今月のエッセイ 2017年9月
   

江崎リエ【はまって、はまって】……「ちょっとアボカドの種を育ててみようか」

東郷えりか【コウモリ通信】……「石から文字は消え、墓には木が生い茂っていた」

中埜有理【七月便り】……「生きているはずの鑑賞者が立ち止まっている」

野中邦子【ぐるぐるくん】……「ノルマも忘れて翻訳に没頭できる」

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コウモリ通信

東郷えりか(2017.09.01.更新)




『ファーイースト』に掲載された
イギリス領事館



山手のイギリス公使館


フレデリック・ラウダーの墓


ブリジェンス夫妻の墓
その205
旧新橋停車場

 新橋駅銀座口から昭和通り沿いに少し行った先に、旧新橋停車場の遺構に再現された鉄道歴史展示室がある。汐留の再開発のときの発掘調査で駅舎やプラットフォームの礎石などが発見され、古い写真や残されていた平面図をもとに、1871(明治4)年に竣工したブリジェンス設計の駅舎をそこに再建したものだ。周囲に高層ビルが建ち並ぶなかで、ちょっと不思議な空間になっている。

 リチャード・P・ブリジェンスにいつから興味をもったのか覚えていないが、私が横浜の歴史を調べだしたきっかけになったコータッツィの『ある英人医師の幕末維新』の表紙には、彼が設計したイギリス領事館の横浜絵が使われていた。新橋駅の対となった横浜駅の駅舎を設計したのもブリジェンスだった。のちに神奈川県庁となった横浜税関の建物や、「時計台」として知られた町会所、グランドホテルのほか、山手にあったイギリス公使館も彼の作品だった。一八六七年に建設されたこの公使館と築地ホテルは、レンガや石造りではなくナマコ壁を使っており、耐火性のある建築物を、地元で調達できる資材で手早く建設したものだった。二代広重の描いた「横浜高台英役館之全図」ではレンガ風に見えるが、『ファーイースト』紙に掲載された写真を見ると、ちゃんとナマコ壁になっている。このアイデアが、工事を請け負った高島嘉右衛門の発案なのか、建築家のものかはわからないが、トリニダード・トバゴで育ったブリジェンスには植民地の折衷建築物に馴染みがあったのだろう。

 ネットでリチャード・ブリジェンスと検索すると、見つかるのはもっぱら建築家で家具職人かつ絵描きでもあった、ミドルネームだけが違う同名の父親の作品だ。『西インドの情景』と題された彼の本の生き生きとした挿絵が数多くヒットする。父親のほうはカリブ海の奴隷制度の実態をいまに伝える貴重な史料として、最近かなり話題になっているようだ。息子のほうも父親の才能を充分に受け継いだと見え、北米へ移住後、サンフランシスコの初期の市街図を作成したほか、フォート・ポイントの設計にもかかわった。

 その彼が一八六五年三月に来日したのは、夫人の姉が横浜にいたためだと言われている。義姉のほうは開港後まもない一八六〇年一月ごろに来日した。当時は居留地にほとんど西洋人女性がいなかったうえに、パリの最新流行のドレスを着た三十前後の美人だったために、大評判になったそうだ。夫のショイヤー氏は六十歳と高齢で、横浜最初の新聞『ジャパン・エキスプレス』を短期間発行した競売人で、競馬の世話役、居留地参事会の初代議長を務めた人だった。妻のアナは、橋本玉蘭斎の御開港横浜大絵図に「画ヲ能ス女シヨヤ住家」と書き込まれたことからもわかるように、絵が上手で、のちに明治天皇の肖像画などを描いた高橋由一に絵を教えたことでも知られる。

 居留地の有力者ショイヤー氏のつてで、ブリジェンスは次々に大きな仕事を受注できたと言われるが、ショイヤー夫妻はアメリカ人であるうえに、ブリジェンスが来日した翌年には、夫のラファエルは急死している。横浜外国人墓地には、ラフェルだけが生麦事件の被害者の近くに眠っている。寡婦となったアナは、六六年に来日したアメリカ公使ロバート・ヴァン・ヴァルケンバーグと翌年に再婚したため、その縁故で仕事を得られたという説もあるが、この夫婦は六九年にはアメリカに帰国している。ちなみに、ヴァルケンバーグは幕府が発注した甲鉄艦ストーンウォール号の引き渡しを拒み、のちに薩長軍側に斡旋した人だ。これが箱館湾海戦で旗艦として使われ、勝敗を決した。

