今月のエッセイ 2019年2月
   

江崎リエ【はまって、はまって】……「それとも単なる偶然の結果なのか確かめたいと思うが、その術がない」

東郷えりか【コウモリ通信】……「明治維新は革命だったのだと、古地図を見るたびに思う」

中埜有理【七月便り】……「舞台中央に進み出て、絵馬をさっと返して表に向け、すっと引き下がった」

野中邦子【ぐるぐるくん】……「外れると泥沼に落ち込むことから『泥ちゃれ』とも」

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コウモリ通信

東郷えりか(2019.02.01更新)




とうかん通り


湊橋


銀杏八幡宮・銀杏稲荷


日本橋小学校前の西郷隆盛屋敷跡

その222

「東京市日本橋蠣殻町のパン屋のおつねさん」

 これは子供のころに母から教わった手遊び歌で、一本指で、つづけて二本指で線を描いたあと、くすぐってからパンと叩き、つねって遊ぶ。母は神田小川町生まれの曽祖母から教わったようだが、検索しても、やや異なるバージョンのものが数件見つかるだけなので、ほんの一時期、ごく狭い地域で歌われたのだろうか。私にとってはこの歌のおかげで蠣殻町という名前は、物心がついたころから名前だけは知っている場所だった。勤めていたころは何かと東京シティエアターミナルやロイヤルパークホテルに行くことがあったので、頭上を走る首都高の陰になったような場所が蠣殻町で、がっかりした記憶がある。

 そんな蠣殻町一帯を、寒空の下に少しばかり歩いてみた。かつてここに、稲荷(とうかん)堀という細い堀割が日本橋川と並行してあり、その東側に姫路の酒井雅楽頭家の広大な中屋敷が江戸の初期から幕末まで存在したことを発見したからだ。稲荷堀跡は現在、とうかん堀通りとなっていて、そこに立つ説明板に転載された延宝年間(1673-1681)の古地図にも、この屋敷は描かれている。嘉永3年の地図を安政6年に再板した「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(東京都立図書館のページで見られる)では、この一帯は大名屋敷が立ち並ぶため蠣殻町の町名は見当たらないが、稲荷堀の文字の横にトウカンボリと書かれたすぐ上にカキガラ丁とある。この地図の最下部にある日本橋川に架かる湊橋だけは、いまも弁才船の浮き彫り付きのそれなりにお洒落な橋となって残るが、あとは見る影もなく、やや寂れた雑居ビル街が広がる。

 現在は首都高の向島線が上を通る薄暗い通りには、かつて箱崎川が流れており、稲荷堀が箱崎川に注ぐ場所は行徳河岸と呼ばれていた。徳川家康は江戸に居城を定めてすぐに塩を確保するためのルートとしていまの江東区を東西に流れる小名木川を開削させ、行徳から塩を運ばせていた。小名木川は、現在の江戸川と結んで利根川舟運の重要な区間にもなっていた。その重要な水運の終点がこの行徳河岸だったのだ。

 酒井雅楽頭家のこの中屋敷に興味をもった理由は、ここが上田藩主となった松平忠固の誕生の地だと思われるからだ。松平忠固は姫路藩主酒井忠実の十男として生まれ、上田の藤井松平家の婿養子となった。私が見つけた資料には、正確には「江戸浜町の藩邸に生まれる」と書かれていたのだが、前述の地図には、蠣殻町より少し東側の浜町には姫路藩邸は見当たらない。姫路藩主の子孫である酒井美意子の『姫路城物語』にも確かに、第6代藩主となった忠学が将軍家の姫を正室に迎えた際に、江戸浜町の中屋敷を増築したとある。姫路藩の史料である『姫陽秘艦』(一)をざっと目を通したところ、この喜代姫の輿入れに関連して、天保元(1830)年に浜町にある細川越中守の4,553坪の屋敷を借りたらしい旨が書かれており、これまで蠣殻町の中屋敷と呼んでいた場所を浜町中屋敷と呼ぶ云々とある。これらの情報を総合すると、一時期、浜町にも屋敷をもっていたのかもしれないが、忠固が生まれた文化9(1812)年はそれ以前なので、おそらく稲荷堀沿いの屋敷で生まれたのだと思う。

