【コウモリ通信】バックナンバー 2009年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2009.1.7更新)




駅前に浮かぶ富士山
――下の道から




最後の日の入りと富士山



ついでに、大晦日の金星と三日月
その110
尾根道から、富士あり(上)
富士なし(下)

この季節になると、晴れた日には尾根道から富士山が見える。横浜から見る富士山は驚くほど大きく、あんな山が後ろにそびえていながら、ふだんは気づかないなんて信じがたい。数年前までは、駅前のエスカレーターを下りながらも、雪化粧した凛とした富士山が眺められた。ところが、いまでは無粋な高層ビルのせいでまったく見えない。

日本のほぼ中心にある日本一高い山でも、目に入らなければ、忘れ去られてしまう。なにしろ、目の前にはビルが立ちはだかっているし、周囲にはところ狭しと誘惑物があるし、頭のなかは誰しも悩みごとや雑事でいっぱいだからだ。見晴らしのいい場所から眺めれば一目瞭然にわかることも、大きなビルのすぐ下に立って圧倒されているときには、方向感覚すら失いがちだ。

 考えてみれば、忘れられているのは富士山だけではない。目の前にあり、強引に迫ってくる雑多なものにとらわれて、本当に大切なことや真実が見えなくなっている人は大勢いる。憎しみや不満や不安にとらわれると、視野はいっそう狭くなる。たとえばイスラエルとパレスチナ。傍から見れば、争いつづけ、悲劇を繰り返すことの愚かしさが誰にでもわかるのに、憎悪に駆られた当事者はそれぞれの大義を掲げて譲らない。

私にとって身近なタイでも、ここ数年来、国を二分するような争いがつづいている。昨秋の空港占拠に参加していた友人は、疑問を投げかける私に、自分たちは絶対に正しいから、誰も手出しはできない。だから、心配は無用だし、外国人のあなたにはわからない、と珍しく強い口調で言った。

確かに、タクシン政権はお金にものを言わせて、タイの社会を根底から揺るがし腐敗させたのだろう。でも、お金で釣られたのも同じタイ国民であり、貧しい彼らにしてみれば、そのお金は何よりも価値があったに違いない。タクシン時代に急成長した経済の恩恵を受けた人だって、限りなくいるはずだ。悪いのは政治家だけではない。彼らをのさばらせたのは国民なのだ。その国民が変わらなければ、政治家の首だけ挿げ替えても何も変わらない。そして、国民は急には変われないし、急激な変化はかならず反動をともなう。

そもそも、この世の中に絶対に正しいことなんてあるんだろうか? 自分にとって正しいことが、ほかの人にとっても正しいとは限らない。人はそれぞれ異なった価値観で生きている。おたがいが相手の価値観を尊重し、そのときどきで共同体内のなるべく多くの人が満足する方法を、誰もがまあ納得するやり方で選ぶのが民主主義であって、「正しい」やり方を強引に押しつけることではないはずだ。結果以上に、一応の総意を生みだすプロセスのほうが大切なのだ。黄色シャツと赤シャツに分かれて国民同士がいがみ合うなんて、まるで茶番劇だが、友人たちは熱くなって正義を語る。冷静になって視点を変えれば、国の顔である首相府や空港を占拠した行為のほうが、タイのイメージと経済をひどく傷つけたことがわかるだろうに。ときには、遠くから見ている外国人のほうが、事態の本質を見ていることもあるはずだ。

荒波に翻弄されているときほど、そこから抜けだして遠くから、高みからものごとを見つめ直す必要がある。ものの見方を少し変えるだけでも、違う側面が見えてくるはずだ。駅に向かう道も、並行した下の道を通れば、いまでも富士山が見えることが最近になってわかった。大晦日には、船橋の母の家の前にある棟のてっぺんから、2008年最後の太陽と地平線上に浮かぶ富士山のシルエットを眺めた。見る見るうちに沈む夕日に、地球は確かに回っていると感じた。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2009.2.5更新)




第一号のお内裏さまとお雛さま



完成一歩手前のお雛さまと
幼かった娘



『折りひな』田中サタ他著、三人会(残念ながら絶版)
その111
『三月ひなのつき』石井桃子作、福音館書店

 『三月ひなのつき』という本をご存じだろうか? 昨年、101歳で亡くなった石井桃子さんが1963年に書いた児童書だ。貧乏な母子家庭の母親が、昔もっていたお雛さまのことが忘れられず、娘に新しい雛人形を買ってやれないでいる、というちょっと暗い話だ。幸い、私が子供のころ、うちには曽祖父が伯母のために買ったという御殿付きの七段飾りがあった。古い人形なので、箱からだすときに首が抜けたりして怖いものがあったが、箪笥や御膳、箱枕などをいじるのは楽しかった。私自身はお雛さまがなくて残念だと思わなかったせいか、この本は子供のころ一度だけ読んで本棚の奥にしまい込んでいた。

