今月のエッセイ 2018年8月
   

江崎リエ【はまって、はまって】……「お気に入りの小物を置いた自分の書斎で過ごす時間」

東郷えりか【コウモリ通信】……「1937年という日付入りの絹の婦人パジャマや下着などの型紙が」

中埜有理【七月便り】……「弾丸は疲れるよ!」

野中邦子【ぐるぐるくん】……「だから、もっと『早く言ってよ〜!』」

バックナンバーを読む





コウモリ通信

東郷えりか(2018.08.02更新)




インペリアルビル




インペリアルビル一階。
手すりの先端にあった大きな装飾物は、
戦時中、金属供出させられたという。





インペリアルビルのモザイクの床




昭和ビル




ジャパンエキスプレスビル



その216
 先日、仕事が少し一段落した折に、横浜の山下町25番地にあるインペリアルビルを再び訪ねてきた。オーナーの方にお会いして貴重なお話を伺える機会だったので、私一人ではもったいないと思い、参加させていただいたばかりの地元の歴史研究会、 横浜歴史さろんの方々もお誘いして行った。

 訪問前には少しだけ下調べもして行った。Meiji-Portraits (meiji-portraits.de/)のサイトからは、4月のコウモリ通信に書いたカルスト家の時代以降の居留地25番の歴史もいくらか判明した。本当にありがたいデータベースだ。デ・コーニングのビジネス・パートナーであった老カルスト船長の息子レントは、1864年にはデ・コーニングと袂を分かち、保険業と貿易会社のカルスト&レルズ商会を設立した。前回も書いたように、レントはやがて健康を害し、日本人女性とのあいだに生まれた当時6歳くらい娘ラウラを連れて1872年にオランダに帰国した。レントの兄のヤンは別会社を経営していたので、レントの帰国とともにカルスト&レルズ商会は撤退したと思われる。

 居留地25番では、同社の従業員のJ・P・フォン・ヘーメルトが保険の代理店業を営むようになった。翌1873年からは、シモン・エヴァース商会もやはり保険の代理店業を25番で始めており、1886年発刊の『日本絵入商人録』にはこの両社が25番の入居者として書かれている。初代ヘーメルト氏は、1894年に箱根の奈良屋ホテルで急死し、息子が後を継いでいるが、その息子も1900年には廃業して、数年後に日本を去った。ヘーメルトのあとには、24番のマイヤー商会の従業員のR・シャフナーが自社を設立して25番に入り、少なくとも1908年までは営業していた。一方のシモン・エヴァース商会は、経営者がたびたび入れ替わりはしたが、1920年まで25番に横浜支店を構えていたようだ。同社はなんと、レイボルド株式会社として現在も日本に拠点をもっており、2005年に編纂された「レイボルド100年の歩み」には、この25番の当時の貴重な写真が掲載されていた!

 1923年の関東震災で横浜は壊滅的な被害を受けた。地価が下落したのを機に、開港以来、居留地で外国人がもっていた永代借地権を政府が買収し始めたという事実を、この原稿を書きながら初めて知った。居留地そのものは1899年に廃止されたが、永代借地権が最終的に解消したのは1942年のようだ。横浜から外国商館がなくなったのは、震災と永代借地権の消滅の両方によるものだったのだ。

 現在、この地にあるインペリアルビルは、1930年に上田屋ビルディング第2号館として建設された。長期滞在する外国人向けのアパートとして、現オーナーの祖父に当たる方が新たに始めた事業だったという。お祖父さまはジャーディン・マセソンに勤めたのち、弁天通で絹製品を製造販売する上田屋を開業なさったそうで、そちらが本業だった。アメリカのメイシーズから受注した1937年という日付入りの絹の婦人パジャマや下着などの型紙が、ガラス付き木箱のなかにまだ大切に保管されていた。見事なピンタックの入った絹のドレスシャツは、足踏みシンガーミシンで職人さんが縫製していたそうだが、太平洋戦争で徴兵されてほぼ全員が戦死してしまったという。つい数年前まで得意先であったアメリカを敵に回し、彼らはどんな思いで戦地に赴いたのだろうか。上田屋は、ホテルニューグランド裏手にあった1号館のほか、24番地の互楽荘を3号館とするはずだったが人手に渡った、という話をオーナーから伺った。私は昭和史には疎いので、そのまま聞き流していたのだが、あとで調べてみて驚いた。高級アパートとして建設されたこの建物は、太平洋戦争中に海軍に接収され、戦後は米軍に接収されて神奈川県で初の慰安所となったのだという。

