【コウモリ通信】バックナンバー 2019年  東郷えりか(とうごう えりか)   

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コウモリ通信

東郷えりか(2019.01.06更新)




「明細」


幕末の分限帳


上田紬のはぎれを買って
先祖調べノートのカバーにしてみた。


その221

 年末年始、つかの間を母のところで過ごした。締め切りを年明けまで延ばしていただいた仕事がある手前、本来は寸暇を惜しんで見直しに励むべきところだが、正月くらいは息抜きさせてもらおうと、ずっとお預けにしていたことを楽しんだ。昨秋、上田市立博物館を訪ね、そこで閲覧させてもらった史料の解読だ。

 上田市立博物館に上田藩士の格禄賞罰の記録として「明細」という文書があることを、赤松小三郎研究会主催の尾崎行也先生の講演会で教わり、秋に仕事の合間を縫って日帰りで行って見せていただいたのだ。同館では閲覧できる史料は10点に限られるのだが、膨大なリストから必要な史料を探しだすのは容易ではない。遠方のため特別扱いということで20点選ばせていただいたが、現場で索引の巻を見たら巻が家ごとに分かれていることが判明し、結局、その場で入れ替えてもらった。

 石鹸で手を洗ったのち、腕時計もひっかからぬようはずしてから、事務室の片隅で寛文期の分限帳など、数百年は昔の古文書を恐る恐る開いた。和紙の保存状態はかなりよく、雁皮のような紙に書かれたものはとくに、虫食い一つ見当たらなかった。ページをめくって祖先と思しき人の名前を見つけるたびに、古いコンデジで撮影させてもらった。「明細」そのものは閲覧できたのは原本ではなく、マイクロフィルムの紙焼きを閉じた分厚いものだった。後日、撮影した大量の画像を多少整理はしたものの、パソコンの画面で拡大してみたところで、ミミズの這ったような筆文字から私が読み取れるのは年代と若干の固有名詞、それにいくつかの文字程度で、どれだけ眺めても肝心なことはわからない。

 ほんの150年までは、文字の読める人ならば基本的に読めたはずの崩し字だが、現代人にはある意味でヒエログリフよりも難解だ。そもそもどこに切れ目があるのかわからない。ネット上にあるくずし字解読ソフトや変体仮名の一覧などはそれなりに活用してみたものの、私がこの文書を読めるようになるには、シャンポリオンやジョージ・スミスのような才能と根気が必要だ。早々に諦め、フェイスブックで知り合い、まだお会いしたことすらないお友達で、以前にもいくつかの史料を解読してくださった方のご好意にすがることにした。

 今回、活字にしていただいたものを頼りに筆文字を一応はたどってみたが、よくまあこれを読んでくださったと、驚かされることばかりだった。「明細」に書かれた祖先の「初代」は分限帳でも同一人物らしき人が確認でき、そちらはかなり楷書に近い字だったので、てっきり「有右馮」かそれに近い名前だろうと思っていたが、「有右衛門」であったらしい。右衛門のような一般的な名前の崩し字は、独特のセットになっていたのだ。わずかな時間では全文の読みくらべは不可能なので、まずは活字にしていただいた内容の解読に専念した。それすら、理解できたのは半分くらいだろうか。

「明細」に記されたうちの祖先の項は元禄12(1699)年から始まっていたが、実際には宝暦4(1754)年生まれの4代目の時代に編纂が始まったと思われる。4代目のこの生年ですら、「戌三拾四歳」というわずかな文字を手掛かりに、FB友の方が編纂時から逆算して、干支から推測してくださったようだ。「明細」には藩士に登用された年月は書かれているが、生年の記載はなく、藩士で亡くなった没年しか書かれていないからだ。古文書の解読には相当な推理力が必要だ。そのためか、初代から3代目までは記述が少なく、有右衛門は元禄12年に中小姓で召出され「馬術申立」であったことしかわからない。それでも、私が最初に見つけた幕末の祖先は上田藩の馬役であったし、「明細」に書かれた祖先はすべて馬関係だったので、この初代が馬術関連の専門職として登用されたのは間違いないだろう。門倉という名字や言い伝えから、元々の祖先は上田ではなく、北関東の出身だったと思われる。明治期に曽祖父が各地の墓を整理して、新たに下町のお寺につくったと伝わる墓には、天和から元禄13年までの古い墓石が数基あるので、これらは上田藩に入る前にいた土地にあったのだろう。

 記述が詳しくなる4代目以降は、「賞」より「罰」を食らうことのほうが多かったと思われ、たびたび「不埒」や「不身持」で「御叱り」を受けて「閉門」、「閉戸」の処分を受けていた。数日から数十日間の蟄居を命じられていたのだ。4代目は気の毒に、倅の不身持で家老に呼びだされた際に「途中より差塞」(ふさがり)、翌日病死していた。母に伝えると、「読んでくださった方はさぞかしおかしかっただろうね」と苦笑していた。私の祖父などもいたずら坊主だったらしく、小学校の貴重なピアノに自分の名前を彫り、曽祖母が学校から呼びだしを食らったそうだ。一生消えない汚点だと先生からさんざん叱られたのに、「関東大震災でそのピアノは燃えちまったんだ」と後年、わが子たちに自慢していたというから、これもDNAなのかもしれない。

 代々の祖先はおおむね八石三人扶持など、かなりの薄給取りで、中小姓止まりだったが、それとは別に家督として七拾石ほどが相続されていたようだ。幕末の6代目伝次郎も、15歳で組外御徒士格となってまもなく「猥に在町え打越、為酒食」したほか、「口論」や「御政治等批判」など「身分不相応」なことをしてお叱りを受けているが、後年は馬術の「教授骨折」の功で「御酒吸物被下」ことが多くなった。彼は徒士頭格になり獨礼席まで昇格したので、出世頭だったようだ。それにしても、御酒はともかく「吸物」とは、えらくささやかな褒美に思えるが、これはとくに上田藩だけの習慣ではないようだ。年末にプリントアウトした文章を娘にちらりと見せたところ、「あっ、伝次郎さん、骨折している!」と言うのには笑った。古文書は難しい。

 伝次郎が元治元(1864)年9月に「西洋馬具御買入并馬療為取調、折々横浜表え罷越、蘭人え問合候様被仰付」という記述は重要かもしれない。従来、上田関係の資料は『上田市史』の記載を引いて万延元(1860)年にイギリスの公使館付騎馬護衛隊長のアプリンから西洋馬術を学んだとしていたが、アプリンの来日は1861年11月で、それ以前に短期間来日したとしても馬術を学ぶ余裕はなかったはずなので、元治元年になってからおそらく上田の生糸商人のつてなども使って、伝次郎がアプリンに接近したという私の当初の推測のほうが、結局は正しかったかもしれない。

「明細」から判明した大きな収穫は、7代目とされる正体不明の庄次郎が養子で、私の曽祖父が生まれたと推測される明治2年に「不熟に付」という言い訳のような理由で離縁されていたことだ。このため、曽祖父は伝次郎の年取ってからの息子という可能性が高まった。私の先祖探しも、おかげさまでだいぶ進展した気がする。今年こそ、この記録をまとめる時間が欲しい。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2019.02.01更新)




とうかん通り


湊橋


銀杏八幡宮・銀杏稲荷


日本橋小学校前の西郷隆盛屋敷跡

その222

「東京市日本橋蠣殻町のパン屋のおつねさん」

 これは子供のころに母から教わった手遊び歌で、一本指で、つづけて二本指で線を描いたあと、くすぐってからパンと叩き、つねって遊ぶ。母は神田小川町生まれの曽祖母から教わったようだが、検索しても、やや異なるバージョンのものが数件見つかるだけなので、ほんの一時期、ごく狭い地域で歌われたのだろうか。私にとってはこの歌のおかげで蠣殻町という名前は、物心がついたころから名前だけは知っている場所だった。勤めていたころは何かと東京シティエアターミナルやロイヤルパークホテルに行くことがあったので、頭上を走る首都高の陰になったような場所が蠣殻町で、がっかりした記憶がある。

