【はまって、はまって】バックナンバー 2012年  江崎リエ(えざき りえ) 

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はまって、はまって

江崎リエ(2012.01.10更新)


多くの楽しみをくれたフランス語読書会

 皆様、あけましておめでとうございます。原発事故は収束にはほど遠く、経済危機も続いていますが、それでも人の営みは続きます。それぞれが「いい年にしよう」と努力することで、未来が開けると思います。今年もどうぞよろしくお願い致します。

 2012年最初のエッセイで何を語ろうかと考えたのですが、今回は私が楽しんでやっているフランス小説の読書会をご紹介しようと思います。「昔、昔、ニフティサーブというパソコン通信がありました」というほど、インターネット隆盛の現在とは隔世の感がありますが、私が電話線をつないでパソコン通信を始めたのは1989年です。子供が小さくて家にいなければならず、閉塞感を感じていた時だったので、パソコンで世界中とつながっているという感覚は目の前を明るくしてくれました。その中で見つけたのがフランス語・フランス文化フォーラムの会議室で、そこに書き込みをするうちにフランス語の読書会を始めることになりました。「私が好きな本を、辞書で単語を調べた物を会議室にアップしながら参加者とともに読む」という単純なものですが、当時の会議室には大学の仏文系の先生やフランス滞在経験者が多く、私の質問にいろいろ答えてもらって、知識が深まるのが楽しみでした。

 私のホームページに、当時から今まで読んだ本の記録があります。最初に読んだ本はマルグリット・デュラスの「ロル・V・ステーンの歓喜」。デュラスは私が大学時代に一番好きだった作家です。2冊目は子供の頃に好きだったルパンシリーズから「八点鐘」、3冊目はやはり大ファンのボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」。これらはフランス語で読めるというだけど、うれしくて、張り切って辞書を引いていた記憶があります。最初の本を読んだ年が1991年になっているので、もう20年以上続いていることになり、読んだ本は37冊になりました。これには自分でもびっくりです。ただ、好きで楽しかったので続けてきただけなのですが、だいぶ読むのも早くなったし、内容の理解度も深まった気がします。難しかったり、途中で飽きたりして、一人だったら絶対に最後まで読めなかった本も、ネットで一緒に読んでいる人がいたおかげで読了することができました。振り返ってみると、実際に会って友人になったレギュラー参加者の方も多く、私にたくさんのものをもたらしてくれた読書会です。

 ニフティサーブは2005年にフォーラムを廃止しましたが、当時のフォーラムの名を取った「FLR読書会」は現在も別の掲示板で続けています。今読んでいる本が終わったら次は原点回帰で、子供の頃に好きだったルパンの「緑の眼の令嬢」をフランス語で読もうと思っています。興味のある方は、気軽にご参加ください。

FLR読書会ログはここ

読書会はここで開催中

(えざき りえ)







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江崎リエ(2012.02.03更新)


母の油絵

 私が絵を見るのが好きになったのは、母の影響だと思う。子供の頃、母の好きな画家の画集を見せられたり、展覧会に一緒に連れて行かれたりした。そこで見た絵に感動したというよりは、機嫌のいい母親といる心地よさが好きで、「絵っていいな」と思い始めたのだと思う。私が小学校の高学年の頃に、母は油絵を習い始めた。描いた絵を家に持ち帰ったり、家で仕上げをしたりする姿を見るうちに、自然に絵の善し悪しについて母と話すようになり、その後私は一人で展覧会や画廊を巡るようになった。高校では美術部に属して、油絵を描いていた。単に好きなだけで、自分でいいと思うものが描けなかったのでその後は筆を持っていないが、美術好きは今も続いている。母はもう二十年前に亡くなり、ふだんはほとんど思い出さないが、美術館に絵を見に行くと、なんとなく母のことを思って穏やかな気持ちになる。母が私に残してくれた一番の遺産は、絵を見る楽しみと美しいものへの畏敬の気持ちだと思う。