 インペリアルビルも、わずか一日の猶予を与えられただけで米軍に接収され、その翌日には屋上に小屋が建てられ、マッカーサーの将校用の部屋が増築されていたそうだ。川崎鉄三設計のモダニズム建築という割には、外観がいま一つ垢抜けて見えなかった理由は、屋上部に現存する占領軍による増築部分のせいだったのだ。横浜は空襲によって大被害を受けたが、インペリアルビルや隣の互楽荘は最初から接収しようと目を付けていたらしくほぼ無傷だったそうで、B29の焼夷弾攻撃はきわめて正確だったとオーナーは語っておられた。屋上の小屋はその歴史をいまに語る証人だ。

 この日、私は川崎鉄三に敬意を表して、彼が設計した昭和ビルとジャパンエキスプレスビルも訪ねてみた。昭和ビルのほうはテナントの弁当屋がビルの雰囲気を台無しにしていたが、入り口にはインペリアルビルの一階とそっくりの八角形と正方形のタイルが敷かれていた。検索してみると、江戸東京たてもの園に移築された子宝湯にもよく似たタイルが使われていた。1929年に足立区に建てられたこの銭湯は、「施主が出身の石川県から気に入った職人をつれてきて造らせたという」。川崎鉄三は経歴がよく知られておらず、謎の建築家らしいが、石川県の出身と考えられている。何か関係があるだろうか? 東京高等工業学校(現在の東京工業大学)の建築科で欧米に留学経験のある前田松韻に学び、1912年に卒業。彼の顔写真入りの明治45年の卒業アルバムは高値で売られていた。いまも熱烈なファンがいるらしい。その後、台湾総統府に勤め、廈門、香港、海南島、広東など海外を転々としているが、西洋風の建築は、こうした東アジアの都市で学んだのだろうか。横浜へは1925年に若尾幾太郎商店の「若尾ビル」を新築するためにやってきた。幾太郎は、甲斐出身の生糸王若尾逸平の異母弟の(初代)幾造の孫に当たる。若尾家は横浜開港以来、甲州財閥として名を成し、銀行業から東京馬車鉄道、東京電燈(のちの東京電力)まで手広く経営していたようだ。まったくの偶然ながら、インペリアルビルを訪問した日に、私の先輩が送ってくださったクリスチャン・ポラック著『絹と光』(アシェット婦人画報社)には、『横浜諸会社諸商店之図』(1886年ごろ刊)に掲載された生糸賣込問屋若尾幾造の銅版画が転載されていた。上田屋も甲府の出身だそうで、川崎鉄三にビルの設計を依頼した経緯には、若尾家が何かしら関係していたのだろう。

 ウィキペディアよると、若尾家は1930年の昭和恐慌の影響などで没落している。川崎鉄三自身も1932年にはおそらく43歳で没している。現存する彼の作品であるインペリアルビルとジャパンエキスプレスビル(ともに1930年)、昭和ビル(1931年)は、いずれも最晩年の作品ということになる。ジャパンエキスプレスビルの2階には、古い床板もそのままに、往時の雰囲気を活かした輸入雑貨・衣料店が入っている。少し暇になったら、1階でビールでも飲みながら、横浜の歴史に思いを馳せてみたい。
(とうごう えりか)







ぐるぐるくん

野中邦子(2018.08.02更新)


『ペギー』文春版


映画のチラシ表


チラシ裏


ヴェネチアのコレクションの庭。
ペギーもすわった石の椅子で


 ペギーが行方不明。

 テレビのCMで松重豊が「早く言ってよ〜」というのがあるが、見たことがない人も多いことと思います。ま、本筋には関係ないのだけれど。

この7月初めのこと、facebookでweb版美術手帖の記事を見てびっくり。ペギー・グッゲンハイムのドキュメンタリー映画ができたというではありませんか。その記事をシェアして、「見たい!」と書いたところ、河出書房新社の編集Tさんが試写会に誘ってくれました。

