【はまって、はまって】バックナンバー 2006年  江崎リエ(えざき りえ) 

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はまって、はまって

江崎リエ(2006.1.3更新)

正月飾り

十年ほど前から、正月飾りは布製のお供え餅に干支のアート作品と決めている。門松、注連縄などは新しい物を飾り、正月7日が過ぎたところで火にくべるのが本当なのだろう。「新しい」ことに価値を置く日本らしい風習だと思う。しかし、季節物だけに値段も高いし、寺社かどこかで燃やす機会もない。合理的な生活が好きといいながら、門松をゴミ袋に入れて収集に出すのには抵抗を感じる。お供え餅は、後でひび割れた所を焼いて食べるのが好きだったが、密閉率の高いマンションでは、ひび割れる前に湿気でかびてしまう。といって、真空パックの鏡餅を飾る気にもなれない。

そんなときに見つけたのが、親指の先ほどの小さな布製のお供え餅だ。いつもミニ雛を乗せて飾っている黒い板の上に乗せるとちょうどいい。1年目は玄関にこの鏡餅とモノトーンの招き猫を飾った。横に和の花を置けば、ちょっとした正月コーナーのできあがりだ。2年目からは、同じように布細工でできた翌年の干支を探すのが楽しみになった。

ここ3、4年は勤め先の近くにある「銀座松屋」で干支のアート作品を見つけることが多い。アートと言ってもミニの鏡餅に並べる小さな作品だが、毎年複数の作家が焼き物などで干支の動物を作って並べるコーナーがあり、そこを眺めに行っては、気に入った物を買ってくる。一昨年は女性作家のちょっとユーモラスなサルの焼き物が気に入ってそれを飾った。昨年は夫のいない正月を東京で迎えたくなくてオーストラリアの友人宅に行ったのだが、日曜の朝市で布製の鶏の置物を見つけ、「ああ、酉年だったなあ」と思って買い求めてきた。そして戌年は、友人達と訪ねた奈良でみつけた犬の置物。軽い型を吉野和紙で包んで目鼻をつけた起き上がり小法師だが、やさしげな表情が気に入っている。 12年続ければ、その後は新しいのを買わなくてもいいわけなので、もうしばらくこの干支飾りを続けようと思っている。

(近況)5月から抱えていた小説の翻訳を終わり、ほっとしています。アメリカはニューオリンズが舞台の、ちょっと変わったラブストーリー。出版月が決まっていませんが、出るのを楽しみにしているところです。1年間ここに書くことを楽しませていただきました。どうもありがとう。そして、2006年もどうぞよろしく。
(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2006.2.3更新)

クロスワードパズル

子供の頃からクロスワードパズルが好きだった。大人になって、PR誌を作る仕事をするようになってからは、クロスワードパズルを作ることもあった。ページ物のPR誌の場合、読者の手紙や編集後記のページに空きができるので、そこに小さなクロスワードを作って入れた。季節に合わせた言葉を盛り込み、難しさの加減を調整する。簡単すぎると飽きられるし、難しすぎると投げ出されるので、難易度の加減が難しい。黒マスが多いと見苦しいので、できるだけ黒マスを減らすのも腕の見せ所だ。幾つもの制約をくぐり抜けて、要求されるものを完成するのが楽しかった。

考えてみれば、これは広告のコピーの仕事とよく似ている。広告主や代理店の意向、媒体、予算、スタッフの力の具合を考え、いくつもの制約の中で、広告は生まれる。

ニューヨークが舞台のアメリカ小説を読んでいると、カフェでクロスワードパズルをするインテリ女性というのがよく出てくる。本の中のステレオタイプと思っていたら、ブロードウェー横のカフェで、おしゃれな中年女性がビールを飲みながらクロスワードパズルをやっている姿を目にした。クロスワードをやる女性は知的でちょっとスノッブというアメリカ小説のイメージがよくわかるシーンだった。日本にはこういうイメージはないと思うが、このイメージが自分に重なるのがなんとなく嫌で、その後はあまりクロスワードをやらなくなった。
最近私は数独に凝っている。こちらは知識やひらめきではなく、地道に一つ一つ数字を当たっていく律儀さが大切なパズルだ。地道、律儀、忍耐力、と並べてみると、翻訳の仕事に似ているような気もする。そう考えると、最近翻訳の仕事を楽しんでる私の好みがクロスワードから数独に変わったのも、必然かもしれない。
(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2006.3.3更新)