 そんな蠣殻町一帯を、寒空の下に少しばかり歩いてみた。かつてここに、稲荷(とうかん)堀という細い堀割が日本橋川と並行してあり、その東側に姫路の酒井雅楽頭家の広大な中屋敷が江戸の初期から幕末まで存在したことを発見したからだ。稲荷堀跡は現在、とうかん堀通りとなっていて、そこに立つ説明板に転載された延宝年間(1673-1681)の古地図にも、この屋敷は描かれている。嘉永3年の地図を安政6年に再板した「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(東京都立図書館のページで見られる)では、この一帯は大名屋敷が立ち並ぶため蠣殻町の町名は見当たらないが、稲荷堀の文字の横にトウカンボリと書かれたすぐ上にカキガラ丁とある。この地図の最下部にある日本橋川に架かる湊橋だけは、いまも弁才船の浮き彫り付きのそれなりにお洒落な橋となって残るが、あとは見る影もなく、やや寂れた雑居ビル街が広がる。

 現在は首都高の向島線が上を通る薄暗い通りには、かつて箱崎川が流れており、稲荷堀が箱崎川に注ぐ場所は行徳河岸と呼ばれていた。徳川家康は江戸に居城を定めてすぐに塩を確保するためのルートとしていまの江東区を東西に流れる小名木川を開削させ、行徳から塩を運ばせていた。小名木川は、現在の江戸川と結んで利根川舟運の重要な区間にもなっていた。その重要な水運の終点がこの行徳河岸だったのだ。

 酒井雅楽頭家のこの中屋敷に興味をもった理由は、ここが上田藩主となった松平忠固の誕生の地だと思われるからだ。松平忠固は姫路藩主酒井忠実の十男として生まれ、上田の藤井松平家の婿養子となった。私が見つけた資料には、正確には「江戸浜町の藩邸に生まれる」と書かれていたのだが、前述の地図には、蠣殻町より少し東側の浜町には姫路藩邸は見当たらない。姫路藩主の子孫である酒井美意子の『姫路城物語』にも確かに、第6代藩主となった忠学が将軍家の姫を正室に迎えた際に、江戸浜町の中屋敷を増築したとある。姫路藩の史料である『姫陽秘艦』(一)をざっと目を通したところ、この喜代姫の輿入れに関連して、天保元(1830)年に浜町にある細川越中守の4,553坪の屋敷を借りたらしい旨が書かれており、これまで蠣殻町の中屋敷と呼んでいた場所を浜町中屋敷と呼ぶ云々とある。これらの情報を総合すると、一時期、浜町にも屋敷をもっていたのかもしれないが、忠固が生まれた文化9(1812)年はそれ以前なので、おそらく稲荷堀沿いの屋敷で生まれたのだと思う。

 この中屋敷の広さを実感したのは、行徳河岸から500メートル以上は離れた場所にある日本橋小学校の入口にある西郷隆盛屋敷跡の説明板を先に見て、そこから歩いたからだ。中央区教育委員会の説明板によれば、明治維新後、酒井雅楽頭家の中屋敷の北側部分、2,633坪が金1,586円で払い下げられ、下野するまでの一時期ここに西郷隆盛が暮らしていたのだ。昨年の大河ドラマでも、この屋敷と思われる場所に軍服姿で出入りする西郷が描かれていた。西郷「吉兵衛」は一橋派として裏面工作に奔走するなかで、敵視する松平忠固の動向を懸命に探っていた一人だ。西郷はここで忠固が生まれたことなど知る由もなかっただろうが、忠固の生家に西郷が住んでいたとは、明治維新を象徴するようで興味深い。司馬遼太郎は払い下げ価格を250円だったと書いているようだが、説明板を信じるとすれば、現在のお金で約600万円になる。いずれにせよ破格値ではあっただろう。ちなみに、南側の敷地は、『川と堀割"20の跡"を辿る江戸東京歴史散歩』によれば、13,989坪あったという。

 同書によれば、この一帯にはもともと陸奥磐城平藩安藤対馬守の広い屋敷があったそうで、蠣殻町の交差点付近にある銀杏八幡宮に合祀された銀杏稲荷は、安藤家の氏神だったらしい。安政6年の絵図に「安藤」とだけ書かれた対馬守の屋敷の隣に「イナリ」とあるのがこの神社だ。安政の大獄後に幕府を率いた安藤信正は、忠固の実家のお隣さんだったのだ。忠固同様、開国に舵を切った時代に老中を務め、安藤信正とともに混乱期を歩んだ関宿藩主久世広周の中屋敷も、埋め立てられてしまった箱崎川の「対岸」にあった。関宿は千葉県の北西の角部分の江戸川と利根川の分岐点にある。やはり老中仲間の佐倉藩主堀田正睦の上屋敷も浜町にあった。佐倉はやや離れているが、印旛沼を経由して利根川にでていたようだ。水運の要衝に屋敷を構えていた彼らが、無謀な戦を避け、開国して貿易をする道を選択したのは、無縁ではないだろう。

 ところでこの日、蠣殻町に行く前に九段下の千代田区役所に立ち寄った。曽祖母の除籍謄本が取れるか試してみたのだ。だが案の定、旧神田区は関東大震災のときに大正3年以前の除籍簿・原戸籍簿等が焼失しており、曽祖母の記録は失われていた。ところが、1月の寒い土曜日の午後で区役所が空いていたおかげか、職員の方が熱心に調べてくださり、曽祖母の父親の名前が、長男の記録に付随して残っているのを発見してくださったのだ。その結果、弘化4(1848)年生まれの高祖父と、嘉永2(1849)年生まれの高祖母のことが少しばかり判明した。材木商だったと伝わるほかは、写真が一枚と葬儀の写真が残るだけだったこの高祖父は、なんと尾張国海東郡勝幡村の出身だった。調べてみると名古屋の西の郊外で、木曽川からさほど遠くない場所だった。木曽川はもちろん、江戸の材木の最大の供給地だ。幕末まで譜代大名や旗本の屋敷があった神田小川町に、高祖父は明治8(1875)年に移っており、それ以前は深川熊井町にいた。現在の江東区永代1丁目の永代橋のたもとから南にわずかに下った辺りの隅田川沿いだ。古地図では付近には木置場がたくさんあるので、材木商ならではの立地だ。明治になってこれらの大名屋敷が取り壊されると、跡地に細々とした建物をつくるために大量の材木を提供して儲け、自分も稲葉長門守の屋敷跡の一角に新居を構えたに違いない。明治維新は革命だったのだと、古地図を見るたびに思う。

 ついでながら、靖国通りをもう少し淡路町方面に進んだ、現在はかんだやぶそばがある付近に、一時期、上田藩の昌平橋の上屋敷があったという。忠固の大叔父で江戸琳派の祖と言われる酒井抱一も、神田小川町の姫路藩別邸にいたようだが、正確にどこかはわからなかった。少し暇になったら、またあちこち歩いてみたい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2019.03.01更新)




わが家の抱っこ紐の歴史



その223

 以前、大英博物館の『100のモノが語る世界の歴史』の仕事をした際に、東アフリカのオルドヴァイ峡谷で見つかった握り斧のつくられた過程と言語の発達を関連づける説があることを知った。道具をつくるのに必要な脳の領域と言語を司る領域が重なることから生まれた説だという。訳した本人が言うのも変かもしれないが、職人などは言葉を介さずとも、師匠のやることを見よう見真似で覚えることも多いはずなので、個人的にはこの説にはあまり納得していなかった。

 ところが、現在翻訳中のフェミニズムと科学の本によると、人間の言語はむしろ母子間で発達した可能性が高いと近年考えられ始めているようなのだ。正確には、この本は道具づくりではなく、「狩猟者の男たちが人類の意思伝達を発達させ、脳のサイズを変えたという人類学者の考え」に疑義を呈している。石器づくりにせよ、狩猟にせよ、総じて男性の活動と関連づけられるものだ。それにたいし、言語は育児のなかで進化したと言われれば、本能的にも、自分の子育ての経験からも、あれこれ説明されるまでもなく、私にはすんなりと受け入れられる。自分の意思を少しだけうまく伝えられる赤ん坊が長い歳月のあいだに、より言語の発達した人間となって生き残ったという仮説には、考えさせられるものがある。乳幼児の虐待はたいがい、何が不快なのか自分でもわからず、うまく伝えられない赤ん坊がひたすら泣きわめくために、心のゆとりのない育児者側が苛立って引き起こされる。不快な状態が長引いて、子供が我慢の限界に達する前に、その原因が空腹なのか、眠いのか、オムツが汚れているのか、ガスが溜まっているのか、不安なのか、寒かったり暑かったりするのか、といったことを大人がうまく察してやり、それを繰り返し問いかける。こうしたやりとりこそが、言語を発達させたに違いないと、私などは思う。

