今月のエッセイ 2018年4月
   

江崎リエ【はまって、はまって】……「自分の書く字が好きになりたい」

東郷えりか【コウモリ通信】……「とりわけ読者の方々にお見せしたかった」

中埜有理【七月便り】……「若いとはいえないうえにやや鬱っぽい姉妹のデート」

野中邦子【ぐるぐるくん】……「ビートルズのメンバーの一人を英語では簡単にbeatleというが」

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コウモリ通信

東郷えりか(2018.04.01更新)




*ブラフ25番のカルストの家




*ヤン・カルスト一家。
アナは後列左から2番目





*レントの娘ラウラ。
ロンドンで撮影





山下町25番のインペリアルホテル




今日のブラフ25付近の眺め



その212
幕末横浜オランダ人商人見聞録:『幕末横浜オランダ人商人見聞録』
C. T. A. デ・コーニング著、東郷えりか訳、河出書房新社(4月10日刊)


  昨秋から突貫工事で翻訳していたC. T. アッセンデルフト・デ・コーニングの本が、河出書房新社から『幕末横浜オランダ商人見聞録』という邦題で近々刊行される。薄い本なので、さほど苦労はしないだろうと思ったのだが、調べれば調べるほど新たな事実がわかり、校正中に何度も書き加える羽目になった。最後は時間切れで、邦訳版に盛り込めなかったことを、取り敢えずこのエッセイに書いておきたい。

 幕末の激動の時代を目撃した外国人が残した手記は多数あるが、その大半は外交官や軍関係者が残したもので、貿易商人による記録は少ない。幕末の政治に影響をおよぼしたのは、圧倒的に英・仏・米であり、明治以降はそれにドイツが加わり、江戸時代を通じて世界との唯一とも言える窓口であったはずのオランダの重要度は、蘭学が見捨てられるとともに、日本人のあいだで急速に下がっていった。鎖国時代に世の中の進歩から取り残されてしまった日本人は、手っ取り早く追いつくことに必死で、長年の恩人を忘れてしまったようだ。

 今回、特筆しておきたいのは、デ・コーニングの共同経営者であったカルストの一家のことだ。彼らに関しては、ポルスブルック領事の書簡と『市民グラフヨコハマ』から断片的な情報が見つかった程度だったが、ドイツの民間の研究者がおもに明治時代に来日した外国人の情報をご自分の趣味で集めた膨大なデータベース、Meiji-Portraits(http://www.meiji-portraits.de/)のサイトには非常に詳しく書かれていた。初代のカルスト船長が1861年にバタヴィアで死去していたことも、2人の息子、ヤンとレントが代わりに来日していたことも、このサイトから知った。日本に半世紀以上暮らしたヤンは、1864年にニッポンマルという400トンのブリグ帆船を日本政府(幕府)のために購入して、その船を回航してきたというが、これは確認できないので、勘違いなのか、歴史に埋もれていた新事実なのかはわからない。彼は先に来日にしていた弟のレントとともに、デ・コーニングが当初住んでいた居留地25番で貿易と保険業に従事したのち、独立して隣の26番で雑貨商を営んだという。

 この居留地25番の場所は神奈川県民ホール裏手の水町通り沿いで、現在はちょうどインペリアルビルがある付近だ。このビルは、1930年に川崎鉄三設計で建てられたモダニズム建築で、戦後は進駐軍に接収され、マッカーサーの護衛の将校の宿舎になっていたという。ヤン・カルストは明治に入ってから山手に移り、ここでもやはり25番に住んでいた。1915年6月27日にはこの山手25番の家で、横浜の港湾職員となっていた79歳のヤンの来日50周年記念が祝われ、友人たちが大勢、日本人も外国人も集ったと、『ジャパン・デイリーメイル』紙には書かれた。関東大震災で大被害を受けたあと、ヤンは神戸に移り住んでそこで亡くなった。