 のちに娘が生まれたあと、その七段飾りの行方を探したが、親戚のあいだを回るうちに所在がわからなくなっていた。そこで、私は『三月ひなのつき』をもう一度引っ張りだしてきた。本のなかのお母さんは最終的に折り雛のつくり方を習い、娘のために折り紙の段飾りをつくってやる。私はそれにヒントを得て、自分で雛人形をつくろうと思い立った。

 私の頭に浮んだイメージは、おにぎりのような、お手玉のような布のお雛さまだった。それなら、幼い娘が振り回しても壊れない。仕事から帰り、娘を寝かしつけたあと、白いハンカチを切って円錐形のようなものをつくり、綿を入れ、そこにあり合わせの端切れやリボンを重ねて縫い、顔を刺繍すると、お内裏さまができあがった。翌朝、起きてきた娘が第一号のお内裏さまを見たときの顔は、生涯忘れられない。不細工な人形でこれだけ喜んでもらえるならと、調子に乗った私は、それから毎晩、一人ずつ増やしていった。お雛さまがやけに太めになり、三人官女も「大女」になるなど、いろいろ失敗もしたが、右大臣は白い布の下にピンクのフェルトを入れ、赤い顔にするといった懲りようだった。

 最初の年は、本を重ねて階段をつくってお雛さまを飾った。でも、やはり子供のころにあったお雛さまのような御殿が欲しい。収納に困らないように、すべての段が小さい箱に収まるようにしたい。満員電車のなかであれこれと構想を練り、ついに竹ひごで編んだ御簾付きの、特製団地サイズの雛人形一式をつくりあげた。さらに翌年にはもう少し見てくれのいい布で新たにもう一セットこしらえ、全員に座蒲団をつくり、欄干と階をつけ、牛車までつくった。その完成版の写真を捜したけれどあいにく見つからなかった。

 この雛人形たちは、ブロックでつくった列車のなかに寿司詰めにされたり、二列に並んで座蒲団取りゲームをやらされたり、あるいは「下克上の世だ!」とばかりに、御殿に仕丁が座り、内裏雛は下足番に並び替えさせられたりと、ずいぶん可愛がられた。

折り雛セット
 それから何年かたって、私が足しげく通っていた児童書と玩具専門店の狭い店内で、あるとき『折りひな』という本を見つけた。表紙の写真を見た途端、『三月ひなのつき』の折り雛だ、と直感した。本には折り紙がセットされていたので、当時五年生の娘が早速、小さな折り雛を折り、私は折り畳み式階段と金屏風と雪洞を紙でつくってやった。そのすべてがB5版より小さい「たとお」のなかに収まってしまう。娘は高校生になるまで、このコンパクトな折り雛セットを3月3日になると学校にもって行っていた。教室に飾ると、みんな大喜びだったらしいが、私が金屏風に描いた泥道を行く牛の絵は笑いものだったそうだ。

 行方不明だった古い七段飾りも、その後、叔母の家の物置から見つかった。おかげで、娘はいろいろな雛人形をもつことになったが、いまでもいちばん気に入っているのは、私がつくった第一号の不細工なお内裏なのだそうだ。つい最近になって、私が額に刺繍した点の眉を、娘はずっと目だと思っていたことが判明した。「素っ頓狂な顔でかわいいと思っていたのに!」娘は抗議したが、私は腹をかかえて笑ってしまった。
(とうごう えりか)





コウモリ通信

東郷えりか(2009.3.9更新)

その112

 10年ほど前、失業していたころ、マレーシアからの一行を成田で迎える仕事を臨時で引き受けたことがある。それをいまだに覚えているのは、都内に向かうバスのなかで、隣に座ったグループリーダーが印象深い話をしてくれたからだ。自宅には電話がないんだ、とその人は言った。用があれば会社に連絡してくれれば充分だし、家にいるときは家族との生活を大切にしたいから、電話で邪魔されたくない、と言うのだ。ちょうどインターネットや携帯電話が普及し始め、新しい情報機器が生活空間や人間関係をどう変えるのか、といった議論が盛んになっていたころでもあり、時代の波にたいするこのマレーシア人のささやかな抵抗が、私の耳にはとても新鮮に聞こえた。

 それからしばらくして、『インターネット中毒』(キンバリー・S・ヤング著、毎日新聞社)という本を部分的に下訳する仕事をもらった。ネット中毒になる人の多くは、ゲームとチャットにはまっていることをこの本を通じて知った私は、それだけは手をだすまいと決めていた。もう十数年間、コンピューターの前に座る仕事をしているわりに、なんとか中毒にならずにすんでいるのは、早い時期にこの本に出合ったおかげかもしれない。