 先日、その試写を見てきましたが、「なにこれ、すごくおもしろい!」

 紛失していたインタビューの音源が最近発見されたとかで、ペギー独特のしゃがれ声も聴くことができる。美術界のそうそうたる名士たちが次々と登場し、インタビューに答え、ペギーの波乱万丈の生涯をたどる。俳優ロバート・デ・ニーロの両親(画家)の作品もペギーのコレクションに入っているのでデ・ニーロも登場します。

 『ペギー 現代美術に恋した気まぐれ令嬢』(ジャクリーン・ボグラド・ウェルド著、野中邦子訳、文藝春秋刊、1991年)。当時、翻訳者としてまだ駆け出しだった私ですが、バブル景気でじゃんじゃん版権を取っていた文春の松浦さんにリーディングを依頼され、一読して、ぜひやらせてほしいと頼みこんで翻訳させてもらった本です。

 才能がないからアーティストにはなれず、美貌もないのでミューズにもなれず、頭もよくないから研究者にもなれない。ただ有り余る好奇心と、型にはまりたくないという冒険心のみでアートの世界に突進したお嬢さん。才能も美貌も頭もないという点が他人事ではなく、身につまされた。グッゲンハイムほどの金持ちではないのが残念だが。

 試写室では広報担当のかたと話し、私の訳書を参考にしているといってもらえた。文春では絶版状態なので、再版してほしいな。宣伝するにも、公開までもう一か月しかない! だから、もっと「早く言ってよ〜!」いまここ。

 『ペギー』を訳していたころの私はまだ30代で、ペギー・グッゲンハイム・コレクションのあるヴェネチアまで行ったのだが、毎日オープンしているわけではなく、たまたま休館日にあたって、門の外から指をくわえて眺めただけ、などという残念な経験もした。そういえば、そのころはまだインターネットもろくに使えなかったのだ。旅行のスタイルもパック旅行だった。 

 その後、再度ヴェネチアへ行って、コレクションも無事見ることができた。このときは自分で手配をした個人旅行だった。

 この原稿を書くにあたって本を見ようと思ったのだが、自分の訳書がおいてある書棚を見ても『ペギー』が見当たらない。「訳者あとがき」を書くときも舞い上がって、先輩からの「ちょっと気取って書け」というアドバイスを真に受けて書いたら、「こしゃくなことを書きやがって」みたいに苦笑されたこともあったっけ。なつかしい。

 ところで、いま現在、翻訳中なのは、書店についての本で、書籍売買の歴史、文化的な意義、書店主の役割などが考察され、ユニークな書店の紹介もされている。なかでも、人びとに出会いの機会を与え、会話を促し、イベントの舞台となった書店を高く買っているところに共感できる。この本にもペギーがニューヨークに開いた「今世紀の芸術」画廊のことが出てくる。アートや文学やパフォーマンスに接して胸躍らせるペギーには仲間意識をもたずにいられない。

 映画『ペギー』を見て、久しぶりにそういう刺激をもらえた。劇場公開されたら、また見にいきたいな。

 ということで、本を詰め込んであるトランクルームへ、私の『ペギー』を探しに行かなければ!

(のなか くにこ)







はまってはまって

江崎リエ(2018.08.02更新)



「図書館 愛書家の楽園」



書棚の小物たち



書棚の小物たち
好きな本でいっぱいの書斎


   本好きならば、自分の好きな本を手元に置いておきたい、好きな本でいっぱいの書斎で仕事をしたりくつろいだりしたいと夢見たことがあるだろう。私もそんな夢を持っていたし、自分の本棚に好きな本を分類して並べたりもしていた。「書棚は人格を語る」と言われる。私は自分の本棚が好きだったし、夫の本棚を眺めるのも好きだった。小説家だった父の、書斎の天井までとどく作り付けの書棚のたたずまいも好きだった。

 しかし、二間の小さなマンションに引っ越すことを決めた時に、「本の所有」は諦めることにした。古典と言われる本はネット上で無料提供されているし、ほとんどの本は図書館にリクエストすれば読める(本当は、そういうわけでもないようだが)。もう一度手元に置きたいと強く願う本が出てきたら、また買えばいい。そう考えて、たくさんの本を処分した。その時に私が残念に思ったのは、息子が本棚を見て私や夫の読書嗜好を知る機会がなくなることだった。しかし、それは私の思いであって、息子がそうしたことに興味を持つかどうかはわからない。置く場所があれば迷いも大きかったと思うが、好きな本を所有し、それらを並べるだけのスペースがないのだから、潔く諦めた。