*アルホナウト号
*印のついた白黒写真はいずれも、Archive of the Family Bruijns/Amsterdam City Archives所蔵


 こうした情報を頼りに見つけたアムステルダム市のアーカイヴのサイト(https://archief.amsterdam/)には、カルスト家の多数の写真や文書が保管されていた。オランダ語のサイトをグーグル翻訳で読んでみると、保管された史料のデジタル化を無料で依頼できるらしいことがわかり、試しにいくつか選んでリクエストしてみた。数週間後、若干の史料がポジフィルムであるとか、肖像権の問題でスキャン対象から外されるが、その他は手続きに入るというメールがきた。さらに待つと、公開されたのでダウンロードが可能になったという旨の連絡がきた。そこにあった画像は、かなり鮮明で素晴らしく、訳書に盛り込めなかったことが悔やまれる。細々とした史料をきちんとリスト化して保管し、公開するだけでもたいへんな労力と思うが、なんら研究機関にも所属しない海外からの一利用者のリクエストに、これほどきちんと対応してくれたうえに、そのデジタル史料を無料で利用させるこの市のアーカイヴの気前のよさには感動し、すぐにお礼を書いた。ダッチ・アカウントなどという言葉があるように、オランダ人はケチだと言われるが、あらゆるものからお金を取ろうとする昨今の日本人のほうが、よほど守銭奴に成りさがって肝心なことを見失っている。

 今回デジタル化してもらった史料のなかでも、デ・コーニングと老カルスト船長がオランダから乗ってきた船であるアルホナウト号の水彩画は、本書に何度かその描写がでてくることもあり、とりわけ読者の方々にお見せしたかった。バーク型クリッパーのこうした船は、少ない乗組員で操縦できる効率のよい船だったという。この絵は、1861年に老船長が死去し、アルホナウト号が次のR. M. ドネマ船長の手に渡ったころにつくられた絵葉書のようだ。この船が1860年に香港で沈没しかけたことや、1868年に横浜・神戸間の航海中に行方不明になったことは、Piet's Scheeps Index(https://www.scheepsindex.nl/)というサイトで知った。ブラフ25番の家の写真もあった。いまでは高層ビルが立ち並んで景色が様変わりしているが、崖の輪郭だけは変わらない。兄弟はいずれも、日本女性とのあいだに子がいて、身体を壊してオランダに帰国した弟のレントは、Omea Taeko(大宮たえ子?)とのあいだの娘ラウラを連れ帰っている。レントはその後まもなく亡くなったが、ラウラは美しい女性に成長し、写真から推測すると、おそらくイギリス人と結婚して南アフリカに転居したと思われ、80歳前後まで生きて、没地はオランダのハーグだった。波乱の人生だ。


カルスト家の墓はサザンカの木の下にある

 兄のヤンは来日時に連れてきた妻を亡くしたあと、2度再婚しており、そのうちの1人がOrio(おりょう?)という日本女性で、明治の初めに名護市で娘が生まれている。貿易商人の家族は、バタヴィア、シンガポール、香港、上海、長崎など、各地の港に拠点を設け、そこを行き来していたので、沖縄のような思いがけない場所で、思いがけない人と結びついている。この娘ヨハンナ・クリスティナはアナと呼ばれ、横浜インターナショナルスクールで教えていたという。年齢から考えると1924年の設立メンバーだったのではないかと思われるが、同校に問い合わせてみたものの、古い史料は残っていないとのことだった。ヤンの家族写真のなかに、異母兄妹たちに囲まれた小柄なアナが写っていた。世界を股にかけたカルスト家のなかでもアナは日本に留まりつづけたと思われ、1964年に89歳前後で亡くなって、父やその他数名の家族とともに横浜外国人墓地に埋葬されている。彼らの墓はいちばん古い22区にあり、1860年に横浜で惨殺された2人のオランダ人船長のピラミッド形の巨大な墓碑のすぐ隣にある。カルスト老船長は事件当日、彼らに会いにヨコハマ・ホテルにでかけたところ、すれ違ってしまったために難を逃れた人だった。子孫たちは特別な思いでその区画を選んだのだろう。ラウラやアナは、その母親たちは、どんな生涯を送ったのか、興味は尽きない。

*印のついた白黒写真はいずれも、Archive of the Family Bruijns/Amsterdam City Archives所蔵
(とうごう えりか)







ぐるぐるくん

野中邦子(2018.04.01更新)


