今月のエッセイ 2019年4月
   

江崎リエ【はまって、はまって】……「人形も影絵の背景も魅力的だった」

東郷えりか【コウモリ通信】……「南部英麿、14歳」

中埜有理【七月便り】……「和風の厚焼き玉子をパンにはさんだもの」

野中邦子【ぐるぐるくん】……「若くてバカだった美大生の自分に」

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ぐるぐるくん

野中邦子(2019.04.01更新)


エレベーターの扉にヨーゼフ・ボイス


ドアが開くとボイスは消える
 吉祥寺のバウスシアターが閉館したのは2014年。もう5年もたつんですね。バウスシアターといえば忘れられない思い出が。映画を観終わって、深夜に近く、ふとスマホのカレンダーに目をやれば、そこにリマインダーが。その日は沖縄行きの飛行機に乗るはずだった! 完全に忘れていて乗りそこねた。映画とはまったく関係のない思い出です。

 吉祥寺に待望の独立系シネマコンプレックスが誕生した。PARCO地下のアップリンク吉祥寺。

 地下二階におりると、ミニシアターが5つ。ギャラリー、ショップ、カフェも併設されたおしゃれな空間です。

 『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』を見た。私が美大生だったころ、ヨーゼフ・ボイスは人気のあるアーティストだった。トレードマークのフェルト帽とチョッキ姿が印象的だった。作品はコンセプチュアルで、ハプニングやインスタレーションやパフォーマンスアートが多くとりいれられ、たしかに「挑発的」ではあった。

 当時の私は、美術を学んでいたにもかかわらず、ボイスのことはよく理解できず、そもそも理解しようともせず、表層的にしか見ていなかったことが、いまさらながらよくわかる。ボイスに従軍体験があったことなど、まったく知らなかった。彼が少年時代にヒトラー・ユーゲントに参加していたことはちょっと衝撃だった。しかし、われら少国民と同じことで、彼自身はのちに、「誰もが教会に行くように、当時は誰もがヒトラー・ユーゲントに行った」と語っている。第二次大戦では空軍に志願し、通信員として爆撃機に乗ったが、撃墜されて頭部に重傷を負い、その後遺症も残ったという。あの帽子は頭の傷を隠すためのものだったのだ。

 政治への関心をはっきりと表明し、緑の党の結成に関与し、党から立候補さえした。

 7000本の樫の木を植えるプロジェクトは、彼が亡くなったあとも継続し、自然保護や環境保護運動に大きな影響を与えた。

 若くてバカだった美大生の自分に「もっと勉強しておけよ!」といいたくなった久しぶりのヨーゼフ・ボイスでした。

(のなか くにこ)







はまってはまって

江崎リエ(2019.04.01更新)



るる島のフクロウ(Art Stage SAN制作)



カナダの劇団と共作した「Boxes」の人形



今回のチラシ

新しい人形劇団を発見


   今日は招待券で、韓国の人形劇団と日本の影絵劇団の共作を見てきた。「人形劇と影絵の共演」という宣伝を見て興味を惹かれたのだが、どちらも知らない劇団なので、チケットを買うのは賭けのようなものだ。それで決心がつかないでいたら、朝日新聞のチケットプレゼント欄に募集が載っていたので応募、ラッキーなことに当選したというわけだ。 

 見てきたのは韓国の「Art Stage SAN」と日本の「かかし座」の共作「ごめんね、ありがとう!るる島の秘密」(文京シビックホール)というもの。予備知識無しに行ったのだが、影絵と人形の共演は期待以上に面白かった。影絵は紙を造形して映すものと、手の形で動物などを表現するものの2種。人形は、小型、中型、頭だけ大きなマスクをかぶって体は人間が演じるものの3種。主人公の女の子は影絵で出演したり、小型、中型の人形で出たりして、その入れ替わりも面白い。人形の遣い方は独特で、中型の人形は一人が後頭部と背中の突起を持って上半身を担当、もう一人が両足のかかとの突起を持って下半身を担当する。文楽の二人遣いと似ているが、距離のある糸ではなく体に直接ついた突起なので、操り手と人形の距離が近い。小型の人形は頭の突起と腰か足の突起を持って一人で操る。

 これまで、子供向けの人形劇団「プーク」、江戸時代から続く糸あやつり人形の「結城座」、糸あやつりと棒使いを組み合わせた独特の構造を持つ人形を使う「かわせみ座」など、個性のある劇団の人形劇を見てきたが、「Art Stage SAN」の人形遣いも独特で面白かった。人形劇では、演目に合わせて人形のデザインから制作までを劇団内で行うところがほとんどだと思うが、その造形美も演目の魅力に大きく影響する。今回の劇団のコラボレーションでは、人形も影絵の背景も魅力的だった。こうして、新しく楽しみな劇団を見つけたので、次はそれぞれ単独の公演を見に行きたいと思っている。

(えざき りえ)











コウモリ通信

東郷えりか(2019.04.01更新)








