【コウモリ通信】バックナンバー 2008年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2008.1.7更新)


行徳での初日の出








『2012地球大異変』
ローレンス・E.・ジョセフ

その98

 2007年は仕事に追われているうちに、いつの間にか終わっていた。

年末、上智大学管弦楽団の定期演奏会の招待状を弟からもらったので、翌日締め切りの原稿を放りだして、数時間でかけてきた。上智オケの公演など、在学中は一度も聴きに行ったことがなかったが、学生オケにしては本格的な演奏会で、充分に楽しめるものだった。

会場で思いがけず、管弦楽団の名誉顧問をされているアルフォンス・デーケン先生にお会いすることができた。デーケン先生の「死の哲学」は確か半年だけの一般教養の科目だったが、講義の内容は卒業後も忘れられないものだった。当時はまだ癌などの病気は患者本人に告知しないことが一般的だった。突然の死を宣告された人はその不条理に怒り、反発し、落ち込むが、やがて徐々にそれを受け入れて、残された日々を豊かに生きられるようになると学んだ私は、癌になったらすぐに教えてほしいと家族に頼んだ覚えがある。

死は誰にでもかならず訪れるものだが、人は往々にして死を考えまいとして、いまの生活が永遠につづくかのように錯覚している。でも、死をはっきりと意識して、人生は限られた短いものだと考えることで、人はより充実した生を送れるようになる。大学1年でこうして死を身近に意識させられたおかげで、私は日々を漫然と過ごすような人生は送らずにすんでいるのだと思う。
先を見通す力を英語ではvisionという。人生の果てにある死を意識することも、visionをもつことだ。visionという言葉には視野や視力のような意味もあるし、幻覚という悪い意味もある。平和な世の中では、visionaryは夢想家として笑われる。現に、デーケン先生も1977年に死の哲学の講義を始めた当初は、縁起でもないと周囲から猛反対されたそうだ。高齢化が進んだ現在は、先生が力説されていたターミナル・ケアの考え方が日本でも浸透してきているが、当時はまだ「誰もが若くて永遠に生きており、死に関する話は差別的発言にも等しい」時代だったのかもしれない。

実はこの言葉は、暮れに出版された私の訳書『2012地球大異変』のなかで、著者のローレンス・E.ジョセフが書いていたものだ。 "太陽"と呼ばれる一つの時代が2012年12月21日に終わるとするマヤの長期暦を、科学ジャーナリストである著者がさまざまな角度から検証するという、一見、かなり怪しげな本だ。

一般にこの世の春を謳歌している人は、近い将来、地球全体に危機が訪れる可能性などまずないと考え、かりにあったとしても、はるか未来の出来事だろうと高を括っている。だが、現代のような状況がこの先もつづく保証は実はどこにもない。変化の時代には、広い視野と長期にわたる見通しをもって、この先に起こりうる事態に備える必要がある。死を意識することでより有意義な人生を送れるようになるのと同様に、文明の終焉を多数の人が予期すれば、人間社会全体はもう少し高尚なものに変化できるのかもしれない。もっとも、そう意識したからといって、現実に大惨事が起きた場合に自分が助かるかどうかは、どうやら別問題らしい。

新しい年が始まって、マヤの予言の日までまた一歩近づいた。現実的な私は、その年に大惨事が起こるとは思っていないが、万一、そこで人生が終わっても悔いが残らないように、これからはなるべく毎日を楽しむことにしよう。

みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2008.2.3更新)


Photo by まちこ








Photo by まちこ

その99

1人の子供を育てるには、1つの村が必要だ。

10年ほど前、ヒラリー・クリントンがこんなアフリカのことわざを引用して、保守派からさんざん叩かれたことがある。子供を育てるのはそれぞれの家の責任、という理由からだ。泣き言を言わず、福祉に頼らず、自力で成功を勝ち取ることを美徳とするアメリカ社会を考えれば、当然のことだろう。

 当時、幼い娘を抱えながら深夜残業を繰り返し、心身ともにくたびれはてた私は、長年勤めた会社を辞めて失業中だった。産後8週間から会社復帰し、私の母をはじめ、ベビーシッターをしてくれた高校生たちや、娘を預かって夕食、入浴まで面倒を見てくれた隣人に助けられながらどうにかそこまでやってきたものの、子供の寝顔しか見られない日がつづき、喘息の発作で苦しむときもそばにいてやれない現実に、行き場のない怒りを感じていた。家庭を顧みずに仕事をする人間以外は、会社にとって結局、お荷物でしかない。病院の小児ベッドで添い寝をした翌朝も、家に寄って着替えだけしてまた出勤した。時間をやりくりして見舞いに行ってくれた母から、点滴で動けない娘はトイレが間に合わなかったらしく、冷たいままベッドで寝かされていたとあとから聞かされ、我慢の限界に達した。

 誰にも迷惑をかけまいとして、1人でしゃかりきになって子育てをしてもどうにもならない。誰もが同じ条件のもとに生まれるのなら、自助努力しろと突き放されても仕方ない。でも、普通の人が当然のように与えられるものすらなく、生まれる子供もいる。娘だって、好き好んでこんな境遇に生まれたわけではない。そのハンディは埋め合わせてやらなければならない。私がつまらないプライドを捨てて、多くの人の好意を素直に受ければ、そのほうが結果的に周囲の特定の人たちへの負担が減り、娘はもちろん、誰もが幸せになれる。つまるところ、子供は生物学的な親の所有物ではなく、天からの授かりものであり、生まれた瞬間から親とは別個の存在であって、「村」の一員なのだから。失業保険で暮らし、この先どうなるかわからない不安な時期に聞いたこの言葉に、私はどれだけ救われただろう。