 ブリジェンスがイギリス公使館と領事館の仕事を得られるようになったきっかけは、ほかにありそうだ。じつはそこにかかわってくるのは、宣教師としてヘボン博士らと来日したブラウン師の娘ジュリアと、当時横浜にいたウィルソンという写真家に下岡蓮杖、そしてイギリスのオールコック公使の再婚相手の連れ子で、十七歳でイギリス領事館の通訳生として来日したフレデリック・ラウダーという、なんとも複雑な人間関係なのだ。フレデリック・ラウダーは生麦事件の前日に三歳年上のジュリアと、彼らの赤ん坊が生まれる四八時間前に周囲の反対を押し切って結婚した。下岡蓮杖はそのジュリアを介して写真術を学んだと言われ、ブリジェンスのことは「ビジン」と呼んでいた。ラウダー夫妻はともに長く横浜に住み、横浜外国人墓地に葬られたとされる。だが、実際には夫の死後、ジュリアは亡夫の祖国イギリスへ永久に「帰国」したという記事がある。乗船した船はサンフランシスコ行きだったので、自分の母国アメリカに帰ったのかもしれない。草木に埋もれた夫の墓の縁石側面に、彼女の名前と生没年が刻まれていたので、分骨したのだろうか。

 ブリジェンスは長らく消息不明になっていたらしいが、町会所が焼失した翌年まで生きた「ブライトゲン夫人」の古い新聞の死亡記事が一九八三年に見つかり、外国人墓地の19区に葬られていたことがわかったうえに、夫のリチャードも横浜で一八九一年に死去していたことが判明したという。狭い19区のなかを何度も歩き回ったが、ブリジェンス夫婦の墓は見つからなかった。先日、無理を頼んで詳しい地図を見せてもらい、その場所と思われるところへ行ってみた。一九八三年当時もかろうじて読める程度だったという大理石の墓標、と推測される石から文字は消え、墓には木が生い茂っていた。彼らの存在が日本人の記憶から消えてしまったことを象徴するようで、しばし呆然と見入った。

 初代新橋駅の近くには、ブリジェンスが設計した後藤象二郎の蓬莱社の建物と蓬莱橋と呼ばれた石橋があったはずだ。いまやどちらも存在しないが、蓬莱橋という交差点に名が残っている。蓬莱社は横浜の北仲通の埋め立てを請け負ったというが、関内駅近くの蓬莱町も明治6年の埋め立て地なので、この会社の名が地名として残されたのだろうか。祇園精舎の鐘の声が聞こえてきそうだ。
(とうごう えりか)







はまってはまって

江崎リエ(2017.09.01.更新)



2週間前のアボカドの鉢



一番大きいのは鉢を変えて
支柱を立てました




一番小さかったのも
ここまで伸びました


アボカドの種を育てる


 アボカドをよく食べる。味や食感が好きというよりも、黒い実に縦の切れ目を入れてぐるっと回すあの感じ、割れた時に出てくる緑の美しさ、真ん中の大きな種のインパクト、そんなものをすべて体験できるから好きなのだと思う。そして毎回、あの丸々と太った茶色の種を捨てるのは惜しいと思っていた。そんな時にネットで見たのが、アボカドの種をはじめ、パイナップルのヘタやレモンの種、大根の葉っぱの部分などを水栽培して育てている映像だった。そこで、ちょっとアボカドの種を育ててみようかと思った。

 最初は水栽培で、楊枝を四方に刺してコップに浮かせておいたのだが、一ヶ月経っても変化がない。その間にも幾つかアボカドを食べたので、それらの種はベランダの大きな鉢の隅に並べておいた。そうしたら、水栽培のものよりも早く芽が出たので、それぞれ小鉢に植え替えた。そこから先は茎がどんどん伸びて、葉が開いてきた。茎がやたらに長く伸びるのはアボカドの性質なのか、日照不足のせいなのかわからない。種が大きいので、球根と同じでここから栄養が補給されるだろうと思い、肥料もやっていないが、今のところすくすくと伸びている。水栽培のほうは室内に置いてあるので、2ヶ月経って小さな芽が出たきり成長しないのでこちらも土に植え替えた。