 今年の一月に引越をした。たくさんの物を整理するうちに母の油絵が一枚出てきた。子供の頃に家に飾られていた絵だったので、なんだかなつかしく、新生活を母が応援してくれているような気がして、しばらくの間玄関に飾ることにした。母が私を生んだ年齢、私を家から送り出した年齢、私の息子が生まれた年齢……。それぞれの時に何を思ったのだろう。そんなことを考えたこともなかったが、自分がだんだん年を取って来ると、その時々の母の気持ちがわかるような気がして、もっといろいろな話をして優しくすれば良かったと思う。でも、親の心子知らずは世の習い、知らないからこそ突っ走って来られた気もするので、良しとしてもらうしかない。「ポピーの絵を玄関に飾ったよ」と言ったら、きっと喜んでくれるだろう。

(えざき りえ)







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江崎リエ(2012.03.06更新)


植え替えたばかりのカポック





一週間経って、
葉が増えました
新居に観葉植物

 新居に観葉植物を一つ買いました。と言うと大鉢を思い浮かべるかもしれませんが、100円ショップでで売っていたミニ観葉です。それも全然買う気などなかったのですが、数回そこに行くうちに100円の鉢が半額になり、そのわりに緑がきれいなので、情が移って買って来ました。

 買った時は高さ6センチの小さな鉢に植わっていましたが、ちょっとかわいそうなので、二回りくらい大きな高さ10センチの鉢に植え替えました。鉢と土代で1000円近くかかったので安く買った甲斐はないのですが、居間にぽっと光が射したようで、気に入っています。

 情が移った原因はこの葉っぱの形にもあります。息子が子どもの頃、パキラの小さな鉢を買ったのですが、それは少しずつ大きくなって、20年近く私たちを楽しませてくれました。そのパキラが寒さに当たってだめになった時期と息子が親離れしたと感じた時期が重なったので、私は必要な時期だけパキラがそばにいてくれたような気がしていました。そして、今回買って来たカポックは、パキラと葉の形が似ていて一回り小さくしたような種類なのです。今この小さな鉢を買ったらパキラのように20年後には大鉢の木に育つかもしれないと思ったのです。「これから20年生きる気か?」という声も聞こえて来そうですが、のほほんと20年後を考えるのもちょっといいなと思います。

 若い頃は、観葉植物はあまり変化が無くて面白く無いと思っていました。でも、最近は遅々とした変化もいいなと思うようになりました。私が小学生の頃、祖母はたくさんのオリヅルラン(ランと言っても花は目立たず、細長い緑の葉の観葉植物です)を部屋で育てていて、黄色くなった葉先をハサミでカットするのが私の仕事でした。思えばその頃から私は観葉植物が好きだったので、ふと情が移ったカポックは、観葉植物への原点回帰なのかもしれません。

(えざき りえ)









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江崎リエ(2012.04.05更新)




びわの葉エキス

 びわの葉の薬効は、お釈迦様の時代から知られているそうですが、私がそれを知ったのはヨガの先生からです。私が通うヨガ学院の年配の先生が毎年びわの葉エキスを作っていて、私もそのエキスに何度か助けられました。「風邪で喉がひどく腫れている」と言うと、「ちょっと待っていてね」と言って奥から茶色の液体を持ってきてくれます。「ゆっくりうがいするように飲んでごらん」と言われて喉を通すと、すっと喉が楽になります。その後は小さな瓶を探して、家でも飲めるようにと少しエキスを分けてくれます。薬効はもちろんですが、とても親身になって心配してくれるので、うれしくなって体も元気になる気がします。というわけで、今まで何度かエキスをいただきました。

 このエキスは痛みにも効きます。一度ねんざで足が腫れたときには、カット綿にエキスを浸して患部に当てておくようにと言われ、その通りにしたら翌日は驚くほど腫れが引きました。この湿布は、直接びわの葉を患部に貼っておいても効くそうですが、びわの葉を手に入れるのは難しいので試したことはありません。

 びわといえば、私が夫と最初に暮らしたアパートには小さな庭があって、びわを食べるとタネを庭に蒔いていました。ところが、ときどき庭を見に来る大家さんは、びわの芽が出ているのを見つけると「縁起が悪い」と言って摘んでいきました。それを見てからは、大家さんに悪いので庭にタネを蒔くのはやめました。その印象があったので、びわの木はあまり好かれないのかと思っていました。ところが、先生の家にはりっぱなびわの木があるそうです。