私と娘はこれまであまりにも多くの人にお世話になってきたため、いったいどの方角なら足を向けて寝られるのかわからないほどだ。娘の成長に合わせて、着なくなったブランド子供服をダンボールで送りつづけてくれた友人もいた。今晩のおかずから、田舎からの野菜のおすそ分けまで、たくさんの差し入れもいただいた。いつも「どっかへ行きたい病」の娘を、休みが取れない私に代わってドライブや旅行に連れだしてくれた人も、宿を提供してくれた人も大勢いた。パソコンやスコープなどの貴重品も無償で貸与してもらっている。わが家のオンボロPCがなんとか動きつづけているのも、故障するたびに時間の都合をつけて駆けつけ、カンフル剤注入やら臓器移植を試みてくれる奇特な友人がいるからだ。

 そうやって大勢の人の善意に支えられて育った娘が、今年、めでたく成人式を迎えた。このきれいな振袖は、娘が近所の川で知り合った鳥仲間が、大切なお着物なのに、ご好意で貸して下さったものだ。写真は中学・高校時代の親友とお姉さんが早朝にもかかわらず撮りにきてくれた。娘が頭に挿している髪飾りの羽は、鳥の羽を収集している娘のために、友人たちが各地で拾い集めてくれたものから選んだ。これぞまさしく、Fine feathers make fine birds、馬子にも衣装。

 娘はまだ学生だが、鳥見と絵描きの趣味を合わせてBIRDERという雑誌に記事を描いたり、鳥の調査を手伝ったりして、自分の小遣いくらいは稼げるまでに成長した。お世話になった「村」に、なんらかのかたちで恩返しができるといい、と願っている。これまで私たち親子を支えてきてくださったみなさん、本当に、本当にありがとう。

 
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2008.3.3更新)


その100

 鳥と動物のあいだで大紛争が起こりそうになった。両軍が集結すると、コウモリはどちらに加わるべきか迷った。コウモリがぶらさがっているそばを飛んでいく鳥たちが言った。「一緒においで」。でも、コウモリは答えた。「ぼくは動物なんだ」。しばらくのち、下を通りかかった動物たちが見あげて言った。「一緒にこいよ」。でも、コウモリは答えた。「ぼくは鳥なんだ」。幸い、土壇場になって和平が結ばれたので、戦いにはならなかった。そこで、コウモリは鳥のところへ祝宴に加わらせてほしいと頼みに行った。ところが、鳥はみなそっぽを向いたため、コウモリはすごすごと引き返した。今度は動物のところへ行ってみたが、八つ裂きにされかねず、逃げ帰るはめになった。「ああ、ようやくわかったよ」コウモリは言った。 「どっちつかずの者に、友達はいないんだ」――イソップ寓話

 コウモリ通信と名づけたエッセイを一月に一度、牧人舎のホームページに寄稿させていただくようになってから8年の歳月がたち、今回で「その100」を迎える。翻訳の仕事は英語が得意な人よりも、日本語がうまい人のほうが向いているそうだが、私の場合は、残念ながら国語は大の苦手科目だった。だからこそ、毎月のこのエッセイは作文の練習だと思ってつづけてきた。途中、3度の引越しを重ね、人には言えない悩みで頭がいっぱいで、当り障りのないことしか書けない辛い時期もたびたびあった。それでも書きつづけてきた甲斐あって、最近は文章を書くことがあまり億劫でなくなってきた。 

 エッセイを書きだしたころは、翻訳業に足を踏み入れてまだ数年目だった。すでに平日の昼間に外を歩いても違和感がない程度には自由業の生活に順応していたが、PTAの集まりにでると、時間がたっぷりある周囲のお母さんとのあいだで浮いていた。旅行会社にいたころは、残業、出張、添乗が日常的な職場で、ずいぶん肩身の狭い思いをした。かといって翻訳の世界も、本来は運動したり工作したり、旅にでたりするのが好きな私には息の詰まることが多い。自分にぴったりの環境を探し求めながら、どこにも身の置き場がなかった私は、いつしか自分をコウモリと重ねていた。

 100回目のエッセイを書くに当たって、イソップの寓話をネットで検索したら、「卑怯なコウモリ」という題名だった。卑怯……そうなのかなあ。もう少し、検索したら、The Bat, the Birds, and the Beastsと題された英語版が見つかった。それを訳したのが冒頭の話だが、少しニュアンスは異なる。コウモリは鳥でないのに、鳥のふりをすることはできず、動物でないのに、動物のふりができなかっただけなのだ。私にもコウモリどころか、カメレオンほどいろいろな「顔」がある。そのどれもが私なのに、どれか一つだけを仮面のようにかぶり、それ以外のアイデンティティを押し殺すことはできない。

 ハンギング・プランツ、根無し草のコスモポリタン、そう言われても仕方ないかもしれない。でも、エッセイを書きながら、音信の途絶えてしまった昔の友達が、いつかネット上で私を見つけてメッセージを受け取ってくれたらとも願っている。コウモリだって友達がいないと寂しい。だから、懐かしい人から、「読んだよ」と言われるのが何よりもうれしい。バックナンバーまでさかのぼって読んでくれた旧友もいるし、このエッセイのおかげで何十年ぶりかの再会をはたすこともできた。毎月、拙文を欠かさず読んでくださっているみなさまには、本当に感謝している。いまやコウモリ通信は私の大切な宝だ。

 8年間、多忙ななか毎月かならずこのホームページを更新し、私のエッセイにひょうきんなコウモリの挿絵を描き、いつもフォローしてくださった野中先生に、この場を借りてお礼を申しあげたい。それから、「別にいいんだ、私は私。どうせ変人だから」と言って、私の悩みも笑い飛ばすうちの子コウモリにも、たびたびイラストを描いてくれ、話のネタになってくれたことを感謝せねば。最近、娘は絵のブログ http://pub.ne.jp/KuinaSoi17/や、その他の活動に忙しくてあまり協力してくれないが、今回は100回目だからと、マレーシア旅行に飛びだしていく前日に、親子コウモリの絵を描いてくれた。テレマカシー。

