと思っちゃったからなのだが、『蟹工船』もちゃんと読んでないのにおこがましいと思って買わなかったという経緯があるのです。ちなみに多喜二は秋田出身ですが、小樽商業学校で学んでいます。

 官憲に殺害されたプロレタリア作家までTシャツの模様にしちゃう人間の「意匠好き」はここにきわまれりという感じです。見るものすべてに「物語」を読むのが人間であると作家のマンゲルさんがいっていますが(『奇想の博物館』)、そこらにあるもの手当たり次第に「意匠」を凝らすのも人間の本能かな、と思いました。

 そんなわけで、人は無機物のテレビ塔さえも擬人化してキャラクターにしてしまうのです。札幌大通公園に立つさっぽろテレビ塔の非公式キャラクター「テレビ父さん」……もちろん、テレビ塔とテレビ「とう」さんをかけているのですが、テレビ母さんもいるとはこれいかに。もはやダジャレにすらなっていない!

(のなか くにこ)







コウモリ通信

東郷えりか(2017.08.03.更新)





その204
私のささやかなコレクション。右下は清の古銭

 久々に時間ができたので、これまで中途半端になっていた諸々のことがいくらか整理されたが、それと同時に読みたい本も増えて、家のなかはちっとも片づかない。『横浜市史稿』という昭和6〜8年刊の11巻本まで、置き場所も考えずにヤフオクで購入してしまい、断捨離に逆行している。何巻かはデジタル化されているが、やはり手元に紙の本があればこそ発見できることもある。

 最近、幕末の通貨事情についてかなり調べたところ、どうしても本物の貨幣が見たくなり、これまたオークションに手をだしてしまった。以前に富岡八幡宮の骨董市で寛永通宝などの銭貨は買ったことがあったが、「ペニー貨ほどの厚さの良質の銅でできており、縁が厚目になっているが、仕上げはなかなか美しい」と、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に書かれていた天保通宝はもっていなかった。幕末に諸外国とのあいだでさまざまな問題を起こす原因となった一分銀も、どうしても現物を見てみたかった。

 「一分銀は三枚でも一ドルより目方が軽いのだが、日本人はこの国では一ドルと一分銀が等価なのだと主張する。となると、われわれは三倍以上も支払って買い物をすることになる。彼らが言うには、鉱山はすべて政府のもので、埋蔵する金銀は木や石と同じようなものだが、政府がそれを鋳造して刻印すると、その銀塊に価値が生ずるのだから、外国人がもち込む硬貨はすべて溶かして一分銀に改鋳しなければならない」。アメリカの総領事ハリスのオランダ語通訳として来日したヒュースケンは、日米修好通商条約の締結に向けて下田で交渉をつづけていた一八五七年の三月一日の日記にこう書いた。「商業は血液であり、一国の生命の大いなる源だ」と書きつつ、ヒュースケンはこの進歩や文明が本当に日本のためになるのかと、自問もしていた。暗殺事件ばかり有名だが、日記を読むと、彼やハリス、通訳の森山多吉郎の苦労がよくわかる。

 江戸時代の通貨制度はあまりにも複雑で、ちょっとかじった程度ではほんの一部しか理解できない。重要な点の一つは、金貨と銅貨が枚数で数えられる計数貨幣だったのにたいし、銀(天保丁銀、保字銀)は重さで価値が決まる秤量貨幣で、「金貨一両=銀六〇匁」を基準としていたことだ。ところが、幕末には財政難のため、重さ一五匁(もんめ)の銀に相当する価額の計数貨幣として天保一分銀が同時に発行されていた。幕府は開港前、あれこれ理屈を並べて、この軽い一分銀が一ドル相当だと主張した。このドルは当時の世界通貨で、スペインの新大陸植民地であるヌエバ・エスパーニャのポトシ銀山の銀を使って大量に発行された、レアル・デ・ア・オチョ、通称ピース・オヴ・エイトという大型銀貨のことで、日本ではメキシコ・ドルとか洋銀と呼ばれたものだった。最終的にハリスに押し切られ、100ドルが一分銀311分相当という交換率になったが、洋銀のほうが純度は若干低かった。一分銀が不足したためか、品質を同じにするためか、おそらくはその双方の理由から、洋銀をそのまま一分銀に鋳直したものが、安政一分銀となった。