 こうして、新居の二つの本棚に並んだ本は、ほんの少しの文学書と美術書、英語仏語の勉強のために買い集めた辞書と参考書、長年の趣味であるヨガ関連の書籍と刺繍の図案集になった。引っ越しをして丸6年が過ぎた今では、「本を買わない」という原則に反してつい買ってしまった文学書が増えてはいるが、好きな本でいっぱいの書棚には程遠い。

 「それはそれでよし」と思って過ごしてきたのだが、友人の野中邦子さんが翻訳したアルベルト・マンゲル氏の著作「図書館 愛書家の楽園」(白水社)を読んで、「読まない本、見ない本を処分して、もう少し自分好みの書棚にしたい」と思うようになった。この本は、古今東西の実在・架空の図書館、書斎、書庫について、マンゲル氏が思いを巡らす知の刺激満載のエッセイ集で、著者自身の書斎についても語られている。お気に入りの小物を置いた自分の書斎で過ごす時間の濃密さ、心地良さについて語られた一節に共感してしまうと、それをなんとか私の仕事部屋兼寝室にも応用したくなる。というわけで、今年の夏は本の整理に手をつけようと思っている。

(えざき りえ)












七月便り


中埜有理(2018.08.02更新)




 西のほうに住んでいる友達が農場を経営していて、夏野菜の詰め合わせ(中身はおまかせ)を購入した。大地からこれだけの収穫を得るってすごい。緑色の親指をもっていない私には尊敬のひとこと。野菜の色が美しい! 私の好きなコミックスに『美しい野菜』というタイトルがあるけど、ほんとうにそのとおり。

 「ミニトマトの宝石箱や〜!」食レポか! 

 材料があるからには料理をせねばなるまい。ということで、左上がズッキーニのチーズ焼き、その下がラタトゥイユ、ミニトマトはなまで味の違いを見る。トマトは味が濃くて瑞々しく、どれもおいしかった。

 

 野菜といえば、このキノコ、なんだかわかりますか? 答えはポルチーニ。乾燥したのしか見たことがなかったので、中目黒のイタリアン・レストランで生のポルチーニを見せてもらってびっくり。こんなんなのね。香りもいい。このあいだ行ったパリでも乾燥ポルチーニを買ってきた。大手スーパーのカルフールで、野菜売り場のお兄さんに「ポルチーニ」といっても通じず、「セペ?」とか「マッシュルームの仲間」とか(笑)四苦八苦していたら、やっと見つけてくれた。

 アート界随一のナチュラリスト(?)モネの展覧会を見てきた。モネ作品だけではなく、モネに触発された日本人アーティストの作品がたくさん展示されていて、意欲的な企画だった。

 iphoneのカメラって、なにかの拍子にボタンをおしちゃうことあるよね。石畳と自分のサンダルの足、まちがえたにしてはよく撮れていた。

 

 フィギュアスケート選手の宇野昌磨くん。新横浜へスケートのショーを見に行ったとき、オリンピック銀メダルおめでとうのファンレターを置いてきた。差出人の名前がないのは失礼かも、と思って住所を書いておいたら、なんと、サイン入り写真が送られてきた。写真のプリントはご家族の手作りで、発送も家族総出でしてくれたそうだ。おつかれさま&ありがとう。

 ちょうど届いた翌日、大阪までザ・アイスを見に行くことになっていた。台風12号接近中で、行こうかどうしようかと悩んだけど、「私は運がいい」という信念のもと、見切り発車。新幹線は通常どおり、なんの支障もなく新大阪に到着。雨も降っていない。昼・夜と2公演見て、昌磨の今期フリーとショートの両方を見られて大満足。帰りの新幹線が浜松あたりで運行停止、でも15分くらいで再開されて、日付は越えたもののなんとか無事帰着。日帰りで大阪へ行ったのは、去年のテニスデ杯以来だった。弾丸は疲れるよ!



(なかの ゆうり)




エッセイ・バックナンバー
【ぐるぐるくん】

野中邦子
【コウモリ通信】

東郷えりか
【七月便り】

中埜有理
【はまって、はまって】

江崎リエ