 
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2008.4.3更新)


ロムフップ市場


水上市場




泊めていただいた家




にわか地元民の格好で料理に挑戦する



サーラーからニッパヤシの殻投げ
その101

 恒例になった年に一度のタイ旅行に、今年もでかけてきた。どこか田舎へ行って船でも漕いでのんびりしたい、という私の希望を聞いて、今回、鳥仲間の友人が連れて行ってくれたのは、バンコクの南西にあるアンパワー郡だった。

 最初に訪れたのは、タラード・ロムフップという線路の両脇すれすれに店が並ぶ市場。一日に8回、列車が通る時間だけはロム(傘)をたたんで(フップ)店を片づけ、列車が通過すると何事もなかったようにまた店を広げる、日本人なら目をむきそうな市場だ。

 その夜は水上マーケットの近くにある、川沿いの家を改装した宿に泊まった。「ここへ来たからには、コークラチョウとパートゥンを着なくてはね」と、友人がにやにやしながらプレゼントしてくれたのは、筒状の巻きスカートとノースリーブのトップだった。当の友人は、「セクシーセクシーすぎるから」と言って自分は着ない。せっかくだからと思って着てみると、涼しくて快適だった。ふと前の家を見ると、パートゥンを胸までたくしあげたおばあちゃんが、ザンブと川に浸かって水浴びをしている。なかなか便利な服らしい。

 翌朝は托鉢の僧侶に差しあげる食べ物を注文しておいた、と言うので、薄暗いうちから起きて緊張して待った。お坊さんはどこからくるのかと思ったら、川から小船を漕いで現われた。差しだされた銀の器に食べ物と花を入れると、何やらお経を唱えてくれる。

 次の日は、友人の友人の友人の家に泊まりに行った。塀も柵もない木立のなかにタイ中部の伝統的な高床式の母屋があり、ほかにもいくつかの小屋が建っていて、目の前には川、横には運河が流れている。チーク材でできた母屋の下は、増水時以外は食事や談話のできる快適なピロティになっている。ピロティはル・コルビュジエが提唱したと言われるが、東南アジアには何百年も前から存在していたに違いない。

 昼食後、私と娘はさっそく平船を借りて運河へ漕ぎだした。お坊さんや物売りのおばあちゃんたちは易々と漕いでいたはずなのに、竜骨のない船は漕げば漕ぐほどくるくる回ってしまう。何度も泥や茂みに乗り上げているうちに、この家の大型犬トムが興奮して運河に飛び込み、船に乗ってきた。びしょ濡れのトムを乗客に、よろよろと船を漕ぐ私たちを見かねて、この家のご主人が漕ぐ秘訣を伝授してくれた。船尾で櫂をしばらく止めて進路を調節するのだ。手にマメをつくりながら練習した甲斐あって、川にも漕ぎだせるようになり、潮の満ち干の影響で流れる方向が変わる河口域を体感することができた。

 夜になると蛍が木を飾り、空には満天の星が見える。母屋は階段を上ってすぐのところに屋根のない居間がある。そこに寝てみたいと無理を言ったら、布団を敷いて蚊帳まで吊ってくれた。いざ寝る段になって、蚊帳の上に描かれたピンクのバラの絵が邪魔になって星が見えないことに気づいたが、笑い転げているうちに眠ってしまった。

 翌日も川に張りだしたサーラー(東屋)で鳥を見たり絵を描いたりして過ごし、ニッパヤシの実を割ってもらってシロップをかけて食べ、誰がいちばん殻を遠くまで投げられるか競争して遊んだ。川で泳ぎ、川で洗い物をし、川に生ごみを捨てる。ちょっと抵抗はあったけれど、川はすべてを洗い流してくれるのだと思うことにした。日がな一日、サーラーで過ごしているタイ人を見て、退屈しないのだろうかとかねてから疑問に思っていたが、実際にやってみたら悪くない。いつの間にか、すっかりくつろいでいる自分に気づいた。緑のなかの屋外キッチンで、ムナオビオウギビタキを見ながら、油が飛ぶことなど気にもせずに野菜炒めをつくっているうちに、それまで着込んでいた鎧が消えて、背中が軽くなったような気がした。ここでは、時間が確かにゆっくり流れていた。

 この場をお借りしてちょっと宣伝を。
 5月に姉がまたリサイタルを開きます。前半はスクリャービン、バルトーク、プーランク、ドビュッシーなど20世紀前半の名曲を、後半はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を、5人の弦楽器奏者と共演するピアノ六重奏です。お時間がありましたら、どうぞおでかけください。

東郷まどかピアノリサイタル
 日時:2008年5月2日(金)7:00pm
 場所:横浜みなとみらいホール(小)
 全席自由 \3,000 
 (チケットはCNプレイガイド 0570-08-9990)

 
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2008.5.5更新)



その102

「まず隗より始めよ」という言葉は、ご存じのとおり、燕の昭王がよい人材を集めるにはどうすればよいか宰相の郭隗に尋ねたところ、まずは身近にいる自分を優遇することから始めなさい、と答えた故事に由来する。このとき郭隗は、昔の君主の例をあげて昭王に諭す。一日に千里走る名馬を手に入れようとした君主が、涓人という役人に千金をもたせたところ、涓人は死馬の骨を五百金で買って帰ってくる。王は怒るが、涓人は「死馬すら且つ之を買ふ、況んや生ける者をや。馬今に至らん」と答えた、というものだ。