 ところが、そんな私の生活にもここ一ヵ月のあいだにちょっとした変化が現われた。原因はインターネット電話のスカイプ。スカイプの電話機能はもう何年も前から重宝して使っているが、タイの友人の一人がチャットで頻繁に連絡してくるようになったのだ。そうなると、私がネットに接続しているときは、いつでもお構いなしに呼びだしがかかる。画面に突然、着信サイン(音声は消しているので、幸い聞こえない)が現われると、仕事を中断して即座に返事をしなければならない。

ネットに接続している時間が娯楽のひとときである人にとっては、楽しい機能に違いない。だが、あいにく私の場合、コンピューターに向かっている時間の9割は仕事中だ。しかも、文章を書いているときは、頭のなかで何度も読み返しているので、音楽もかけずに集中しないと能率が上がらない。たいていは予定がずれ込んで、追われるように仕事をしているので、たびたび中断させられるのは辛いものがある。まるで裏口からしょっちゅう隣のおばさんが上がり込んできて、おしゃべりをしていくような気分だ。

 それにしても、この20年あまりの情報通信の変化には本当に驚かされる。郵便ポストに手紙が届くのを楽しみに待っていた時代から、テレックスやファックスでのやりとりに代わり、やがてeメールに安くなった国際電話、チャットと、それこそ目を見張るような変化だ。カメラ付きのパソコンなら、スカイプでテレビ電話もできる。その場にいないはずの人が電波に乗って忽然とお茶の間に姿を現わし、こちらの様子を知ってしまうのだから、これはもう『1984年』や映画「赤ちゃんよ永遠に」の世界だ。

 私はとりわけ通信機器の発達に助けられているほうだが、便利な機能を使うときにも、相手の状況や性格を考え、適度な距離を保つ必要があるようだ。メールをすぐに返せなくても、一ヵ月に一度とか、年に数回とかの頻度で音信がつづく交友関係が、結局のところ私にとっては居心地がいい。それなら、郵便の手紙でやりとりしても変わらないか、と思うとなんだか笑える。まあ、切手を貼って、投函して、という作業がないことだけは確かにありがたい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2009.4.9更新)















東郷なりさ「クイナ通り展」
4/18〜5/1
11:00〜19:00(月・火定休)
カフェ・コパン
台東区谷中2-3-4(千代田線根津駅、根津神社口より5分)tel:03-3823-6985

クイナ通りSoi 17
その113

 毎年、タイばかり行っているので、今年は他の国も見てみたい。それならカンボジアがいい。そこまでは決まったのに、忙しくて旅の計画を立てる暇がなかった。そんな折、格安航空会社のエアアジアがゼロバーツ・キャンペーンをやっているから、一緒にハノイに行こうよ、とタイの友人から誘われた。ハノイ……あまり興味はないけれど、近くでベトナムの鳥を見られるなら、それもいいかと行く先を変更した。出発間際になって、クックフーン国立公園に電話をかけ、公園内の宿とハノイからの車を手配してもらった。

 ハノイの空港に降り立った瞬間から、これまでとは勝手の違う国にきたことを悟った。市内までバスに乗るつもりだったのに、タクシーの運転手に囲まれる。あまりにしつこく迫るから、外国人はみな恐れをなして逃げる。つねづね思うのだが、商売でも恋愛でも、強引に押せば押すほど相手は引く。名づけて私の「プッシュ&プル論」。

 ターミナルでも客引きに囲まれ、現在地もわからないまま困惑しているところへ、ベトナム人にしては体格のよい男性が現われ、流暢な英語で「メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」と声をかけてきた。ホテルへの道を聞くと、自分の家も同じ方向だから、「フォロー・ミー」と言ってすたすた歩きだした。足早に歩くので、男性の姿は雑踏のなかに消えかけている。私たち3人は顔を見合わせ、荷物をかかえてあとを小走りに追った。しばらく行くと、男性が振り返り、私たちがついてきているか確かめた。笑いを堪えながら、私たちはバイクとトラックとクラクションの洪水のなか、信号のない通りを何度も横断して必死にあとを追った。男性はホテルの少し手前で立ち止まり、自分はここで右に曲がるけれど、あとはまっすぐ行けばいい、と言い残して去っていった。無理強いせず、適度な距離を置いて引けば、あとから妙齢の(?)女性が3人もついてくるのだ! まさにプッシュ&プル。