 この中屋敷の広さを実感したのは、行徳河岸から500メートル以上は離れた場所にある日本橋小学校の入口にある西郷隆盛屋敷跡の説明板を先に見て、そこから歩いたからだ。中央区教育委員会の説明板によれば、明治維新後、酒井雅楽頭家の中屋敷の北側部分、2,633坪が金1,586円で払い下げられ、下野するまでの一時期ここに西郷隆盛が暮らしていたのだ。昨年の大河ドラマでも、この屋敷と思われる場所に軍服姿で出入りする西郷が描かれていた。西郷「吉兵衛」は一橋派として裏面工作に奔走するなかで、敵視する松平忠固の動向を懸命に探っていた一人だ。西郷はここで忠固が生まれたことなど知る由もなかっただろうが、忠固の生家に西郷が住んでいたとは、明治維新を象徴するようで興味深い。司馬遼太郎は払い下げ価格を250円だったと書いているようだが、説明板を信じるとすれば、現在のお金で約600万円になる。いずれにせよ破格値ではあっただろう。ちなみに、南側の敷地は、『川と堀割"20の跡"を辿る江戸東京歴史散歩』によれば、13,989坪あったという。

 同書によれば、この一帯にはもともと陸奥磐城平藩安藤対馬守の広い屋敷があったそうで、蠣殻町の交差点付近にある銀杏八幡宮に合祀された銀杏稲荷は、安藤家の氏神だったらしい。安政6年の絵図に「安藤」とだけ書かれた対馬守の屋敷の隣に「イナリ」とあるのがこの神社だ。安政の大獄後に幕府を率いた安藤信正は、忠固の実家のお隣さんだったのだ。忠固同様、開国に舵を切った時代に老中を務め、安藤信正とともに混乱期を歩んだ関宿藩主久世広周の中屋敷も、埋め立てられてしまった箱崎川の「対岸」にあった。関宿は千葉県の北西の角部分の江戸川と利根川の分岐点にある。やはり老中仲間の佐倉藩主堀田正睦の上屋敷も浜町にあった。佐倉はやや離れているが、印旛沼を経由して利根川にでていたようだ。水運の要衝に屋敷を構えていた彼らが、無謀な戦を避け、開国して貿易をする道を選択したのは、無縁ではないだろう。

 ところでこの日、蠣殻町に行く前に九段下の千代田区役所に立ち寄った。曽祖母の除籍謄本が取れるか試してみたのだ。だが案の定、旧神田区は関東大震災のときに大正3年以前の除籍簿・原戸籍簿等が焼失しており、曽祖母の記録は失われていた。ところが、1月の寒い土曜日の午後で区役所が空いていたおかげか、職員の方が熱心に調べてくださり、曽祖母の父親の名前が、長男の記録に付随して残っているのを発見してくださったのだ。その結果、弘化4(1848)年生まれの高祖父と、嘉永2(1849)年生まれの高祖母のことが少しばかり判明した。材木商だったと伝わるほかは、写真が一枚と葬儀の写真が残るだけだったこの高祖父は、なんと尾張国海東郡勝幡村の出身だった。調べてみると名古屋の西の郊外で、木曽川からさほど遠くない場所だった。木曽川はもちろん、江戸の材木の最大の供給地だ。幕末まで譜代大名や旗本の屋敷があった神田小川町に、高祖父は明治8(1875)年に移っており、それ以前は深川熊井町にいた。現在の江東区永代1丁目の永代橋のたもとから南にわずかに下った辺りの隅田川沿いだ。古地図では付近には木置場がたくさんあるので、材木商ならではの立地だ。明治になってこれらの大名屋敷が取り壊されると、跡地に細々とした建物をつくるために大量の材木を提供して儲け、自分も稲葉長門守の屋敷跡の一角に新居を構えたに違いない。明治維新は革命だったのだと、古地図を見るたびに思う。

 ついでながら、靖国通りをもう少し淡路町方面に進んだ、現在はかんだやぶそばがある付近に、一時期、上田藩の昌平橋の上屋敷があったという。忠固の大叔父で江戸琳派の祖と言われる酒井抱一も、神田小川町の姫路藩別邸にいたようだが、正確にどこかはわからなかった。少し暇になったら、またあちこち歩いてみたい。
(とうごう えりか)







ぐるぐるくん

野中邦子(2019.02.01更新)






