今月のエッセイ 2019年9月
   

江崎リエ【はまって、はまって】……「首をかしげて、『何、これ?』と言われた」

東郷えりか【コウモリ通信】……「船首に星条旗、船尾に白旗を掲げた測量船」

中埜有理【七月便り】……「ヒマワリの黄色が気分を上げてくれる」

野中邦子【ぐるぐるくん】……「金払いのいい男に簡単に惚れてしまう主人公もちょろいが」

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はまってはまって

江崎リエ(2091.09.03更新)











フェルトで作る食べ物


 
 息子が幼稚園くらいの頃、フェルトで動物や食べ物を作ると喜んでそれで遊んでいたので、私もだんだんに凝って、スーパーマリオのキャラクターなどを作るようになって楽しんでいた。そんなこともすっかり忘れるほど長い年月が経ったのだが、孫ができて、また色々と作るようになった。

 そもそもは、まだ話もできない乳児の頃、私のブローチを面白がって引っ張ったのがきっかけだった。何度も引っ張るので、それならフェルトの動物の裏にホックを付け、座布団に止めて、ぶちぶちと取れるようにしたら喜ぶと思って作ってやったら、大当たり。満足げに引っ張るので、それ以来、遊びに行くたびにお土産に2、3個ずつ作って持って行っている。

 にんじん、だいこんなど、野菜の名前もどんどん覚え、3歳になった今では「機関車やワニに食べ物をあげる」というごっこ遊びにも活用されるようになって、作りがいはあるのだが、だんだんに作るもののネタがなくなってきている。動物よりは食べ物の方が圧倒的に好きなので、いろいろと食べ物の構想を練るのだが、簡単に作れて見栄えのいいものを考えつくのがなかなか大変だ。最近、初めて食べた経験があったので、かき氷は見せた途端に「かき氷だ!」と反応したが、最新作の「焼き鳥」と「たこやき」には首をかしげて、「何、これ?」と言われた。つくねは好きで食べていたので、説明したら納得したけれど(笑)。

 作り始めた頃はこんなにたくさん作るとは思わなかったのだが、孫に期待されているのを感じながら、何を作ろうかと考えるのはなかなか楽しい。あと2、3年、喜ぶうちは気に入りそうなものを作ってやりたいと思っている。

(えざき りえ)











コウモリ通信

東郷えりか(2091.09.03更新)





ハイネの銅版画、江戸湾浦賀の光景

その228

 以前からたびたび目にして気になっていた「ペリーの白旗」問題について、事実関係を確認しておかねばと、ホークスの公式記録である『ペリー艦隊日本遠征記』や通訳のウィリアムズが書いた『ペリー日本遠征随行記』などを読んでみた。砲艦外交を象徴的に語るエピソードとしてよく引き合いにだされるものだ。

 急遽交渉に当たらされた浦賀奉行所の与力の香山栄左衛門がペリーから、いざ戦争になって降伏したい場合に掲げる白旗まで二旒渡されたとする説で、そのことを記した「白旗書簡」が偽書かどうかをめぐって歴史家のあいだで論争がつづいている。長くなるのでここでは結論だけ書くが、アメリカ側の代表的なこの二つの記録を読むだけでも、当時の部外者の憶測を、後世の歴史家が真に受けた結果であることは明らかなはずだ。ペリー側は戦意がないことを意思表示するために測量船に白旗を掲げ、沖合に停泊中の船を幕吏が訪ねる際も、朝、艦隊に白旗が掲揚されるのを確認してからくるようにと説明し、香山も同様の趣旨を繰り返しているからだ。『ペリー艦隊日本遠征記』には、随行画家のヴィルヘルム・ハイネが描いた、船首に星条旗、船尾に白旗を掲げた測量船が遠くに富士山の覗く浦賀湊の沖に漕ぎだす挿絵もある。