 突然のヒーローの登場に、私たちの旅行気分は一気に高まった。その後もおかしなことがつづいたが、極めつけはクックフーン国立公園に向かう車中の「事件」だった。朝の7時には、ホテル前に迎えのオンボロ車がきていた。運転手は無言だったが、英語のできないベトナム人は概して手話のように身振りだけで話すので、気にしないことにした。2時間ほど走ったところで急に車が止まり、エンジンをかけたまま運転手が道端で用を足し始めた。仕方なく待っていると、やおら車が走りだした。「あれっ、違う人だ」という娘の一言に窓の外を見ると、前の運転手はまだ立ちション中だ。2時間交替なのかと勝手に解釈して、そのまま進んだ。が、新しい運転手はひどく不機嫌だ。そのとき、目の前をバイクが横切り、車が急停止した。運転手は大声でバイクの運転手を怒鳴りつけ、車を降りて喧嘩を始めた。殴り合いにはならなかったが、さすがに怖くなった。再び車が走りだすと、娘が言った。「この車、ハイジャックされたわけじゃないよね?」その言葉に、友人の顔色が変わった。車を乗っ取られるな、とタイで注意されたのを思いだし、血の気が引いた。すると友人が開き直り、運転手に向かって「この車はどこへ行くの? ハロン湾?」と、有名な観光スポットを挙げて鎌をかけた。彼女の声のただならぬ調子に、運転手もまずいと思ったのか、クックフーンらしき単語をつぶやいた。やれやれ。そのあと公園の事務所の担当者と電話で話させてくれたうえに、フランスパンまでくれたが、喉を通らなかった。

 クックフーンで過ごした3日間はのどかで、ギンムネヒロハシやツノヤイロチョウなど、珍しい鳥がたくさん見られて充実していたが、あとから振り返ると、サプライズの連続だったベトナム人とのやりとりが、いちばん印象に残っていた。旅はおもしろい。

***ちょっと宣伝***
根津のカフェ・コパンで、うちの娘が初めての展覧会を開くことになりました。
鳥好き、旅好きの娘が自分のブログ「クイナ通りSoi17」に掲載していた水彩、パステル、コラージュの作品展です。私のビーズ鳥のブックカバーなども販売いたします。
根津神社のつつじ祭りや谷中銀座にお出かけのついでに、ご休憩がてらお越しください。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2009.5.7更新)


クイナ通り展




根津神社のつつじ


近所の駄菓子屋
その113

娘デザインのブックカバー
 根津のカフェ・コパンで展示はいかが、なりさちゃんのイラスト展はどうでしょう、という誘惑的なメールを一月末に野中邦子さんからいただいたとき、最初はどうしようかと親子で迷った。展覧会にだした作品はいくつかあるし、スケッチブックのなかに眠ったままの絵ならいくらでもあるけれど、はたしてカフェの壁に飾れるだけの作品が揃うだろうか? 地元でもない根津まで、わざわざ見にきてくださる人がいるだろうか? ただでさえ多忙な娘に、こんな一大プロジェクトをやりとげるだけの時間がとれるだろうか?

 あれこれ悩んだ末に、結局はいつもの楽観主義が勝った。何かをやって後悔するほうが、やらなかったことを後悔するよりはいい。たとえ失敗に終っても、失敗という経験はできるのだから。どうせ短い人生、なんでもやってみなければ損。誰だって最初はうまく行かないものだ!

 というわけで、先月のコウモリ通信で宣伝させていただいたとおり、娘の初めてのミニ個展、「クイナ通り展」を敢行した。娘は展覧会のために土壇場まで新たな作品を描き、私は展示費用を賄うための販売グッズとして、いつものビーズ鳥と、娘が新たに始めたステンシル版のブックカバー、娘の絵のポストカードなどを仕事の合間に必死で制作した。

 そんな急ごしらえの催しだったが、ありがたいことに、日ごろ娘の活動を見守ってくださるさまざまな人たちが根津まで訪ねてきてくれ、こぢんまりした店内はまさしくカフェ・コパン(仲間)という雰囲気になった。遠路はるばるいらした方や、大雨や強風のなかを家族連れできてくださった人たち、二度も来店していただいた方、メーリングリストやホームページで宣伝してくださった方など、実に多くの人たちの温かいお心遣いをいただき、おかげで無事に二週間の展示を終えることができた。販売グッズも思いがけずたくさん売れ、娘の絵もめでたく数点買っていただき、大きな励みとなった。みなさま、本当にありがとうございました。

 実は、今回の宣伝はがきを店内に置いてくださったバードウォッチングの専門店ホビーズワールドで、これを機に娘のステンシル・デザインのブックカバーを売っていただけることになったという、うれしいおまけもついた。家に一人残されて、四六時中PCの前に座りっぱなしの、黒子的な翻訳の仕事に疲れ、自分を見失いかけていた数年前に、気晴らしに始めた私のささやかな副業が、いまこうして少しずつ実り始めたのだ。

 それにしても、ビーズ鳥で自分を表現するはずだったのが、いつの間にか私は娘がデザインしたものを、原始的なやり方で量産する摺り師兼お針子になっているような気がしないでもない。そのせいで腱鞘炎にもなりかけている。副業のために、ますます時間もなくなり、自分で自分の首を絞めているような、悪い予感もする。