 ブラケット・チャレンジという言葉を聞いたことがありますか? 英語ではBracket Challenge。

 ブラケットとは建築では持ち送り、文法では括弧[ ]を意味し、ある種のグループ分けを指すこともあります。ここでいうブラケットとは、日本でいう対戦表、いわゆる「ドロー」のこと。スポーツのトーナメントで、誰が勝ち上がるかを決勝まで予想するのがブラケット・チャレンジというわけです。

 ドロー・チャレンジを略して「ドロチャレ」ともいいます。予想が外れると泥沼に落ち込むことから「泥ちゃれ」とも。

 今年のテニス全豪オープンでは、テニスチャンネルというウェブサイトがこのブラケット・チャレンジを実施していたので、私も参加してみました。むずかしいのは客観的で冷静な判断と、自分の推しが勝ち上がってほしいという希望の折り合いをつけること。

 私はナダルのファンなので、もちろん優勝はナダル予想です。準決勝まではうまくいったんだけどな。

 むずかしいのは1回戦や2回戦という早い段階です。ベテラン選手でも初戦は緊張するし、若者はやる気満々なので、予想外のダークホースが勝ちあがることも珍しくない。さすがに準決勝あたりになるとほとんどシード選手だけになる。今回、ノーシードで4回戦まで勝ち上がったのはティアフォーとベルディヒだけ。ベルディヒは長く休んでいたので、実質的にはシード選手と同じくらいの力があります。若手のティアフォー(21歳)にあっさり負けたディミトロフが不甲斐ない。

 そのティアフォーは、準準決勝でナダルと対戦し、ナダルは貫禄の強さで退けてました。準決勝ではギリシャの期待の星チチパスと対戦し、やや危ぶまれたものの、ベーグル(6:0)を含むストレートで快勝したナダル。ケガのために長期の休場、前哨戦もパスしたことを考えれば、期待以上の出来でした。

 28シードで準決勝まで勝ち上がったフランスのプイユをジョコビッチが鬼のような強さで一蹴。決勝はトップ1と2の頂上決戦でしたが、結果はご存じのとおり。

 ブラケット・チャレンジはもちろん、あてずっぽうで選手を選んでいけばいいのですが、われながら驚いたのは、今回の男子シングルスのドローで、ワイルドカードの2,3人を除くほぼ全員の顔を思い浮かべることができ、プレイスタイルや得意技も知っていたということ。「ものすごく熱心なテニスファンじゃないか!」と、改めて思ったのでした。

 女子のほうはそうはいかず、顔もわからないまま、行き当たりばったりになんとなく選んだのですが、大坂なおみ選手の優勝はばっちり当てました!

 大坂選手のおかげか、結果は女子が272位、男子が1596位でした。参加総人数がわからないんだけど……。

(のなか くにこ)







はまってはまって

江崎リエ(2019.02.01更新)



1月26日の朝日新聞の記事



借りてきた「恋愛療法」

偶然か、記憶のなせる技なのか?


   最近はよく海外の小説を読んでいるのだが、なかなか面白い本に当たらない。そこで、いろいろな本の紹介記事を参照して、興味を持ったものを図書館から借りてくる。そんな本の一つがイギリスの小説家デイヴィッド・ロッジの「恋愛療法」だった。作者の名前を初めて知ったのは1月26日の朝日新聞朝刊の記事だった。この記事を読んで、私が読んでみたいと思った本は皆借り出されていて、在庫のある数冊の中で一番早く手元に来たのがこの本だった。

 この本の2ページ目の「慎重に」という言葉の横に「ジンジャリー」というルビが振ってあった。出てきた文章は以下のようなものだった。  
慎重に(ルビ、ジンジャリー)立ち上がった。(「ジンジャリリー」と  書くべきか? いや、今、辞書をひいたら、形容詞も副詞も同じ形だ)。
 カッコ内の説明によって、作者は主人公が言葉にこだわるタイプだということを示したかったのかもしれない。このルビを見た時の私の反応は、「けっこう英語の文章を読んでいるけれど、ジンジャリーなんて、見たことも聞いたこともない」というものだった。しかし、それから数時間後、インターネットで英語の記事を読んでいる時に、gingerlyという単語を目にした。この偶然に私は驚いた。

 しかし、考えてみるとこういうことはよくある。フランス語の授業で新しい単語を聞き、「この言葉は初めて聞いた」と言うと「本当か? これは別に難しい単語ではなくて、会話でも使われるよ」と言われ、「いやー、こんなの聞いたことない」と言い張った矢先、帰りの電車の中で新聞記事を読んでいたら同じ単語が出てきたりする。