 ペリー艦隊に関するこの二冊の本には、白旗問題を別としても、驚くような情報が満載されていた。浦賀での応接を拒み、強引に羽田沖付近まで入り込んだペリー艦隊を食い止めるために、再び交渉の窓口に立った香山は、嘉永7年1月28日(1854年2月25日)の午後になって、ほとんど思いつきで「神奈川の南にある横浜という小村」に小舟で乗りつけて視察することを提案した。「小村のそばにある空き地で、いまは収穫が期待できそうな麦畑となっている場所が、応接に適した場所として選ばれた。そこにたどり着く前に、村のなかの家を三、四軒、壊せば、新たに必要な建物をつくるための場所が確保できるだろうと、こともなげに提案された」と、ウィリアムズは書いている。デ・コーニングの『幕末オランダ商人見聞録』の描写もこれとさほど変わらない。綿繰り機が使われていたことや、生垣の椿が満開だったこと、大きな墓地があって、墓碑銘か卒塔婆に漢字のほか梵字が使われていることにも目を留めている。現在の横浜中華街付近にあったこの墓地は、1862年の地図にもまだ描かれている。

 つづく2日間で幕府の海防掛は横浜沖の測量と現地を視察し、「右掛り一同徹夜払曉まても談判評決之上、則横浜を応接所と決し」、2月1日には月番老中だった松平忠優から、浦賀沖は波が荒いため、横浜で応接する旨の通達が海岸警備の諸大名にだされている(幕末外国関係文書之五)。しかもこの日、忠優は実際の交渉担当者たちに、「応接の事一々皆て老中に請ふなかれ。もし之を老中に請ふ、老中又之を前納言[斉昭]に乞はざるを得ず……後日の咎は老中之に任せんと」(『開国起源安政紀事』)と指示し、参与となって幕政に口出ししていた水戸の斉昭を牽制し、条約交渉を推し進めたのだ。このとき応接地として横浜が選ばれなかったら、後年、神奈川開港に向けてハリスと折衝するなかで、対岸の横浜を含めてはどうかとハリス側から提案されることは間違いなくなかっただろう。横浜はそれほど無名の小村だったのだ。

 横浜に上陸したペリー一行が最新の科学技術を披露して見せた際の笑い話は随所に書かれているが、小型蒸気機関車のエピソードはなかでも傑作だ。「日本人は、なんとしても乗ってみなければ気がすまず、客車の容量まで身を縮めるのは無理なので、屋根の上にまたがった。威儀を正した大官が、丸い軌道の上を時速20マイルの速度でゆったりした長衣をひらひらさせながら、ぐるぐる回っている姿は少なからず滑稽な見ものだった」(『ペリー艦隊日本遠征記』、オフィス宮崎訳)。別の随行画家であるピーターズの挿絵には残念ながら、試乗する役人は描かれていない。

 日本国内のこれら諸々の出来事はもちろん非常に興味深く、いずれじっくり読み直してみたいが、ちょうど大航海時代の歴史を訳していた私にとっては、むしろペリー艦隊が日本本土にやってくるまでの航海の記述がおもしろかった。艦隊と言っても、ペリーは1852年11月にヴァージニア州ノーフォークを両側に外輪がある蒸気フリゲート艦ミシシッピ号たった一隻で出発している。当初は12隻の艦隊となるはずだったのが、いろいろ手違いがあったようで、香港と上海で集結できるだけの船を揃えて、日本に向かった。通訳のウィリアムズは、4月にペリーが香港に到達したのちに初めて手配されているので、彼の手記には当然ながらそれ以降のことしか書かれていない。

