【コウモリ通信】バックナンバー 2019年  東郷えりか(とうごう えりか)   

2018年2017年2016年2015年2014年2013年2012年2011年2010年
はこちら







コウモリ通信

東郷えりか(2019.01.06更新)




「明細」


幕末の分限帳


上田紬のはぎれを買って
先祖調べノートのカバーにしてみた。


その221

 年末年始、つかの間を母のところで過ごした。締め切りを年明けまで延ばしていただいた仕事がある手前、本来は寸暇を惜しんで見直しに励むべきところだが、正月くらいは息抜きさせてもらおうと、ずっとお預けにしていたことを楽しんだ。昨秋、上田市立博物館を訪ね、そこで閲覧させてもらった史料の解読だ。

 上田市立博物館に上田藩士の格禄賞罰の記録として「明細」という文書があることを、赤松小三郎研究会主催の尾崎行也先生の講演会で教わり、秋に仕事の合間を縫って日帰りで行って見せていただいたのだ。同館では閲覧できる史料は10点に限られるのだが、膨大なリストから必要な史料を探しだすのは容易ではない。遠方のため特別扱いということで20点選ばせていただいたが、現場で索引の巻を見たら巻が家ごとに分かれていることが判明し、結局、その場で入れ替えてもらった。

 石鹸で手を洗ったのち、腕時計もひっかからぬようはずしてから、事務室の片隅で寛文期の分限帳など、数百年は昔の古文書を恐る恐る開いた。和紙の保存状態はかなりよく、雁皮のような紙に書かれたものはとくに、虫食い一つ見当たらなかった。ページをめくって祖先と思しき人の名前を見つけるたびに、古いコンデジで撮影させてもらった。「明細」そのものは閲覧できたのは原本ではなく、マイクロフィルムの紙焼きを閉じた分厚いものだった。後日、撮影した大量の画像を多少整理はしたものの、パソコンの画面で拡大してみたところで、ミミズの這ったような筆文字から私が読み取れるのは年代と若干の固有名詞、それにいくつかの文字程度で、どれだけ眺めても肝心なことはわからない。

 ほんの150年までは、文字の読める人ならば基本的に読めたはずの崩し字だが、現代人にはある意味でヒエログリフよりも難解だ。そもそもどこに切れ目があるのかわからない。ネット上にあるくずし字解読ソフトや変体仮名の一覧などはそれなりに活用してみたものの、私がこの文書を読めるようになるには、シャンポリオンやジョージ・スミスのような才能と根気が必要だ。早々に諦め、フェイスブックで知り合い、まだお会いしたことすらないお友達で、以前にもいくつかの史料を解読してくださった方のご好意にすがることにした。

 今回、活字にしていただいたものを頼りに筆文字を一応はたどってみたが、よくまあこれを読んでくださったと、驚かされることばかりだった。「明細」に書かれた祖先の「初代」は分限帳でも同一人物らしき人が確認でき、そちらはかなり楷書に近い字だったので、てっきり「有右馮」かそれに近い名前だろうと思っていたが、「有右衛門」であったらしい。右衛門のような一般的な名前の崩し字は、独特のセットになっていたのだ。わずかな時間では全文の読みくらべは不可能なので、まずは活字にしていただいた内容の解読に専念した。それすら、理解できたのは半分くらいだろうか。

「明細」に記されたうちの祖先の項は元禄12(1699)年から始まっていたが、実際には宝暦4(1754)年生まれの4代目の時代に編纂が始まったと思われる。4代目のこの生年ですら、「戌三拾四歳」というわずかな文字を手掛かりに、FB友の方が編纂時から逆算して、干支から推測してくださったようだ。「明細」には藩士に登用された年月は書かれているが、生年の記載はなく、藩士で亡くなった没年しか書かれていないからだ。古文書の解読には相当な推理力が必要だ。そのためか、初代から3代目までは記述が少なく、有右衛門は元禄12年に中小姓で召出され「馬術申立」であったことしかわからない。それでも、私が最初に見つけた幕末の祖先は上田藩の馬役であったし、「明細」に書かれた祖先はすべて馬関係だったので、この初代が馬術関連の専門職として登用されたのは間違いないだろう。門倉という名字や言い伝えから、元々の祖先は上田ではなく、北関東の出身だったと思われる。明治期に曽祖父が各地の墓を整理して、新たに下町のお寺につくったと伝わる墓には、天和から元禄13年までの古い墓石が数基あるので、これらは上田藩に入る前にいた土地にあったのだろう。