その224

『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』(平凡社、2006)という本を図書館で借りたところ非常におもしろかったので、古本を購入してみた。犬塚孝明氏の書かれたものはいくつか読んだことがあり、いずれも示唆に富むおもしろい内容だったが、本書もその期待を裏切ることのないものだった。旧蔵アルバムというのは、共著者の石黒敬章氏の父上が古書市か古書店で入手した5冊のアルバムのことで、イギリス製革表紙の重厚なアルバムのなかに、カルト・ド・ヴィジット(cdvの略称で知られる)が約400枚ぎっしり詰まっていた。そのうちの3分の2 が肖像写真という。これは名刺サイズの厚紙に薄い鶏卵紙に焼きつけた写真を貼り合わせたもので、写真が普及しだした1860年代から名刺代わりに、あるいは有名人のブロマイドや絵葉書代わりに大量に生産され、ヴィクトリア朝時代のイギリスでは客間にかならずこうしたアルバムが置かれ、カルトマニアと呼ばれる蒐集家まで出現するほどだったそうだ。元祖ポケモンカードというよりは、むしろ元祖フェイスブックのようなもので、自分の交流範囲や渡航履歴をさりげなく示すものだったのだろう。

 名刺のように、数十枚単位で印刷されたはずのカルトだが、森有礼のアルバムに残されたものしか現存しないもののも多いと思われ、アルバムを最初に手にしたときのお父上の興奮ぶりが目に浮かぶようだ。裏面に森が名前をメモしていたり、当人の署名やメッセージが書かれていたりするものもかなりあるが、薩摩や長州からの留学生の研究をされた犬塚氏が、方々の記録と照らし合わせながら人物を特定したケースも多々ある。時代背景を説明しながら、膨大な数のカルトの人物を紹介する解説は、画像の助けを借りて大量の登場人物を頭に入れ込むには最適のものだ。

 この本を手に取る直接のきっかけは、アメリカのラトガーズ大学に残された日本からの留学生写真に写る人物を特定したかったためだった。幕末の1866年に密航した横井小楠の二人の甥に始まり、同大学には明治初期にかけて大勢の日本人留学生が詰めかけた。それもこれも、開国後まもない日本に最初にやってきた宣教師たちの多くがアメリカ・オランダ改革派で、とりわけ長崎にあった佐賀藩の致遠館で教えていたフルベッキが、自分の属する宗派の学校に留学生を送る便宜を図ったからだ。同大学があるニュージャージー州ニューブランズウィックのD. Clark写真館撮影とわかるカルトを集めたページには8枚が並ぶ。海援隊にいた菅野覚兵衛や白峰駿馬、元薩摩藩士の最上五郎に井上良智、薩摩の支藩である佐土原からの平山太郎と推定される人物の横にいる華奢な若者は、まず間違いなく勝海舟の息子の小鹿だ。小松宮と推測されていた人物は、白峰、菅野と三人で撮影された写真や、ラトガーズの集合写真の一枚に写っている体格のいい男性に似ている気がする。小松宮であれば上野公園の騎馬像の人だが、この時期イギリスに数年間留学していたことしかわからなかった。

 私にとって気になるのは、南部英麿、14歳と書かれた一枚だ。盛岡藩主の次男に生まれ、のちに大隈重信の養嗣子となり、早稲田の前身の学校の初代校長となる人物で、華頂宮博経に嫁いだ姉とともに渡米している。その随行員であった元岡山藩士の土倉正彦のカルトも同じページにあるので、時期的にも、後年の写真と比較しても、このカルトの若者は南部英麿の可能性が高い。彼の名前は1872年のラトガーズの集合写真のなかの人物としてもよく挙げられている。悩ましいのは、南部英麿が面長の端正な顔に目立つ大きな耳をしていて、若い時分はとくに、上田藩の最後の藩主で、この年にラトガーズに留学した松平忠礼とよく似ていることだ。英麿のほうが二重のせいか表情が柔和であり、耳も忠礼ほど妖精のように突きだしてはない。集合写真から細部を判断するのは困難で、渡航時期や撮影時期を詳細に検討するしかない。

 同書には同じ写真館で撮影されたカルトとしてほかにも、岩倉具定・具経兄弟や、二人に随行した折田彦市、山本重輔のカルトもある。鉄道技師となった山本重輔は、碓氷峠の列車逆走事故で息子とともに落命した人だが、彼の顔を見た途端、思わず声を上げた。1867年に福井藩からラトガーズ大学に留学し、卒業を前にして結核で客死した日下部太郎の墓前に写る4名の留学生のうち、跪いている人物とそっくりだからだ。小鹿に随行した高木三郎と薩摩の畠山義成の名前は判明している。残る1名は薩摩の吉田清成と私は見ている。森有礼のアルバムにはもちろん全員が含まれていた。