カバーは外して持ち歩く


オリジナルのスクロール版
 集中力が家出中。デスクに向かっていてもゲームをしたり、ツイッターを見たりで、仕事にまったく集中できない。気分がもだもだするので、四季の森公園に出かけ、MACで百円コーヒーを飲みながら読書。ちなみに「もだもだする」の用法は尾崎紅葉『多情多恨』にあるそうな。前に「明治の日本文学を読むシリーズ」(自分で設定し、自分で命名したシリーズ)で『多情多恨』も読んだのだった。内容はうろ覚えだが、おもしろかったことは覚えている。

 青山南『60歳からの外国語修行』(岩波新書)を読んだ。英米文学の翻訳者でもともと英語はできるんだから、スペイン語だって一般人よりは習得が楽だよね〜と思いつつ、もう7年もスペイン語教室に通っている自分のスペイン語のレベルが、2年弱しかやっていない青山さんのレベルとおっつかっつであることがわかってへこむ。というか、同じくらいできると喜んだほうがいいのか。

 たまたま翻訳中の章がニューヨークの書店の話で、ビート・ジェネレーションの詩人や作家が出てくる。青山さんはケルアックの『オン・ザ・ロード』の邦訳者でもあり、シンクロニシティに驚く。この青山さんの新書は、友人がたまたま勧めてくれたもので、ビート・ジェネレーションとの関連性はまったく予想外だった。それにしても、英語でbeatというのは訳しにくい。ビート・ジェネレーションの詩人や作家のことを指しているのだが、カタカナで「ビート」と書くのはどうも落ち着きがわるい。たとえば、ビートルズのメンバーの一人を英語では簡単にbeatleというが、日本語では単数の「ビートル」はまず使わない。複数のsの使い方が英語と日本語では違うからね。悩ましい。 

 『オン・ザ・ロード』を図書館で検索すると、「スクロール版」と書いてある。「これはなに?」と図書館員に訊いてみたが、わからない、という返事。本を手にし、「訳者あとがき」を読んで初めて理解した。

 ケルアックはこの原稿を3週間で書き上げ、タイプ用紙を打ち終わるたびに一枚一枚換えていったのでは文章の勢いや流れが中断されるため、何枚も紙をつなげた長いタイプ用紙に一気にタイプしていったのだという。その後に刊行された書籍は、この第一稿に修正を加えて読みやすくしたものだった。巻物(スクロール)のように見えるからスクロール版。改行もないのである。訳書を開いてみたら、ほんとに改行がない! 自動筆記みたいな感じなのである。

 それで、まあ、いま自分が翻訳中の本のほうでは、ビート・ジェネレーションの作家たちは万引きした本を古書店に売って生活費を得ていたなどという記述がある。作家がかならずしも書店のよい客ではなかった、ということ。まあ、そうだろうな、と納得する一介の読者である私は、もちろん万引きなどせず、新古書店も使わず、新刊書を定価で買い、違法ダウンロードもせず、マンガを海賊版で読むこともしない。ある意味、理想の読者かもしれない。ただし、家にスペースがないので、電子書籍の愛用者ではある。せっかくスクロール版なんだから、『オン・ザ・ロード』もキンドル版で出してほしい。そしたら、本当にスクロールして読めるのに。

(のなか くにこ)







はまってはまって

江崎リエ(2018.04.01更新)



美しい文字が書きたい


   昨日は高校時代の友人宅に行ってきた。年に2回くらい、同級生だった3人が集まって、飲んで食べてしゃべりまくる楽しい会だ。その時に「リエさんは本当に筆まめだ」と言われた。実際、私は手紙を出すのが好きで、若い頃はいろいろと考えたことを便箋に綴って2人に送っていた。そして、必ず返事をもらっていた。2人が書く字は美しくて、私はその文字の流れや勢いを眺めるのが好きだった。

 最近は展覧会に行った時に気に入った絵の葉書を買って近況報告を送るのと、旅先からの風景写真を送るくらいで、封書を送ることはほとんどなくなったので、筆まめとは言い難い。そして、2人からの返事は携帯メールだったり、電話だったりで、2人の手書き文字を見る機会もめっきり減った。