 記述が詳しくなる4代目以降は、「賞」より「罰」を食らうことのほうが多かったと思われ、たびたび「不埒」や「不身持」で「御叱り」を受けて「閉門」、「閉戸」の処分を受けていた。数日から数十日間の蟄居を命じられていたのだ。4代目は気の毒に、倅の不身持で家老に呼びだされた際に「途中より差塞」(ふさがり)、翌日病死していた。母に伝えると、「読んでくださった方はさぞかしおかしかっただろうね」と苦笑していた。私の祖父などもいたずら坊主だったらしく、小学校の貴重なピアノに自分の名前を彫り、曽祖母が学校から呼びだしを食らったそうだ。一生消えない汚点だと先生からさんざん叱られたのに、「関東大震災でそのピアノは燃えちまったんだ」と後年、わが子たちに自慢していたというから、これもDNAなのかもしれない。

 代々の祖先はおおむね八石三人扶持など、かなりの薄給取りで、中小姓止まりだったが、それとは別に家督として七拾石ほどが相続されていたようだ。幕末の6代目伝次郎も、15歳で組外御徒士格となってまもなく「猥に在町え打越、為酒食」したほか、「口論」や「御政治等批判」など「身分不相応」なことをしてお叱りを受けているが、後年は馬術の「教授骨折」の功で「御酒吸物被下」ことが多くなった。彼は徒士頭格になり獨礼席まで昇格したので、出世頭だったようだ。それにしても、御酒はともかく「吸物」とは、えらくささやかな褒美に思えるが、これはとくに上田藩だけの習慣ではないようだ。年末にプリントアウトした文章を娘にちらりと見せたところ、「あっ、伝次郎さん、骨折している!」と言うのには笑った。古文書は難しい。

 伝次郎が元治元(1864)年9月に「西洋馬具御買入并馬療為取調、折々横浜表え罷越、蘭人え問合候様被仰付」という記述は重要かもしれない。従来、上田関係の資料は『上田市史』の記載を引いて万延元(1860)年にイギリスの公使館付騎馬護衛隊長のアプリンから西洋馬術を学んだとしていたが、アプリンの来日は1861年11月で、それ以前に短期間来日したとしても馬術を学ぶ余裕はなかったはずなので、元治元年になってからおそらく上田の生糸商人のつてなども使って、伝次郎がアプリンに接近したという私の当初の推測のほうが、結局は正しかったかもしれない。

「明細」から判明した大きな収穫は、7代目とされる正体不明の庄次郎が養子で、私の曽祖父が生まれたと推測される明治2年に「不熟に付」という言い訳のような理由で離縁されていたことだ。このため、曽祖父は伝次郎の年取ってからの息子という可能性が高まった。私の先祖探しも、おかげさまでだいぶ進展した気がする。今年こそ、この記録をまとめる時間が欲しい。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2019.02.01更新)




とうかん通り


湊橋


銀杏八幡宮・銀杏稲荷


日本橋小学校前の西郷隆盛屋敷跡

その222

「東京市日本橋蠣殻町のパン屋のおつねさん」

 これは子供のころに母から教わった手遊び歌で、一本指で、つづけて二本指で線を描いたあと、くすぐってからパンと叩き、つねって遊ぶ。母は神田小川町生まれの曽祖母から教わったようだが、検索しても、やや異なるバージョンのものが数件見つかるだけなので、ほんの一時期、ごく狭い地域で歌われたのだろうか。私にとってはこの歌のおかげで蠣殻町という名前は、物心がついたころから名前だけは知っている場所だった。勤めていたころは何かと東京シティエアターミナルやロイヤルパークホテルに行くことがあったので、頭上を走る首都高の陰になったような場所が蠣殻町で、がっかりした記憶がある。

 そんな蠣殻町一帯を、寒空の下に少しばかり歩いてみた。かつてここに、稲荷(とうかん)堀という細い堀割が日本橋川と並行してあり、その東側に姫路の酒井雅楽頭家の広大な中屋敷が江戸の初期から幕末まで存在したことを発見したからだ。稲荷堀跡は現在、とうかん堀通りとなっていて、そこに立つ説明板に転載された延宝年間(1673-1681)の古地図にも、この屋敷は描かれている。嘉永3年の地図を安政6年に再板した「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(東京都立図書館のページで見られる)では、この一帯は大名屋敷が立ち並ぶため蠣殻町の町名は見当たらないが、稲荷堀の文字の横にトウカンボリと書かれたすぐ上にカキガラ丁とある。この地図の最下部にある日本橋川に架かる湊橋だけは、いまも弁才船の浮き彫り付きのそれなりにお洒落な橋となって残るが、あとは見る影もなく、やや寂れた雑居ビル街が広がる。