 このびわの葉エキスに助けられていたヨガ仲間はたくさんいたようで、作り方の講習会が開かれることになりました。いつももらってばかりだったので、私も会費を払って講習会に参加してきました。作り方は、あっけないくらい簡単でした。先生の家の庭から摘んだびわの葉を洗って水気を拭き取り、はさみで3p幅くらいに切ります。これを800mlくらい入りそうなガラス瓶に半分ほど詰め込み、上から焼酎を注いで蓋を閉めればできあがり。このまま半年おくと、びわの葉からアミグダリンという鎮痛作用のある成分が出て液が茶色になり、びわの葉エキスが完成するそうです。

 半年後に完成と思うと先は長いのですが、楽しみでもあります。これで一人でも作れるようになったわけですが、一番難しいのはびわの葉の調達ですね。びわの木が庭にある方は試してみてはいかがでしょう。これを書くにあたってネットを調べたら、沢山の記事が出てきました。あなたの庭のびわの木はけっこうな宝物かもしれませんよ。

(えざき りえ)









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江崎リエ(2012.05.04更新)




フラメンコがつなぐもの

 友人がスペインに行くというので、「スペインならフラメンコだ」と思い、ブライス人形にフラメンコの衣装を作った。もっとも、あのフリルいっぱいのフラメンコのスカートの構造がどうなっているのかわからず、それを調べるために雑誌やネットを見ているうちに、フラメンコにまつわる様々なことを思い出した。私はフラメンコにはあまり縁がないと思っていたのだが、考えて見ると、生まれて初めてプロのダンサーの踊りを見たのは、伊勢丹会館の「エル・フラメンコ」だった。誰かにチケットをもらったのだろうが、父に連れて行ってもらった薄暗いレストランは、小学生の私にとってはわくわくする空間だった。食べた料理のことはまったく覚えていない。覚えているのはかき鳴らすギターの音と絞り出すように歌う歌声。照明の当たった舞台の上で、爪先やかかとで床を踏みならしながらリズムを取る女性たちの群舞。そして、腰のラインと指の動きがきれいな男性ダンサーの美しさ。考えてみると、このとき「すてき」と思った印象は、私の理想の男性像にけっこう大きな影響を与えているかもしれない。

 その後は生の舞台を見る機会はほとんどなかったが、なんとなくスペインに興味を持つようになった。小松原庸子舞踏団は見に行った覚えがあるし、アントニオ・ガデス舞踊団は映画で見た覚えがある。「覚えがある」ばかりで、「いつ、どこで」などの細部を全く思い出せないのがちょっと情けないけれど。スペインの詩人ガルシア・ロルカを知ったのも、フラメンコが縁だったような気がする。そしてロルカと言えば、天本英世さんを思い出す。渋谷の「ジャンジャン」だったか別の場所だったか覚えていないが、ロルカの詩の朗読を聞きに行ったら、出てきた男性がとてもすてきな人で、風貌よりも深い声の響きに引かれた。今でも「午後の五時!」とロルカの詩の一節を語る天本さんの横顔が目に浮かぶ。何回か聞きに行ったのだが、今思うと話しをする機会を作らなかったのが残念だ。

 そういえば大学時代、キャンパスの一角にベニヤ板を敷いて毎日フラメンコの練習をしている上級生がいた。私はひまつぶしになんとなくその様子を見るのが好きだったのだが、今彼女はどうしているだろう。前の会社の同僚にも、熱心にフラメンコを踊っている女性がいて、年1回の発表会を数回見に行っている。ギターと歌に乗せての情熱的な踊りは、なかなか迫力があって楽しめる。こうして考えると、生で見た踊りはフラメンコが一番多いかもしれない。

 フラメンコに限らないが、何か一つに興味を持つと、そこにつながるいろいろなものを調べたり、パフォーマンスやイベントを見に行ったり、人に会いに行くことを続けてきた。そんなとりとめのないつながりが重なって、自分の知識や嗜好を形作っている。興味を持ったら飛びつく、動く。そこから新しい世界が広がるという発見をこれからも続けていきたいと思う。

(えざき りえ)







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江崎リエ(2012.06.05更新)