 意外に知られていないことだが、極東にくるまでこれほど時間がかかったのは、ペリーが大西洋を渡り、アフリカ南端の喜望峰を回ってインド洋を通ってきたからなのだ。スペインのマニラ・ガレオン船は江戸時代初期から太平洋を行き来していたので不思議だが、アメリカがカリフォルニアを獲得したのは、ペリー自身がミシシッピ号で参戦した米墨戦争以降のことであり、当時はまだパナマ鉄道も開通していなかった。アメリカ東海岸から太平洋にでるには、南アメリカ南端のホーン岬かマゼラン海峡を通るしかない。このルートをたどったのが、江戸初期に来日したウィリアム・アダムズの一行で、ペリーも訪日前に彼の手記を研究していた。アダムズの船は航海の途中で寄ったハワイ諸島と思われる島で乗組員を殺され、死線をさまよいながら大分に漂着した。『白鯨』の元となった実話もこの航路をたどり、1820年にアメリカ東部のナンタケット島を出港した際には、船員たちは2年半は帰れないことを覚悟していたという。ペリーにしてみれば、そんな危険を冒すつもりはなかったのだろう。

 大西洋・インド洋周りの航路はその点、大航海時代から探索され尽くし、潮流や恒常風をうまく利用できる航路沿いに、いくらでも補給基地が整備されていた。ナポレオンが流刑されたセントヘレナ島やモーリシャスのような、大海の孤島のようなところですら、さながらガソリンスタンドのように、水や食糧だけでなく、石炭までが用意されていたのだ。ミシシッピ号はこうした寄港地で500トンほどの石炭を積んでおり、効率よく機走するには1日当たり26トンが必要だったという。風と海流が利用できるときは外輪の水掻き板を外し、装着する枚数も調整していた。ペリーが日本本土にくる前に琉球と小笠原諸島に寄ったのは、こうした寄港地を確保するためで、「無人島を石炭置場に」という要求は、日本では当時ただ無人島と呼ばれていたボニン諸島、つまり小笠原を石炭補給基地にすることだったのだ。当時、日本では石炭は九州などごく一部でしか使われておらず、蒔水給与令からもわかるように、外国船に提供するつもりだったのは、帆船の捕鯨船上で皮下脂肪から鯨油を採取するための釜炊き用の薪か木炭だったので、交渉に当たった幕吏もどのくらい事情を理解していたのか怪しい。艦隊の食糧の一部は寄港地で手に入れる生きた四つ足動物であり、小笠原にはすでにハワイなどからの移住者が放牧したヤギが大繁殖しており、ペリー艦隊も牛と羊、ヤギを残している。数年前にこれらの子孫のヤギが島の生態系を崩していたため駆除されたことは記憶に新しい。肉を食べず、すべて人力で賄っていたに等しい江戸時代までの日本で、黒船の来航はまさに頭を殴られたような体験だったのだろう。
(とうごう えりか)







ぐるぐるくん

野中邦子(2091.09.03更新)


『オリジン』



『御身』と『沙羅乙女』




映画『大番』のポスター



 夏休み読書のもう一冊はダン・ブラウンの『オリジン』。ビルバオのグッゲンハイム美術館が出てくるというので、それを目当てに読んだ。でもグッゲンハイム美術館は冒頭にちょっとでてくるだけで、舞台はモンセラートからバルセロナに移り、ペドレラ(カサ・ミラ)、サグラダ・ファミリア、グエル別邸と、まるでガウディ建築ツアーの様相を呈し、さらにはスペイン王室のメンバーが重要な役割を果たしていたりして、めっちゃおもしろいかと思うとそうでもなく、なんとなくシラけて読み終わった。ビルバオへ行く気は十分にあったのだが、今回はパス。ラングドン教授は、美術史界のインディ・ジョーンズというわけにはいかないようだ。

 大衆小説というのかな、源氏鶏太の小説が読みたくなって、ちょうど復刊された『御身』が目の前にあったので、久しぶりに紙の本を買った。弟の借金返済のために金持ちの男と愛人契約を結ぶ若い女性という話。姉弟のつましい暮らしが昭和の時代を感じさせる。金払いのいい男に簡単に惚れてしまう主人公もちょろいが、お金があればイイ男でいるのも簡単だという身も蓋もない事実。お仕立て券付きの布地なんて、そういえばあったよね! 妻は亡くなっていて、他の愛人たちは水商売の女で楽に切れるという、あ、これは一種のハーレクインですね、という感じ。体の関係から始まる恋もあるってことですか。あまりに安直で、ここでも少々シラける。