 現在は首都高の向島線が上を通る薄暗い通りには、かつて箱崎川が流れており、稲荷堀が箱崎川に注ぐ場所は行徳河岸と呼ばれていた。徳川家康は江戸に居城を定めてすぐに塩を確保するためのルートとしていまの江東区を東西に流れる小名木川を開削させ、行徳から塩を運ばせていた。小名木川は、現在の江戸川と結んで利根川舟運の重要な区間にもなっていた。その重要な水運の終点がこの行徳河岸だったのだ。

 酒井雅楽頭家のこの中屋敷に興味をもった理由は、ここが上田藩主となった松平忠固の誕生の地だと思われるからだ。松平忠固は姫路藩主酒井忠実の十男として生まれ、上田の藤井松平家の婿養子となった。私が見つけた資料には、正確には「江戸浜町の藩邸に生まれる」と書かれていたのだが、前述の地図には、蠣殻町より少し東側の浜町には姫路藩邸は見当たらない。姫路藩主の子孫である酒井美意子の『姫路城物語』にも確かに、第6代藩主となった忠学が将軍家の姫を正室に迎えた際に、江戸浜町の中屋敷を増築したとある。姫路藩の史料である『姫陽秘艦』(一)をざっと目を通したところ、この喜代姫の輿入れに関連して、天保元(1830)年に浜町にある細川越中守の4,553坪の屋敷を借りたらしい旨が書かれており、これまで蠣殻町の中屋敷と呼んでいた場所を浜町中屋敷と呼ぶ云々とある。これらの情報を総合すると、一時期、浜町にも屋敷をもっていたのかもしれないが、忠固が生まれた文化9(1812)年はそれ以前なので、おそらく稲荷堀沿いの屋敷で生まれたのだと思う。

 この中屋敷の広さを実感したのは、行徳河岸から500メートル以上は離れた場所にある日本橋小学校の入口にある西郷隆盛屋敷跡の説明板を先に見て、そこから歩いたからだ。中央区教育委員会の説明板によれば、明治維新後、酒井雅楽頭家の中屋敷の北側部分、2,633坪が金1,586円で払い下げられ、下野するまでの一時期ここに西郷隆盛が暮らしていたのだ。昨年の大河ドラマでも、この屋敷と思われる場所に軍服姿で出入りする西郷が描かれていた。西郷「吉兵衛」は一橋派として裏面工作に奔走するなかで、敵視する松平忠固の動向を懸命に探っていた一人だ。西郷はここで忠固が生まれたことなど知る由もなかっただろうが、忠固の生家に西郷が住んでいたとは、明治維新を象徴するようで興味深い。司馬遼太郎は払い下げ価格を250円だったと書いているようだが、説明板を信じるとすれば、現在のお金で約600万円になる。いずれにせよ破格値ではあっただろう。ちなみに、南側の敷地は、『川と堀割"20の跡"を辿る江戸東京歴史散歩』によれば、13,989坪あったという。

 同書によれば、この一帯にはもともと陸奥磐城平藩安藤対馬守の広い屋敷があったそうで、蠣殻町の交差点付近にある銀杏八幡宮に合祀された銀杏稲荷は、安藤家の氏神だったらしい。安政6年の絵図に「安藤」とだけ書かれた対馬守の屋敷の隣に「イナリ」とあるのがこの神社だ。安政の大獄後に幕府を率いた安藤信正は、忠固の実家のお隣さんだったのだ。忠固同様、開国に舵を切った時代に老中を務め、安藤信正とともに混乱期を歩んだ関宿藩主久世広周の中屋敷も、埋め立てられてしまった箱崎川の「対岸」にあった。関宿は千葉県の北西の角部分の江戸川と利根川の分岐点にある。やはり老中仲間の佐倉藩主堀田正睦の上屋敷も浜町にあった。佐倉はやや離れているが、印旛沼を経由して利根川にでていたようだ。水運の要衝に屋敷を構えていた彼らが、無謀な戦を避け、開国して貿易をする道を選択したのは、無縁ではないだろう。