満開のラン



花が終わったラン


1年に1度の楽しみ

 5月の半ばに、我が家に一鉢だけあるランの花が開いた。小さい花が沢山付くので、全部が咲きそろうとなかなか華やかだ。だが、美しいのは2週間ほどで、花が無くなった後の11ヶ月近くはなんだか見栄えの悪い茎にひげ根の出たおもしろみのない鉢のめんどうを見なくてはならない。花のことを覚えているうちは、「来年も咲いてほしい」と思って水やりにも気を使うのだが、だんだんに世話がおざなりになる。好都合なことにこのランは乾燥を好むらしく、私が水やりを忘れてほっておいても、弱ることもない。くたっとしおれることもないので、私はますます手をかけずにほっておくことになる。

 変化がないので楽しみもなく、ベランダのお荷物のようになりながら秋が過ぎ、冬になり、そして3月くらいになるとなんとなく葉の緑が生き生きとしてくる。ここでやっと、ランは私の気を引くことができる。「お、新しい葉が出てきた。花芽らしきものがふくらんできた」と、変化が楽しみになるのだ。だが、ここからが長い。園芸好きなら誰もがこのじれったさを知っていると思うが、「小さなつぼみが出てきた、もうすぐ花が咲く」と思ってから本当に花が咲くまでの時間はかなり長い。楽しみにして、待ちくたびれて、実は具合が悪くなってもう咲かないんじゃないかとあきらめかけた頃にやっと咲く。そして、一つが開くと後はどんどん開く。さんざん待っていたので、次々に花が開くのを見るのがとてもうれしい。たぶん、このじれったさと爆発するうれしさの繰り返しがあるからこそ、園芸家は花を育てるのをやめられないのだと思う。

 我が家のランも満開になり、私はそれを毎日誇らしい気分で眺めた。たいした世話はしなかったので満開になったのは私の手柄ではないけれど、ちゃんと今年も花を咲かせたことをほめてあげないとね。

 そして今、だいぶ花が枯れて、またお荷物に戻りそうな鉢を見ながら思った。私の仕事も語学の勉強もこのランのようなものかもしれない。たぶん花開くための準備期間があって、それが満ちたときに花を付けているはず。その繰り返しで進歩してきたはず。そう信じたい。ただし残念なのは、自分では花が開いた状態がいつだったのかイメージできないことだ。もしかしたら、一生に一度、死ぬときに「まあいい人生だった」と思えることが花なのかもしれない。それならそれで、いい花を咲かせる努力をしたいと思う。

(えざき りえ)







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江崎リエ(2012.07.03更新)




物に宿る家族の歴史

 今年の1月に、前の家の3分の1ほどのスペースに引っ越してきたので、思い切ってずいぶんと物を捨てた。それでも捨てきれずに持ってきたものの中には、亡くなった家族が愛用していたものが多い。使わない物は捨てる、たくさんある物は数を搾って残りを捨てる、などのルールをつくってどんどん余分な物を処分していったのだが、その途中でふと手が止まる物がいくつかあった。

 例えば、ナス形の煎茶掬い。これは祖母が愛用していたもので、私は子どもの頃から祖母がこれで煎茶の茶葉を掬って急須に入れるのを見ていた。私自身はめったにお茶を淹れないし、淹れるときもこれは使わないので無用の長物なのだが、祖母が遺してくれたお守りのような気がして、食器棚の目に付くところに置いてある。もう一つは、頭は大きめのティースプーンほどだが柄がひょろっと長いスプーン。これは父が愛用していたもので、柄の長いのが、マグカップに入れたインスタントスープをかき回すの便利だと言って使っていたものだ。これも私はそれほど使わないスプーンだが、見るたびに父のちょっとした仕草を思い出すので、他のスプーンと一緒に引き出しに入れてある。母が好きだった5つセットの茶碗で、残りは割れてしまって1つだけ残っているものも食器棚の飾りになっている。

 物は物なので、それに執着するつもりはないが、家族が使っていた物から呼び起こされる記憶は心地よい。そんなふうに心地よい記憶を呼び覚ましてくれる物に囲まれていると、毎日を気持ちよく生きていこうというエネルギーが強くなる気がする。夫と一緒に使った物は日常なので歴史にはならないが、祖母や両親が使っていた物には、私が一緒に生きてきた歴史もしくは離れて暮らすようになったからこそ大切に思うようになった人間同士の歴史が宿っているような気がする。こんなふうに考えるようになったのは、たぶん私が年を取って、未来よりも過去のほうが圧倒的に長いと観念したからかもしれない。