 娘が高校生だったころ、授業参観である教室をのぞいてみたら、親は私一人しかいなくて、生徒はほぼ全員が寝ていた。そのとき先生が一人でぼそぼそと教えていらしたのが「まず隗より始めよ」だった。先生はなぜか「生きた馬の骨すら買ってくれるなら……」と解説してしまい、顔を赤らめてあわてて「死んだ馬の骨」と訂正された。生徒はもちろん静まり返ったまま。私は吹きだしたくなるのを必死で堪えたが、数分後にまた同じ説明を先生が繰り返したときにはいたたまらなくなり、教室から走りでた。それでも、「生きた馬の骨」の話は、漢文の苦手な私の頭にも妙な具合に残った。

 なぜ、こんなことを書いているかというと、実はいま訳している気候変動と歴史に関する本に、馬と遊牧民に関する話がでていからだ。人間が馬を家畜化したのは紀元前3500年ごろ、ステップの周辺部や黒海周辺でだったと言われる。燕の昭王は在位が前331〜前279年なので、涓人が例にあげた昔の君主の時代となると、一日に千里を走る馬は、いまの北京を含む渤海沿岸の燕ではまだまだ最先端の武器だったのだろう。燕は前222年に秦に滅ぼされているが、『山海経』に「倭は燕に属す」と書かれており、倭は燕に朝貢していた可能性がある。

 ちなみに、中国の里は500メートルなので、千里は500キロ。さすがにこれでは新幹線のような馬になってしまうが、ヨーロッパまでモンゴル軍が遠征したことを考えれば、汗血馬の実力は相当なものだったに違いない。「こうした距離を比較的速く移動できる者はステップで生き延びることができ、その結果、社会は様変わりした」と、私の訳している本にも書かれていた。つまり、一ヵ所に定住できないような厳しい環境でも、距離を克服できた者は、季節ごとにあちこちで食べ物を集めて生きていかれたということだ。

 ところが、馬は牛にくらべて干ばつに弱く、気候が悪化して草がなくなるとどんどん死んでしまうのだという。死んだ馬は食べてしまったそうなので、「馬の骨」はステップでは干ばつ時にはそこらじゅうにあるものだったかもしれない。『スーホの白い馬』では死んだ馬の骨や皮で楽器をつくる。子供のころ想像してぞっとした覚えがあるが、実際の馬頭琴(モリンホール)には弓に馬の尻尾が使われているだけで、以前は馬の皮が張られていた共鳴箱もいまは木製になっている。馬の骨は、何にも使えない代物でもあったようだ。

「馬の骨」と広辞苑を引くと、「素性のわからない人をののしって言う語」とある。日本に馬がやってきたのは4世紀後半。「どこの馬の骨だか」という言葉は、日本人の日々の生活から生まれた表現というよりは、大陸からなんらかのかたちで伝わってきたものに違いない。眠くなる漢文の授業も、こんな具合に枝葉を伸ばせば、もう少し楽しくなるのではないだろうか。

 
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2008.6.5更新)



その103

 ここ数週間、珍しくせっぱ詰まった仕事がなくなった。こういう時期にコツコツと真面目にページ数を稼げば、あとが楽になるのだろうけれど、効率よくひたすら義務をこなしていると息が詰まる。たまには自分の好きなこともしたい。いちばんよいのは旅にでることだけれど、そこまで時間もお金も余裕がないときの私の気晴らしは、もっぱら工作だ。

 勤めていたころも、よく通勤電車のなかでアイデアを練り、週末になるとドイトやユザワヤへ材料探しにでかけた。娘の玩具も大半は私がつくっていた。なかには人形の家やお雛様などの自信作もあったが、衝立のようなドアとか、キルティング地でつくった14匹のねずみの家とか、いまだに笑いものにされる駄作も多々あった。セーラームーンが流行っていたころ、娘がキューティムーンロッドを欲しがったことがある。電子音の鳴るプラスチック玩具が嫌いな私は、丸い棒をピンク色に塗り、金色に塗った球をその上にボンドでつけ、スワロフスキーの大きなハートもつけてやり、このほうがはるかにいいと強引に押しつけた。確かに日の光が当たると、クリスタルガラスが部屋中に反射してなかなか幻想的だった。ところがある日、友達と一緒に神妙な顔で呪文をかけながら棒を振っていたら、先端の球が転がり落ちてしまい、おなかがよじれるほど笑って、結局、お釈迦になった。

 度重なる引越しで、つくった玩具の大半は処分してしまった。多くのゴミをだして罪悪感に駆られた私は、物をつくるのはもうやめて、言葉の世界だけで満足しようと決心した。それ以来、どうしても必要なもの以外はつくらなくなっていたが、このところまたぞろ工作熱が再燃している。なるべくゴミをださないよう、軽薄短小のものに限定しているが。

 先日は、東京ビッグサイトで開催されていたデザインフェスタを見てきた。7000人のアーティストが集う大規模な催しで、祭りの夜店のようなブースが2600も延々とつづき、いわゆるビーズアクセサリーから、壁画やインスタレーションまで玉石混合といった感じで並んでいた。出展者も来場者もほとんどが20代から30代で、私と同世代の人は非常に少なかった。こういう仕事で生き残れる人は、ごくわずかなのだろう。

 最初は会場の様子だけのぞいてくるつもりだったのに、見だしたらおもしろくてたまらず、あちこちのブースで立ち止まっては、実演者と話し込んでしまった。恐ろしく細かい切り絵をナイフ一本で黙々とつづけるお姉さんや、ベニヤ板にポスカですいすいと絵を描く若者、小さく切った銀のワイヤーとガラスを一つひとつ溶接するジュエリー職人など、こんな手法もあるのか、と驚かされることばかりだった。ダンボールでつくった集合住宅や、針金一本でできた動くオブジェなど、なんの役にも立ちそうにない作品もあった。家族にどんな顔をされながら、こういう作品をつくりつづけてきたんだろう、と涙ぐましくなる。でも、そういった作品のほうがはるかに印象に残るから不思議だ。