 ところでこの日、蠣殻町に行く前に九段下の千代田区役所に立ち寄った。曽祖母の除籍謄本が取れるか試してみたのだ。だが案の定、旧神田区は関東大震災のときに大正3年以前の除籍簿・原戸籍簿等が焼失しており、曽祖母の記録は失われていた。ところが、1月の寒い土曜日の午後で区役所が空いていたおかげか、職員の方が熱心に調べてくださり、曽祖母の父親の名前が、長男の記録に付随して残っているのを発見してくださったのだ。その結果、弘化4(1848)年生まれの高祖父と、嘉永2(1849)年生まれの高祖母のことが少しばかり判明した。材木商だったと伝わるほかは、写真が一枚と葬儀の写真が残るだけだったこの高祖父は、なんと尾張国海東郡勝幡村の出身だった。調べてみると名古屋の西の郊外で、木曽川からさほど遠くない場所だった。木曽川はもちろん、江戸の材木の最大の供給地だ。幕末まで譜代大名や旗本の屋敷があった神田小川町に、高祖父は明治8(1875)年に移っており、それ以前は深川熊井町にいた。現在の江東区永代1丁目の永代橋のたもとから南にわずかに下った辺りの隅田川沿いだ。古地図では付近には木置場がたくさんあるので、材木商ならではの立地だ。明治になってこれらの大名屋敷が取り壊されると、跡地に細々とした建物をつくるために大量の材木を提供して儲け、自分も稲葉長門守の屋敷跡の一角に新居を構えたに違いない。明治維新は革命だったのだと、古地図を見るたびに思う。

 ついでながら、靖国通りをもう少し淡路町方面に進んだ、現在はかんだやぶそばがある付近に、一時期、上田藩の昌平橋の上屋敷があったという。忠固の大叔父で江戸琳派の祖と言われる酒井抱一も、神田小川町の姫路藩別邸にいたようだが、正確にどこかはわからなかった。少し暇になったら、またあちこち歩いてみたい。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2019.03.01更新)




わが家の抱っこ紐の歴史



その223

 以前、大英博物館の『100のモノが語る世界の歴史』の仕事をした際に、東アフリカのオルドヴァイ峡谷で見つかった握り斧のつくられた過程と言語の発達を関連づける説があることを知った。道具をつくるのに必要な脳の領域と言語を司る領域が重なることから生まれた説だという。訳した本人が言うのも変かもしれないが、職人などは言葉を介さずとも、師匠のやることを見よう見真似で覚えることも多いはずなので、個人的にはこの説にはあまり納得していなかった。

 ところが、現在翻訳中のフェミニズムと科学の本によると、人間の言語はむしろ母子間で発達した可能性が高いと近年考えられ始めているようなのだ。正確には、この本は道具づくりではなく、「狩猟者の男たちが人類の意思伝達を発達させ、脳のサイズを変えたという人類学者の考え」に疑義を呈している。石器づくりにせよ、狩猟にせよ、総じて男性の活動と関連づけられるものだ。それにたいし、言語は育児のなかで進化したと言われれば、本能的にも、自分の子育ての経験からも、あれこれ説明されるまでもなく、私にはすんなりと受け入れられる。自分の意思を少しだけうまく伝えられる赤ん坊が長い歳月のあいだに、より言語の発達した人間となって生き残ったという仮説には、考えさせられるものがある。乳幼児の虐待はたいがい、何が不快なのか自分でもわからず、うまく伝えられない赤ん坊がひたすら泣きわめくために、心のゆとりのない育児者側が苛立って引き起こされる。不快な状態が長引いて、子供が我慢の限界に達する前に、その原因が空腹なのか、眠いのか、オムツが汚れているのか、ガスが溜まっているのか、不安なのか、寒かったり暑かったりするのか、といったことを大人がうまく察してやり、それを繰り返し問いかける。こうしたやりとりこそが、言語を発達させたに違いないと、私などは思う。

 そもそも人類が最初につくった道具は石器ではない。ただ何万年もの時代を経て残ったのがこれらの耐久性のある人工物であったという、これまた見落としがちな点も、このフェミニズムと科学の本は教えてくれる。考古学が残された物や遺構だけを調べても、それは過去の一面を見ているに過ぎず、実物としては残らなかった物の存在は、絵や言語、伝承など間接的な手段から推測するしかない。

 人類が石器以前に発明したものの一つは意外なようだが、食べ物を探して歩き回る際に赤ん坊を運ぶためのスリング、つまり抱っこ・おんぶ紐だろうと推測する人類学者がいるという。その形態は場所によってさまざまだっただろう。「100のモノ」に関連して2015年に開かれた大英博物館展では、オーストラリアのアボリジニの編み籠が展示品の一つに選ばれていた。籠そのものは19世紀末から20世紀初頭につくられたものだが、似たような円錐形の籠の紐部分を額に掛けて運ぶ女性の姿が2万年前の岩絵に描かれていた。実際には何万年も前の物ではない近代の後継種を展示することに、当時はやや疑問をもったが、籠や筵、縄のようなものは人類が最初につくった物であり、そのことを忘れないためには必要な措置だったと思う。『大草原の小さな家』には、先住民のオセージ族がカンザスから移動させられた際に、馬の脇腹に吊るされた籠に小さな子供が乗っていた光景が描かれていた。アボリジニの祖先が籠に赤ん坊を入れていた可能性もあるだろう。