 そもそも人類が最初につくった道具は石器ではない。ただ何万年もの時代を経て残ったのがこれらの耐久性のある人工物であったという、これまた見落としがちな点も、このフェミニズムと科学の本は教えてくれる。考古学が残された物や遺構だけを調べても、それは過去の一面を見ているに過ぎず、実物としては残らなかった物の存在は、絵や言語、伝承など間接的な手段から推測するしかない。

 人類が石器以前に発明したものの一つは意外なようだが、食べ物を探して歩き回る際に赤ん坊を運ぶためのスリング、つまり抱っこ・おんぶ紐だろうと推測する人類学者がいるという。その形態は場所によってさまざまだっただろう。「100のモノ」に関連して2015年に開かれた大英博物館展では、オーストラリアのアボリジニの編み籠が展示品の一つに選ばれていた。籠そのものは19世紀末から20世紀初頭につくられたものだが、似たような円錐形の籠の紐部分を額に掛けて運ぶ女性の姿が2万年前の岩絵に描かれていた。実際には何万年も前の物ではない近代の後継種を展示することに、当時はやや疑問をもったが、籠や筵、縄のようなものは人類が最初につくった物であり、そのことを忘れないためには必要な措置だったと思う。『大草原の小さな家』には、先住民のオセージ族がカンザスから移動させられた際に、馬の脇腹に吊るされた籠に小さな子供が乗っていた光景が描かれていた。アボリジニの祖先が籠に赤ん坊を入れていた可能性もあるだろう。

 抱っこ紐やおんぶ紐が人類最古の道具の一つであったかもしれないと読んで、思わずワクワクしたのは、一週間に何度かはそれを使って、おばあさん仮説を立証すべく、というよりは応援すべく、役立つばあさんを演じているからだ。うちの近所はあまりにも坂道が多く、ベビーカーがまともに使える道は限られている。娘一家のところまで往復しようものなら、よほど遠回りをするか、ベビーカーをジェットコースターか登山鉄道に変身させなければならない。図書館の本を借りに行ったり、銀行や郵便局に寄ったりといった用事のついでに、小一時間ほど散歩と称して孫を連れだすには抱っこ紐に限る。本人は20分もすれば寝てしまうから、これは赤ん坊のためという以上に、その間、娘が家で仕事に専念できるようにするためだ。昔、うちの「お隣のおばちゃん」が洗濯屋や銀行に行くついでによく幼児の娘を連れだしてくれたのは、子守をしてくれていた母がその間に少しでも用事を済ませられるようにという配慮からだったに違いない。こういう子育て支援についても、この本はじつに考えさえられることが多々書かれていたので、いずれまた取り上げたい。

 ところでこの抱っこ紐、私が子育てをしていたころはカドラーと呼ばれ、胸のところでバッテンにする昔ながらのおんぶ紐に代わる、目新しい育児用品だった。その昔、私自身が赤ん坊だったころも、母は当時流行ったという網タイプの抱っこ紐を使っていたので、抱っこ派は1960年代にはいたことになる。いまもこういうメッシュの抱っこ紐は蒸し暑い日本の夏をやり過ごすのに欠かせない用品として存在するが、その多くはフランスで1970年代に開発され、「トンガ・フィット」の名前でロングセラーになっている商品と思われる。私がカドラーだと思っていた抱っこ紐は、いまはキャリーあるいはベビーキャリアと呼ばれることが多く、それ以上に、日本上陸10周年の「エルゴベビー」が、ゼロックスや宅急便のように、普通名詞化しそうな勢いらしい。娘たちが買ったのもこのエルゴで、最近では父親がこれで赤ん坊を抱いている光景をあちこちで見る。時代は変わった。ハワイ生まれというこの製品はえらく頑丈でごつく、着脱がやや難しいためか、祖父母の世代がこれで子守をしている姿を近所で見かけたことはいまのところない。ねんねこ半纏におんぶ紐の時代には、祖父母が活躍していたはずなのだが。そのせいか、私がエルゴを使っていると、何をかかえているのかと怪訝な顔で通りすがりに覗き込む人がときおりいる。

 網のトンガや、アフリカ風の布を巻きつけるベビーラップと呼ばれる抱っこ紐はスリングに分類され、エルゴに代表されるようなバックルでカチッと留めるキャリーとは区別されるらしい。最近、新聞で読んだ子連れ出勤の記事では、お母さんたちが二人ともスリングで赤ちゃんを抱っこしながら仕事をしていた。これらは、アンジェリーナ・ジョリーなど欧米のセレブが使って普及したらしい。

 こんなことをくだくだと書いたのは、ひとえにスリングという言葉をどう訳すべきか悩んだからだ。子育て世代には「スリングでしょう」と言われそうだが、一般の日本人には人類最古の道具がスリングと言われても、なんのことやらさっぱりになる。結局、前述の「抱っこ・おんぶ紐」という読みづらい言葉に、スリングとルビを振る、冴えない対応しか思いつかなった。カタカナ語の氾濫を食い止めるために、一翻訳者ができることは限られている。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2019.04.01更新)








その224

『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』(平凡社、2006)という本を図書館で借りたところ非常におもしろかったので、古本を購入してみた。犬塚孝明氏の書かれたものはいくつか読んだことがあり、いずれも示唆に富むおもしろい内容だったが、本書もその期待を裏切ることのないものだった。旧蔵アルバムというのは、共著者の石黒敬章氏の父上が古書市か古書店で入手した5冊のアルバムのことで、イギリス製革表紙の重厚なアルバムのなかに、カルト・ド・ヴィジット(cdvの略称で知られる)が約400枚ぎっしり詰まっていた。そのうちの3分の2 が肖像写真という。これは名刺サイズの厚紙に薄い鶏卵紙に焼きつけた写真を貼り合わせたもので、写真が普及しだした1860年代から名刺代わりに、あるいは有名人のブロマイドや絵葉書代わりに大量に生産され、ヴィクトリア朝時代のイギリスでは客間にかならずこうしたアルバムが置かれ、カルトマニアと呼ばれる蒐集家まで出現するほどだったそうだ。元祖ポケモンカードというよりは、むしろ元祖フェイスブックのようなもので、自分の交流範囲や渡航履歴をさりげなく示すものだったのだろう。

 名刺のように、数十枚単位で印刷されたはずのカルトだが、森有礼のアルバムに残されたものしか現存しないもののも多いと思われ、アルバムを最初に手にしたときのお父上の興奮ぶりが目に浮かぶようだ。裏面に森が名前をメモしていたり、当人の署名やメッセージが書かれていたりするものもかなりあるが、薩摩や長州からの留学生の研究をされた犬塚氏が、方々の記録と照らし合わせながら人物を特定したケースも多々ある。時代背景を説明しながら、膨大な数のカルトの人物を紹介する解説は、画像の助けを借りて大量の登場人物を頭に入れ込むには最適のものだ。

 この本を手に取る直接のきっかけは、アメリカのラトガーズ大学に残された日本からの留学生写真に写る人物を特定したかったためだった。幕末の1866年に密航した横井小楠の二人の甥に始まり、同大学には明治初期にかけて大勢の日本人留学生が詰めかけた。それもこれも、開国後まもない日本に最初にやってきた宣教師たちの多くがアメリカ・オランダ改革派で、とりわけ長崎にあった佐賀藩の致遠館で教えていたフルベッキが、自分の属する宗派の学校に留学生を送る便宜を図ったからだ。同大学があるニュージャージー州ニューブランズウィックのD. Clark写真館撮影とわかるカルトを集めたページには8枚が並ぶ。海援隊にいた菅野覚兵衛や白峰駿馬、元薩摩藩士の最上五郎に井上良智、薩摩の支藩である佐土原からの平山太郎と推定される人物の横にいる華奢な若者は、まず間違いなく勝海舟の息子の小鹿だ。小松宮と推測されていた人物は、白峰、菅野と三人で撮影された写真や、ラトガーズの集合写真の一枚に写っている体格のいい男性に似ている気がする。小松宮であれば上野公園の騎馬像の人だが、この時期イギリスに数年間留学していたことしかわからなかった。