散歩とカフェ

 物書きだった父は、自宅から二駅先の新宿に毎日散歩に出かけた。子供達はたまにその散歩に連れて行ってもらい、喫茶店でジュースやアイスクリームを食べさせてもらうのが楽しみだった。今思えば、それは父の気分転換であり、人間観察の機会だったのだろう。私には、それは特別の楽しいお出かけであり、父が回りの大人達を眺める様子を見るのが好きだった。喫茶店に入ることの楽しさを覚えた私は、高校生になると一人で喫茶店に行くようになった。若い女の子が一人でなじみの喫茶店に行けば、マスターも常連客もやさしくしてくれる。私は、ちょっと大人に見られるその空間がとても好きになった。以来、散歩とカフェは私の暮らしに欠かせないものになっている。

 このエッセイのために自分が好きなもののルーツを考えて行くと、祖母や両親との初体験に行き着くことが多い。半世紀を生きていろいろな体験をしてきたのに、結局子供時代の影響から抜け出していないのかとも思うが、一緒に暮らしていた祖母 や両親が与えてくれたたくさんの体験から、私は私の好きな物事を選び出してたのだと考えれば、そこに自分があるような気もする。事実、同じような体験をした二人の弟たちは、喫茶店も散歩もそれほど好きではないようだし。

 70年代の東京の喫茶店は、ある意味で文化の発祥地だった。隣り合わせた人と仲良くなって人間関係が広がるエネルギーがあった。その時の体験があるから、私はパソコン通信のオフ会にも気軽に参加できたし、そこで貴重な友人たちを得た。そして今も毎日、あちこちのカフェに座っては回りの人を眺めて楽しんでいる。最近はオフィス街のカフェに座ることが多く、こちらが年を取ったせいもあり、気軽に隣の人と話す機会が減ったのがすこし寂しいけれど。
(えざき りえ)





はまって、はまって

江崎リエ(2006.4.2更新)

桜を見ると思うこと

今年も桜の季節がやってきた。桜の木の枝全体がなんとなくピンクに染まる頃から、桜の開花を楽しみにするようになるが、桜に思いを馳せると、死んだ人のことを思い出す。私の中で桜と死が結びつくのはなぜだろうか。子供の頃に大好きだった祖母は、桜の花が咲き始めると、「ああ、今年も桜の花を見ることができた」と言い、桜が散る頃になると、「来年も桜を見ることができるかねえ」とつぶやいた。それが残念というわけでもない、というような淡々とした述懐だったのだが、それを聞くと祖母の死が迫っているように感じて悲しかった。

大人になり、歳を重ね、いろいろな人の死を味わってみると、祖母の淡々とした心がわかるような気がする。死は常に人の身近にあるわけで、桜の花は季節の節目にすぎない。そんな思いで、祖母は、生きている自分、生かされている自分を眺めていたのだろう。

今日は自宅近くの善福寺公園で、ヨガ仲間と花見をしてきた。池に向かって大きく枝を広げる満開の桜天井の下で、手作りの料理と酒を味わう。風が吹くと、はらはらと薄桃色の花びらが舞う。一瞬辺りが澄んで、物音一つしない異空間に入り込んだような気分になる。この不思議な瞬間も、ふと死を連想させるのかもしれない。

桜と言えば、西行の歌を思い出す。

 願はくは花の下にて春死なん その如月の望月の頃

「死ぬなら春、桜の下で」と思いながら、また一年を悔いなく生きる。今の私は、それでいいのだと思う。

(2006年4月2日)
(えざき りえ)







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江崎リエ(2006.5.2更新)