 昭和の人気作家つながりで獅子文六の『沙羅乙女』も読んだ。こちらの家庭は発明狂いの父親と弟、母はいない。貧しさがキーであるところは『御身』と同じ。身分違いの恋なんていうのが切実だったのね。そういうところもハーレクインっぽい。誇大妄想的な発明家の父が悲劇の引き金となるが、あっさり世を去る都合のよさ。これが要介護とかになったら、ますます悲劇に拍車がかかるところだった。「衝撃の結末」という煽り文句だが、それもこの時代の状況ゆえである。庶民ってほんと、時代の波に翻弄されるよね。

 ついでにラピュタ阿佐ヶ谷で始まった獅子文六原作の映画特集第一弾の『大番』も見に行った。四国から東京に出てくる「牛ちゃん」(加東大介)はペラペラの単衣に麦わら帽子で、もちろん蒸気機関車だ。日本橋の株屋の使い走りになり、お仕着せをもらって、故郷への手紙に「洋服を着て働いています」と書く。憧れのお嬢さま(原節子)の婚約者は海軍兵学校の侯爵様である。口をきいたこともないお嬢さまに惚れているからといって、深い仲になっている女の求婚を断わる。きれいで情のあるいい女なのに!(淡島千景が魅力的!)一文無しになって故郷へ帰るところで青春編は終わり。若い仲代達矢のちょっとすれたイケメンぶりが楽しい。

(のなか くにこ)








七月便り


中埜有理(2091.09.03更新)



 先月につづいて8月も外出が多かった。久しぶりの渋谷駅前交差点。曇り空。

 ひと月遅れで誕生日を祝ってもらった。東急本店レストラン街のシェ・マツオ。ロゼのスパークリングで乾杯。

 デザートのプレートには「お誕生日おめでとう」のメッセージ、花束もいただきました。ヒマワリの黄色が気分を上げてくれる。

 

 夏空が晴れ渡り、上野の西洋美術館へ「松方コレクション展」を見に行く。横浜の三渓は日本画だが、松方のほうは印象派を主体とする西洋絵画。ゴッホの『寝室』も松方が買ったが、第二次大戦勃発でフランス政府に押収され、傑作ゆえに返却されなかったそうだ。松方は川崎造船の経営者で、注文なしに輸送船を建造した先見の明によって財をなした。原三渓は生糸商。はからずも2人の大パトロンのコレクションをつづけて見た。

 常設展も覗いてきた。人が少なく、落ち着いて見ることができた。西洋美術館は何度来ていることか。

 小展示室ではフィンランドの女性アーティストを特集した「モダンウーマン展」開催中。興味深い展示だった。

 

 別の日にまた上野。今度は都美術館の「伊庭靖子展」。スマホのアプリで割引クーポンを入手していたのだが、ワイファイがつながらなくて、クーポンの画面が呼び出せない! ……と思ったら、シニア割でクーポンを使うよりも安くなったのだった。うれしいような悲しいような。

 撮影可のコーナーがあったので撮ってみる。スーパーリアリズム風の静物画。

 たまに食べたくなるのが、新宿中村屋のインドカレー。いつも混んでます。今日は海老カレーにしてみた。

 



 吉祥寺アップリンクで「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を見る。上映時間4時間の超巨編だが見ごたえがあった。図書館のあるべき姿を考えさせられる。

 仕事の打ち上げで編集さんと神楽坂のスペインレストラン「エスタシオン」でディナー。神楽坂へ行くのも何年ぶりか。カタルーニャ名物のアーモンドのスープ。薄緑と紫色の塊は果物のブドウ。やさしい味。

 デザートに出たバスク風チーズケーキ。いま流行らしいですね。初めて食べた。蒸しケーキみたいな感じ? バスク地方のビルバオとサンセバスチャンに行きたい!

 

(なかの ゆうり)




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