 私にとって気になるのは、南部英麿、14歳と書かれた一枚だ。盛岡藩主の次男に生まれ、のちに大隈重信の養嗣子となり、早稲田の前身の学校の初代校長となる人物で、華頂宮博経に嫁いだ姉とともに渡米している。その随行員であった元岡山藩士の土倉正彦のカルトも同じページにあるので、時期的にも、後年の写真と比較しても、このカルトの若者は南部英麿の可能性が高い。彼の名前は1872年のラトガーズの集合写真のなかの人物としてもよく挙げられている。悩ましいのは、南部英麿が面長の端正な顔に目立つ大きな耳をしていて、若い時分はとくに、上田藩の最後の藩主で、この年にラトガーズに留学した松平忠礼とよく似ていることだ。英麿のほうが二重のせいか表情が柔和であり、耳も忠礼ほど妖精のように突きだしてはない。集合写真から細部を判断するのは困難で、渡航時期や撮影時期を詳細に検討するしかない。

 同書には同じ写真館で撮影されたカルトとしてほかにも、岩倉具定・具経兄弟や、二人に随行した折田彦市、山本重輔のカルトもある。鉄道技師となった山本重輔は、碓氷峠の列車逆走事故で息子とともに落命した人だが、彼の顔を見た途端、思わず声を上げた。1867年に福井藩からラトガーズ大学に留学し、卒業を前にして結核で客死した日下部太郎の墓前に写る4名の留学生のうち、跪いている人物とそっくりだからだ。小鹿に随行した高木三郎と薩摩の畠山義成の名前は判明している。残る1名は薩摩の吉田清成と私は見ている。森有礼のアルバムにはもちろん全員が含まれていた。

 貴重な写真が惜しみなく掲載されているだけでなく、同書の記述もじつに興味深い。森有礼は、これまでも国語教育や木挽町の豪邸などに関連して、少しばかりその業績は知ってはいたが、1874年に『明六雑誌』に発表された彼の「妻妾論」に関する考察がとくにおもしろかった。その翌年、広瀬常と日本で最初に契約結婚をしたことで知られる彼の「妻妾論」は、「近代的婚姻観に基づく最初の一夫一婦論であったばかりでなく、男女の対等、女子教育の必要性を説いた斬新な女性論でもあった」。森有礼の「妻妾論」そのものは読んでいないので、犬塚氏の解説の受け売りだが、「女性も男性と同じく、優れた教育を受けねばならない。女性が妻として家を守り、母として子を育てるの責任は重い。一に国家の発展と文明の進歩に直接つながるものだからである」という趣旨のようだ。ウィキペディアの「明六雑誌」の項には、「森の眼には、日本における妻妾制・妻妾同居は不自然極まりないものとして映じた」と書かれている。この後、1882年には妾という存在は少なくとも法的には認められないものとなったそうだ。森夫婦は愛らしい子供たちに恵まれたが、11年後に離婚した。有礼はその後、岩倉具視の5女寛子と再婚したが、2年も経ずして暗殺された。

 彼の「妻妾論」は、男女の平等、女子教育といった観点からは、大いに評価できるが、一夫一婦制そのものがブルジョワ階級の台頭と私有財産制と切り離せない制度であることは、一度じっくり考えてみる必要がありそうだ。翻訳中の科学と女性差別に関する本にも引用されていたフリードリヒ・エンゲルスの次の言葉が思いだされる。

「男性は家庭でも指導権を握った。女性は貶められ、隷属状態に陥らされ、男の欲望の奴隷となり、子供を産むための単なる道具となったのだ」。「私有財産をもつ家庭では、〈不貞を働く権利〉は一方的に男性の特権」であると、エンゲルスが指摘したとおり、表向きは文明化された日本の結婚制度下でも、権力者は愛人を何人も囲っていた。上田の松平忠礼も帰国後、最初の妻と離縁して後妻を迎えたうえに、側室もいたようだ。ヴィクトリア朝時代のイギリスも、実態はさほど変わらなかったのだろう。薩摩密航留学生として17歳で渡英した森有礼は、妻妾論の是非はともあれ、思考面で西洋化した、もしくはその理想に共感した最初の日本人と言えそうだ。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2019.05.03更新)




『科学の女性差別とたたかう』とその原書(左)



その225

 先月『科学の女性差別とたたかう:脳科学から人類の進化史まで』という拙訳書が作品社から刊行された。コウモリ通信で何度か、フェミニズムと科学の本と書いてきたのがこの作品だ。著者、アンジェラ・サイニーは、二歳児を育てながら取材や執筆活動をこなす若い女性科学ジャーナリストだ。インド系イギリス人である彼女は、工学者の父親の影響もあって自然とリケジョになったようだが、インド、イラン、中央アジアなどは女性の科学者や工学者の割合が欧米諸国よりも高いのだという。女性を隠すパルダの習慣が根強い地域にしては意外な事実だ。

 私は自分の世界を広げるために、ジャンルを特定せず、多くの分野の翻訳に取り組んできたつもりだが、フェミニズムもジェンダー論もじつはこれが初めてだった。縁がなかったというよりは、敬遠していたのかもしれない。今回の本はフェミニズム特有の言葉が当然ながら多く含まれ、女性の会話文も多かったため、訳語をめぐっては編集者と三校の最後の最後までバトルがつづいた。

 フェミニズムをどう思うかは、思春期や学生時代をいつどこで過ごしたのかで、大きく左右されるのではないだろうか。改めて考えてみると、私は『メリー・ポピンズ』のミュージカル映画に登場するバンクス夫人の歌、「シスター・サフラジェット」(「古い鎖をたち切って」という邦題で知られる)のイメージを多分に刷り込まれていたのだろう。たすきをかけてデモ行進する女性参政権論者を、女性らしい愛らしさとユーモアを兼ね備えたメアリー・ポピンズと好対照に描いたものだ。「一人ひとりは大好きだけど、集団になると男は何やらバカだと思う」と言い、マンカインドならぬ「ウーマンカインド、立ちあがれ」と、共産主義宣言を思わせるフレーズまである。テレビの初回放送は一九八六年だそうなので、私がサフラジェット(suffragette)という英単語そのものを最初に知ったのは、デイヴィッド・ボウイの「サフラジェット・シティ」だったようだ。この曲の歌詞はいまでもよくわからないが、やわらかい腿で彼を誘惑し、女の性解放を象徴する「彼女」を、「サフラジェット・シティ」と表現したのではないか。

 ウーマンリブ運動の全盛期は、まだ子供だったのでよく知らない。都市郊外の新興住宅地が多い船橋市で高校まで男女共学のごく普通の公立の学校に通い、大学は帰国子女の多いむしろ女性優位の学科で学び、成人すれば選挙権は自動的にもらえ、男女雇用均等法もタイミングよく改正されて大卒女子にも採用門戸は開かれており、会社員時代も強い女性の多い職場に配属され、子育てと仕事の両立という苦労はいやというほど味わったとはいえ、これまでの人生で女であるがゆえに悔しい思いをしたりした経験が少ないのだ。ついでに言えば、子供時代に「女の子だから〇〇しなさい」と言われたこともない。正直言って、フェミニズムへの関心は非常に低かった。

 数年前、『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』(トリストラム・ハント著、筑摩書房)を訳した際に、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』がフェミニズムに大きな影響を与えたことを初めて知った。未開社会のほうが、ヴィクトリア朝時代の文明社会よりも女性は自由であり、尊重されていたことを指摘した彼は、「育児や養育が公共の業務となる」ことの重要性を説いた。ところが、「目的意識をもった聡明な女性で、可愛くもなければマルクス姓でもない人たちは、エンゲルスによる女嫌いのいじめの対象」となっており、彼が「女性の権利についてやかましく叫ぶ、これらの小さいご婦人方」が苦手であったことも同時に知り、苦笑した記憶がある。