 貴重な写真が惜しみなく掲載されているだけでなく、同書の記述もじつに興味深い。森有礼は、これまでも国語教育や木挽町の豪邸などに関連して、少しばかりその業績は知ってはいたが、1874年に『明六雑誌』に発表された彼の「妻妾論」に関する考察がとくにおもしろかった。その翌年、広瀬常と日本で最初に契約結婚をしたことで知られる彼の「妻妾論」は、「近代的婚姻観に基づく最初の一夫一婦論であったばかりでなく、男女の対等、女子教育の必要性を説いた斬新な女性論でもあった」。森有礼の「妻妾論」そのものは読んでいないので、犬塚氏の解説の受け売りだが、「女性も男性と同じく、優れた教育を受けねばならない。女性が妻として家を守り、母として子を育てるの責任は重い。一に国家の発展と文明の進歩に直接つながるものだからである」という趣旨のようだ。ウィキペディアの「明六雑誌」の項には、「森の眼には、日本における妻妾制・妻妾同居は不自然極まりないものとして映じた」と書かれている。この後、1882年には妾という存在は少なくとも法的には認められないものとなったそうだ。森夫婦は愛らしい子供たちに恵まれたが、11年後に離婚した。有礼はその後、岩倉具視の5女寛子と再婚したが、2年も経ずして暗殺された。

 彼の「妻妾論」は、男女の平等、女子教育といった観点からは、大いに評価できるが、一夫一婦制そのものがブルジョワ階級の台頭と私有財産制と切り離せない制度であることは、一度じっくり考えてみる必要がありそうだ。翻訳中の科学と女性差別に関する本にも引用されていたフリードリヒ・エンゲルスの次の言葉が思いだされる。

「男性は家庭でも指導権を握った。女性は貶められ、隷属状態に陥らされ、男の欲望の奴隷となり、子供を産むための単なる道具となったのだ」。「私有財産をもつ家庭では、〈不貞を働く権利〉は一方的に男性の特権」であると、エンゲルスが指摘したとおり、表向きは文明化された日本の結婚制度下でも、権力者は愛人を何人も囲っていた。上田の松平忠礼も帰国後、最初の妻と離縁して後妻を迎えたうえに、側室もいたようだ。ヴィクトリア朝時代のイギリスも、実態はさほど変わらなかったのだろう。薩摩密航留学生として17歳で渡英した森有礼は、妻妾論の是非はともあれ、思考面で西洋化した、もしくはその理想に共感した最初の日本人と言えそうだ。
(とうごう えりか)








七月便り


中埜有理(2019.04.01更新)



 上野西洋美術館の「ル・コルビュジエ」展を見てきました。思ったよりもずっと興味深く、面白い展覧会だった。ル・コルビュジエが提唱した「新しい建築の5つの要点」(ピロティ 、屋上庭園 、自由な平面、水平連続窓、自由なファサード)は「近代建築の五原則」ともいわれます。どれも、いまでは多くの建築物に当たり前に備わっている機能だけど、石を積み上げて壁を造り、太い柱を四隅に建てる重厚な建築からすると、画期的な発想の転換です。もちろん技術の革新なしにはこの要点は実現できません。

 柱を四隅に建てずにすむようになって、風通しのよい広々とした空間が手に入った。屋上庭園という発想も、上空から見るという体験なしには得られなかったはずです。飛行機の発達が人の意識を変えたのでしょう。屋上庭園は、いまや都市景観やエコロジーにもつながります。先進的ですね!

 もうひとつ、この展覧会では関連する作品としてキュビスム芸術が取り上げられていて、それも興味深かった。

 4年ほど前にパリでアパルトマンに滞在したとき、2軒先に「ル・コルビュジエ財団」があったのです。あとで調べたら、旧自宅で、いまは一般に開放し、コレクションの絵画作品なども見られるとのこと。この次パリへ行ったときは、ぜひ立ち寄りたい。

 

 3月半ばに那覇へ行ってきました。羽田空港で玉子焼きサンドというのを見かけたので買ってみました。和風の厚焼き玉子をパンにはさんだもの。私としては、ゆで卵のサンドイッチのほうが好みでした。

 那覇では、長く読みかけで置いといた『アウステルリッツ』(ゼーバルト著、白水社)を読了。いわゆるホロコーストものですが、独特の美学に貫かれた作品で、ヨーロッパ各地を歩きまわる建築愛好家の主人公アウステルリッツの人物造形がとてもユニークでした。

 幼年時代の回想から、わが子を疎開に送りださなければならなかった母親の悲嘆。読んでいるだけで、胸が塞がれる思い。どこかのバカの「アウシュビッツなどなかった」発言に猛烈に腹が立つ。

 沖縄の青空、強い日差しに透き通った葉っぱが腹立ちを収めてくれます。

 

  東京に帰ってきたら、すぐに桜が咲きました。

 友人たちとの会食でシュラスコ・レストランへ行ったのですが、肉だけでなく、生のパイナップルを串に刺してあぶり焼き、ナイフで削いでくれる。焼きパイナップル、なかなかおいしかった。 

(なかの ゆうり)




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