竹の秋

 俳句に、竹の秋、竹の春という季語がある。竹は普通の植物とは反対に秋に花を開き、春から夏にかけて落葉する。したがって、「竹の秋」は春の、「竹の春」は秋の季語なのだ。もうずいぶん前、秋に竹林で有名な鎌倉の報国寺に行ったときに、「竹の春」を実感した。みずみずしい緑の若竹の艶が感じられて、竹林に生長のエネルギーのようなものが満ちていた。

 そして今日、ゴールデンウィークの始めに北鎌倉を歩いて、タケノコがぐんぐん伸びている「竹の秋」の竹林を眺めてきた。だが、今回は“秋らしい”風情は感じられなかった。タケノコを秋の実りと考えれば「竹の秋」に納得がいくが、タケノコご飯もタケノコの煮物も、春を連想させる。竹林ににょきにょきと生えている育ちすぎのタケノコも、どんどん生長する春のエネルギーを感じさせる。だが、英勝寺でお抹茶を入れてくれた女性によると、タケノコが焦げ茶色の皮を脱いで細い若竹になるころに古い竹の葉が落ち、そのころにお寺では老いた竹を切るのだそうだ。そうして竹林は世代交代をして行くのだという。

 どちらにしても、真っ直ぐに上に伸びる竹の林立する空間には、独特のエネルギーが満ちている。そして、辺りに人がいても、その空間に立つと不思議な静けさが感じられる。そんな静けさが好きで、今日もいくつかのお寺を回って竹林を眺めてきた。帰りにはタケノコを買って、シンプルな鰹出汁のタケノコご飯を炊いた。二つの季語を思い出しながら食べると、春の生長と秋の実りの両方が感じられて、おいしさも倍になったような気がする。
(えざき りえ)





はまって、はまって

江崎リエ(2006.6.2更新)

ウォンバットを眺めて

 私の仕事部屋の床には、ウォンバットのぬいぐるみがころがっている。息子が十歳の時に家族でオーストラリアの友人を訪ねた時に買ったものだ。帰りにこのぬいぐるみを抱いて飛行機に乗ったところ、カンタス航空のスチュワードがえらく喜んで声をかけてきたのを思い出す。

 ウォンバットと聞いて、「どんな動物?」と思う人も多いだろう。ウォンバットは、カンガルーなどと同じ有袋類で、タスマニアとオーストラリア東南部にしかいないのだそうだ。草食性で穴に住むので、日本の動物園では袋穴熊と呼ばれているらしい。足の短い小熊という感じで、顔はコアラに似ていている。そもそも、「ウォンバット」とは、原住民アボリジニーの言葉で「鼻が平たい」という意味で、鼻ぺちゃな所もコアラ似だ。友人夫婦と皆で散歩に行った森の中で姿を見たのだが、なかなかかわいかった。

 オーストラリアは、動物相も植物相も違うので、町をあるいているだけで面白かった。見たこともないきれいな花が咲き、白いぶちのあるカラス(マグパイ)が飛ぶ。木には鮮やかな色のオウムやインコが群れ、彼らが一斉に飛び立つ時の色の美しさは夢のようだった。夜になると電線の上をポッサム走る。ポッサムも有袋類で小型のキツネという感じだ。

 私は都会育ちで自然にはけっこう恐怖感があるので、タスマニアに行ってみたいとは思わないが、メルボルンの町中や郊外で、こうした動物や植物に出会うのは驚きがあって楽しかった。

 もし友人がオーストラリア人でなかったら、私のオーストラリアへの関心は極めて薄いものだっただろう。たまたま出会った人、仲良くなった人に関わる「もの、人、国」というだけでそのことに関心が向いたり、興味が湧いたりすることは多い。そう考えると、世界中のいろいろな場所の人と知り合えば、世界に対する目や心が優しくなるわけだ。そこで果たす言葉の役割、翻訳の役割も大きい、もっと言葉や翻訳の腕を磨こう。ワインを飲んで気持ちの良くなった頭で、昨日の夜、ウォンバットのぬいぐるみを眺めながら思ったのだった。
(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2006.7.2更新)