 だがフェミニズムとは、たすきをかけて拳を突き上げるバンクス夫人や、あの歌に登場するパンクハースト夫人のような爆弾テロも辞さない過激な活動家の運動だけを指す言葉ではないし、フリーセックスを奨励しているわけでもない。『メリアム=ウェブスター大学辞典』など主要な英語の辞書の定義によれば、フェミニズムは男女の政治的、経済的、社会的平等を主張する理論なのだ。それに反対する理由があるだろうか? そう言えば、エマ・ワトソンが二年前に国連で同様のスピーチをしていた。フェミニズムは女性だけのためのものではない。男はこうあるべきと決められた社会で生きづらさを感じる、多くの男性をも救うものなのだ。

 ところが、日本ではフェミニズムは一般に女権拡張論、女性解放思想とされている。これらの言葉が近寄りたくないウーマンリブの闘志を連想させてきたのだ。拡張も、解放も、女性を現状に押し込めておきたい側からすれば、自分たちの既得の権利を侵害される言葉に聞こえ、余計な警戒心を生むばかりだ。敢えてその効果を狙って、名づけられたのかと勘繰りたくなるほどだ。

 男と女は根本的にまったく違うと考えている人は多いと思うが、本書は人間では生殖器官以外には生まれながらの男女の違いはほとんどなく、とりわけ脳には性差がないのだと主張する。成長した男女に見られる性差の多くは、生まれより、育ちによる社会的なものに起因するのだという。本書では、脳科学や遺伝学、内分泌学といった医学系の分野から、進化生物学や霊長類学、人類学など多岐にわたる観点からこうした問題に鋭く切り込む。それぞれの分野の研究者が真剣に再検討し、著者がインタビューをしたフェミニスト側の研究者たちの見解を再確認するなり、反証をあげるなりしてくれることを期待したい。本書はさらに、多くの科学分野で、研究者自身が男性であるがために見落とされ、偏った見方がなされ、場合によっては歪曲されてきたことも冷静に示す。チャールズ・ダーウィンはクジャクの雄の飾り羽がなぜあれほど豪華に進化したのかを説明するために性選択の理論を考えだしたが、彼が本当に証明したかったのは、つまるところ、男性はより多くの選択圧を受けて進化したため、女性よりも優れているということだったようだ。

 本書の原題は、そうした男性側の往年の主張にたいする皮肉からか、INFERIOR(劣っている)という昨今流行りの短いタイトルが付けられていた。「劣等」などと言われれば、どんな女性でもカチンとくるのではないだろうか。英語の原題をそのまま使う案や、扇情的な「劣等」、「劣位」などの言葉を使うことなども検討したが、「科学の女性差別とたたかう」という平易な邦題に落ち着いた。オフィスキントンの加藤愛子さんが、この原題を銀色で入れたかっこいいブックデザインを考えてくださったので、原題も活かすことができた。ソフトカバーながら、書籍を愛する人たちの思いがこもった、読んでみたくなるいい仕上がりの本になったと思う。書店で見かけたら、ぜひお手に取っていただきたい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2019.07.13更新)




『写真集 尾張徳川家の幕末維新』




「コロジオン伯爵がパンチ・センセイにアルバムを贈呈」と書かれた戯画
(『The Japan Punch』2より)


その226

 少し前のことになるが、『写真集 尾張徳川家の幕末維新:徳川林政史研究所所蔵写真』(吉川弘文館)という大型写真集を図書館から借りてみた。尾張藩主であった徳川慶勝が幕末から写真術にのめり込み、みずから撮影した大量の貴重な写真が残されていることを知ったのは、『葵の残葉』(奥山景布子著、文藝春秋)という小説を読んだからだった。当初の私の目的は慶勝の異母弟である桑名藩主の松平定敬について知ることだったので、写真集はついでに借りてみたようなものだ。ところが、じつに驚くべき発見が多々あって、それについてはいろいろ調べてからいずれ書くつもりだが、もう一つ写真集の巻末に「翻刻史料 徳川慶勝の写真研究書」という地味な、ただし非常に貴重な史料があったので、それについて今回は書いてみたい。

 初めに断わっておくと、私は自分で写真を現像したこともなく、まして幕末や明治初期に撮影された古写真の技術については若干の説明を読んだに過ぎず、以下は私が理解した限りのことだ。当時主流だった方法は、ガラス板にコロジオン溶液を塗ってから、硝酸銀液に浸けて感光性をもたせ、これがまだ濡れているうちに写真を撮影するため、湿板技法と呼ばれる。慶勝の自筆の研究記録には、当然ながらまず「コロヽシヲン 合薬如左」としてこの溶液のつくり方が記されている。「ヨシウム 四文目、アーテル 十六ヲンス、アルコール 十六ヲンス、シキイトカツウン 二匁七分二厘」といった調子だ。アーテルはエーテルだろうと想像がついても、ヨシウムやシキイトカツウンはなんだろう。少しあとのページに「貼紙」の単語表があり、「jojum イオヂウム」、「Schiet katoen シキートカツウン」などと書かれているので、ヨシウムはjodium、つまりヨウ素で、シキイトカツウンはschietkatoen綿布らしいことが、グーグル翻訳等からわかった。

 興味深いのは、慶勝がこう書いていることだ。「是迄ヨシウム曽達ヲ用ヱ。蘭名ノ方蘭字ソータニテ、三伯書ハホツタースト認誤也、ホツタースヨシウムハ無益。ホツタースハ草木ノ灰 曽達ハ海草也」。ちんぷんかんぷんで読み飛ばしたくなる部分だが、『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』(ダートネル著、河出書房新社)を訳した際にアルカリのつくり方を知識としては学んだので、草木ノ灰、海草の文字から、ホツタースはカリ、曽達はソーダだろうと見当がついた。実際、ネット上で湿板技法について調べると、コロジオン溶液にはヨウ化カリウムが使われているので、慶勝はここでヨウ化ナトリウムではなく、ヨウ化カリウムを用いるべしと言いたかったのかもしれない。

 コロジオン溶液にはさらに「カトミーム フロミーム」つまり臭化カドミウムなども手順どおりに混ぜなければならず、「先アーテルアルコールヲ交テ一両日ヲキ、フラントカツウンヲ入ヘシ、忽消散、一両日過ヨシウムヲ入ヘシ、六十時ノ間閉口ス」といった具合に、完全に混ざるまで手間暇かかるものだったが、ネットで調べたところ、出来上がった溶液は透き通ったレモンイエロー色になるらしい。  横浜開港後まもなく来日し、多くの写真を残したフェリーチェ・ベアトは、親友の画家ワーグマンの漫画雑誌『ジャパン・パンチ』のなかに「コロジオン伯爵」というキャラクターで登場する。彼もまたこの面倒な手順を踏んで、せっせとこの溶液を調合していたのだろうか。

 慶勝の研究書は、硝酸銀にガラス板を浸けるための容器の図や、「画ヲ鏝(こて)ニテ温ム」と書かれた何やら可愛らしい図などもあり、徳川御三家筆頭の当主が、こんなことを熱心に本格的にやっていたというのは意外だった。安政の大獄で隠居謹慎を命じられていたあいだに研鑽を積んだのだそうだ。水戸の徳川斉昭の甥に当たる慶勝は、かなり強硬な攘夷論者だったが、西洋の技術の解明に取り組んだ一面もあったわけで、そこから学んだものは大きかっただろう。

 湿板技法では撮影後のガラス板はネガとなる。ベアトなどはもっぱらそれを鶏卵紙に何枚も焼いていたが、ガラス板そのものの裏面を黒くすると、銀を含んだ感光部分が白くなってポジ画像に見えるので、それをそのままオリジナル一枚だけの写真として鑑賞するアンブロタイプもある。単純に裏に黒い布を敷くこともあったようだが、慶勝は「右ヲ(没食酸二合〆)陽画ニ用レハ黒色ヲナス」と書いているので、裏面を黒く塗っていた。没食子インクのつくり方も、前述のダートネルの書で学んだが、このインクは幕末の日本でも知られていたのだろう。いくつかの材料の調合リストを書いて、出来上がりの色が「黄ニシテアメ色」や、「薄紫色」、「白色ニテ不宜」などとも記している。白黒写真でも写真家ごとに色合いの違いがでたのだ。