 やはりブッシュマンの生き方のほうが賢いのだろうか? 水のないカラハリ砂漠で生きるブッシュマンの生き残り戦略は、無駄なエネルギーを使わず、ひたすら日陰でじっとして水分が失われないようにすることだそうだ。まあ、ここはカラハリ砂漠ではないから、当面は創業の苦しみを味わっているのだと信じることにしよう。私のささやかな抵抗のしるしに、娘のデザインのカバーにも、ビーズ鳥のチャームをしおりの先につけている。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2009.6.2更新)


もらってきたブルーベリーの苗木

ついでに、庭に生えてきた
ナワシロイチゴ



いまはドクダミが花盛り

その114

 5月下旬の週末、東京港野鳥公園で開催された東京バードフェスティバルにでかけた。昨年の我孫子に引きつづき、バードウォッチングツアー専門の旅行会社ワイバードのブースを間借りしてブックカバーや巾着を売るためだ。平和島駅からバスという安い交通手段があるのを知らず、初日は京急で羽田空港方面まで行き、高いモノレールに乗った。

 私は日ごろあまり出歩かないので、車内を見回して仰天した。羽田空港近辺という特殊な場所のせいか、乗客のほとんどがマスクをしており、近寄るなと言わんばかりの顔をしていたのだ。マスクのような素敵とは言いがたい代物でも、着用者が多数になれば、つけていない少数派のほうが居心地悪くなるから不思議だ。

 こういう場面に遭遇すると、私はつい学生時代に授業で読んだイオネスコーの『犀』を思いだしてしまう。人びとが徐々に全体主義に洗脳されていく様子を、犀への変身にたとえた短編だ。最初は街に突然現われた犀に戸惑っていた人びとが、次々に犀に変身し始め、やがて主人公の恋人も犀になり、最後には主人公の身体もメリメリと犀に変わりだす。

 不思議なことに、バードフェスティバルの会場に行ってみると、同じ日なのにマスク姿はほとんど見かけなかった。そこが戸外の広い公園だからなのか、あるいは新型インフルエンザ流行中でも構わずイベントにくる人しかいないためなのか。このマスク騒ぎで、某マスク・メーカーは商売大繁盛なのだそうだ。それを聞いたうちの娘はすかさず、「マスクに鳥のステンシルをして売ればよかった!」とつぶやいた。

 私は通常、インフルエンザに罹って寝込むようなことにはまずならない。そもそもここ数年間、歯医者以外に病院にお世話になっていない。家にこもってばかりで人と接していないからだという説と、友人に助言に従って手洗い、うがいを励行しているおかげという説があるが、ふだんから身体を冷やさないよう心がけているのも役立っているに違いないと私はひそかに自負している。もともと平熱が低く冷えやすい性質なので、できる限りニンニクやショウガや唐辛子を食べ、冷たい飲物はなるべくとらないよう気をつけてきたし、少しでも寒ければ、すぐに着込むようにもしている。

 もちろん、ときには喉が痛くなったり悪寒がしたりすることはある。そういうときは、たとえ真夏でもあれこれ着込み、必要ならホカロンも使って汗をかくまで体温を上げる。熱が上がりきるまではとにかく身体を温め、汗がでてきたら、発汗しやすい膝の裏や脇の下を拭いてどんどん熱を冷ます。それに市販の風邪薬をちょっと飲む程度で、たいてい翌日にはけろりと治っている。新型インフルエンザにもこの手が通用するかどうかは知らない。でも、ウイルスはどんなに防いでも入ってくるだろうから、ふだんから体温をうまくコントロールして抵抗力をつけておくほうが、マスクや防護服を買い込むより賢明ではないかと、私は思っている。

 ところで、肝心のバードフェスティバルほうだが、天候も思わしくなく、来場者もまばらだったわりには、娘のステンシル版ブックカバーは好調な売れ行きで、私のビーズ鳥は苦戦していた。それでも、店番をしながらのおしゃべりは楽しかったし、ブルーベリーを2株も無料でもらえたのはラッキーだった。たわわに実ったら、老眼防止にせっせと食べようと楽しみにしているが、うちではヒヨドリの餌になって終わるかもしれない。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2009.7.3更新)


その115  最近、仕事で読んだ英語の本のなかに、老子の無用の用について語っているくだりがあり、それ以来、何かにつけて「無」について考えている。
三十輻共一轂。 当其無、有車之用。  
セン埴以為器。 当其無、有器之用。  
鑿戸ユウ以為室。 当其無、有室之用。  
故有之以為利、 無之以為用。
 車輪の30本のスポークは中心に空いたハブ、つまり無でつながることによって役に立つものになる。同様に器もなかの空洞があればこそ、そこにものが入れられるのであり、部屋は戸口や窓という開口部をつくってなかに空間があってこそ部屋になる。よって、有形のものが利用できるのは、無形のものがそれを役立つものにしているからだ、という意味らしい。老子の言葉を英語で知るのも妙な話だが、それはさておき、存在しないものに意味があるというこの言葉には、大いに共感するものがあった。