 抱っこ紐やおんぶ紐が人類最古の道具の一つであったかもしれないと読んで、思わずワクワクしたのは、一週間に何度かはそれを使って、おばあさん仮説を立証すべく、というよりは応援すべく、役立つばあさんを演じているからだ。うちの近所はあまりにも坂道が多く、ベビーカーがまともに使える道は限られている。娘一家のところまで往復しようものなら、よほど遠回りをするか、ベビーカーをジェットコースターか登山鉄道に変身させなければならない。図書館の本を借りに行ったり、銀行や郵便局に寄ったりといった用事のついでに、小一時間ほど散歩と称して孫を連れだすには抱っこ紐に限る。本人は20分もすれば寝てしまうから、これは赤ん坊のためという以上に、その間、娘が家で仕事に専念できるようにするためだ。昔、うちの「お隣のおばちゃん」が洗濯屋や銀行に行くついでによく幼児の娘を連れだしてくれたのは、子守をしてくれていた母がその間に少しでも用事を済ませられるようにという配慮からだったに違いない。こういう子育て支援についても、この本はじつに考えさえられることが多々書かれていたので、いずれまた取り上げたい。

 ところでこの抱っこ紐、私が子育てをしていたころはカドラーと呼ばれ、胸のところでバッテンにする昔ながらのおんぶ紐に代わる、目新しい育児用品だった。その昔、私自身が赤ん坊だったころも、母は当時流行ったという網タイプの抱っこ紐を使っていたので、抱っこ派は1960年代にはいたことになる。いまもこういうメッシュの抱っこ紐は蒸し暑い日本の夏をやり過ごすのに欠かせない用品として存在するが、その多くはフランスで1970年代に開発され、「トンガ・フィット」の名前でロングセラーになっている商品と思われる。私がカドラーだと思っていた抱っこ紐は、いまはキャリーあるいはベビーキャリアと呼ばれることが多く、それ以上に、日本上陸10周年の「エルゴベビー」が、ゼロックスや宅急便のように、普通名詞化しそうな勢いらしい。娘たちが買ったのもこのエルゴで、最近では父親がこれで赤ん坊を抱いている光景をあちこちで見る。時代は変わった。ハワイ生まれというこの製品はえらく頑丈でごつく、着脱がやや難しいためか、祖父母の世代がこれで子守をしている姿を近所で見かけたことはいまのところない。ねんねこ半纏におんぶ紐の時代には、祖父母が活躍していたはずなのだが。そのせいか、私がエルゴを使っていると、何をかかえているのかと怪訝な顔で通りすがりに覗き込む人がときおりいる。

 網のトンガや、アフリカ風の布を巻きつけるベビーラップと呼ばれる抱っこ紐はスリングに分類され、エルゴに代表されるようなバックルでカチッと留めるキャリーとは区別されるらしい。最近、新聞で読んだ子連れ出勤の記事では、お母さんたちが二人ともスリングで赤ちゃんを抱っこしながら仕事をしていた。これらは、アンジェリーナ・ジョリーなど欧米のセレブが使って普及したらしい。

 こんなことをくだくだと書いたのは、ひとえにスリングという言葉をどう訳すべきか悩んだからだ。子育て世代には「スリングでしょう」と言われそうだが、一般の日本人には人類最古の道具がスリングと言われても、なんのことやらさっぱりになる。結局、前述の「抱っこ・おんぶ紐」という読みづらい言葉に、スリングとルビを振る、冴えない対応しか思いつかなった。カタカナ語の氾濫を食い止めるために、一翻訳者ができることは限られている。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2019.04.01更新)