 慶勝のこの研究書にこれほど興味をもったのは、尾崎行也氏の「幕末期上田藩士の西洋受容──写真術を中心に」(『信濃』第50巻第9号)を読んだためだった。上田藩の大野木左門は尾張の阿部柳仙という人物から手ほどきを受けたのち、日本最初の商業写真家と言われる鵜飼玉川とも書簡のやりとりで、「ハイボウ」は「炭酸曹達より炭酸一トアトムを減候品」などと、意味不明な説明を受けたりしていた。慶勝は「ハイボヲ」について「次亜硫酸曹達液ノ代ニ用ヒテ宜」と書いているので、次亜硫酸ナトリウム(sodium hyposulfite、Na2S2O4)の代わりの薬品と考えていたようだ。実際には、英語の名称からわかるようにこれが本来「ハイポ」と呼ばれるべき薬品で、漂白剤などに使われるものだが、写真の定着剤として使われるチオ硫酸ナトリウム(Na2S2O3)になぜか「ハイポ」の呼称が「定着」してしまったらしい。こちらは酸素原子が一つ少ないので、鵜飼玉川はそれを説明したつもりだったのだろうか。写真業界のこの混乱が、幕末に始まったものであることがわかりじつにおもしろい。

 裏面を黒くする以前のガラス板の画像はネガであるだけでなく左右が反転しており、そのまま裏面を黒くすると逆版に見える。しかしガラス板なので、厚みで多少画像がぼやけたとしても単純に裏側を表と見なせばよいらしい。慶勝が撮影した初期の写真なども、着物の合わせや刀の位置は間違っていない。しかし、大野木は玉川に、女子は撮影時に襟を反対に合わせれば済むが、男子の場合、脇差しを逆には差せないと言わんばかりに、「然りとて画之裏よりゑの具をさし候事」は難しく、どう対処すればよいのかと質問している。画像はヘリニスなりエルニスなりでコーティングすれば問題がなかったと思われ、慶勝はその「陽像薬」の成分をアルコール、コハク、石脳油とする。こうして双方を読み比べると、ちょうどロゼッタストーンの解読のように、何かしら見えてくる。ぜひ写真の専門家に初期の写真術を読み解いてもらいたいものだ。
(とうごう えりか)









コウモリ通信

東郷えりか(2019.08.10更新)




「庶民のアルバム 明治・大正・昭和」に
掲載された騎乗姿の松平忠礼の写真





『上田郷友会月報』にあった
門倉伝次郎の写真





村田靴店で見せていただいた
松平忠礼の写真





上田の願行寺にある
松平忠固のお墓
その227

 いまを逃したら、また当分行けない。昨年から働き詰めで少しは骨休めもしたいところだったが、そんな思いに駆られて、訳了後、上田まで短い調査旅行にでかけてきた。幸い、急なお願いをしたにもかかわらず、お話を伺いたかった先生方とのアポイントも取ることができ、これ以上、望めないほど凝縮した実り多い二日間となった。

 上田に着いて真っ先に向かったのは、グーグルマップで見つけた海野町の村田靴店だった。最後の上田藩主松平忠礼の馬具の一つで、鞍の下に敷く泥障(あおり)が、この靴店に保存されていることを知ったからだった。昭和の初めに書かれ、のちに『上田藩松平家物語』として編纂された松野喜太郎の本にその記述を見つけ、現物が残るのであれば見たいと思ったのだ。上田の中心にある商店街に「創業明治20年」のそのお店はまだ存在し、店内にいらしたご高齢の店主にお尋ねしてみると、なんと上田に残る数少ない旧藩士のご子孫で、私の祖先同様、江戸詰めだったとのことで話が弾み、お父上の書かれたご本まで頂戴してしまった。残念ながら泥障そのものは、「お城に寄贈した」とのことで見られなかったが、店内には私がこのところずっと所在を確認して回っていた上田藩関連の写真の焼き増しも飾られていた。

 今回初めて、松平忠固の遺髪・遺歯を納めた願行寺のお墓にも詣でることができた。明治4年建立の墓碑が脇にあったが、帰宅してから墓石の画像を画面で拡大してみると、亡くなった安政6年の11月に分骨のような形で上田に建てたものであることがわかった。虎ノ門の天徳寺にあった本来のお墓は、関東大震災後この敷地が整理・再開発された際に改葬されてしまったものと思われる。『上田藩松平家物語』からは、上田藩に最初に召し抱えられた祖先が宝永3年に、上田の七軒町北側西ヨリ一に住んでいたこともわかっていたので、いまは静かな住宅街になっているその一角も歩いてみた。上田市内はどこもノウゼンカズラが見事に花盛りだった。

 大収穫があったのは、なんと言っても上田市立上田図書館だ。地元史に関して多数の論文を書かれている尾崎行也先生が、お会いする場所としてここの小会議室を用意してくださったおかげで、限られた時間のなかで相当な量の史料を調べることができた。尾崎先生の論文等で、明治初期に書かれた『上田縞絲之筋書』という史料に私の幕末の祖先、門倉伝次郎も登場することがわかっていたので、大正時代に抄写された原本をまずは閲覧させてもらった。ペン書きながら達筆なため、帰宅後またFB友の方に読むのを手伝っていただき、佐久間象山の指図で製造された馬上銃を藩内でも製造し、大森台場で試射もしていたことなどがわかった。

 今回、個人的に最も多くの情報を得られたのは、上田の郷友会の月報だった。明治18年創設のこの団体は、実際には明治11年ごろから上田を離れて東京に移り住んだ同郷者のあいだで自然に誕生したものだという。この会の存在は以前から知っていたが、月報を調べたことはなかった。きちんと月報が発行されるようになった時代には、高祖父は移住先の茨城県の谷田部で他界していたからだ。ところがつい先日、古い月報記事のコピーを頂戴した際に、その前ページに一月例会の12人の出席者の1人が私の曽祖父であることを発見したのだ。曽祖父は生まれてまもなく上田を離れたはずなのだが、世代を超えてこんな形で地縁がつづいていたことに驚かされた。

 大正4年のこの月報からどんどん時代を遡って調べてゆくと、曽祖父は年に数回、神田仲町の福田屋(いまの秋葉原電気街付近)などで開かれた例会に出席し、年間1円の会費を払っていたほか、慰安旅行か何かの集合写真にも写っていた。じつは、曽祖父は早くに亡くなったため、母の世代は誰もその顔を知らなかった。祖父母の遺したアルバムを整理した際に、見慣れない写真を見つけ、当時、存命だった祖父の末妹に、誰かわかるか尋ねてみたのだが、すでに記憶が曖昧で、戸惑ったような笑みを返されてしまった。曽祖父が他界したのはこの大叔母が幼児のころで、その後、関東大震災で焼けだされたため、父親の顔は知らずに育ったのかもしれない。ところが、今回の調査で見つけた名前入りの集合写真に写る人物は、紛れもなくアルバムの写真の人物だった。近親の親族の顔立ちとはかなり異なる、ちょっとモンゴル人風の顔だ。

 時代をさらに遡って明治43年の、創立25周年記念号にまで辿り着くと、そこにはなんと門倉伝次郎に関するまとまった記事と写真が掲載されていたのだ! 感動のあまり、資料室の司書の方のところへ思わず月報を手に駆け寄った。なにしろその顔は、上田藩の古写真としてよく知られる騎乗姿の松平忠礼の横で黒い馬の引き綱を抑えているおじさんとそっくりだったからだ。馬役だった伝次郎は、「仙台産の青毛馬を購ひ、飛雲と名づけ、アプリン[イギリス公使館の騎馬護衛隊隊長]に託し、一年彼国の乗馬法を以て訓育せしめ、以て藩に引取る」と『上田市史』には書かれていた。村田靴店に一時期あったはずの泥障は、この写真に写るものと思われた。若い藩主の横に立つおじさんは、「容貌魁偉」という伝次郎の説明とも一致する人物で、私の知る親族とはあまり似ていないが、どことなく祖父を思わせる表情をしていた。写真を並べて多くの親戚に見せたが、誰も私の仮説には納得せず、そもそも曽祖父すらこんな人ではないはずだと言われつづけたのだが、私の推理どおりであったことが証明されたわけだ。高校時代によく似顔絵を描いていたのが何かしら役立ったに違いない。