 人はとかく目につくものにばかり注意を傾ける。たとえば絵なら、実物のように細かく描かれた細部や鮮やかな色彩に人は感心するけれども、そうした部分が引き立つためには、実はその周囲に目立たない部分や空間がなければならない。ジル・バークレムの「のばらの村のものがたり」シリーズの絵本などは、心をそそるものが画面の隅々にまで描かれていて、最初に手に取ったときは驚いたものだけれど、何冊も読むうちにどれもこれも一緒くたになってしまい、結局、何も印象に残らなくなった。一方、ビアトリクス・ポターの絵は周囲にたっぷりある白い空間のおかげで、ニンジンやジョウロなどの脇役までが、いつのまにか人の記憶に残っている。

 卑近な例では、私が樹脂粘土でつくっているミルフィオリケイン、つまり金太郎飴のようなものでも、こうした「無」の存在を実感することがある。子供のころ、鳴門巻きにはどうやって「の」の字を入れるんだろうと、よく不思議に思ったものだが、複雑な「寿」の字や松竹梅の図案でも、基本的なコツは一緒だ(といっても、かまぼこをつくってみたことはないけれど)。肝心なのは、「の」や「寿」の線の隙間や背景の白い部分を正確な分量にすることなのだ。どんなに模様の部分に神経を使っても、地の部分、つまり通常は見ていない「無」の部分がいびつだと、結局、模様はきれいにできない。いくつもの失敗作をつくって、ようやくそのことを悟ったあとだけに、老子の言葉は身にしみた。

 実際、どんな分野においても、その道を極めた人はこの「無」や「間」、「空間」、「休符」、「行間」といった概念を、よく理解している。近所から聞こえてくる尺八や大正琴がいつまでも心を打つ響きにならないのは、休符を無視しているからだろう。住宅の広告に「心地よい空間を演出」などと書かれていると、つい贅沢な素材でできた床や柱などに目が行くが、優れた建築家は空間そのものを見ているのだろう。実際に人が住むのは何もない空間であり、居心地がよいかどうかはその空間しだいなのだ。ならば、と周囲を見まわして、雑然とした家のなかにため息がでた。何はなくとも、せめて空間くらい欲しいと思って、頑張って片づけてみたものの、空間を維持するのは容易ではないらしい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2009.8.3更新)







その116

 先日、ぼんやりと新聞のページをめくっていたら、マイケル・ジャクソンの追悼記事の横に、砂守勝巳という土門拳賞受賞の写真家の死を悼む記事があった。残念ながら、彼の生前の活躍を知っていたわけではなかったが、読んでみると、沖縄の米軍基地で働いていたフィリピン人軍属の父と、奄美大島出身の母のあいだに生まれた人で、父親はその後フィリピンに帰国したまま音信が途絶え、15歳のときに母親も亡くなったのだという。父に会いたい一心で、父の名を冠したリング名でボクサーになり、いつかフィリピンのリングに立とうと目論むが、その願いもかなわず、やがて写真家になったのだそうだ。

 写真集『漂う島とまる水』がいまも心に深く刻まれていると、九州産業大学の大島洋教授が追悼文に書いていたので、『沖縄 シャウト』という著書とその写真集を図書館にリクエストした。マットな黒の背景に、沖縄や奄美やフィリピンの日常の営みを写した小さめの写真が、ページの真ん中にではなく、妙に上下左右に詰めた位置にたっぷりの空間を残して並ぶ写真集は、余計なキャプションもなく黙々とつづく。南国の蒸し暑い空気やにおいが伝わるようなページを繰っていくと、ページ一面に老人の顔のアップがあった。苦悩する目がこちらを凝視する。少しあとのページには、やわらかい逆光のなかで若い女性が、これまたカメラをしっかり見つめて立っている。巻末の解説を読んで、やっぱりそうかと思った。会えたんだ、お父さんに。異母妹さんにも。

 あとから私の手元に届いた彼の著書は、こんな言葉で始まっていた。「誰しも強烈に忘れられない出来事が一つや二つはある。むろん、ぼくにもある。それらは記憶の底に小さい澱のように宿って、いつまでも消えない。けっして治癒することはない。そしてその『思い出』は何かをきっかけにことあるごとに噴出し、潰してもあとからあとからあたかも膿のようにわきおこってくる」。彼にとってそれは父親捜しだった。子供のころ、よく父親が釣りに連れて行ってくれたので、行方知れずになったあとも、彼は釣りに明け暮れ、青く広がる奄美の蒼海はフィリピンまでつづいているのだと考えていたという。