その224

『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』(平凡社、2006)という本を図書館で借りたところ非常におもしろかったので、古本を購入してみた。犬塚孝明氏の書かれたものはいくつか読んだことがあり、いずれも示唆に富むおもしろい内容だったが、本書もその期待を裏切ることのないものだった。旧蔵アルバムというのは、共著者の石黒敬章氏の父上が古書市か古書店で入手した5冊のアルバムのことで、イギリス製革表紙の重厚なアルバムのなかに、カルト・ド・ヴィジット(cdvの略称で知られる)が約400枚ぎっしり詰まっていた。そのうちの3分の2 が肖像写真という。これは名刺サイズの厚紙に薄い鶏卵紙に焼きつけた写真を貼り合わせたもので、写真が普及しだした1860年代から名刺代わりに、あるいは有名人のブロマイドや絵葉書代わりに大量に生産され、ヴィクトリア朝時代のイギリスでは客間にかならずこうしたアルバムが置かれ、カルトマニアと呼ばれる蒐集家まで出現するほどだったそうだ。元祖ポケモンカードというよりは、むしろ元祖フェイスブックのようなもので、自分の交流範囲や渡航履歴をさりげなく示すものだったのだろう。

 名刺のように、数十枚単位で印刷されたはずのカルトだが、森有礼のアルバムに残されたものしか現存しないもののも多いと思われ、アルバムを最初に手にしたときのお父上の興奮ぶりが目に浮かぶようだ。裏面に森が名前をメモしていたり、当人の署名やメッセージが書かれていたりするものもかなりあるが、薩摩や長州からの留学生の研究をされた犬塚氏が、方々の記録と照らし合わせながら人物を特定したケースも多々ある。時代背景を説明しながら、膨大な数のカルトの人物を紹介する解説は、画像の助けを借りて大量の登場人物を頭に入れ込むには最適のものだ。

 この本を手に取る直接のきっかけは、アメリカのラトガーズ大学に残された日本からの留学生写真に写る人物を特定したかったためだった。幕末の1866年に密航した横井小楠の二人の甥に始まり、同大学には明治初期にかけて大勢の日本人留学生が詰めかけた。それもこれも、開国後まもない日本に最初にやってきた宣教師たちの多くがアメリカ・オランダ改革派で、とりわけ長崎にあった佐賀藩の致遠館で教えていたフルベッキが、自分の属する宗派の学校に留学生を送る便宜を図ったからだ。同大学があるニュージャージー州ニューブランズウィックのD. Clark写真館撮影とわかるカルトを集めたページには8枚が並ぶ。海援隊にいた菅野覚兵衛や白峰駿馬、元薩摩藩士の最上五郎に井上良智、薩摩の支藩である佐土原からの平山太郎と推定される人物の横にいる華奢な若者は、まず間違いなく勝海舟の息子の小鹿だ。小松宮と推測されていた人物は、白峰、菅野と三人で撮影された写真や、ラトガーズの集合写真の一枚に写っている体格のいい男性に似ている気がする。小松宮であれば上野公園の騎馬像の人だが、この時期イギリスに数年間留学していたことしかわからなかった。

 私にとって気になるのは、南部英麿、14歳と書かれた一枚だ。盛岡藩主の次男に生まれ、のちに大隈重信の養嗣子となり、早稲田の前身の学校の初代校長となる人物で、華頂宮博経に嫁いだ姉とともに渡米している。その随行員であった元岡山藩士の土倉正彦のカルトも同じページにあるので、時期的にも、後年の写真と比較しても、このカルトの若者は南部英麿の可能性が高い。彼の名前は1872年のラトガーズの集合写真のなかの人物としてもよく挙げられている。悩ましいのは、南部英麿が面長の端正な顔に目立つ大きな耳をしていて、若い時分はとくに、上田藩の最後の藩主で、この年にラトガーズに留学した松平忠礼とよく似ていることだ。英麿のほうが二重のせいか表情が柔和であり、耳も忠礼ほど妖精のように突きだしてはない。集合写真から細部を判断するのは困難で、渡航時期や撮影時期を詳細に検討するしかない。

 同書には同じ写真館で撮影されたカルトとしてほかにも、岩倉具定・具経兄弟や、二人に随行した折田彦市、山本重輔のカルトもある。鉄道技師となった山本重輔は、碓氷峠の列車逆走事故で息子とともに落命した人だが、彼の顔を見た途端、思わず声を上げた。1867年に福井藩からラトガーズ大学に留学し、卒業を前にして結核で客死した日下部太郎の墓前に写る4名の留学生のうち、跪いている人物とそっくりだからだ。小鹿に随行した高木三郎と薩摩の畠山義成の名前は判明している。残る1名は薩摩の吉田清成と私は見ている。森有礼のアルバムにはもちろん全員が含まれていた。