 上田藩の瓦町藩邸に関連してご連絡を取り、今回お会いすることができた長野大学の前川道博教授のご好意で、上田市教育委員会で文化財を担当する方々もご紹介いただいたところ、そこで衝撃的な事実を教えられた。上田藩関連の多数の古写真の大半が、現在、東京都写真美術館に収蔵されていることは調査からわかっていたが、一部の写真は所在が確認できず、それらがおそらくはコレクターのもとで焼失してしまったというのだ。幕末から一世紀半の歳月をくぐり抜けたはずの古写真の現物は、村田靴店で見た30代の忠礼像のオリジナルなども含め、21世紀になってから失われてしまったのだ。昭和50年刊行の『庶民のアルバム 明治・大正・昭和』(朝日新聞社)をはじめ、多くの写真アルバムに鮮明な画像が残るものの、アンブロタイプであったはずのこの写真の現物を目にすることはもはやできないのだ。写真は通常のモノ以上に、フィルムやデジタルの画像だけでも充分にその価値を発揮する。非常に残念ではあるが、これもまた忘却・喪失の歴史だと、諦めるしかないのだろう。

 郷友会月報には、曽祖父の詳細にわたる追悼文も掲載されていた。それによると、「十四、五歳の頃、医士山極吉哉(山極博士の養父)の書生として厄介」になり、獣医ではなく、人間の医者になったのは、山極氏からの助言だったようだ。山極勝三郎は郷友会の発起人の一人で、祖父が留学を計画していたとき保証人になっていただいたことがあると叔母から教えられていた。実際には、山極家にはそれどころではない恩を受けていたことが、今回の調査から判明したのである。
(とうごう えりか)









コウモリ通信

東郷えりか(2091.09.03更新)





ハイネの銅版画、江戸湾浦賀の光景

その228

 以前からたびたび目にして気になっていた「ペリーの白旗」問題について、事実関係を確認しておかねばと、ホークスの公式記録である『ペリー艦隊日本遠征記』や通訳のウィリアムズが書いた『ペリー日本遠征随行記』などを読んでみた。砲艦外交を象徴的に語るエピソードとしてよく引き合いにだされるものだ。

 急遽交渉に当たらされた浦賀奉行所の与力の香山栄左衛門がペリーから、いざ戦争になって降伏したい場合に掲げる白旗まで二旒渡されたとする説で、そのことを記した「白旗書簡」が偽書かどうかをめぐって歴史家のあいだで論争がつづいている。長くなるのでここでは結論だけ書くが、アメリカ側の代表的なこの二つの記録を読むだけでも、当時の部外者の憶測を、後世の歴史家が真に受けた結果であることは明らかなはずだ。ペリー側は戦意がないことを意思表示するために測量船に白旗を掲げ、沖合に停泊中の船を幕吏が訪ねる際も、朝、艦隊に白旗が掲揚されるのを確認してからくるようにと説明し、香山も同様の趣旨を繰り返しているからだ。『ペリー艦隊日本遠征記』には、随行画家のヴィルヘルム・ハイネが描いた、船首に星条旗、船尾に白旗を掲げた測量船が遠くに富士山の覗く浦賀湊の沖に漕ぎだす挿絵もある。

 ペリー艦隊に関するこの二冊の本には、白旗問題を別としても、驚くような情報が満載されていた。浦賀での応接を拒み、強引に羽田沖付近まで入り込んだペリー艦隊を食い止めるために、再び交渉の窓口に立った香山は、嘉永7年1月28日(1854年2月25日)の午後になって、ほとんど思いつきで「神奈川の南にある横浜という小村」に小舟で乗りつけて視察することを提案した。「小村のそばにある空き地で、いまは収穫が期待できそうな麦畑となっている場所が、応接に適した場所として選ばれた。そこにたどり着く前に、村のなかの家を三、四軒、壊せば、新たに必要な建物をつくるための場所が確保できるだろうと、こともなげに提案された」と、ウィリアムズは書いている。デ・コーニングの『幕末オランダ商人見聞録』の描写もこれとさほど変わらない。綿繰り機が使われていたことや、生垣の椿が満開だったこと、大きな墓地があって、墓碑銘か卒塔婆に漢字のほか梵字が使われていることにも目を留めている。現在の横浜中華街付近にあったこの墓地は、1862年の地図にもまだ描かれている。

 つづく2日間で幕府の海防掛は横浜沖の測量と現地を視察し、「右掛り一同徹夜払曉まても談判評決之上、則横浜を応接所と決し」、2月1日には月番老中だった松平忠優から、浦賀沖は波が荒いため、横浜で応接する旨の通達が海岸警備の諸大名にだされている(幕末外国関係文書之五)。しかもこの日、忠優は実際の交渉担当者たちに、「応接の事一々皆て老中に請ふなかれ。もし之を老中に請ふ、老中又之を前納言[斉昭]に乞はざるを得ず……後日の咎は老中之に任せんと」(『開国起源安政紀事』)と指示し、参与となって幕政に口出ししていた水戸の斉昭を牽制し、条約交渉を推し進めたのだ。このとき応接地として横浜が選ばれなかったら、後年、神奈川開港に向けてハリスと折衝するなかで、対岸の横浜を含めてはどうかとハリス側から提案されることは間違いなくなかっただろう。横浜はそれほど無名の小村だったのだ。

 横浜に上陸したペリー一行が最新の科学技術を披露して見せた際の笑い話は随所に書かれているが、小型蒸気機関車のエピソードはなかでも傑作だ。「日本人は、なんとしても乗ってみなければ気がすまず、客車の容量まで身を縮めるのは無理なので、屋根の上にまたがった。威儀を正した大官が、丸い軌道の上を時速20マイルの速度でゆったりした長衣をひらひらさせながら、ぐるぐる回っている姿は少なからず滑稽な見ものだった」(『ペリー艦隊日本遠征記』、オフィス宮崎訳)。別の随行画家であるピーターズの挿絵には残念ながら、試乗する役人は描かれていない。

 日本国内のこれら諸々の出来事はもちろん非常に興味深く、いずれじっくり読み直してみたいが、ちょうど大航海時代の歴史を訳していた私にとっては、むしろペリー艦隊が日本本土にやってくるまでの航海の記述がおもしろかった。艦隊と言っても、ペリーは1852年11月にヴァージニア州ノーフォークを両側に外輪がある蒸気フリゲート艦ミシシッピ号たった一隻で出発している。当初は12隻の艦隊となるはずだったのが、いろいろ手違いがあったようで、香港と上海で集結できるだけの船を揃えて、日本に向かった。通訳のウィリアムズは、4月にペリーが香港に到達したのちに初めて手配されているので、彼の手記には当然ながらそれ以降のことしか書かれていない。

 意外に知られていないことだが、極東にくるまでこれほど時間がかかったのは、ペリーが大西洋を渡り、アフリカ南端の喜望峰を回ってインド洋を通ってきたからなのだ。スペインのマニラ・ガレオン船は江戸時代初期から太平洋を行き来していたので不思議だが、アメリカがカリフォルニアを獲得したのは、ペリー自身がミシシッピ号で参戦した米墨戦争以降のことであり、当時はまだパナマ鉄道も開通していなかった。アメリカ東海岸から太平洋にでるには、南アメリカ南端のホーン岬かマゼラン海峡を通るしかない。このルートをたどったのが、江戸初期に来日したウィリアム・アダムズの一行で、ペリーも訪日前に彼の手記を研究していた。アダムズの船は航海の途中で寄ったハワイ諸島と思われる島で乗組員を殺され、死線をさまよいながら大分に漂着した。『白鯨』の元となった実話もこの航路をたどり、1820年にアメリカ東部のナンタケット島を出港した際には、船員たちは2年半は帰れないことを覚悟していたという。ペリーにしてみれば、そんな危険を冒すつもりはなかったのだろう。