 ちょっと気になったのは、死人のような人形を展示するブースがかなりあったことだ。オフィーリアと『大いなる遺産』のミス・ハビシャムを合わせたような、朽ち果てる一歩手前の美醜紙一重の作品だ。こんなものを誰が誰のためにつくるのだろう? 死を見つめる芸術なのか、ネクロフィリアなのか。店番をしているのは、決まって真面目そうな30代くらいの女性だ。死体を損壊する殺人事件が多い世相を反映しているようで後味が悪い。

 とはいえ、目を輝かせて自分の作品を並べる大勢の若いアーティストたちを見て、また新しいアイデアがいくつも浮かんできた。エネルギーが欲しい人は、年に二度開催されるデザインフェスタに、ぜひ足を運ばれるといい。

 
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2008.7.7更新)






ガクアジサイ



エビヅル



ヤマノイモ


その104

 うちのアパートの隣に、木が鬱蒼と茂った家がある。毎年、この時期になると、アパートの敷地内に大きな梅の実がたくさん落ちてくる。気づいたころには腐っていることが多いが、風が吹いたあと忘れずに見に行けば、熟した実が30個くらい、ほぼ無傷で落ちている。この実に砂糖をまぶして一晩置き、でてきた汁を使って圧力鍋でさっと煮てみたら、きれいなオレンジ色になった。その酸っぱい液を水かお湯で薄めて飲むと、眠気覚ましに最適な、クエン酸たっぷりの飲み物になる。ただで手に入って得した気分なので、なおさらおいしく感じる。

 塀越しに見えるお隣は、夏でも二階の雨戸が閉め切りで薄暗く、どことなく『秘密の花園』的な雰囲気だ。木の繁茂したこの家は、住人の愛想の悪さとあいまって、近所ではすこぶる評判が悪い。引っ越してきて早々に怒鳴り込まれたことがあるので、私もなるべくかかわらないようにしている。

 でも、ここの庭に生えている草木は実におもしろい。塀を越えて伸びてきたガクアジサイなど、ふと見上げたら、三メートルくらいもある。梅の実のそばにニョキニョキと生えている草は、塀の下をくぐった地下茎で増えたエビネだ。今年はブドウのようなものまで垂れ下がってきている。ノブドウなら裏庭にもあるけれども、こんな大きな実はならない。エビヅルだろうか。この実が熟したら植えてみようか。でも、その前にきっと、アパートの補修・管理に毎月やってくるおじさんが、容赦なく刈り取ってしまうに違いない。おじさんは、ユキノシタでもタチツボスミレでも、ムラサキケマンでもネジバナでも、とにかくすべてむしってしまう。

 アパートを「管理」するおじさんにとっては、草など一本も生えていない状態が望ましいのだろう。生えていてもよいのは、人手によって植えられた園芸種だけだ。それを言えば、近所のきちんとした家はどこもみなそうだ。定期的に植木屋を呼んで、木はすべて妙な坊主頭に刈り込んでもらう。玄関先にはつねに花が咲き乱れているが、花の時期が終われば抜かれて、翌日には別の花が植わっている。庭の手入れが面倒な家は、砂利を敷き詰めて草木は一切なしという状態だ。私の住むアパートや、お隣のように、潅木や蔓性の植物が伸び放題の家は、ろくに「管理」もできない、だらしない家として煙たがられる。

 おそらく、人間が完全に支配しなければ、いつかまた自然に取り返されてしまうという、潜在的な恐怖が人の心にあるからだろう。近ごろは自然との共存などという言葉が、あちこちで聞かれるが、簡単なようでいて、なかなか難しい。うちの裏庭のように数年も放ったらかしにしておくと、狭い敷地のあちこちから木が生えてくる。ヤツデ、ヤマグワ、ネズミモチ、サンショウなど、どれも鳥が種を運んできたと思われるものだ。もちろん、人間に都合のよい場所に生えるとは限らない。でも、こうして芽生えてきた命を、可能な限り生かしてやれば、わざわざ大金を投じて植林などしなくてもすむ。副産物もばかにならない。ドクダミは干せばドクダミ茶になるし、ヤマノイモは秋になればむかごご飯を楽しめる。うちの雨どいには、『ジャックと豆の木』のようにヤマノイモが伝っている。管理のおじさんは苦々しく思っているのだろうが、私は天まで届け、とひそかに応援している。

 
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2008.8.4更新)


アオバト







ピンバッジ



アヴィアントさんのアオバト・コーナー


その105
●を並べて描いた絵
半年ほど前、天然石の2ミリビーズで鳥をつくっているという突飛な話を、このコウモリ通信に書いた。商売を始める方法を模索中だとも書いた。まだやっているの?という周囲の冷ややかな視線をひしひしと感じながら、実はまだしつこくつづけている。

ビーズは女子供の遊びといったイメージが強いうえに、昨今のブームが去って、廃れ気味ですらある。でも、ハラッパー遺跡からカーネリアンのビーズが大量に出土するように、ビーズは大昔から人間が愛用してきた装飾品なのだ。一〇〇〇年前にカリフォルニアの海岸地帯に住んでいたチュマシュ族が、良質のチャートをドリル代わりにしてアワビに穴を開けてビーズをこしらえ、内陸部のどんぐりと交換していた、などと翻訳していると、つい貝ビーズを販売するサイトを探してしまう。海など見たこともない内陸の人びとにとって、きらきらと輝くアワビの殻は、大いに心をそそられるものだったろう。かさばらず腐らないビーズは最高の交易品だったに違いない。中米のマヤ族はケツァールの羽の青緑色に神の存在を感じていて、支配者は青緑色の翡翠のビーズを手足にはめていたという。