物忘れは昔から

会社の同僚と昼食に行く。エレベータに乗りながら、何を食べようかと相談する。昨日と違う物をという配慮から、「昨日何を食べましたか?」と聞いてくれるのだが、さて、自分が昨日何を食べたかが思い出せない。人の名前、物の名前が出てこないことも多い。家にいても、本を取りに行こうとして本棚のある部屋に入った所で、自分はここに何をしに来たのだろうか、とふと立ち止まる。そして、思い出せずにまた居間に戻る。居間に戻って初めて、「あ、本」と思い出すのだ。

ぼけてきたか、という心配もあるが、自分のことをよく思い起こしてみると、これは今に始まったことではない。そもそも、子供の頃から記憶力はあまりよくなかった。物事を細部まで鮮明に記憶するということが苦手で、なんとなく真ん中らへんをぼやっと覚える傾向にあった。地名や歴史の年号を覚えるのも苦手だったし、祖母に何かを頼まれて取りに行ったのに、何を頼まれたか忘れて聞きに戻ることもよくあった。人の名前もよく忘れていた。夫は記憶力のいい人だったので、彼が生きているときは、「あの、こんな髪型で、こんなことを話す人」などと特徴を言うとたいていは名前が出てきたので困らなかったが。今はインターネット検索を駆使しているが、私のキーワードのあいまい検索では、引っかからないことも多い。

語学の勉強をしていると記憶力の悪いのが情けなくなるが、仕事で2時間インタビューをすれば、話の細部までほとんど全部覚えている。たぶん、「書くために聞く」と思って集中するときは、脳のどこかのスイッチがカチッと入るのだろう。ただし、この場合は終わった後にひどく疲れる。

最近は毎日のようにサッカーのワールドカップドイツ大会を見ているが、ここで記憶力の弱さが悲しいのは、選手の名前を覚えられないことだ。試合を見ていれば知った顔、知った名前、おなじみのプレイスタイルと思っても、あとからその様子を息子に話そうとすると名前が全然出てこないので、およそ臨場感がない。

しかし、物忘れにはいい面もある。私はその場その場の感情の起伏は激しいほうだが、時間が立つと細かいことをどんどん忘れてしまうので、いつまでも嫌な感情を引きずることが少ない。そうは言ってもこれからどんどん歳を取り、一人で生きていかなくてはならないのだから、必要な細部はきちんと覚える訓練もしなくてはと思っている。すこし、巷の記憶術を研究してみようかな。
(えざき りえ)





はまって、はまって

江崎リエ(2006.8.5更新)

愛すべき通天閣

 仕事で大阪に行ったついでに、初めての大阪見物をして来た。まず、最初に行ったのが通天閣だ。直前にホームページを見たら、「まいどっ! ここは通天閣 大阪のシンボルでっせ!」と書いてあったので、東京タワー好きの私としては、最初に大阪タワーともいうべき通天閣に敬意を表しに出かけたのだ。

 地下鉄で天王寺動物園近くまで行き、動物園は見ずに通天閣をめざす。あたりは串カツ屋やらなにやらが並ぶ、いかにも大阪らしいごちゃごちゃとした町並み。通天閣入り口には呼び込みというか案内というかのおじさんがいて、なかなかおしゃれな円形エレベーターで2階へ。そこでチケットを買って今度は5階の展望台へ。360度大阪の景色を見渡して眺望を楽しんだが、大阪も東京同様、都市計画が感じられない町並みだった。まあ、これが大都市のパワーと言えるかもしれない。おこの展望台で気に入ったのは奇妙な木彫像「ビリケンさん」だ。明治末にアメリカの女流美術家が作り、いつのまにか通天閣の「福の神」になっていたのだそうだ。足のうらを撫でながら願い事をすると叶うというので、私も撫でてきた。