(えざき りえ)





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江崎リエ(2012.08.03更新)







囲碁をする仙人たち

 物書きだった父は囲碁が趣味で、晩年の十年くらいは中国の文人たちと囲碁を打つ機会に恵まれていた。詳細は省くが、日中交流の一貫として両国の文人グループが一年ごとに互いの国を訪ね合って囲碁を打つという催しに参加していたのだ。戦争体験のある父は中国訪問に関してはいろいろな思いがあったようだが、囲碁を通して信頼できる知己を得てからは、中国に行ってその友人たちと再会し、囲碁三昧の数日を過ごすことを楽しみにしていた。そして、帰国のたびに中国で買ったいくつかの物が家の中に置かれるようになった。

 その一つが写真の陶器像だ。これを私は勝手に二人の仙人が囲碁をやっている情景と解釈していた。それは、父が教えてくれた爛柯(らんか)という言葉からの連想だった。爛は腐る、柯は斧の柄のことだそうで、「昔々、木こりが山で仙人が碁を打っているのに出会い、もらったなつめを食べながらそれを見ていた。ふと気づくと斧の柄が腐っていた。木こりが急いで里に帰ると、当時の人は誰も生きていなかった」という故事があり、この話から、囲碁の別名、または遊びに夢中になって時の経つのを忘れることを爛柯と言うそうだ。

 父の家を訪ねるたびに居間でこの像を眺めていたので、父が亡くなった後は私が引き取って我が家の居間に置いていた。そして1月の引っ越しを機に、玄関に置くことにした。「好きなことに熱中して時の経つのを忘れる」というのは、私にとってはとても好ましいことであり、この像を見るたびに爛柯という言葉を思い出す。父が碁をやる姿も目に浮かぶ。家に帰るたびにこの像がちらっと目に入るのは、毎日の暮らしの中の小さな刺激になって快い。

 前回のエッセイで「物に宿る家族の歴史」について書いたが、人はみな、背後にある物語ごと物を所有し、その物語のゆえに物に愛着をもっているのだと思う。第三者にとっては取るに足りない物だが私にとっては大切な物と、その背景にある物語を書き残しておきたい。今、そんな気持ちになっている。そのことを第三者に伝えておきたいという気持ちもあるが、それよりも自分の中でそのことを再認識したい気持ちが強いような気がする。

 ところで、今回この像をエッセイに取り上げることを決めたときに、「この像は本当に仙人像なのだろうか」という疑問が浮かんだ。故事を調べて見ると、木こりが眺めていたのは四人の仙人または童子だそうだ。インターネットで「爛柯」で画像検索しても出てこない。そうこうして見つけたのが「囲碁雅趣」という像だ。この像のあるサイト「中国貿易公司」の解説によれば、これは広東省佛山市にある石湾という窯の陶器で、「野にて向かい合って囲碁を打つ老人たちの置物」だそうだ。仙人にしては少し人間ぽいかもしれないが、「これは私の仙人たちだ」ということにしておこうと思う。

(えざき りえ)







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江崎リエ(2012.09.03更新)





便利と衰退

 最近は小銭を使う機会が極端に減った。電車やバスに乗るときにはスイカを使うので、目的地に着くまで財布を忘れたことに気づかなかったことが数回ある。いちばんよく行くスーパーの西友では、西友のカードで買い物をする。常時1%引き、日によっては5%引きという文句に誘われて作ったカードを出せば、サインもせずにあっというまに決済が済む。小銭を出すのは近くのコンビニか個人商店での買い物くらいで、その頻度は少ない。

 便利な世の中になったものだ。だが、その一方で脳細胞が退化した気がする。駅の行き先案内を見ないでいるうちに、目的地までまでいくらかかるのかをきちんと把握していないことに気づく。店でお札を出しておつりを暗算して確認することもないし、お札と小銭を組み合わせて出して、財布の中のコインを減らす工夫もしない。そもそも、コインを指先でつまむ行為自体が減っている。脳細胞も働かせず、指先も動かさず、カードを出すだけで支払は済んでいく。