黒曜石からラピスラズリまで、私はいつの間にか50種類近くも2ミリビーズを溜め込んでしまった。だから当面、太めのワイヤーで周囲を補強する方法と、江崎リエさんのコメントにヒントを得て麻布に縫いつける方法で、これを使いつづけようと思っている。

その一方で、天然石ビーズから離れて、45個のドットで鳥をつくるというアイデアそのものにも立ち返ってみた。ただ単に丸を45個連ねて鳥の絵を描く。もう少し頭を小さくとか、尾を長くとか、あれこれやり直すのにパソコンに勝るものはない。文字モードの●を並べて絵を描いているうちに、布にプリントする方法を思いついた。

この布を帆布と組み合わせて、うちの安ミシンでも縫えそうな巾着をつくってみる、というのが当初の計画だったが、ブックカバーはどうだろう、と友人に提案され、早速その案にも飛びついた。折よく、私の訳書が初めて文庫本になった(ブライアン・フェイガン著『古代文明と気候大変動』)ので、いつもより多めにいただいた見本に手製のカバーをつけて、あちこちに配った。大磯のアオバト愛好会「こまたん」メンバーのパン屋さんには、アオバトの商品を置いていただけないかと、図々しくお願いしてみた。

大磯の照ヶ崎の岩場は、丹沢から飛んでくるアオバトが夏場に海水を飲む珍しい場所として知られており、飛来数は8月が最も多い。黄色にオリーブ色、それに雄は肩が小豆色のアオバトが、何十羽も朝日を浴びて飛んでくるさまは、さながら空飛ぶ焼き芋軍団だ。

 パン屋のアヴィアントさんには、アオバト・グッズのコーナーがある。何年か前からうちの娘に絵の仕事を依頼してくださり、絵葉書やマグカップ、看板など、新しい企画をどんどん立てていらっしゃる。私の素人芸でも通用するかなと不安だったが、単純さがかえって受けるのか、少しずつ売れているらしい!

たとえビーズの鳥のようなちっぽけなプロジェクトでも、何もないところから新しいことを始めるのは容易ではない。努力を重ねても、結局は失敗に終わる試みのほうが多いのだろう。時の運や才能にも左右される。でも、先月訳していたハーレクインの主人公も言っていたように、成功するためには、何よりも粘り強さと辛抱強さが必要だ。もう少しだけ、粘ってみよう。
(アオバトの写真とアヴィアント店内の写真は、こまたん提供)
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2008.9.3更新)


南御室小屋で







タカネビランジ 鳳凰三山はピンクが多く……



タカネビランジ 白は北岳に多いとか


その106
稜線歩き 遠くに富士山が見える
 八月なかばに、南アルプスの鳳凰三山を縦走してきた。登り始めてすぐ、脚がいつになく重く感じられ、不安になった。最初の三〇分は息が苦しくなりやすいので、そのせいだと思い込もうとしたが、どうやら違うらしい。荷物が重いわけでもなかった。日ごろ運動不足なうえに、腰の調子がいま一つだったので、テントもポールもガスも、重いものはすべて娘が背負ってくれて、私は自分の荷物のほかは食料とコッヘルくらいしか分担していなかったからだ。

 十数年前、会社勤めに嫌気がさしていたころ、ある日、私は昼休みに会社を抜けだして、秋葉原のニッピンへ行き、二〜三人用の軽量小型のテントを衝動買いした。キャンプ用品さえあれば、夏の旅行はお金をかけずに済む、という打算もあったが、身一つで山から山へ渡り歩ける解放感が何よりも魅力的だった。登山の経験も知識もないに等しく、ただガイドブックを適当に読んでは、無謀な計画を立てた。だから、何度も道に迷い、日暮れて暗くなった森を歩いたり、めまいのするような岩場をよじ登ったり、土砂降りのなかを川と化した道を歩くはめになったりした。

 あのころは、テントからホワイトガソリンを入れるストーブまで、重いものはすべて私が背負っていた。それがいまやもう立場がすっかり逆転していた。私よりずっと用意周到で冷静な娘は、地形図を読み、高度計を見ながら、現在位置を確かめ、しっかりと行程管理をしてくれる。おかげで、なんとか無事に最初のキャンプ地である南御室小屋に、まだ明るい時間に着くことができた。

 同行した姉は小屋に泊まり、姪と娘と私の三人はテントで寝ることにした。荷物を大きなゴミ袋に入れて、テントの外のフライシートの下に置けば寝られるはずだと踏んだが、やはり甘かった。昔は三人で充分に寝られたはずのテントなのに、図体の大きくなった姪と娘にはさまれて、私は身動きもできない。ただでさえ脚も腰も限界にきているのに、これでは翌日歩けなくなってしまう。わずかな隙間で筋肉をもみほぐしながら、身体の向きを無理やり変え、最終的には頭と足を互い違いにして寝てもみたが、結局、一睡もできずに朝を迎えた。

 それでも、マッサージが効いたのか、翌朝は身体が軽くなっていた。天気も最高で、薬師岳、観音岳、地蔵岳と歩くあいだ、富士山や北岳や、遠くの槍ヶ岳まで見渡せ、気分も最高だった。
地蔵岳オベリスク
 問題が生じたのは下山途中だった。予定より遅れ気味だったので、途中の小屋で泊まることも検討したが、どうしても温泉に入りたいと姉が執着したため、とにかく頑張って下山することにした。ところが、そこからの長い長い下りで、私の脚はついに限界にきた。膝が笑うどころか、もう足が前にでない。荷物からコッヘルや食料も抜いてさらに軽くしてもらい、とにかく生きて下山することだけを考え、右、左と足を前にだすことに専念した。日も暮れ始め、誰もが疲労のあまり無口になっていた。青木鉱泉の旅館の風流な建物が見えたころには、六時を回っていた。中庭の長椅子にへたり込んだ私たち一行を見かねて、旅館の人たちは指定のキャンプ地ではなく、庭にテントを張らせてくれた。温泉に浸かって痛む手足を伸ばしたときは、まさに極楽だった。その晩は、若者にテントを譲って、おばさんは旅館のマットレス付きの清潔な布団で身体を伸ばして寝ることにした。毎日もっと歩かないと、いつか本当に歩けなくなってしまう、と危機感を覚えた山行だった。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2003.10.3更新)