 面白がってここまで育ててみたものの、これからどうしようかと考えている。葉が出たのはうれしいが、見かけはそれほど美しくもないし、大きくして実を生らすのは難しそうだ。寄せ植えのバックにも合いそうにないし、いっそのこと、大鉢に全部まとめて育てようかと思っている。

 植物を育てて思うのは、成長に時間がかかるということだ。アボカドも芽が出てから小さな葉が出るまで、葉が出てから大きな葉になるまでに予想以上に時間がかかった。「まだなの」とジリジリするのを通り越したくらいでやっと目に見える大きな変化が現れる。多分、人間の成長も同じなのだろうと思い、アボカドのおかげで少し忍耐力が養われた自分がいる。

(えざき りえ)











ぐるぐるくん

野中邦子(2017.09.01.更新)

一冊分の原稿と
原書ペーパーバック



人生の苦さ、または仕事における見込みの甘さ

 コンピューター内のフォルダの日付からすると、4年前の2013年からスタートした翻訳の仕事が8月中旬やっと終わった。

 主人公(著者)が恋人との別れを決意する前後のシーンは共感で胸が痛くなった。年の差は大きいとはいえ、心から尊敬し、愛した相手である。結婚はしていない。それでも、どうしても気持ちがすれ違い、自分自身を保つためには別れるしかないと決意する。

 主人公に同情し、共感し、励ましたくなる。そんなときは、ふだんのノルマも忘れて翻訳に没頭できる(これは一種の快感である)。1冊の本を翻訳していると、少なくとも1度はそんな感動に出会う。この仕事の醍醐味といってよい。そういうすぐれた作品を翻訳できる機会を得られたことに感謝しなければいけない。

 大人気だったTVドラマ『カルテット』に「泣きながらごはんを食べたことがある人はだいじょうぶ」というセリフがあった。テレビの前で大勢の視聴者が「うん、うん、あるよ」と心の中でうなずいたにちがいない。私も、です。

 中島みゆきの歌には「道に倒れてだれかの名を呼びつづけたことがありますか」という詞がある。ま、こっちは、あまりいないかもしれない。

 つらい恋は、ほんとツラい。でも、それが人生を味わうってことかもしれない。甘さを本当に味わうには苦味も必要なのだろうか。 

で、その部分を引用します(拙訳)。
 その瞬間、二人の関係がどうなっているのかを思い知った。不幸に見舞われたら、いちばん愛している人に慰めを求めるのが自然ではないだろうか。だが、私にはわかっていた。慰めてもらえるどころか、厳しい叱責にさらされるだけだ、と。いまは自分と関係のない、どこでもない場所のほうが落ち着けるはずだとわかっていたので……近くのカフェに入り……彼との過去、そして将来について、じっくり考えてみることにした。疲れはて、重い心で坐っていたとき、自分が完全にひとりきりだと感じた。子供たちがいることを思えば、ひとりでいるよりもっと悪かった。この先どうなる、と私は自問した……このままつづけるとすれば、義務感からの行為でしかなくなるだろう。

 会社の終業時間だった。混みあったテーブルの合間を人びとが行き来し、カフェは満席だった。他人の生活が私の人生と交差し、自分の周囲で流れていくことに一種の慰めを感じた。それがパブロの――不在のときでさえ感じられた――冷淡さを拭い去っていくようだった……人びとをじっと見つめていると、その身ぶりや表情から、とどのつまり、彼らのほとんどが私と同じような、あるいはもっと重い苦しみを負っているということが伝わってきた。人はみな、そのやり方はちがっていても、同じ務めを果たし、同じ方向に進んでいる。私はもはや孤独ではなかった――彼らと同じくらい孤独かもしれないが、それ以上ではない。私の重荷の一部が消えた。人はだれしも孤独であり、相互依存のなかで生きているという鮮明な感覚が得られた。
 この2人とは、画家のパブロ・ピカソとフランソワーズ・ジロー。40歳ほども年齢差がある2人は約10年間、ともに暮らし、クロードとパロマという2人の子をなすが、最後はフランソワーズから別れを切りだして関係を解消する。