 人は誰でも、好むと好まざるとにかかわらず、双方の親から何かしら受け継いでいる。だから、不仲な両親を見て育てば、自分のなかに相容れないものが混在している不安を感じるし、見捨てられれば空虚感にさいなまれ、自分は親にすら愛されない価値のない人間なのだと思い込むようになる。親を捜しだしたところで、失われた時間はいまさら取り戻せない。それでも親捜しをするのは、子を見捨てるに至った苦しい事情を知り、弱点のある親を受け止め、自分の心の葛藤を克服するためだろう。

 砂守さんが父親の消息を知ったのは、フィリピンに住む顔も知らない17歳の異母妹が1982年に送ってきた手紙からだったが、実際に父親を捜し当てたのは、さらに何年ものちの1990年のことだった。父と別れたとき8歳だった少年は、38歳になっていた。「それがどんな形で、どのような結果になろうとも、それはそれでよかった」と覚悟を決めていた砂守さんを待ち受けていたのは、マニラの貧しい地区に住み、老いて家族の世話になるしかない父だった。「ダイジョービ、ダイジョービ」。「アンタ、イッショに魚釣りに行ッタノ覚エテイル?」。30年ぶりに日本語を話すお父さんのカタコトの台詞が泣けてくる。

 砂守さんは、再会時の父親の年齢に達することもなく、57歳でこの世を去ってしまった。人生のあらゆる苦しみを乗り越えてきた人だから、みずからの早すぎる死も、きっと淡々と受け入れていたのだろう。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2009.9.1更新)







3月にバンコク市内で見かけた
シキチョウ
その117

 ひょんなことから、子供のころ読んだ本を思いだすことがある。先日も、おぼろげな記憶をたどり、岩波の子どもの本シリーズをネットで捜していたら、懐かしい本が次々にでてきた。その一つが『九月姫とウグイス』。著者はなんと、サマセット・モームだった。いまでこそタイは私にとって身近な国になったが、25年前までタイについて私が知っていたことと言えば、このお伽噺だけだった。

 シャムの王家に王女ばかりが次々に生まれた。子供の名前をシリーズにしないと気がすまない王様は最初、「夜」と「昼」と名づけたが、さらに増えたために四季に変え、曜日に変えとしたあげくに、12の月の名前をつけ始めたところ、九月姫でようやくおしまいになり、あとは王子ばかり10人生まれて、こちらはAからJまでで事足りた、という設定で話は始まる。王様は自分の誕生日に周囲の人びとに贈り物をするのが好きで、ある年、金色の籠に入った緑色のオウムを9人の王女たちにプレゼントした。ところが、九月姫のオウムは死んでしまい、嘆いているところに、一羽の鳴き鳥が迷い込んでくる。九月姫はその鳥と仲良くなるが、あるとき姉たちの甘言に釣られて籠に入れると、鳥はだんだん元気がなくなり、ついに籠の底に横たわってしまう。九月姫の涙で息を吹き返した鳥は、自分は自由でなければ死んでしまうのだと言う。それを聞いた九月姫は、鳥を空に放ってやる。のちに美しく成長した九月姫は、カンボジアの王様に嫁いでいく、というあらすじだ。

 改めて読み返してみると、これはイギリス人のモームが創作したというより、何かの逸話をベースに書かれたように思える。この童話はもともと《ピアソンズ・マガジン》の1922年12月号に掲載されたようだが、モームはその年、ビルマのマンダレーからシャン州を馬で抜けて、チェンマイから鉄道でバンコクに向かい、翌年1月にオリエンタル・ホテルに投宿している。旅の途中でマラリアを患い、九死に一生を得たらしいので、そんな状況でいつこの童話を書いたのか、誰から聞いた話をもとにしたのか、興味は尽きない。

 子沢山のタイの王様といえば、「王様と私」のモンクット王がすぐに頭に浮ぶが、現在のチャクリ王朝は代々、ラーマ1世、42人、二世、73人、三世、51人、四世、82人、五世、77人と、二十世紀初頭の王様まで、お伽噺どころではない子持ちだった。王族だけでも一大エスタブリッシュメントだ。なかには后妃や側室が150人以上もいた王様もいた。どうやって19人も子供を産めたのかと、という子供のころの謎は、これで解決する。

 もう少し調べてみると、ラーマ1世の時代に、カンボジアのアン・エン王が一時期タイで囚われの身となり、ラーマ1世と養子縁組をして、のちにタイ人のロス妃を娶っていることがわかった。この二人のあいだの息子アン・ドゥオン王が、シアヌーク前国王の高祖父に当たるというから、シアヌーク前国王が九月姫の子孫……という可能性もまったくなくはない。もちろん、チャクリ王朝以前の王様がモデルということも、充分にありうる。