カヌー探検



ガルヴェストン島



左端がJPモルガン・チェイス・タワー



その107

大学三年の夏休みだから、遊べる最後の夏休みだから、どこかへ一人旅をしたい。そんな娘の希望と、うちの財政事情や、治安の悪化や、娘の大学の多忙な日程――それに私の心配性――を考慮したあげくに、八月末から二週間ばかり、テキサスにいる私の元ホストファミリーを娘が一人で訪ねることになった。

 私のことをレンタカーならぬ、レンタキッドと呼んでいたホストファミリーは、孫娘が訪ねてきたように歓迎してくれたらしく、ホストファーザーはカヌーや自転車、バイクで、あちこち一緒に行ってくれたそうだ。「えーっ、私のときは連れて行ってくれなかったじゃない」と、電話でつい文句を言うと、「あのころはエルパソの砂漠にいたからな。でも、射撃に行ったじゃないか」とたしなめられてしまった。そうだ、考えてみれば、熱気球や乗馬、キャンプなど、いろいろな経験をさせてもらった。

 ホストマザーも、ヒューストン近辺のさまざまな鳥のサンクチュアリに娘を連れて行ってくれた。特にメキシコ湾沿いにあるガルヴェストン島に一泊二日の旅行にでかけ、湿地や浜辺の鳥をたくさん見てきたらしい。

 娘が帰国してわずか数日後、ホストマザーから、ハリケーン・アイクによる高潮でガルヴェストン島は氾濫していて、住民が避難している、というメールをもらった。彼らの住むヒューストン北西の郊外は、たくさんの木が倒れて数日間停電したほかは、大きな被害はなかったらしい。アメリカ本土に上陸したときは、カテゴリー2に弱まっていたし、カトリーナのときほど死者がでていないためか、日本でもあまり報道されていなかった。

 その後、忙しくてなかなか連絡が取れずにいたら、しばらくしてハリケーン・アイクの被害状況をまとめた一連の写真を送ってくれた。高床式に建てられた家が並んでいたと思われる一帯には、支柱だけがところどころ残っていた。家も船も車もお墓も、あらゆるものが吹き飛ばされて、ゴミの山と化している。顔だけかろうじて水からだして車のそばにいる老人。海となった場所に一軒だけ奇跡的に残った家。ほんの数日前、娘がホストマザーと通った道路には、ソファや木材が散乱していた。ヒューストンにあるJPモルガン・チェイス・タワーはI.M.ぺイ設計のテキサス一の高層ビルらしいが、その窓ガラスがことごとく割れている写真もあった。

 ネットで調べてみると、ハリケーン・アイクは9月4日の時点で風速が時速233キロにも達し、娘が帰国した翌日の11日にはカテゴリー5.2と、記録史上最大のハリケーンに発達していたらしい。今回はアメリカとハイチで150人ほどの死者がでており、行方不明者がまだ数百人いる。ガルヴェストン島は、1900年にもカテゴリー4の巨大ハリケーンに直撃されて6000人ほどの死者がでている。その後、高さ5メートルの防波堤がつくられたが、今回のハリケーンではそれを越えて海水が流れ込んだようだ。

 送ってもらった写真には、トレーラー・パークに何百台もの移動住宅が連なった写真も含まれていた。サブプライム・ローンで建てた家がハリケーンで倒壊したら、保険でトレーラーを買うのだろうか。被害総額は270億ドルと見積もられている。ホストマザーには、「私を殺さないものは、私を強くする」という覚えたてのニーチェの言葉を、せめてもの励ましに送り返した。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2008.11.3更新)

















その108

 この10月、数週間ほど失業していた。明日から仕事がないという事態が、いとも簡単に起こりうるのがフリーの身の辛いところだ。どんな仕事でもやるからと、あちこちに頭を下げてお願いしようかとも思ったが、「神さまがくれたご褒美くらいに思って」という友人の言葉に従い、まずは豚小屋の掃除とビーズ鳥制作に時間を費やし、下旬には大菩薩峠から大菩薩嶺にかけて歩いてきた。翻訳業に転職して十数年目にしてようやく、自転車操業くらいには昇格したかと思い、ちょっとうれしくなった。つまり、ペダルを踏みつづけなければ倒れる一輪車操業ではなく、ときには下り坂で足を休められる二輪車に。

たまたま娘も2日連続で大学が休講になったため、平日に鈍行を乗り継いで行くことにした。麓の雲峰寺付近は、ちらほら色づき始めた程度だったが、登山道に入るあたりから周囲は色鮮やかな紅葉に染まっていった。真っ赤なカエデや、惚れ惚れするグラデーションのヤマザクラの葉が落ちていると、すぐに色褪せてしまうと知りながら、つい手を伸ばしてしまう。

 秋の山はカケスばかりで鳥はあまり期待できないよ、と言われていたのに、キビタキを初めて間近に見ることもできた。頂上付近ではルリビタキの若鳥が3羽、ナルニア国のコマドリさながら、私たちの前を飛んで道案内してくれた。途中で耳慣れない声も聞いた。ヒーイッ、ヒーイッ、と誰かが叫んでいるような、機械のきしみ音のような鋭い音だ。

 1日目は途中の福ちゃん荘でキャンプをした。泊り客は私たちと、もう1組だけ。ご飯が炊けるのを待つあいだ、塩山の駅で買ってきた「えんざんワイン」の小瓶を開け、2人で回し飲みをした。地元のワインを飲みながら、夜空の下で食べると、レトルトのグリーンカレーでもおいしい。低山をのんびりと巡るこうした山行も悪くない。

 昼間の鳴き声の正体がわかったのは、夜、キャンプ地のトイレに行ったときだ。目の前で何か白いものが急に動き、ヒイッという警戒音を発した。白いお尻。ニホンジカだ! ということは、昼間のあの声は、奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声だったわけだ。「ああ、それなら発情期の声だって、教授が言っていたよ」と、声の正体を突き止めて有頂天の私に、娘はあっさり言った。あの歌の物悲しさには、ひょっとして別の意味があったのだろうか?