 貴重な写真が惜しみなく掲載されているだけでなく、同書の記述もじつに興味深い。森有礼は、これまでも国語教育や木挽町の豪邸などに関連して、少しばかりその業績は知ってはいたが、1874年に『明六雑誌』に発表された彼の「妻妾論」に関する考察がとくにおもしろかった。その翌年、広瀬常と日本で最初に契約結婚をしたことで知られる彼の「妻妾論」は、「近代的婚姻観に基づく最初の一夫一婦論であったばかりでなく、男女の対等、女子教育の必要性を説いた斬新な女性論でもあった」。森有礼の「妻妾論」そのものは読んでいないので、犬塚氏の解説の受け売りだが、「女性も男性と同じく、優れた教育を受けねばならない。女性が妻として家を守り、母として子を育てるの責任は重い。一に国家の発展と文明の進歩に直接つながるものだからである」という趣旨のようだ。ウィキペディアの「明六雑誌」の項には、「森の眼には、日本における妻妾制・妻妾同居は不自然極まりないものとして映じた」と書かれている。この後、1882年には妾という存在は少なくとも法的には認められないものとなったそうだ。森夫婦は愛らしい子供たちに恵まれたが、11年後に離婚した。有礼はその後、岩倉具視の5女寛子と再婚したが、2年も経ずして暗殺された。

 彼の「妻妾論」は、男女の平等、女子教育といった観点からは、大いに評価できるが、一夫一婦制そのものがブルジョワ階級の台頭と私有財産制と切り離せない制度であることは、一度じっくり考えてみる必要がありそうだ。翻訳中の科学と女性差別に関する本にも引用されていたフリードリヒ・エンゲルスの次の言葉が思いだされる。

「男性は家庭でも指導権を握った。女性は貶められ、隷属状態に陥らされ、男の欲望の奴隷となり、子供を産むための単なる道具となったのだ」。「私有財産をもつ家庭では、〈不貞を働く権利〉は一方的に男性の特権」であると、エンゲルスが指摘したとおり、表向きは文明化された日本の結婚制度下でも、権力者は愛人を何人も囲っていた。上田の松平忠礼も帰国後、最初の妻と離縁して後妻を迎えたうえに、側室もいたようだ。ヴィクトリア朝時代のイギリスも、実態はさほど変わらなかったのだろう。薩摩密航留学生として17歳で渡英した森有礼は、妻妾論の是非はともあれ、思考面で西洋化した、もしくはその理想に共感した最初の日本人と言えそうだ。
(とうごう えりか)







コウモリ通信

東郷えりか(2019.05.03更新)




『科学の女性差別とたたかう』とその原書(左)



その225

 先月『科学の女性差別とたたかう:脳科学から人類の進化史まで』という拙訳書が作品社から刊行された。コウモリ通信で何度か、フェミニズムと科学の本と書いてきたのがこの作品だ。著者、アンジェラ・サイニーは、二歳児を育てながら取材や執筆活動をこなす若い女性科学ジャーナリストだ。インド系イギリス人である彼女は、工学者の父親の影響もあって自然とリケジョになったようだが、インド、イラン、中央アジアなどは女性の科学者や工学者の割合が欧米諸国よりも高いのだという。女性を隠すパルダの習慣が根強い地域にしては意外な事実だ。

 私は自分の世界を広げるために、ジャンルを特定せず、多くの分野の翻訳に取り組んできたつもりだが、フェミニズムもジェンダー論もじつはこれが初めてだった。縁がなかったというよりは、敬遠していたのかもしれない。今回の本はフェミニズム特有の言葉が当然ながら多く含まれ、女性の会話文も多かったため、訳語をめぐっては編集者と三校の最後の最後までバトルがつづいた。

 フェミニズムをどう思うかは、思春期や学生時代をいつどこで過ごしたのかで、大きく左右されるのではないだろうか。改めて考えてみると、私は『メリー・ポピンズ』のミュージカル映画に登場するバンクス夫人の歌、「シスター・サフラジェット」(「古い鎖をたち切って」という邦題で知られる)のイメージを多分に刷り込まれていたのだろう。たすきをかけてデモ行進する女性参政権論者を、女性らしい愛らしさとユーモアを兼ね備えたメアリー・ポピンズと好対照に描いたものだ。「一人ひとりは大好きだけど、集団になると男は何やらバカだと思う」と言い、マンカインドならぬ「ウーマンカインド、立ちあがれ」と、共産主義宣言を思わせるフレーズまである。テレビの初回放送は一九八六年だそうなので、私がサフラジェット(suffragette)という英単語そのものを最初に知ったのは、デイヴィッド・ボウイの「サフラジェット・シティ」だったようだ。この曲の歌詞はいまでもよくわからないが、やわらかい腿で彼を誘惑し、女の性解放を象徴する「彼女」を、「サフラジェット・シティ」と表現したのではないか。