 昔々の妊娠中に、大きなお腹で外を歩いていて、やたらに妊婦が目につくという現象があった。それまでは気にも止めずに歩いていたのが、自分が妊娠してフウフウ言うようになったら、同じ境遇の女性がやたらに目に入り、「世の中にはこんなに妊婦が多かったのか」と驚愕したことを思い出す。ジンジャリーもこれと同じで、意識がこの単語に行っていたから目に入ったのか、それとも単なる偶然の結果なのか確かめたいと思うが、その術がない。同じように「この単語、初めて見る」と思ったものは多数あり、そのことが記憶にあるうちに同じ単語に出会わなければ、そのことはすっかり忘れてしまっているはずなので、意識しているから出会うとは限らないと思うのだが、出会う頻度と出会わない頻度を比べる術もない。こういうことを研究している学者がいるのではないかと思うので少し調べてみようと思うが、とりあえずはgingerlyという単語をしっかりと覚えただけで「よし」としようと思う。

(えざき りえ)












七月便り


中埜有理(2019.02.01更新)

 良き友ありて


 友人のmotokoさん宅で新年会。6人のうち4人で。そのうち夫を亡くしたのが私も含めて3人。男の人は早逝ですね。

 薬膳カレーと長芋のグラタンがメイン。リフォームしたすてきなキッチンを見せてもらい、とても便利だというスロークッカーをお勧めされた。料理がどんどん下手になっている私としては肩身が狭い。

 

 私はお酒のお持たせ担当だったので、冷蔵庫に入っていたスペインのカバ――銘柄はNadal(テニス選手とは無関係)――とスペインのオーガニック赤ワイン、それにアサヒビールのお正月バージョンを持参した。

 高校の友人と中野ZEROで新春能『絵馬』を鑑賞。翁と媼が節分の夜、一年の吉凶を占う絵馬を伊勢神宮に奉納する。ところが、なんと翁が掛けた黒い絵馬が裏返し! 真っ黒で馬の絵が見えない。この演目のシテである能楽師の小島英明さんがつねづね言っているように、面をかぶるとほんとに視野が狭くなるのだ。

 途中、後見のもとに裃姿の人が近づき、耳元でなにかささやく。そのちょっとあと、後見がするすると舞台中央に進み出て、絵馬をさっと返して表に向け、すっと引き下がった。

 舞台はなにごともなく進行してゆく。修整能力の高さに感心する。

 前に靖国神社の薪能を見に行ったとき、あとで出てくるシテが装束なしの素面だったので妙だなと思ったら、なんと本来のシテ役者が倒れ、代役だったといういきさつがあった。そういえば、とあとで思い出せば、途中で遠くから救急車のサイレンが聞こえていたのだった。

 

   横浜美術館の「イサム・ノグチと長谷川三郎――変わるものと変わらざるもの」の内覧会に行ってきた。これも学芸員をしている友人がチケットを送ってくれた。

 今度の6月には高校時代のクラスメイトが計画してくれたギリシャ旅行に参加する予定。落ちこぼれだった私は彼女たちととくに親しかったわけではないんだけど、ギリシャ在住の友人が案内してくれるというので、好奇心に逆らえなかった。どんな旅になることか。



 年末にはテニス観戦を通じて知り合った古い友達の会もあり、好きな選手はさまざまながら、仲良くしている。お菓子作りの得意な年下の友人が手作りのブルマーク入りクッキーをくれた。

 銀座で忘年会のスナップショット。仕事仲間でもあり、高校の同窓でもあり、全員が働く女性たちでもある。

 1月はテニスの全豪オープンを自宅で観戦。時差が2時間しかないので、会社務めの人には見にくい時間帯である。大坂選手の快進撃には大興奮した。ケガで休場明けのナダルの復活もうれしい。決勝でジョコビッチに負けたのは、まあしかたがない。ジョコビッチはマシンのように強かったし。自宅でのテレビ観戦もツイッターで友達とわいわい騒ぎながら見るのが楽しい。SNSがあってよかったと思う一人住まいの高齢者である。

 自分がシャイで、人付き合いが苦手なことは重々自覚しているが、人数は少ないながら、よき友達に恵まれてラッキー!

(なかの ゆうり)




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