 肝心のウグイスのほうはどうだろう? 原文ではナイチンゲールだが、サヨナキドリはヨーロッパ、アフリカ、西アジアにしか分布しない。日本のウグイスも、タイにはいない。タイの鳥仲間に聞いてみると、市街地によくいて、よく通る澄んだ声で、さまざまな鳥の鳴きまねもするシキチョウではないか、とのことだった。

 タイには誕生日に当人がパーティを開くという習慣もあるようだし、籠にすし詰めにされたシマキンパラを放鳥する摩訶不思議な商売もあるので、このお伽噺のなかにはそうしたタイならではの風習がどことなく感じられる。シュリーマンのトロイではないけれども、子供のころに読んで不思議に思っていたことが、のちにわかってくるのは楽しい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2009.10.3更新)


『CO2と温暖化の正体』
ウォレス・S・ブロッカー/
ロバート・クンジグ著
内田昌男 監訳、
東郷えりか訳、 
河出書房新社
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その118

今年に入って初めての訳書が、先月ようやく刊行された。海洋のベルトコンベヤー説で有名なブロッカーの『CO2と温暖化の正体』だ。これまでの気候科学関係の訳書を、よくわからないと言いながら読みつづけてくれた母が、「キャンプ・センチュリーとか、ダンスガード・オシュガー・イベントとか、聞いたことがある名前がでてきたよ!」と、得意そうに話してくれたのが、ちょっとうれしい。

この分野の本はかなり訳したので、文系人間の私でもおよそのことは見当がつくようになったが、根本的な科学の知識が欠けていることと、数字に弱い点は、いかんともしがたい。このエッセイを書きながら、訳文を読み直したら、なんと間違いを見つけてしまった。「45リットル・タンクに詰めたガソリンはおよそ45キロの重さがあるが、それを燃やして炭素を酸化させると、135キロ以上のCO2が生成される。車にはそれだけのCO2を格納する場所はないし、もちろん、飛行機にもない」(14章、p303)という件だ。

 ガソリン1リットルを燃やすと、二酸化炭素が2360g排出されるというから、逆算すると、タンクは57リットルでなければならない。原書を確認すると、タンクは12ガロンとある。著者がアメリカ人なので、米ガロンだと思い込み、45リットルと訳したのが運の尽きだった。英ガロンなら54.55リットルで、まあ近い。1リットルのガソリンはハイオクだと780gらしいので、45キロで57リットル強となり、やはり辻褄が合う。単位の換算はこれだから嫌だ。やれやれ。編集者にお詫びのメールを書かなければ。この箇所を訳したとき、わざわざアイスクリームを買ってドライアイスの重さを確かめ、ついでに昇華したときの容量をビニール袋で試し、さらに庭のヤツデの近くで袋の口を開けたのに、なぜ肝心なことには気づかなかったんだろう? 水と油が同じ重さのはずがないのに。

 そう言えば、以前に訳した本の謝辞に、著者のフェイガンがこう書いていた。「おそらく近日中に、大小さまざまな間違いを指摘することを楽しむ親切な、そしてたいがいは匿名の人びとから、連絡をいただくだろうと確信している。彼らには前もって礼を述べさせてもらおう」。ああ、私も開き直るか。

 ところで今回の本では、大気中から二酸化炭素を回収して安全に貯留するという、驚くようなアイデアが提案されている。文明滅亡といった悲観論より、人類の知恵を絞って温暖化の危機に対処する方向のほうが、個人的には惹かれる。この画期的な処理方法の開発費は、ブロッカーらの研究に多くの私財を投じ、この本を執筆するためにプロの書き手であるクンジグを雇った実業家、故ゲイリー・カマーが捻出してくれたものだった。こういう財界人が絡んでくると、すぐに陰謀に違いないと勘ぐる人もいるようだが、研究するためにも、世界各地で取材をして本を書くためにも、それを支える資金がなければならない。理論を実践し、実用化にこぎつけるまでにも、多くの試行錯誤を経なければならない。

 CO2浄化装置にしろ、代替エネルギーにしろ、最初は雲をつかむような話だったに違いないが、それでもこういう難題に挑戦している人がいるというのは心強い。新技術を応援するために、カマーのように大金を拠出できる人はそういないだろうが、不完全な新商品を買って支えたり、代替エネルギーの開発に取り組む会社の株を買ったり、といった応援なら、できる人もいるはずだ。そんなことを考えて、私は試しにソーラーランタンという、ごく小さな商品を買ってみた。日向で6時間ほどニッケル・カドミウム電池を充電すると、LEDランプが6時間ほど点灯しつづける。少なくともクリスマス用の電飾などは、今後はすべてソーラータイプにすればいい。要は、世の中の人の考え方が少しずつ変わることだ。
(とうごう えりか)