 ウーマンリブ運動の全盛期は、まだ子供だったのでよく知らない。都市郊外の新興住宅地が多い船橋市で高校まで男女共学のごく普通の公立の学校に通い、大学は帰国子女の多いむしろ女性優位の学科で学び、成人すれば選挙権は自動的にもらえ、男女雇用均等法もタイミングよく改正されて大卒女子にも採用門戸は開かれており、会社員時代も強い女性の多い職場に配属され、子育てと仕事の両立という苦労はいやというほど味わったとはいえ、これまでの人生で女であるがゆえに悔しい思いをしたりした経験が少ないのだ。ついでに言えば、子供時代に「女の子だから〇〇しなさい」と言われたこともない。正直言って、フェミニズムへの関心は非常に低かった。

 数年前、『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』(トリストラム・ハント著、筑摩書房)を訳した際に、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』がフェミニズムに大きな影響を与えたことを初めて知った。未開社会のほうが、ヴィクトリア朝時代の文明社会よりも女性は自由であり、尊重されていたことを指摘した彼は、「育児や養育が公共の業務となる」ことの重要性を説いた。ところが、「目的意識をもった聡明な女性で、可愛くもなければマルクス姓でもない人たちは、エンゲルスによる女嫌いのいじめの対象」となっており、彼が「女性の権利についてやかましく叫ぶ、これらの小さいご婦人方」が苦手であったことも同時に知り、苦笑した記憶がある。

 だがフェミニズムとは、たすきをかけて拳を突き上げるバンクス夫人や、あの歌に登場するパンクハースト夫人のような爆弾テロも辞さない過激な活動家の運動だけを指す言葉ではないし、フリーセックスを奨励しているわけでもない。『メリアム=ウェブスター大学辞典』など主要な英語の辞書の定義によれば、フェミニズムは男女の政治的、経済的、社会的平等を主張する理論なのだ。それに反対する理由があるだろうか? そう言えば、エマ・ワトソンが二年前に国連で同様のスピーチをしていた。フェミニズムは女性だけのためのものではない。男はこうあるべきと決められた社会で生きづらさを感じる、多くの男性をも救うものなのだ。

 ところが、日本ではフェミニズムは一般に女権拡張論、女性解放思想とされている。これらの言葉が近寄りたくないウーマンリブの闘志を連想させてきたのだ。拡張も、解放も、女性を現状に押し込めておきたい側からすれば、自分たちの既得の権利を侵害される言葉に聞こえ、余計な警戒心を生むばかりだ。敢えてその効果を狙って、名づけられたのかと勘繰りたくなるほどだ。

 男と女は根本的にまったく違うと考えている人は多いと思うが、本書は人間では生殖器官以外には生まれながらの男女の違いはほとんどなく、とりわけ脳には性差がないのだと主張する。成長した男女に見られる性差の多くは、生まれより、育ちによる社会的なものに起因するのだという。本書では、脳科学や遺伝学、内分泌学といった医学系の分野から、進化生物学や霊長類学、人類学など多岐にわたる観点からこうした問題に鋭く切り込む。それぞれの分野の研究者が真剣に再検討し、著者がインタビューをしたフェミニスト側の研究者たちの見解を再確認するなり、反証をあげるなりしてくれることを期待したい。本書はさらに、多くの科学分野で、研究者自身が男性であるがために見落とされ、偏った見方がなされ、場合によっては歪曲されてきたことも冷静に示す。チャールズ・ダーウィンはクジャクの雄の飾り羽がなぜあれほど豪華に進化したのかを説明するために性選択の理論を考えだしたが、彼が本当に証明したかったのは、つまるところ、男性はより多くの選択圧を受けて進化したため、女性よりも優れているということだったようだ。

 本書の原題は、そうした男性側の往年の主張にたいする皮肉からか、INFERIOR(劣っている)という昨今流行りの短いタイトルが付けられていた。「劣等」などと言われれば、どんな女性でもカチンとくるのではないだろうか。英語の原題をそのまま使う案や、扇情的な「劣等」、「劣位」などの言葉を使うことなども検討したが、「科学の女性差別とたたかう」という平易な邦題に落ち着いた。オフィスキントンの加藤愛子さんが、この原題を銀色で入れたかっこいいブックデザインを考えてくださったので、原題も活かすことができた。ソフトカバーながら、書籍を愛する人たちの思いがこもった、読んでみたくなるいい仕上がりの本になったと思う。書店で見かけたら、ぜひお手に取っていただきたい。
(とうごう えりか)