 私は便利なこと、ラクなこと、美しいことが好きなので、カードがない時代のほうがよかったとは思わないが、便利に流されて自分がぼやっとした人間になっていくところが気に入らない。便利になってもちゃんと行き先までの料金を知り、iphoneアプリを鵜呑みにせずに最短乗り換え、最安値の移動手段を検討し、良心的な個人商店を応援して頭で計算をしながら現金で買い物をし、安さでなく美しさを基準にものを選ぶことで自分の価値観を伝えるような買い物がしたいと思う。便利を使いこなして、しゃきっとしていたいと思う。

 しかし、私がこう思うのは、現金とカードの両方の買い物を知っている世代だからかもしれない。お財布ケータイ世代では、スイカの代わりにケータイ、コンビニの買い物もケータイで、小銭を持たないのが当たり前。こうした世代は、そんなことにわずらわされないぶん、別のところで脳細胞が働くのかもしれない。こちらはこちらで、ぼやっとした若者にならず、様々な知識と知恵を持った人間になってくれることを期待している。

(えざき りえ)







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江崎リエ(2012.10.04更新)





カラカラカラと夜は更けて

 お酒を飲みながら、友人と話して更けていく夜は楽しい。そんなぜいたくな時間を3日続けて過ごした。遅い夏休みを取って過ごした沖縄の夜三連チャンの出来事だ。そして、その時のお酒は泡盛。泡盛と焼酎の違いをご存じだろうか。私はあまり違いを知らず、友人に聞いた。泡盛はタイ米を使うそうだ。辞書によれば、「沖縄特産の焼酎、粟または米を原料とする」という。つまりは焼酎の仲間だ。

 沖縄料理店で泡盛を頼むと、独特の器に入れられて運ばれて来る。鏡餅の下だけという形の安定のいい円形の器に首が付き、細長い吸い口が付く。この器はカラカラという名前で、メニューに「カラカラ1合」「カラカラ2合」と書いてある。名前の由来はいくつかあるそうだが、ラムネのびんのように逆さにしても出ない陶器のかけらが中に入っていて、カラになった容器をふるとカラカラと音がするからという説もある。私が飲んだ泡盛は、1日目は瑞泉、2日目は瑞穂。3日目はお店のハウス泡盛らしく、名前は不明。友人いわく、「泡盛には男酒と女酒がある」そうだが、最初の2日は柔らかで飲みやすかったので女酒なのだろう。料理はチャンプルーと刺身。大きなシャコ貝の刺身が絶品だった。

 旅に出ると、その地を思い出させる記念品をひとつほしいと思う。そして、今回の沖縄旅行では、デザインの気に入ったカラカラがひとつほしいと思った。そこで、帰る前日に国際通りを歩き回って見つけたのが写真のカラカラだ。友人が見つけて勧めてくれたのだが、家に帰ってテーブルに置いてみると青が美しくて惚れ直した。このブルーに合った水割り用のグラスを見つけるのが今後の課題だが、それはそれで楽しい探し物だ。重いし東京でも買えると思って泡盛は買ってこなかった。泡盛の味比べも今後の楽しみになりそうだ。気に入った泡盛を飲んで、カラカラカラと笑いながら人と話す時間を大切にしたいと思う。

(えざき りえ)







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江崎リエ(2012.11.03更新)

とんがった先が丸くなる変化が好きなのかもしれない

 小学校で鉛筆を使い初めて以来、ずっと鉛筆党だ。中学、高校、大学と授業のノートは鉛筆で取り、広告の仕事を始めてからは取材メモはすべて鉛筆で書く。私の年代だと当たり前かもしれないが、息子が小学生だった頃は高学年あたりでシャープペンシルが登場し、おしゃれ、かっこいい、キャラクター付きがいい、などの理由で、鉛筆は軽んじられる傾向にあった気がする。2000年から10年在籍した職場でも鉛筆を使っているのは少数派で、5年ほど前に総務の女性から、「鉛筆は江崎さんのために買っています」と言われたことがある。

 自分では鉛筆に固執している気はないのだが、シャーペン、ボールペン、水性マジックなどを使ってみた結果、鉛筆がいちばん書きやすかったので今日まで使い続けているだと思う。そしてもう一つの理由は、とんがった先が丸くなる変化が好きなのかもしれない。子どもの頃は削り立ての鉛筆でなめらかなノートをひっかくのは快感で、それが好きで学生時代はノートを取るのが楽しかった。だが、取材の場合にはなかなか大変だ。鉛筆の先が丸くなると書きにくくなるので、私はけっこう頻繁に鉛筆を変える。たとえば2時間のシンポジウムを取材してメモを取る場合、10本くらいのとんがった鉛筆が必要になる。それらをしっかり準備しないと、仕事がうまくいかない気がするのだ。