 『100のモノ』の「ピース・オヴ・エイト」の章には、この硬貨の真ん中に大きな穴を開けて、打ち抜いた中身は小銭として使い、外側はシリング貨として使用していたオーストラリアの事例が紹介されており、そのアイデアに笑ったことがあったが、日本でもこれを一分銀に吹き直していたとは、ついぞ知らなかった。幕府は改鋳費用として、6%の手数料を両替時に差し引いていた。

 実際に手にしてみた天保一分銀は、画面から想像していたよりはるかに小さく、安政の一分銀にいたっては横幅がさらに狭く、わずかに軽い。古銭のサイトを見ると、周囲に配置された桜のなかに、上下が逆さの「逆桜」が裏表一つずつあり、その位置によって取引価格も変わるとか、側面の処理が異なるとか、文字の書き方でも値段が変わるとか、細々とした鑑定ポイントが書かれている。私にはそういうマニアックな趣味はないので、150年以上前の銀貨を手にしただけで、充分にうれしかった。ついでに洋銀のほうも、eBayで1753年のピラー・ダラーを破格値で競り落としたはずなのだけれど、無事に届くかどうか。天秤があれば、一分銀三枚と自分でくらべてみたいところだが、これ以上は無駄な散財はしまいと自分に言い聞かせ、掛け算で我慢することにした。

 前述の『横浜市史稿』産業編によれば、「洋銀一箇は一分銀三箇と取替へるべく幕府より布告された。併し相對取引は二分前後を以て行はれたと云ふことである」。相場はつねに一分銀高だったのだ。ところが、外交官だけは条約で定めたレートで一定額を交換できたため、それによって潤った人びともいたという。

 また、一分銀が15匁相当として4枚で金貨一両と交換できたため、開港当初は金銀比価が世界の相場といちじるしく異なり、それに付け込んで半年で30万から40万両ほどの金が流出したと考えられ、オールコックなどはこれが外国人への悪感情につながったと主張した。実際にはオールコックらの指摘を受けて、開港の翌年1860年5月には純金量が天保小判の三分の一の万延小判が発行されて流出は食い止められている。だが、金の流出以上に、開港によって大量の外貨が一部の人びとの懐に流入し、次々に新貨が発行されて貨幣価値が下がってインフレになり、銅銭の中国への大量密輸による混乱が起きたことなどが、社会を根底から揺るがしたらしい。貨幣こそ血流ということか。
(とうごう えりか)







はまってはまって

江崎リエ(2017.08.03.更新)


青空に映えるテトラマウンド



水の増減と色の変化がすばらしい海の噴水



頂上まで登ったモエレ山とガラスのピラミッド


人生初の北海道上陸


イサム・ノグチデザインの遊具
   今年は早めに夏休みをとって、7月21日から3泊で小樽、札幌を旅行してきた。これが人生初の北海道上陸だ。実を言うと、北海道は国内の旅行先としては優先順位が一番低い場所だった。東京育ちで都会のうねるようなエネルギーが好きな私にとって、北海道の自然やスキーに適した雪の風景には全く魅力を感じない。そんな私に北海道上陸を決意させたのは、「札幌郊外にあるイサム・ノグチ設計の公園を見に行きましょうよ」という友人の言葉だった。イサム・ノグチは私が好きな彫刻家・家具デザイナーであり、香川県高松市にあるイサム・ノグチ庭園美術館と札幌市のモエレ沼公園は、前から一度行ってみたいと思っている場所だった。しかし、北海道も四国も遠い。「こんなふうに友人と行く機会を逃せば、死ぬまで行かないかもしれない」と思ったので、二つ返事で誘いに乗ることにした。