 大西洋・インド洋周りの航路はその点、大航海時代から探索され尽くし、潮流や恒常風をうまく利用できる航路沿いに、いくらでも補給基地が整備されていた。ナポレオンが流刑されたセントヘレナ島やモーリシャスのような、大海の孤島のようなところですら、さながらガソリンスタンドのように、水や食糧だけでなく、石炭までが用意されていたのだ。ミシシッピ号はこうした寄港地で500トンほどの石炭を積んでおり、効率よく機走するには1日当たり26トンが必要だったという。風と海流が利用できるときは外輪の水掻き板を外し、装着する枚数も調整していた。ペリーが日本本土にくる前に琉球と小笠原諸島に寄ったのは、こうした寄港地を確保するためで、「無人島を石炭置場に」という要求は、日本では当時ただ無人島と呼ばれていたボニン諸島、つまり小笠原を石炭補給基地にすることだったのだ。当時、日本では石炭は九州などごく一部でしか使われておらず、蒔水給与令からもわかるように、外国船に提供するつもりだったのは、帆船の捕鯨船上で皮下脂肪から鯨油を採取するための釜炊き用の薪か木炭だったので、交渉に当たった幕吏もどのくらい事情を理解していたのか怪しい。艦隊の食糧の一部は寄港地で手に入れる生きた四つ足動物であり、小笠原にはすでにハワイなどからの移住者が放牧したヤギが大繁殖しており、ペリー艦隊も牛と羊、ヤギを残している。数年前にこれらの子孫のヤギが島の生態系を崩していたため駆除されたことは記憶に新しい。肉を食べず、すべて人力で賄っていたに等しい江戸時代までの日本で、黒船の来航はまさに頭を殴られたような体験だったのだろう。
(とうごう えりか)









コウモリ通信

東郷えりか(2091.10.10更新)

その229

グーグル誕生記念ロゴのスクリーンショット

  数日前、いつものように朝、パソコンを立ちあげてインターネットを開くと、グーグルのロゴが、「'98 9 27」という日付入りの昔のブラウン管モニターのパソコンの絵になっていた。一目で意味がわかったのは、50代以降の世代だろうか。いまやこれなしには生活できないほどのインフラとなったグーグルの誕生記念ロゴだった。

 会社に入って初めて触ったパソコンも、起動するのに8インチ・フロッピーを何枚も出し入れしなければならない、こういう太ったCRTモニターのパソコンだった。私はインターネットが完全に普及する前の1995年末に退社したのだが、World Wide Webというものが今後は世の中を変えるのだと、ITに詳しい同僚たちからよく聞かされていたので、その後の大変化にもなんとか対応できたのだろう。

 1年ほど失業保険とアルバイトで凌ぎながら翻訳学校に通い、そこで出会った鈴木主税先生に弟子入りし、牧人舎の一員となった。このころ私がもっていたのは、会社員時代に買ったトラックボール付きのマックのノートパソコンで、ウィンドウズとのファイルの互換性が非常に悪かった。使わない東芝のダイナブックがあるからと、無償貸与していただいたのはじつにありがたかった。

 当時はまだパソコン通信の全盛期だった。認知症の祖母の近況を、母のきょうだいたちとパソコン通信で連絡し合っており、それを「綾子さん通信」と呼んでいた。電話回線に繋ぐと「ピーヒョロヒョロ」と宇宙との交信のような音が鳴るもので、貧乏暮しの私はおもにメールの送受信時にしか接続せず、毎回、電話のそばまで行って祈るような気分で使用していた。何かを検索しようにも、当時の検索機能はお粗末で、どこに分類されているのかわからなければ、調べようがなかった。グーグルが使えるようになったときは、白い画面に思いついた言葉を打ち込めばよいという発想が画期的で、感動したのを覚えている。とはいえ、仕事で本格的にインターネットが使えるようになったのは、常時接続しても破産しなくなったここ十数年のことだ。文字列にして入力することなど、検索のコツについては、鈴木先生の弟子仲間から多くを学んだ。塩原通緒さんが、害虫駆除の仕方までグーグル検索するのを知ったときは、目から鱗が落ちた気がした。仕事の調べ物だけでなく、日常のあらゆることに使えるのだ。

 牧人舎のホームページができたのは、グーグルが誕生して間もないころだった。翻訳の仕事は、ただ外国語がわかればできるものではなく、それを読みやすい言葉で書く作文力が要求される。自分でもある程度文章が書けなければ、翻訳はできない。鈴木先生は文章を書く訓練が必要と考えておられたのだろう。「どんなテーマでもいいから、とにかく書いてみなさい。かならず自分の力になるから」と言われて、ホームページの今月のエッセイに寄稿するようになったのは、1999年12月のことだった。ちょうど祖母を亡くしたばかりで、仕事は翻訳見習いでしかなく、子育てプロのお母さんたちのあいだで私は浮いていたので、エッセイの題名は「コウモリ通信」とした。私は文学少女でもなかったし、国語は物理と同じくらい苦手科目の一つで、最初のころは書くテーマを考えるだけでも苦労していた。

 鈴木先生はその10年後に亡くなられ、牧人舎の活動そのものも先生の晩年には縮小したが、ホームページだけは、立ち上げ時からずっと管理人を務めてこられた野中邦子さんが運営をつづけてこられた。途中、ほんの数カ月ほど更新がなかった時期はあったものの、20年近くにわたって毎月、新刊の紹介やエッセイの入れ替えを、ご自分の翻訳の仕事の傍らこなしてこられた。思いついたときだけ、暇なときだけ更新するのではなく、定期的につづけるのは簡単なことではない。私はただそのご好意に甘えて、月末になるとエッセイを書いて送ってきた。長年つづけてきて、習慣化されたことが、今回でおしまいになる。牧人舎そのものが店じまいとなるのだ。最終回のこのエッセイは、「その229」となるようだ。

 ここ10年間はSNSも普及して、音信不通になっていた友人・知人の消息を知り、連絡を取るのは容易になったが、それまでは私の「コウモリ通信」をネット上で見つけて読んだと連絡をもらうことが何度かあった。発信しつづけたおかげで頂戴したお仕事もいくつかあるし、書いた内容について問い合わせをいただいたこともある。最初のころは、誰が読むかもわからないネット上で発信することへの気後れもあって、気軽に読める当たり障りのないことを書いていた。個人情報をどこまで書くか、宗教や政治の話題はどう対処すべきなのかなど、自分なりに試行錯誤をして少しずつ書ける範囲を広げてきた。これだけ多くの情報がネット上にあふれるようになったいま、誰にでも書けて軽い笑いを誘うだけの、暇つぶしどころか、人様の時間を奪うだけの文章をこれ以上私が増やしても仕方がない。途中からそう思うようになり、万人受けはしなくても、私にしか書けないテーマを選ぶようになった。それが高じて、近年はやたら歴史テーマの、それも非常にマイナーな話題が多くなったので、以前はかならず読んでくれていた娘からも、「面倒臭くて読んでいない」と、言われるようになった。

「コウモリ通信」を始めたころはまだ小学生で、よくイラストも描いてくれた娘は、いまではちょっとした絵本作家になり、今春にはボローニャのイラストレーター展で入選し、結婚して一児の母にもなった。私同様、仕事と育児を両立させなければならない娘は、締め切りに追われててんやわんやの毎日を送っている。産後八週間で職場復帰しなければならなかった私は、自宅でピアノを教えていた母と、大勢のベビーシッターに助けられながら子育てをした。恩返しはなかなかできないので、せめてもの罪滅ぼしで、いまは孫の面倒を週に3日ほど数時間ずつ引き受けている。

 最終回の「コウモリ通信」を書くことで、翻訳業に転職してからの20年余りを振り返ることができた。数えてみたら、牧人舎時代に部分訳・下訳した本は21冊、共訳または自分の名前でだしてもらったものが4冊、「これをもって出て行きなさい」と追いだされ、独立するきっかけとなったフェイガンの『古代文明と気候大変動』以降の訳書が25冊になった。牧人舎時代の友人の紹介で始めたハーレクインも10年間で合計27冊訳した。娘の大学の入学金を工面すべく、牧人舎時代に知り合った編集者を拝み倒して翻訳させていただいたアマルティア・センの『人間の安全保障』は、その後も私の懐具合の厳しいときを見計らったように重版してくれ、先日も10刷の連絡を頂戴した。この四半世紀、フリーランスで曲がりなりにも生きてこられたのは、牧人舎のおかげなのだ。鈴木先生、野中先生、本当に長いあいだお世話になりました。そして長年、「コウモリ通信」を読んでくださったみなさま、ありがとうございました。
(とうごう えりか)