 そんなやりとりの中で、いつも私が思っていたのは、「もう少しきれいな字を書けるようになりたい」ということだった。そこですぐにペン習字などを始めなかったのは、「きれいと言っても、個性のないただきれいな字」というのが好きではなかったからなのだが、「とりあえずペン習字を始めてみてもいいかもしれない」と思うことが最近あった。1つは有名な女優の手書き文字での近況報告をテレビで見て、「子供っぽいな」と思ったこと。もう1つは、再犯を繰り返す受刑者からの手紙の筆跡を新聞で見て、「美しい文字だ」と思ったことだ。書く文字によって人の印象は変わるので、もう少し自分の書く字が好きになりたいと考えたのだ。

 私は普通の人よりも手書きで文字を書く機会は多いと思う。仕事の原稿はパソコンで打つが、テレビを見たり雑誌を読んだりして覚えておきたいことは鉛筆で紙に書き留める。インタビューやシンポジウムの取材などでは、聞いたことをハイスピードでメモする。これらは「自分が読めればいい」というものなので、文字はどんどん崩れていくわけだ。

 ある日、何かの会で、私が住所と名前を記帳するのを見ていた知り合いが、「書くのがものすごく速い」と驚いていたことがある。それが下手な字の原因かもしれないと思い、それ以降、記帳するときはゆっくりとていねいに書くことを心がけているが、記帳する機会など年に1度もない。

 とりあえず、自分の書く字が好きになるために、普段ちょっとしたことを書くときでももう少しゆっくりと書くことを心がけようと思う。ペン習字に関しては、本を探してみようとも思うが、ちょっと退屈そうなので、トライするかどうかはわからない。「努力とは退屈なもの」という外野の声も聞こえて来そうだが。

(えざき りえ)












七月便り


中埜有理(2018.04.01更新)




「啓蟄」という言葉がある。冬のあいだ地中に潜っていた虫が春になってもぞもぞと出てくるという季節を指す。人間も春になると動き始めるようだ。3月にはお出かけのお誘いが多かった。

 ボストン美術館のコレクションから「パリジェンヌ展」を開催中の世田谷美術館へ出かけた。粋でおしゃれなパリジェンヌは昔から画題に取り上げられてきた。ファッションプレートの展示もあって、楽しい。レストランでランチも食べた。若いとはいえないうえにやや鬱っぽい姉妹のデートというシチュエーションはチェーホフの芝居にありそうだ。砧公園は梅が満開できれい。





  後日、こんどは逗子に住む友達のお誘いで、葉山にある神奈川県立美術館葉山館で開かれている「堀文子白寿展」へ。一色海岸を目の前に、抜群のロケーション。天皇家の御用邸も近い。一色海岸をパノラマ撮影してみた。



 

この99歳の日本画家は藤沢に在住で、いまは車いす生活ながら現役で絵を描いているという。すごいエネルギーだなと感服。抑制のきいた色彩と自然観察をもとにした確実な構成力が魅力。若いころに手がけた絵本の挿絵もかわいい。美術館そのものは広々とした空間が気持ちよかったが、逗子駅からバスというアクセスの悪さがちょっとね。






 売りだしたとたん即完売だった宝塚花組公演『ポーの一族』、ファンクラブの知り合いの知り合いという遠いつてを頼ってチケットを入手。ただし、買えるかどうかの結果は前日にならないとわからない! 久しぶりの宝塚。華やかで色気のある男役の群舞はかっこええわー。

 横浜美術館はテート・コレクションの作品を中心に構成された「NUDE展」。目玉はロダンの「接吻」。お正月に観た映画『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』に出てきた作品。もともとは地獄門の一部にするつもりだったが、テーマにそぐわないという理由で、独立した作品になったという。



 

 この作品だけ撮影可だったのだが、思った以上に大きくて、スケール感に圧倒された。やはりロダンの人体表現はすごい。怖くなるくらいだった。これは実物を見る価値がある。内覧会だったのでティーサービスもあり、ミルクティーとスコーンを出してくれた。テートはイギリスだけに紅茶がおいしい!





(なかの ゆうり)




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