 パンフレットを見て驚いたのは、通天閣と東京タワーをデザインしたのは同じ人なのだそうだ。私が通天閣に引かれたのも、共通のデザインセンスを感じたからかもしれない(似てないけど)。さらに、家に帰ってからネットを調べたところ、現在の通天閣は2代目で、初代通天閣は「ルナパーク」という遊園地の中に建てられた塔で、パリの凱旋門の上にエッフェル塔が乗ったような形をしていたという。そのうえ、このルナパークはニューヨークのコニーアイランドをまねた遊園地だったのだそうだ。コニーアイランドといえば、夫とニューヨーク旅行に行ったときに寄ったマイナーリーグのスタジアムに隣接していた小さな遊園地だ。この偶然に驚きながら改めて通天閣を思い起こすと、ぱっとしない建物が味わい深いものに思えて、じわじわと愛情が湧いてきた。駆け足の大阪見物だったので、またゆっくりと行きたいと思っている。
(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2006.9.2更新)

ひき肉料理の楽しみ

 ハンバーグにミートボールと言えば子供の好きな料理の筆頭だが、この二つは今でも私の好きな料理だ。作るのも楽しいし、食べるのもうれしい。

 私の子供時代の日本は貧しく、我が家も貧しく、経済的な理由からひき肉料理が多かったのだろうと思うが、そんなことに気づかない私や弟たちは、シンプルにひき肉料理と家族の団らんを楽しんでいた。

 やがて私も自分の家族を持つようになり、やはり一番は経済的な理由から、安いひき肉料理を作る回数は多かった。ハンバーグ、ミートボール、スパゲティミートソース、つくね焼き、餃子、焼売、ジャージャー麺の肉味噌、ロールキャベツ、タコライスなどなど、レパートリーもどんどん広がっていった。

 作る立場になると、ひき肉をこねる感触も楽しい。いろいろなものを入れて、手で粘りが出るまで混ぜる。こねるという行為を通して自分の手がおいしさを生み出すような達成感があり、丸める、形作るという粘土細工のような楽しみもある。さらに、ひき肉料理にはほとんど失敗がない。ごく普通の家庭料理だが、たいていは美味しくできるし、食卓に出しただけで、ほんわか幸せな家族の顔を見ることができる。

 今は一人で食事をすることが多いので、ふわっーと湯気の立つひき肉料理を食卓に出して家族の笑顔を見る楽しみは失われてしまったが、温め直しても美味しいのもひき肉料理のよい点だ。多めに作っておけば、明日の昼に息子が食べるだろう。そんなことを思いながら、私は昨日、久しぶりに心をこめてハンバーグを作った。
(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2006.10.3更新)

運動嫌いのジム通い

 運動嫌いの私がスポーツジムに通いだしたきっかけは、行きつけのインド料理店の扉を押した時に背中を痛めたことにあった。通勤途中に通る銀座インズの扉も重かったので、ジムで筋力をつけて、こうした扉をらくらくと開けられるようになることを目標としていた。ところがバリアフリー法が浸透したせいか、銀座インズの扉は最近自動ドアになった。インド料理店では、扉を重そうに押す姿を見たせいか、レジでお金を払うと店員さんが扉を押してくれるようになった。力がなくて不便と思っていたワインの栓抜きは、ガスを使って開ける栓抜きを買ったので、いともかんたんに開くようになった。今、力があったらいいなと思うのは、冷凍したごはんを温めるために凍った密閉容器のふたを開ける時くらいだ。これも、ちょっとぬるま湯をかければ柔らかくなるのだが、せっかちなのでそのまま開けようとして無駄な力を使っている。

 筋力がついているかというと、そこまでの実感はない。前より体を動かしているので汗をかくようになったし、階段を上がる足取りは軽くなった。しかし、相変わらず通勤カバンは重いし、帰りに買い物をすると、その重さに腹が立つこともしばしばだ。だいたい、筋肉というのはぎりぎり以上の負荷をかけるとそれが刺激になって育つらしいのだが、辛い事が嫌いな私はぎりぎり直前で筋肉運動をやめる傾向にあるので、効率が悪いらしい。