 モエレ沼公園のHPによると、イサム・ノグチはある起業家から、「長年温めていたプレイグラウンドのアイデアを実現できる場所があるかもしれない」と聞き、1988年3月に札幌にやってきた。世界的な彫刻家を迎えた札幌市は、イサム・ノグチの作品を設置したいと幾つかの候補地を見せた。イサム・ノグチはその中で、不燃ゴミを埋め立てて作りかけていた「モエレ沼公園」を気に入り、公園の設計を引き受けたという。その8ヶ月後、モエレ沼公園の2000分の1の模型が披露されたが、その1ヶ月後、イサム・ノグチは急逝してしまう。公園作りはイサム・ノグチ財団に引き継がれ、2005年にようやく完成した。モエレ沼公園はイサム・ノグチの最後の仕事なのだ。

 太陽が照りつける中、実際にモエレ沼公園の中を歩いてみた。イサム・ノグチデザインの遊具のエリア、彼の巨大な彫刻とも言えるモエレ山、プレイマウンテン、テトラマウンド、モエレビーチ、海の噴水と、見所はたくさんあった。市立公園なので、テニスコート、野球場、陸上競技場、屋外ステージなどの施設もある。札幌市が「自然とアートの融合」と謳っているように、広い敷地に様々な作品のある美しい場所だった。ただし、188ヘクタールという敷地は広すぎて、すべてを見て回って味わうにはかなりの健脚が必要だ。標高62メートルというモエレ山には登ってきたが、遠くから眺めただけの場所も多かったので、2回目の北海道上陸の動機付けになりそうだ。
(えざき りえ)












七月便り


中埜有理(2017.08.03.更新)




 7月は誕生月なので、自分にプレゼント。フィギュアスケートのショーを新横浜と東伏見の2回見てきた。写真は東伏見のダイドードリンコ・アリーナでのプリンス・アイス・ワールドのときのもの。終演後の「ふれあいタイム」で撮影。よい席を買うとリンクサイドでスケーターと「ふれあえ」るのだ! 新横浜では撮影不可でした。

 本田太一くん、本田きょうだいの長男。ショーはまだ慣れていないみたいだったけど、ふれあいタイムでは大サービスで何回も出てきて、ポーズの注文にも気さくに応えてくれた。今季で引退の村上加奈子ちゃん、トレードマークの笑顔炸裂。表情豊か。体型がすごくスマート。ベテランの本田武史さん。家電にくわしいんですね。隣のファンが家電の話を振っていた(笑)。

 

  荒川静香さん、毎度思うけど、細くてきれい。イナバウアーしながら、ファンに手を振るという、ちょっとおかしなスケートを見せてくれた。ひさしぶりにリンクに戻ってきた小塚崇彦さん。自分から握手の手をさしだしてくれるイケメンっぷり。滑りもあいかわらずエレガント。安藤美姫さん、とくに好きではないのに、目の前に来るとつい「きれいでした」と人にいわせるオーラあり。やはり魔性か。ファンからヒマワリの花冠をプレゼントされていた。

 

 町田樹さん、ぜったいてきに人の視線をくぎ付けにする魅力あり。3幕もののドンキホーテ最高です。見るたびにアイラインが濃くなるような気がする。三原舞依ちゃん、スケートがすごく安定している。新横浜では紫の衣装でタンゴを滑り、妖艶さを出していた。とてもキュートなのに恐るべき17歳。

 お目当ての宇野昌磨くん、反対側の客席から回り始めたので、ファンに引きとめられ、なかなか近づいてこない。プレゼントの量がものすごい。花やプレゼントに埋もれて姿が見えないほど。ようやく目の前に来ても係の人にせかされて、すぐに移動。でも、握手してもらっちゃった! 新横浜ではショートのビバルディ四季の「冬」(スピン最高)、東伏見ではフリープログラムのトゥーランドットを見た。クワド最高。「誰も寝てはならぬ」はホセ・カレーラスの歌を使用。ほんと、カラフ王子そのまま。というか、ほんものの王子さまって感じ。

外は気温35度という暑さのなか、リンクサイドは冷えひえ。Tシャツにサマーセーター、ジーンズの上にダウンコート、首にスカーフ、膝にフリースのひざかけ、熱いお茶を入れたポットと防寒対策ばっちり。新横浜ではネーサン・チェンやメドヴェジェワのスケートも見られてとても楽しかった。

(なかの ゆうり)




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