 翌日の明け方、フライシートに当たる雨の音で目が覚めた。それまでの楽しい気分はどこへやら。テントから身を乗りだしながら大急ぎでオートミールをつくり、熱いお茶を魔法瓶に詰め、雨が小降りになった隙にテントをたたんで、薄暗いうちに出発した。

途中、目の前を2頭のシカが横切った。冷え込む山のなかで、野生動物はみな雨に打たれている。餌の乏しい寒い冬を乗り切れるかどうかで、生存できるかどうかが決まる。でも、すべてのシカが生き延びたら、今度は山の草木が危ない。足元に茂るクマザサを示しながら、「ここはまだいいけど、丹沢のササは食い荒らされているんだよ」と娘が教えてくれた。行きの電車で読んでいた『ワインの科学』(ジェイミー・グッド著、河出書房新社)にも、ブドウの木を台無しにするフィロキセラというアブラムシが、通常は冬のあいだにほぼ死に絶えると書いてあった。温暖化によって越冬できる幼虫が増えたら、アブラムシは爆発的に増えるのだろう。自然の仕組みは本当に複雑だ。

 ずぶ濡れにはなったものの、2日間の山歩きで、久々にたっぷりと充電した気分になった。家に帰ってみると、すでに仕事がいくつも待っていた。友人のアドバイスに感謝。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2008.12.5更新)



大磯の宿場祭り
「こまたん」のみなさんと



大磯の宿場祭り 
写真提供:こまたん



ビーズ鳥クリスマスカード
その109

 このところ、訳書が重版されるという朗報を立てつづけにいただいた。夏からずっと、リーディングはすれど次の仕事が決まらないという苦しい状況がつづいていたので、数ヵ月の延命措置を施してもらったようなものだ。本業が開店休業状態だったので、その間、私はミシンがけや粘土工作に精をだし、11月中は2つのお祭りに参加して、オリジナル・ビーズ鳥グッズを売らせてもらった。いよいよ露天商稼業に乗りだしたわけだ。

 まずは、昨年に引きつづき大磯の宿場祭りで、「こまたん」のあおばと屋の隅に出店させていただいた。今年は巾着やブックカバーなども持参したが、私のつくるものは総じて小さく地味なものだ。通りすがりのお年寄りの目にはまず留まらない。いちばん安いもので400円という値段設定も、不況の折のお祭り価格としては少々高すぎたようだ。結局、こまたんのメンバーや、その知り合いの鳥好きの人たちにしか興味をもっていただけず、売上げはぱっとしなかった。それでも、わざわざ立ち寄ってくれたありがたい友人や、大磯にいる親戚にも会えたし、小春日和の一日だったので、よい気分転換にはなった。日経に掲載された書評をコピーしてつくった宣伝チラシを配り、訳書の宣伝もしっかりとさせてもらった。

 翌週は、我孫子で開かれたジャパン・バードフェスティバルに、バードウォッチングのツアーを主に企画しているワイバードという旅行会社のブースに間借りさせていただくかたちで、初参加した。こまたん同様、こちらもまた娘の口利きで出店できるようになった、という恰好の悪さ。私は鳥の世界ではまったくのもぐりなので、そんなことは気にしていられない。あいにく両日とも、ときおり小雨の降る寒い日で、例年より人出が少なかったらしく、ここでも苦戦はつづいた。通りすがりの人に「ブックカバーはいかがですか?」と声をかけても、興味ないわ、と言わんばかりの顔。「天然石の2ミリビーズでつくりました」と言っても、「あっ、そう」。それでも、ときどき意外にも、男の人や小学生の女の子がブックカバーを買ってくれたりする。ビーズのピンバッジが欲しかったのに、お小遣いが足りず、樹脂粘土のキーホールダーで我慢した子もいた。すべての柄を見て、いちばんシックな組み合わせ(と私が思っている柄)を選んでいくお洒落なお姉さんもいた。私のビーズ鳥は、どうやら特定の人にしか受けないらしい。

 しばらく売り子をつづけるうちに、買ってくれそうな人を見分けるのがうまくなった。ブックカバーを買う人は、見本として置いた訳書にも関心を示してくれる。考えてみれば当たり前のことだ。どの鳥も45個の点でつくられている、という説明に反応を示さない人は、まず見込みがない。売上げは芳しくなかったが、ワイバードの人たちはさすが旅行会社でノリも面倒見も抜群で、寒い2日間も苦にならなかった。イラストレーターの富士鷹なすびさんが色紙に絵を描いているところを間近に拝見できたのも、実にラッキーだった。

 ビーズ鳥は、私にとって遊び心満載の軽いプロジェクトなのだが、結局のところ、私の訳書と同様、一般受けはしないことが、この3日間を通じてよくわかった。でも、大いに関心を示してくれた人もなかにはいたのだから、それを励みにこれからも頑張ろう。

 こまたんとワイバードのみなさま、本当にお世話になりました。それから、今年も「コウモリ通信」を読んでくださったみなさま、どうもありがとうございました。
(とうごう えりか)