   ほかの恋人たちは別れたあともピカソの呪縛から逃れられず、みずから命を絶ったり、精神に異常をきたしたり、不幸な人生を送る人が多かった。そのなかで唯一、ピカソと別れたあとも自分の人生をきちんと生き、幸せをつかんだのがフランソワーズだった。そのためSurviving Picasso(ピカソを生き延びる)と称され、同名の映画まで作られた。

 「彼らのほとんどが私と同じような、あるいはもっと重い苦しみを負っているということが伝わってきた」

 これは本当に腑に落ちる。仏教の逸話にも、こんなのがある。子供を亡くした母親が仏陀に「どうか生き返らせてほしい」とすがったところ、「死人を出したことがない家から芥子の種をもらってきなさい」といわれる。母親はあちこち訪ね歩くが、当然のことながら、死人を1人も出したことがない家などない。

 不幸なのは自分1人ではない、ということですね。私自身、この十年間、おりにふれて、「死人を出したことのない家はない」という言葉を内心でつぶやくことが数度。

 だからあきらめろというのではなく、共感と思いやりが大事なんです――ということを、わが国の首相にいってやりたい酷暑とゲリラ豪雨の夏。

 刊行はたぶん来年春以降になる予定。じつはこの本、かつて瀬木慎一さんの訳で新潮社から出ていた本『ピカソとの生活』の改訳です。改訳というのを一度やってみたかったので、貴重な経験になりました。「わからないところは前の訳を見ればいいな、ラッキー!」とズルいことを考えていたんだけど、その思惑は外れ、わからないところはさらにわからず、わかるところも前の訳文とちがっていたらかえって疑心暗鬼になるなど、見込みの甘さに反省しきり。

(のなか くにこ)








七月便り


中埜有理(2017.09.01.更新)




 六本木の新国立美術館でジャコメッティ展を見てきた。

 最近の美術展で目につくのは、写真撮影可の部屋があること。SNSの流行で写メとともにコメントをアップすることで、口コミ効果が期待できるのだろう。作品だけでなく、オブジェと一緒に写真が撮れるコーナーを作っている場合もあって、なかなか面白い。

 ジャコメッティ展でも、最後のほうに代表作ともいえる3点を展示した部屋では撮影が許可されていた。ほとんどの人がカメラではなく、スマホかタブレットで撮っているのが興味深い。  

 薄暗い部屋で、作品だけにライトがあたり、周囲の鑑賞者が写メを撮るために立ち止まっている。そのようすを見ていて、人びとがまるで木立のように思え、そのなかを歩いていく長身の男というイメージを連想した。静止している彫刻のほうが動いているように感じられ、むしろ生きているはずの鑑賞者が立ち止まっている。

 そういえば、こんな感想もあった。
ジャコメッティの彫刻はどちらかといえば、動きが少ない。つまり、原則として、両腕は体の両脇に垂らし、足にも歩いているような気配がない。だが、あの粘土の灰色に覆われたアトリエでそれらの彫像を見るとき、たぶんそのとても多岐にわたる大きさのせいかもしれないが、私にはつねに、すべてが動いているように感じられた。すべてが私に向かって近づくか、または私から遠ざかっていくのだ。
 彫刻とは、動きを一瞬のうちにとじこめるものであり、その捉え方が巧みであればあるほど、その一瞬だけでなく前後の時間も感じさせるのだろう。彫刻作品が動いているように感じることは珍しくないようだ。この文章を書いたのはピカソの恋人だったフランソワーズ・ジローである。

 

  というわけで、これまで展覧会の撮影コーナーで撮った自写像3連発。自写といっても、近くにいたお兄さんに撮ってもらったんだけどね。そもそも「撮って」とお願いする相手のほとんどは男性なのだ――だいたい男のほうが気楽に撮ってくれますな。

 バルテュス展(3年前の京都で)、ゴッホとゴーギャン展(ゴッホの椅子のレプリカに坐って)、BABEL展(小さい魚を大きい魚が食うタラ夫像の前で)

(なかの ゆうり)




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