 駅のあちこちにエレベーターが付き、ドアもどんどん自動になって、体が不自由な人たちが街に気軽に出かけられるようになるのは、うれしいことだ。しかし、ほんとうは体を動かした方がいい中高年や若者たちがどんどんずぼらになっていくという弊害もある。本当に必要な人が使えるように、エレベーターやエスカレーターはなるべく避け、体を動かそうとは思っているのだが、だからといってジムでがしがし鍛える気にならないのが運動嫌いということだろう。
(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2006.11.3更新)

新宿御苑でヨガ

 私が15年以上通っている荻窪の友永ヨーガ学院が、新宿御苑の向かいのビルに「新宿リトリート」というヨガスクールを開いた。しばらくは無料体験ができるというので、今日(11月1日)初めて、なじみの先生のヨガクラスに参加して来た。

 教室は建物の5階にあるので、通りをひとつ挟んだ向いの新宿御苑の木々をすぐ上から見下ろす位置に窓がある。ほんの少し開けた窓から夜の冷気がすっと入り、暗闇の中の木々のさわさわという葉音と虫の声が聞こえてくる。その闇の音を感じながらヨガをするのは、なかなか気持ちがよかった。

 新宿御苑は私には因縁の深い場所なのだ。大久保の近くで生まれ育ったので、小学校の最初の遠足が新宿御苑だった。遠足の後も理科の青空教室とか写生などに行った記憶がある。学生時代も遊びに行ったし、子供ができてからは、息子や息子の友達を連れてピクニックに行った。つらいことがあって頭が煮詰まった時も、ここの芝生に座りに行った。子供の頃から今までいちばん長くつきあっている公園なので、ここに来るとなんとなく心がほぐれる。

 そんな御苑の近くに、やはり私の心をほぐしてくれるヨガスクールができたのは、うれrしいことだ。そのうち、お天気のいい日に御苑の芝生で青空ヨーガをしてほしい。木と芝生のエネルギー、青空からのエネルギー、そんなものが体に取り込めれば、もっと強く生きて行けるような気がするのだが……。
(えざき りえ)







はまって、はまって

江崎リエ(2006.12.3更新)

偉大な発明

 日清と明星が業務提携をするのだという。その話を聞きながら、私は子供の頃の一シーンを鮮やかに思い浮かべた。弟と二人で、ラーメンどんぶりにインスタントラーメンを入れ、熱湯を注ぐ。小さな鍋のふたをどんぶりにかぶせ、三分待つ。目覚まし時計を机の上に置いて、二人で秒針を見つめた時間の長かったこと。ふたを取り、四角い形のままふやけたラーメンを箸でほぐし、二人で食べた。なんだか、とても幸せだった記憶がある。

 インスタントラーメンの始まりは日清のチキンラーメンだという。私が上記の体験をしたのが何歳の時だったのかは覚えていないが、あれはチキンラーメンだったのだ。子供心に「すごい発明だ!」と感嘆した記憶がある。思えば、人が何かを発明することのすばらしさを初めて実感したのが、この時だった。

 私はインスタントラーメンが好きな子供だった。「ブタブタコブタ、おなかがすいた、エースコックの即席ラーメン、ブー」と歌いながら、エースコックのワンタンめんを作るのも好きだったし、明星のチャルメラおじさんしょうゆ味も気に入っていた。

 ここまで書くと想像がつくと思うが、次に人類の大発明だと思ったのは、1971年発売のカップヌードルだ。高校生だった私は、家でカップヌードルを食べながら、「おお、すごい!」と思った。そして、小さい頃どんぶりにふたをした三分間の記憶が甦り、あの商品がこの形になったことに納得した。カップヌードルは発売当時から広告がしゃれていて、その世界観にも好感が持てた。

 他の業種なら「業務提携? あっそう」という感じだが、今回は、「基礎体力をつけて、また偉大な発明をしてね」と思うのは、インスタントラーメンへの愛ゆえだろう。
(えざき りえ)