 そしてそれらの鉛筆はどんどん短くなっていく。短くなった鉛筆は仕事の場ではなく日常生活で使われるわけだが、どんどん短くなる鉛筆を削るのはなかなか大変なのだ。電動鉛筆削りが使えないほど短くなった鉛筆は、手動の鉛筆削りに切り替え、握りやすい補助器具で長くして使う。その先が丸くなると削って使う。こういうことを繰り返していると、「ああ、私はこうして削ってとんがって、使って丸くなって、また削ってとんがって、という変化が好きなのかもしれない」と思う。

 「いやいや、鉛筆しか選択肢の無かった子ども時代の習慣を捨てられないだけでしょ」という見方もあるのは承知しているが、鉛筆を削るのも好き、削ったときの木の匂いも好き、鉛筆の手触りも好きなので、死ぬまで鉛筆党でいようと思う。

(えざき りえ)







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江崎リエ(2012.12.03更新)

ネタ探しが生み出すもの

 自分のブログにコラムを書くときは、ネタは自然に湧いてきたものだ。日々の生活の中でおかしいと思ったこと、「ああ、そんな考え方があるのか」と違う見方に気づいたことなどを、書きたいと思ったときに書けばいい。だが、月1回締め切りのあるここに書くときは、ちょっと書き方が変わってくる。もちろん自然に湧いてきて、「牧人舎のエッセイにはこれを書こう」と温めていることもあるのだが、なんにも書くことを思いつかずネタを絞り出さなくてはいけない時もある。そして、それでもなんとか書くことを見つける。これは締め切りの効用で、むりやり何かを絞り出すことも重要だと思う。

 同じような経験を語学の勉強の際にもしていた。私はちゃんとした文章を書きたいと思ってフランス語を学び直し始めたので、その訓練に毎週2ページほどの作文を先生に読んでもらっていた。と言っても、一方的に読ませるだけで、それについてはなんのコメントもないのだが、時々授業で取り上げられる文法事項を見て自分が間違って覚えていたことに気づいたりしたものだ。文章を書く訓練なのだからテーマは何でもいいのだが、むりやり拙い文章を読ませるのだから、せめて中身は先生が興味を持って楽しめるものにしたいと考えていた。そしてこれがなかなかの難題だった。先生は社会学的なことに興味があるというので、この作文を書いている間は新聞を読んでいてもテレビを見ていても、私のアンテナに引っかかるものではなくて彼のアンテナに引っかかりそうな話題を探していた。これはこれでなかなかおもしろい体験で、それまで考えたこともないようなことに引っかかってネットで詳細を調べたりした。

 一つ例を紹介しよう。ある朝新聞を読んでいたら、「ゴミ収集のストの影響でまだ東京ドーム2杯分のゴミが収集されずにいる」という記事を見つけた。東京ドーム1杯分という計量単位(と言っていいのか)はニュースでよく使われる。この量の比較の仕方を紹介したらおもしろいと思ったが、そのためにはこの言い方について調べなくてはならない。

 私は東京ドームに野球を見に行ったこともあるので、大きさのイメージはある。だが実際の数字は知らなかった。ウィキペディアによると東京ドームの容積は約124万立方メートル。東京ドームができる前は「霞ヶ関ビル1杯分」がよく使われていて、こちらは約50万立方メートルだそうだ。

 この数字を聞いてもどのくらいの量か私にはイメージできないので、作文を書こうと思わなければ、数字を調べることはなかっただろう。だが、今は、「他の国で計量単位として使う建物は何なのだろう?」と考え、それを調べてみたいと思っている。

 このように、自分がほとんど興味を持たない分野からも興味を持つテーマが生まれることがある。いろいろと制約が多かった若い頃はその制約を破ることにエネルギーを注いでいたが、何でも気ままにできる今は、少し自分に制約を与えると世界が広がるのかもしれない。

(えざき りえ)